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第10話 美香の声が聞けた

「美香ちゃん、俺、雅史。しばらく連絡取れなくてごめんね。優勝からこっち、色々あって忙しくてさ」


 若松家から帰った翌日、荒木は半月ぶりくらいに美香に連絡を取った。

 ところが電話先の美香は何も言ってはくれなかった。思わず通話を切られてしまったのかと確認するほどに、電話からは何の音も聞こえてこなかった。


「あの、黙ってこっちに帰ってきちゃってほんとにごめんね。俺も優勝の後、美香ちゃんに会いたかったんだよ。だけど、美香ちゃんが連絡くれないから、俺、何か美香ちゃんが怒るような事しちゃったのかなって思って……」


 そこでやっと音が聞こえてきた。

 すんという鼻をすする音。


「あの……ほんとにごめん……できれば、今すぐにでも美香ちゃんに会いたい……」


 先ほどから何度も鼻をすする音が電話の先から聞こえる。ごそごそという何かに電話が触れたような音も頻繁に聞こえる。


 荒木としては、もう喋る事は無い。あとは美香の返答待ちであった。


 「ううう」という声にもならない声が聞こえた。


「……もう……もう、醒められちゃったのかと思った……私……」


 一瞬、美香が何を言い出したのかわからなかった。

 焦って何度も言われた言葉を脳内で再生させる。


「なっ! 何言ってんだよ! そんなわけないじゃない! 俺は美香ちゃんの生活が落ち着く事を一番に考えているんだよ! 最後に牧場で見た美香ちゃんは本当に穏やかな顔してたから、だから、俺は……」


 別に叱ったりしたわけじゃない。だが口調は少し荒かったかもしれない。


 電話先の美香が、また「ううう」といううめき声を発した。

 何度も何度も鼻をすする音が聞こえる。

 先ほどの声も震えていて、電話先で美香が泣いている事は荒木にも感じ取れた。


「良かった……私……私……」


 もし目の前にいたら、背に手をまわして優しく抱きしめるのに。

 それができない電話越し。遠く離れている事が非常にもどかしい。


 しばらく荒木は黙っていた。

 美香が思い切り泣く時間を作った。もうそうしないと美香と会話にならないと感じたのだ。

 ところが、思った以上にその時間は続いた。


「どうかな美香ちゃん、少しは落ち着いた?」


 何も返答が無い。

 荒木もどうしたものかという気分になってくる。

 色々と次の言葉を考えていると、やっと美香から、小さな声で「うん」という返答があった。


「すぐにでも美香ちゃんに会いに行きたいんだけどさ。俺、一軍に上がったばっかりで色々と手続きやら何やらあってね。しかも、それが終わると西国の薩摩郡で合宿なんだよ。だけど、絶対に時間みて連絡するからさ。美香ちゃんも連絡を待っててよ」


 また電話先でごそごそという音が聞こえる。


「雅史君、合宿頑張ってね」


 いつもの美香の声だった。

 この『がんばってね』を聞くと胸の奥の底から熱いものが噴き出してくるのを感じる。その吹き出したものは、自然と頬を緩ませて顔をにやけさせる。


「ありがとう美香ちゃん。俺、頑張るよ! 頑張って一軍でも試合に出れるようになってみせるから!」


 あまり美香の声は聴けなかったのだが、それでも荒木としては満足であった。

 次はきっと嬉しそうな美香の声が聞けるはず。



 その数日後の事であった。

 荒木は本社に呼び出される事になった。しかもわざわざ一張羅で来てくださいと指定までされた。


 母の車を借り事務所に向かうと、門の前に報道が幾人か詰めかけていた。

 車を事務所の駐車場に入れようと速度を落としたところで報道に前を遮られてしまった。


 荒木は危険だからと警笛を鳴らすのだが、報道たちは車を手でバンバン叩いて、窓を開けろ、話を聞かせろと喚いている。

 その喧噪に驚いた職員が駆けつけてきて、荒木の車から記者を一人一人引き剥がしていった。

 それでも記者たちは話を聞かせろと言って車をバンバン叩いたり蹴ったりしている。

 荒木は先ほどからずっと警笛を鳴らし続けている。それを聞きさらに事務所から職員が応援に駆けつけて来た。


 記者が全員車から引き剥がされたところで前方で一人の職員が大きく手招きしているのが見えた。

 変速を一に入れ、内燃を一杯まで回転させ、車輪をキリキリ鳴らしながら荒木は駐車場目がけて突っ走った。


「まさかこんな騒ぎになるなんてなあ。まったく、報道は道徳という言葉を知らんからな」


 営業部長の相馬がいたる所がへこんだ車を見て、気の毒そうな顔をした。

 車から降りた荒木も母の車を見てがっかりした顔になる。

 前照灯が割れ、指示灯も前後共に割れ、扉鏡も割れている。こうなってしまうと、もはや廃車しかないかもしれない。


「あの……この車、母のなんですけど、こういう場合ってどうすれば良いんでしょう?」


 普通の事故なら警察を呼べば良い。警察が実況見分をして、過失の割合を提示してくれる。そうでない場合でも警察が実況見分して事故報告を出してくれる。

 ただ、今回は事故ではなく器物損壊である。


「警察呼んでも、たぶん民事不介入って言われちゃうだろうね。ましてや相手は治外法権の報道様だし。でも、安心して。うちには心強い法務部がいるから。新車買えるくらいの賠償ふんだくってもらうよ」


 相馬は目を細め、白い歯をにっと見せてやんちゃそうな顔をすると、荒木を事務所の中へ案内した。



 荒木が通された部屋は、これまで立ち入った事の無いふかふかの絨毯の敷かれた部屋だった。腰かけるとぐっと尻が沈み込む大きな椅子。いったい何の木だかよくわかならい木目を全面に押し出した高そうな机。そして窓辺にはなんだかよくわからない小さな銅像。


 相馬は椅子に腰かけて待つようにと言って、応接室と札のかけられた部屋から出て行った。

 待つようにと言われても、少し観察すれば部屋の観察などすぐに飽きてしまう。

 窓には高そうな窓掛けがかけられていて、外から覗けないようにぴっちりと閉じられているため、外を見る事もできない。

 ただただ、壁にかけられた時計だけがカチカチと音を立てている。


 少し眠気が襲って来たところで、入口の扉がかちゃりと開いて、二人の男性が入室してきた。一人はかなり高齢の男性。もう一人は中年の男性。

 慌てて荒木は椅子から立ち上がり、二人に向かって会釈した。


「ああ、まだそんな畏まらなくて良いよ。私たちはうちの球団の者だから」


 そう言うと男性たちは名刺を差し出した。

 高齢の男性は法務部長の酒井、中年の方は市川という方であった。

 法務部という部署名を見て、ここ最近やたらとこの部署の名を聞いていたので、いったいどれの件だろうと軽く困惑した。


「あの、もしかして先ほどの車の件ですか?」


 荒木がそうたずねると、市川は何の事ですかと酒井にたずねた。

 どうやら酒井はここに来る直前に相馬から話を聞いていたようで大笑いした。


「違うけど、そっちの件もちゃんとこれから担当付けて対応するから安心して」


 荒木はそれで安堵したのだが、市川は何の件ですかと再度酒井にたずねた。

 酒井から事情を説明されると市川は口を歪め、懲りない奴らだと言って憤った。


 自分の件とは関係無い話だとわかった市川は、それではと言って本題に入った。


「荒木選手。あなたに複数球団から金銭移籍の勧誘が来ています。これから一球団一球団話を聞いていってもらいます。どうするかはあなた次第です。ただ、違法な勧誘が無いか、私が同席させていただきます。よろしくお願いしますね」

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