第9話 美香の事を聞かせて
双葉が若松と風呂に入りに行ったところで、荒木は広岡と居間に二人だけになった。
何とも気まずいものを感じ、そろそろお暇しようと思うと荒木は切り出した。ところが広岡は、肝心の本題はこれからだと少し怖い顔で言ったのだった。
「実はさ、一昨年の六月くらいだったかな。土井先輩から連絡があったのよね。荒木君が美香ちゃんの事を聞きにうちに来たって。見つかって良かったね」
広岡の口調はどう考えても『良かったね』という口調ではない。まるで責めるような口調である。目も笑ってないし、酒でほんのり桜色になってるとはいえ顔もほぼ真顔のそれ。
明らかにこれから教師が生徒に説教をする時の雰囲気であった。
思わず荒木の背筋が伸びる。
「私もね、その時初めて、安達荘が売却されて一家離散したってのを聞いたんだよね。それと、君と美香ちゃんがこっそりそういう仲になってたって事も。最初に合宿に行った時に私言ったよね。美香ちゃんに手を出すなって。信頼関係が崩れるからって」
じっと広岡が荒木の目を見つめる。教師特有の弁明を待っているという態度である。
「あの、良い感じにはなりましたけど、俺は、手は出しませんでした」
目尻を垂らせ、口角を上げて必死に笑顔を作った荒木だったが、その肝心の口角がひくついてしまっている。
「あの娘が君の事を気になってたのなんて、私だって気が付いてたわよ。まさか、一家離散して行方不明になった美香ちゃんを探し出すほど、君の方もその気になってただなんてねえ」
コップに手酌で麦酒を注ぎ、広岡がくっとコップを傾ける。
じっと荒木の目を見て、何があったのか教えてちょうだいと、まるで諭すように言ったのだった。
広岡が何を怒っているのかは知らないが、学校を卒業してから色々と深い関係になったわけで、別に後ろめたい事は何も無いと荒木は思っている。
荒木も手酌で麦酒をコップに注ぎ、一気に喉に流し込み、その勢いのまま美香の事を話し始めた。
どこまで喋るべきか非常に悩んだが、安達荘が借金で差し押さえを受け、安達一家が一家離散してしまい、その借金が美香にも来たところから話す事にした。
美香は借金を返そうと会社を辞め、苫小牧の夜の店で働いており、その苫小牧で偶然出会った事。
その後、契約金を渡して借金を肩代わりした事。
そこから本格的に交際が始まった事。
ところが、ある日突然姿を消し、支笏湖温泉で芸子をしていたところで偶然再会した。一人にしておくと、また逃げられかねないので土井さんに預ける事にした。
ここまで黙って聞いていた広岡は、少し目を伏せ、下唇を軽く噛んだ。その視線は荒木よりもやや下を向いている。
喋り出す前に細く小さく息を吐いた。
「そういう経緯だったんだ。まあ、その間に色々と男女の仲があるんでしょうけど、そこはあえて聞かない事にしてあげる」
広岡が荒木の目をじっと見つめる。先ほどまでのような厳しいものではなく、非常に優しい目である。お酒のせいで少し潤んでいて、ちょっと艶めかしい。
「実はね、昨年の年末に土井先輩から連絡があったのよ。どうやら荒木君が美香ちゃんを北国に捨ててそっちに帰っちゃったらしいって。どういうつもりなのか聞いてくれないかって言われたの」
美香ちゃんとの経緯はわかった。そこまでは納得するし逆によく頑張った、よくやったと褒めても良い。
だが、そこまで大切に思うのなら、何故に北国に置いて逃げ帰るような真似をしたのか。今後どうするつもりなのか、そこのところをじっくりと聞かせて欲しいと広岡は荒木を問い詰めた。
広岡が麦酒の瓶を荒木に向ける。断るわけにいかず、荒木はコップを差し出して麦酒を注いでもらう。
荒木も目の前の瓶を広岡のコップに傾けた。
「最初に借金肩代わりした時に周囲に言われたんすよ。金で買うような下衆い真似をするなって。だけど俺、美香ちゃんが借金背負っていかがわしい仕事するの、見てられなくって」
荒木がそこまで言って麦酒で異常な喉の渇きを潤すと、広岡も麦酒をくいっと飲んで乱雑に机に置いた。
それは質問の答えになっていないと言いたいのだろう。顔は微笑んでいるように見えるのだが、漂ってくる威圧感が半端無い。
「……連絡が無かったんすよ。俺、頑張って優勝したのに。それなのに美香ちゃん、全然連絡してきてくれなくって。だから、ちょっと友人として距離を置きたいのかなって……」
少し上目遣いで、広岡の反応を恐る恐る伺う感じで顔の表情を観察した。
広岡は無表情にお玉を手にし、鍋に残ったおじやを自分と荒木の取り皿に取り分けている。もうすっかり冷めてしまっているが、溶き卵と醤油だしが緩いご飯に絡み合って、実に美味であった。
広岡が無言でもぐもぐとおじやを口に運ぶ。
荒木も無言で同じ行動をとる。それにしても、実に気まずい。
コップに残った麦酒をくいっと飲み干すと、広岡はふうと大きく息を吐いた。
その呼吸音に荒木は背筋をぞくりとさせる。
「荒木君はまだまだね。女の子ってものがわかってない。正直私がっかりだわ。それとも、男の子ってそういうもんなのかな? あの人に聞きたいところだけど、呼ぶとややこしくなりそうだから止めとくわ」
がっかりだ、がっかりだと広岡は荒木の顔を見て、何度も繰り返した。その態度に荒木がまた口角を引きつかせる。
「あのね、荒木君。美香ちゃんはね、君が連絡してきてくれるのを待ってたの。『俺優勝したんだぜ!』って君が嬉しそうに言ってきてくれるのを、ずっと待ってたのよ。こういう時は君が連絡するの! なんでその程度の事ががわからないかなあ」
広岡は目を半分伏せ、首を傾げて荒木の顔を見ている。
「いや、それは、俺だって向こうから連絡してくれたら、そう言って報告しましたよ……」
まるで叱られた子のように口を尖らせる荒木に、広岡は人差し指を突き付けた。
「おバカ! 女の子はね、好きな男の子に声をかけてもらいたいの! 特別に嬉しい時は特にそうなの! そういうものなの!」
少し興奮気味にまくしたてるように喋る広岡を、荒木がきょとんとした顔で見る。
「何よ、その目は。何か言いたい事でもあるの? 反論なら聞くわよ」
極めて真剣な目で広岡は荒木を威圧した。
「いやあ、まさかあの広岡先生から『女の子論』を聞かされるなんて思ってもみなくて……」
どこか笑いを堪えるような、口を半開きにした顔で荒木が言うと、広岡は豪快に笑い出した。
「あはははは……ひっぱたくわよ? 私だってね、この年まで女性やってるの。美香ちゃんが何を考えてるかくらいわかるわよ」
荒木は一歩後ろに下がって正座し、上半身を思い切り前方に傾け、申し訳ありませんと言って額を床に擦り付けた。
「まあいいわ。事情はわかったし、土井先輩には私から言っておく。だ・か・ら! 君は早急に美香ちゃんに連絡を取りなさい! 良いわね!」
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