第8話 契約更改がまだ
本当は夕飯前に帰る予定だった。
ところが、広岡がかつての教え子と酒を呑むのが夢だったとわけのわからない事を言い出し、奥様の言う事は絶対という若松が引き留め、結果的に夕飯までご馳走になってしまった。
本日の夕飯は大根おろしをたっぷりと落としたみぞれ鍋。どうやら若松家では大根を摩り下ろすのは夫の役目らしい。荒木と話をしていた若松を、鍋の準備をしていた広岡が途中で呼びに来て、双葉と荒木を残して台所に行ってしまった。しかも広岡は双葉に、ちょっとそこのお兄ちゃんと遊んでてねと言い残して行きやがった。おかげで慣れない子守をする羽目になってしまったのだった。
広岡が卓上焜炉を、若松が鍋を持ってきた時、荒木は双葉に両の頬を引っ張られていて、怒るに怒れないという何とも言えない顔をしていた。
夕飯の鍋の蓋を開けながら広岡先生が若松にたずねた。
「そう言えばさ、さっき、荒木君が一軍でやれるかどうか決まってないみたいな事言ってたけど、あれどういう事?」
深皿にみぞれ鍋をよそいながら、広岡はさらに若松にたずねる。
「もしかして、あの話? 金銭移籍の話が出てるっていう」
広岡が最後に双葉の分を鍋をよそって席に座ると、若松が麦酒を広岡のコップに注いだ。さらに荒木のコップにも注ぐ。
荒木が若松のコップに麦酒を注ごうとすると、お前を送って行けなくなると若松が笑い出した。だが荒木は、家の人に迎えに来てもらうからと言って麦酒を注いだ。
「ちょっとぉ! 私の言った事ちゃんと聞いてた?」
広岡は、まだ一滴も麦酒を呑んでいないのに目を座らせて夫を睨んでいる。その視線に若松は顔を強張らせ、まずは話は乾杯の後にゆっくりとしようと華麗に誤魔化した。
乾杯を終え、はふはふ言いながら皆でみぞれ鍋を突き、かなりお腹がこなれたところで、そろそろ会話に戻ろうという雰囲気になった。
「荒木さ、出陣式の後で色々と事務手続きやら何やらやってると思うんだけど、その中で契約更改ってやった?」
かなり真剣な顔で若松がたずねた。
そもそも荒木は入団した時の契約が五年契約であり、今年はその三年目である。契約はまだ残り二年残っており、契約更改はその最終年、つまり再来年だと思っていた。
「そう言うって事はしてないって事か。契約って残ってても更改ってやるんだよ。特に二軍から一軍に上がって来た選手は真っ先に更改するんだよ。じゃなきゃ他の球団に金銭移籍をかけられちまうからな」
これまで一軍に昇格した選手はどの選手も、最初の事務手続きの一環として契約更改を行っている。昨年広沢も昇格してすぐに契約を更改して年俸を大幅に上げている。
じゃあ何で荒木は契約更改がまだ行われていないのか。その広岡の質問に若松は恐らく年俸額が決まらないんだろうと答えた。
「決まらないってどういう事? ああいうのって普通は二軍はいくら、昇格してきたらいくら、二軍での活躍でさらに追加いくら、みたいな感じでほぼ自動で決まるもんなんじゃないの?」
普通なら。
広岡の指摘に若松はそう答えた。
ただし、いくつかそうならない場合があると。
まず一番多いのは、何年契約にするかが決まらないという場合。
一軍の正規選手として活躍する機会が少なそうなのに長い契約を結んでは、使われなかった期間の給料が無駄になる。毎年のように新入団選手が入るのだから、その選手と代わるかもしれないと思えば、あまり長い契約は結びたくない。なぜなら契約の更改は毎年できるが、年俸を下げたり、契約年数を短縮したり、途中で打ち切るという事は極めて困難だから。
そして次に多いのは、二軍での活躍が他球団でも話題となり、金銭移籍を持ちかけられている場合。
金銭移籍は昨年までの年俸の倍額以上を出せば交渉に入る事ができる。どの球団も新入団選手の年俸というものは低く設定しており、その倍額といってもたかが知れている。そのため、この段階での引き抜きが最も熾烈なのである。
これを防ぎたい場合、球団側で出来る事はただ一つ、年俸額で張り合う事である。
他には海外の球団からの誘いがあった場合にもそういう事になるらしいが、さすがにそれは無いだろう。
「恐らくは荒木に接触しようとしている球団が一つじゃなく、しかもその提示している年俸がかなり高額という事になっているんだと思う。球団としてはそこまでの金額を払って引き留めるより、売って契約金を貰った方が得と考えているのかも」
そこまでの説明を聞いて、広岡は実に広岡らしい一言を放った。
「……荒木君にそこまでの価値があるの?」
思わず呑んでいた麦酒を荒木が噴き出しそうになった。若松も大笑いしながら、さすがにそれは酷いと妻をたしなめた。
「俺も実際に競技しているところはまだ見てないから何とも言えないけど、漏れ聞こえてきている話では、将来の瑞穂代表って聞いたよ。とにかく竜を走らせる速度が非凡で、外国人選手みたいだって」
ふうんと言いながら広岡はじろじろと荒木の顔を舐め回すように見る。すると双葉も母親を真似て荒木の顔をじっと見た。
荒木が両手で顔を隠すと、広岡と双葉は同時にケタケタと笑い出した。
「しかし、このみぞれ鍋、凄い美味しいですね! まさか先生がこんなに料理が上手だとは思わなかったですよ」
おかわりを貰って嬉しそうに頬張る荒木に、褒めても何も出ないと言って広岡は笑い出した。
「食事は職人選手にとっては競技場の外の練習の一環だからね。結婚したら成績落ちたって言われないように、かなり色々勉強したもの。……まさか暇さえあれば藤枝に行って拉麺食べてただなんてねえ」
最後のぼそぼそと言った部分で、若松がちらりと発言者の顔をみた。広岡がじっとりした目で見ており、そっと目を反らした。
「まさかと思うけど、荒木君も拉麺ばっかり食べてたりしてないでしょうね?」
広岡のじっとりした目が荒木にも注がれる。今は実家に帰っていると言うと、それなら安心と広岡はやっと表情を軟らかくした。
不器用に匙を使いながら食べていた双葉は、少し眠くなってきたようで広岡にもたれ掛かっている。広岡が双葉の肩をぽんぽんと叩いている。
そんな広岡を荒木はじっと見ていた。するとその視線に気が付いた広岡から、どうかしたのとたずねられた。
「いやあ、先生、ちゃんと母親してるんだなって。正直、顧問だった時は、その、どこか学生みたいだったというか」
言葉を選びながら言う荒木を広岡は鼻で笑った。
「新たな生命を預かって、それを大切に育てないといけないってなったらね、誰だって責任感が生まれるものよ。それまでのように気楽ではいらないの。荒木君にもいずれわかる日がくるわよ」
その後、双葉がどうにも眠そうにするので、広岡は若松に双葉を風呂に入れて寝かしつけるようにお願いした。
二人きりになった広岡は、いよいよ本題へと入ったのだった。
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