第49話 土井さんの謝罪
「美香ちゃん! 良かった……一家離散しちゃったって聞いてたから、ずっと心配してたのよ」
そう言って土井さんは美香の顔を見るなりその手を両手で握った。
だがそんな土井の態度とは裏腹に、美香はどこか突き放したような目をしている。
土井もそれに気付いたらしく、どうかしたのとたずねた。
「いえ」と短く答えた美香だが、明らかに警戒した態度な事は土井にもわかる。
そんなどこかぎくしゃくした二人を見て、荒木が間に入った。
「美香ちゃん、土井さんと安達のおばさんが言い合ってたのを見ちゃったらしいんですよ。何か心当たりありますか?」
そう指摘され土井は何年も前の事をゆっくりと思い出した。どうやらその記憶の奥に何か思い出される出来事があったらしい。
「昔ね、美香ちゃんのお母さんが安達荘を閉めようと思うって言ってたのを、お願いして続けてもらったのは私なのよ。それで結果的にこんな事になったって文句言われちゃったのよ」
――もう何年も昔の話。
大学時代に付き合っていた男性が稼業の牧場を継ぐ事になり、一緒に牧場を手伝って欲しいと言って求婚された。土井はその求婚を受け、この伊達の地にやってきた。
当時、どこの牧場もまだ今より経営状態が良くて、各牧場が敷地内に住み込みの簡易宿泊所を建てて行ったせいで、急速に民宿業が成り立たなくなっていった。
そして、ついに安達荘ともう一軒だけになってしまったのだった。
当時、まだ季節になると近隣の高校生が短期労働に来ており、できれば一か所だけで良いから民宿が欲しかった。安達夫妻もその事は理解しており、経営規模を縮小して春だけの経営という事で続けてくれていた。
ところが春だけのつもりが、各牧場の寮はちょくちょく不測の事態が起こり、一軒だけの民宿安達荘を利用する機会は逆に増えた。
だが、そんな状況が毎年発生するわけじゃない。春だけしか利用の無い年というのも当然発生する。
牧場としては安達荘の存在は非常にありがたかったのだが、結果として安達荘の経営は非常に悪いものになってしまった――
「あの時、牧場の人たちの事なんて無視して民宿を廃業していれば、美香には同年代の女の子と同じような事をしてあげられたのにって、安達さんに言われちゃったのよ」
実際その通りだと思うし、牧場の人たちもみんなそれは思っている。
それだけに一家離散したらしいと聞いた時には、みんなとても心配していた。水産会社を辞めて姿を消してしまった美香の事は特に心配していた。
「ごめんなさいね。このあたりの牧場全員を代表して謝ります」
土井さんは美香に深々と頭を下げた。
「あの……頭を上げてください。話はわかりましたから」
決してわだかまりが解けたわけじゃない。だけど、土井さんがどうのという事では無いという事だけはわかった。
後は自分の中でどう処理するかだけの問題だと美香は感じたらしい。
「ところで、二人はもう籍は入れたの?」
唐突に聞かれ、荒木と美香は同時に飲んでいたお茶を噴き出した。
「ど、土井さん、俺たちは友だちだから。そんな籍とか、そんな……ねえ」
そう言って荒木は美香に同意を求めた。
美香もこほこほと咳込みながら、苦笑いしている。
「あら、そうなんだ。私てっきり二人がその、そういう仲になってるものと思っちゃって」
まるで若夫婦みたいに見えたと土井が二人をからかった。
美香も荒木もあ互いの顔を見ずに視線を泳がせている。
どうやらそういう事はあったらしいという事は察したが、土井はそれ以上の詮索はしないでおこうと感じたらしい。話題を変えてきた。
「で、遠路遥々うちを訪ねて来たって事は、美香ちゃんをうちで預かれば良いのかな?」
荒木はそれに対し、自分が早ければ来年一軍に昇格できそうという話と、美香がそれと一緒に見付に来たがっているという話をした。もしかしたら短い期間になってしまうかもしれないが、その間『身柄を確保』して欲しいとお願いした。
『身柄を確保』という言い方に、美香は口を尖らせ不満そうな顔をして荒木を睨む。だが荒木は悪びれる風も無く涼しい顔をする。
そんな二人を見て土井は笑い出した。
「良いわよ。その間うちでしっかりと預かっててあげる。それで荒木君が竜杖球に集中できるのなら喜んで協力してあげる」
お願いしますと頭を下げた荒木を見て、土井はそうだと言って事務机に向かって行った。
事務机をごそごそと探しまわり、色紙を見つけると、これに署名してとお願いした。最後に日付と『土井牧場さんへ』と書いてくれと頼んだ。
荒木がその通り記載すると、土井はそれを袋にしまい壁に飾った。
「これに価値が出るように、荒木君には頑張ってもらわないとね」
そう言って土井は微笑んだのだった。
翌日、病院に行き経過観察の診断を受けた。
医師の診断は極めて順調というものであった。もうある程度強めの運動をしても問題ないだろうと言ってもらえたのだった。
何年かしたら胸の鉄板は外すから、その際には少しまた入院が必要となってしまう。それと年に一度か二度は経過観察の診断を受けに来るようにと。
寮に帰ると神部が練習項目を練っていた。
大学の練習項目とは別にいくつかの練習項目を設定している。そこからすると、どうやら神部も大学の練習に付いて来るつもりらしい。
「神部さん、医師の許可は下りましたよ。運動制限は解除で良いそうです」
そう荒木が報告すると、神部は壁にかかった時計を見た。
「まだ時間は良いな。おし、今から牧場行くか! お前も久々に思いっきり竜に乗りたいだろ!」
返答の前に荒木の顔が思い切りほころんだ。
「じゃあ、ちょっと赤坂君に電話するか!」
荒木だけじゃなく神部も着替えて車で牧場へと向かった。すると赤坂もやってきていた。
五頭の竜の状態を一頭一頭確認していき、そのうちの二頭を赤坂が選び出す。うち一頭は次回調教する予定だった竜、もう一頭は次回調整する予定だった竜。どちらも先々月まで荒木が試合で騎乗していた竜である。
緩衝材を胸や肘、膝に付け、防護帽、防護眼鏡を被って久々に竜に跨った。
竜の背からの景色に荒木は懐かしさすら覚えていた。
少し歩かせてみる。カチャカチャという三つに割れた蹄に打たれた蹄鉄の音が実に心地良い。
調教場に向かって竜を歩かせる。背から伝わる竜の躍動のようなものが荒木の心を昂らせる。
まずはゆっくりと調教場を一周。
竜も徐々に荒木の事を思い出して来たのだろう。勝手に速度を上げようとしたのだが、それを荒木は制してゆっくりと歩かせ続けた。
並走している神部も久々に竜に乗ったと言って喜んでいる。
一周回り終えて首筋をなでてあげると、竜は大型鳥類のような嘶きを発して喜んだ。
いよいよ、あの日以来、初めて竜を本格的に走らせる時が来た。
緊張で少し息が詰まる。それを感じたのか竜がまた嘶いた。
そうだった。
竜を緊張させてはいけない。
荒木が両脚で竜に合図を送ると、先ほどとは比べものにならない速さで竜が走り始める。
竜も気持ち良さそうに走っている。
残り半分を過ぎたところで荒木は竜を全速で追った。それに応えて竜も気合いを入れて全力疾走する。
ある程度疾走させた後、ふわりと追うのを止め竜の息を整えていく。
もうすぐあの競技場に帰れれるんだ。荒木はそう強く実感したのだった。
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