第45話 マサミちゃん?
どうして美香ちゃんがここに?
荒木の顔は正座して頭を下げ続けている美香に注がれている。
美香は肩を小刻みに震わせている。
「ほらマサミちゃん、あなたもこちらに来てお酌して」
美香はうつむいたまま荒木の席に近づいてきた。
先輩芸子に目の前でパンと手を叩かれ、美香はびくりとして顔を上げる。
そんな美香をぎろりと睨んでから、先輩芸子は神部の方に顔を向け優しく微笑んだ。その表情の変化が全て見えてしまった荒木は、これが職人技かと変に関心してしまった。
「あ、あ、あの、お、お、お酒を、ど、どうぞ」
お銚子を持つ手が小刻みに震えている。荒木の持ったお猪口にお銚子が振れ、カチカチと音が鳴る。
「お兄さん、ごめんなさいね。この娘、まだ座敷の経験が少なくて、緊張しちゃってるみたいで」
先輩芸子はそう言って荒木に微笑みかけた。
そうなんですねと言って笑った荒木の顔は完全に引きつっている。その笑い声も完全に乾いている。
美香はそんな荒木から顔を背け、神部の方に作った笑顔を向けている。
荒木がじっと美香を見続けているのが神部にも気になったらしい。その娘がどうかしたのかと聞いてきた。
「いやあ、知り合いによく似てるなって思って。その娘、俺が入院してる間に何かあったらしくって連絡が取れなくなっちゃったんですよ。この娘の顔見てたらその娘の事を思い出しちゃって」
へえそうなんだと神部が美香をじっと見る。
宴席の話を広げようと、どんな娘だったのかと先輩芸子が聞いてきた。
「高校時代に合宿で北国に来たんですけどね、その時お世話になった民宿の一人娘なんですよ。初めて見た時から可愛い娘だなって思ってて。偶然こっちで再会して付き合ってたんですけどね」
荒木が『可愛い娘』と言った辺りから、美香の耳がどんどん赤く染まっていく。
その美香の顔の変化で、荒木が言っているのが美香の事だとやっと先輩芸子も察したらしい。ふうと小さく吐息を漏らした。
しばらく美香を見ながら先輩芸子は神部にお酌をし続けた。
その間、美香が一言も喋らない事で、これでは仕事にならないと感じたらしい。神部に煎り豆を食べませんかと誘った。ここの煎り豆は胡椒や香草で味付けしているので、お酒に合うんだと言って。
神部が良いねえと乗って来ると、先輩芸子は美香に厨房に取りに行くように指示した。
美香が部屋から出た後で、先輩芸子は荒木の隣に席を移動した。
お銚子を傾け荒木のお猪口に米酒を注ぐ。
「芸子なんてしているのは、基本全員『訳アリ』です。うちに応募してきた時、あの娘も明らかにそんな感じでしたよ。でもそういう事を探らないのがこういう世界の暗黙の了解というやつでしてね」
そこまで先輩芸子が話すと神部にも何となく事情が飲み込めたらしい。じゃあさっきの娘がと言って先輩芸子の顔を見た。
「会社的にはこんなの駄目なんですけどね。お二人の宴席を彩るのが私たちの本来のお仕事ですからね。今回の事は内密にお願いしますね」
うふふと先輩芸子が妖艶に笑う。
「美香ちゃんは、いつからここにいるんですか? そもそも何でここにいるんですか?」
荒木がまくしたてるように聞くと、先輩芸子は眉をひそめ困ったような顔をする。
「そういうのは聞かないのが暗黙の了解だと言いましたよね。でも今回は目を瞑りますよ。そちらのお兄さん、後で私とお庭でも一緒に見に行きませんか?」
それだけで神部は先輩芸子の意図に気付いたらしい。あの娘が戻って豆を食べたらそうしようと言ってくれた。
それから程なくして、煎り豆を持って美香が戻ってきた。
荒木の隣に先輩芸子が座っているのを見て、美香は神部の隣に座った。
「おお、本当だ。この煎り豆は旨いね。お薦めに乗っかって良かったよ」
神部が豆をぽりぽりと食べる。
荒木も食べてみたのだが、確かに香辛料がよく効いていてピリ辛で美味しい。
先輩芸子も食べると、美香も食べた。
誰も喋らず、ぽりぽりという音だけがこだまする。
「ほんと美味しいですね、これ。後でみんなへのお土産に買って行こうかな」
先輩芸子は『みんな』という単語に反応し、それは会社の人たちの事かとたずねた。すると神部が、彼は竜杖球の職人選手なんだと説明した。
「へえ、じゃあその若さでここにいるという事は今は二軍の選手という事なんですね。後で署名をお願いしちゃおうかな」
先輩芸子が楽しそうに荒木に体を寄せて頭を摺り寄せる。構いませんよと言って、荒木もまんざらでも無いという顔をする。
そんな荒木を美香は下唇を噛んでじっと見つめている。
「マサミちゃん、そちらのお兄さんがお猪口持って待ってるわよ」
荒木に体を寄せて甘えた声を発しながらも、先輩芸子は美香に指示をした。
はっとした顔で美香が神部を見て、小声てすみませんでしたと謝ってお酒を注いだ。
神部はそんな美香を見て、荒木をちらりと見てから美香の肩に手をまわし、ぐっと引き寄せた。明らかに美香の体が強張っている。
「マサミちゃん、ずいぶん若く見えるけど、今いくつ? まさか高校生じゃないよね?」
びくりとして美香は二十歳ですと答えた。
さらに神部が質問を続ける。あまり慣れていないようだけど、いつから始めたのかとたずねた。恐らくここまでの話の流れで荒木が最も知りたがった情報だっただろう。
「申し訳ございません。その、先週始めたばかりでして、こうしてお仕事するの初めてでして……」
そうなんだと相槌を打った神部がちらりと荒木を見る。
「その前は何をしていたの? 学生さんかな?」
美香が助けを求めるような目で先輩芸子を見る。だが先輩芸子は荒木に体を摺り寄せてお酌をしていて、こちらを見向きもしてくれない。
「その前は……一月ほど北府で夜のお店で接客を……」
とすると美香が日高から去ったのは一月半ほど前。
恐らくは荒木が怪我をしたすぐ後くらいなのだろう。
あの試合のすぐ後、荒木が死線をさまよっていた頃に、美香にも何かがあった。もう少し詳しい話が聞きたい。そう思って荒木はじっと美香を見ていた。
先輩芸子もその視線に気づいたらしい。くすくすと笑い出した。
「どうやらこっちのお兄さんはマサミちゃんと仲良くなりたいみたいね。マサミちゃん、席を代わりましょうか」
そう言って神部の所に行き、無理やり美香を神部から引き剥がす。
神部にお酒を注ぎ、その手を神部の胸元にそっと添えた。少し浴衣が着崩れ出しており、神部からはそのたわわな胸の谷間が見えているらしい。鼻の下が伸びている。
美香はちらりと荒木の顔を見て、覚悟を決めたような顔で席を立ち荒木の隣に座った。先輩芸子が荒木の顔をちらりと見る。荒木もその視線に気づいた。
荒木は美香の肩に手を回し、ぐいと自分の方に引き寄せた。
神部の時と異なり、美香はすんなりと荒木に身を委ねる。俯いてはいるがその顔は穏やか。荒木から遠い方の手をそっと荒木の腿に添える。
よく知っているお互いの香りが自然とお互いの顔を穏やかなものにする。
そんな美香を見て先輩芸子は神部に体を摺り寄せた。
「ねえお兄さん。一緒に中庭に行って星を見ながら呑みません? 二人だけで、しっぱりと」
良いねえと言って、神部は先輩芸子と二人で銚子とお銚子を持って部屋から出て行ってしまったのだった。
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