第43話 温泉三昧
復帰に向けた特訓を開始し十日が過ぎた。
荒木たちは現在、登別を後にし洞爺湖に来ている。
洞爺湖温泉は高校時代の合宿で来た伊達町から少し西に行った場所にある。
以前、広沢、小川の二人と来た事があるが、その時には安達荘の一件の後だったし、そもそも温泉には寄らなかった。
ここでの練習は自転車。
宿で自転車を借り、午前中洞爺湖を二周する。少し遅い昼食を取り、午後は逆回りで三周。
そして夕方からは温泉三昧である。
荒木が自転車で走り回っている間、神部は温泉を満喫している。
これがただ単に温泉に入って美味しい料理に舌鼓するだけのおっさんであれば、まともに付き合おうなどとは思わないのだが、神部は色々な診療道具を持ち込んでいる。
朝は朝で血圧やら血中酸素やらと色々と計り、練習の後も何だかよくわからないが色々と計っている。数値を見ながら、今日は緩かった、今日はやりすぎたと助言してくれる。
さらには練習が終わり、温泉に入った後、夕飯前に足を中心に按摩をしてくれる。疲労を蓄積させないためと、血行促進になって治癒力が高まるのだと神部は言う。
……まあ、旨いものを食わせてもらえるというだけでも嬉しいのだが。
最終日は南の有珠山の登山であった。荒木は南の登山道から徒歩で登山。神部は鋼索鉄道で山頂まで一気に移動。
神部は大はしゃぎであったが、荒木は以前広沢たちと来た事があり、そこまで感動は無かった。
有珠山を降り、麓で待ち合わせをして、次の温泉地……もとい、練習場所である支笏湖へと移動。
支笏湖は、室蘭を過ぎ、登別を過ぎてさらに東に行き、苫小牧で北上したところにある。温泉郷はその支笏湖の東岸である。
まずは何をおいても温泉だという事で温泉に浸かりに行った。
だらりと湯舟に浸かりながら、神部は明日からの練習の内容を説明した。
これまではなるべく怪我に障らないようにと下半身と心肺機能を中心に鍛えてきたのだが、ここからはいよいよ上半身に入る。
午前中は南の樽前山を登り東山を目指す。その後、そこから西山を目指すのだが、途中に神社があるので、そこで復帰を祈願する。そこで少し休憩し下山。
午後からは支笏湖で漕艇を漕ぐ。もし違和感や痛みがあるようならすぐに中止する事。
『復帰祈願』という言葉が神部から発せられた事で、荒木もいよいよこの温泉旅……もとい、復帰に向けての練習も大詰めなのだという事を実感した。
「そういえばさ、先日言ってた重さを感じない打球ってやつだけど、一軍の奴らに聞いてもらったよ。口を揃えてなんじゃそりゃって言われたらしいぞ」
神部の豪快な笑い声は見事に浴室にこだました。
荒木は苦笑いするしかなかった。
それで話は終わりかと思いきや、まだ話は続いた。
「ただ、一人だけいたよ。一回だけだけどそれっぽい打球を打った事があるって人が」
恐らく先鋒の誰かだと荒木は予想していた。たぶん尾花さん辺りじゃないかと。
だが、神部の出した名前は全く想像してない人物であった。
「関根監督がな、現役時代に一度だけそういう球を打った事があるんだそうだ。何とも言えない不思議な感覚だったって言ってたよ。会心の一打とでもいうんだろうかって」
監督の関根和明。
後衛をやっていた時期の方が長いのだが、選手生活の初期は先鋒をやっていたらしい。
まだ職業戦が始まる前の選手であり、社会人戦時代の話であるため、知っている人は今となっては少ない。
職業戦が始まった時にはすでに監督業を始めており、これまで何球団かで監督を務めてきた。年齢的に恐らく見付球団の監督が最後になるのではないかと言われている。
「守衛の手前で不自然に落ちたというところまでは、残念ながら確認はできていないそうだがな。それでも他に打った人がいるって事は夢でも幻でも無いって事になるんだろうな」
そう言って神部は顔に流れてきた汗を湯で流した。
「神部さんはどう思いますか? その、理屈というか、理論というか」
神部は腕を組んで難しい顔をした。
荒木に言われてから神部も映像を送ってもらい確認している。確かに言われるように少し球が不自然に落ちているように感じる。それがわかるのは、守衛の中尾選手が竜杖を構えている遥か下を球が通っているからである。
確かに少し癖のある打ち方ではあるものの、何度巻き戻してみても特別な打ち方をしているようには見えなかったのだ。
「野球にも蹴球にも落ちる球ってのがあるらしく、どっちも球の回転が異常に少ないらしいんだよ。恐らくは球のど真ん中を正確に打ち抜いた時にそういう打球になるんじゃないかって関根監督は言ってたよ」
他の球技を例に出されると実に理解しやすい。
さらにはその説明で、見付球団の人たちが誰も打った事が無いと口を揃えて言ったのも理解できた。
蹴球の球に比べ、竜杖球の球は極めて小さい。蹴球で中央を正確に蹴り抜くと言っても、恐らくは少しくらいズレていてもそこまで影響は無いのだろう。
だが竜杖球の中心点は針の穴くらいしかないと推察される。それも長い柄の竜杖の先でそこを打ちぬかないといけない。だとすれば『会心の一打』と関根が呼んだ理由にも納得である。
「なるほど。監督のいう事が本当だとしたら、狙ってそれをやるのは極めて困難って事ですね。あれが狙ってやれれば、世界相手だってどうにかなるかもなのに」
竜を速く走らせる事ができる。
ただそれだけではこの先どこかで限界を迎えると荒木は考えている。それ以外に何かもう一つ武器を持たないと。
「ならば、相手に殴られても怪我しないように剣術でも習うか? もしかしたら竜杖を振る練習にもなるかもしれんぞ」
剣術かあと荒木は呟き天井を仰ぎ見た。
確かに他の競技を体験すると、何か閃くという話はよく耳にする。実際、高校の時、送球部でその事を体験している。
荒木の額に水滴がぽつりと落ちる。
「そうですね。最終戦が終わったら、剣術の道場を訪ねてみますよ」
翌日から漕艇をする事になった。
正直言えば、これまでと違ってかなり恐怖心があった。
神部からしたら、これまでの方がよほど怖かったであろう。
だが、荒木からしたら目に見える傷痕がそこにあるのだ。実際に入院中は傷みもしていた。さらに骨折している透過図も見せてもらっている。
もし無理をして、治りかけていたところを台無しにしてしまったら、今年中の復帰は確実に無理となるだろう。そう思うと、どうしても力が込められない。
「ゆっくりで良いよ。ここまでなら力が入る、ここまでなら動かしても大丈夫、それを確かめるように櫂を動かせば良い」
荒木の正面に座った神部は荒木を観察しながらそう助言した。
神部から見てもはっきりとわかるくらいに躊躇しているのだろう。
徐々に徐々に、櫂を大きく動かして行く。
しばらく櫂をゆっくり左右に動かしては体を休ませる、また動かして休ませる、それを何度も繰り返す。
そのせいで、一時間経っても船は岸からあまり離れてはいない。だが神部はそれで良いと言ってくれている。船を漕ぐ事が目的では無いのだからと。
「よし、今日はこれくらいにしておこう。明日から徐々に調子を上げて行こうな」
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