後編 グラシエス帝国のフィオレ
グラシエス帝国の魔法師団長アルバーノがテネブリス王国の奴隷「魔法使われ」を連れ帰ったのはこれが初めてではなかった。
テネブリスの魔法使いが倒れ、鎖が手離されても逃げることもなく、乏しい表情で戦場に立ちすくむ子供がいた。捕虜として連れ帰り、様子を見ているうちにこれが話に聞く「魔法使われ」なのだと知った。
ツカワレには部屋が与えられ、食事が提供された。それは当然皿に盛られ、卓上に置かれたが、椅子に座って食事をすることも忘れていたツカワレのマナーは最悪だった。出された物を立ったまま手づかみし、味わうこともなくとりあえず口に放り込んでいく。周囲に散らばった破片にも躊躇なく手を伸ばし、口の周りについた肉汁を拭き取ることもない。それは文化ある国に住む人の食事には見えなかった。
やがて、三日もすると食事は奪われないものだと知り、床でない寝床の温かさを覚え、次第に部屋に置かれた絵本や人形、おもちゃといった物にも興味を示し始める。そして一月もすると、ツカワレとなる前の生活の記憶と人らしい表情を取り戻し、言葉を話し、意志を示し、一年後には市民として新たな生活を送れるようになった。
所有者だった魔法使いが死に、所有と服従の焼印が消えたツカワレは持ち物ではなくなり、テネブリス王国に戻らない限り、人として生きることを許されるのだ。
アルバーノの兄もまた、魔力を持ちながら魔法を使えなかった。弟であるアルバーノの魔法の能力が高い分、しばしば比較され、肩身の狭い思いをしていたが、魔法以外は学業も、剣の腕前も兄の方が上だった。それなのに周りの者からバカにされ、それがけんかの原因になるのもしょっちゅうで、いつも悔しそうにしていたが、アルバーノに八つ当たりすることもなく、かわいがってくれた。
魔法しかできないバカたちを見返してやる、と悔しさをバネにして猛勉強の末文官になり、今では魔法省の幹部になって自分たち魔法使いを使う側に立っている。そんな兄の生きざまが好きだった。
国が違えば「魔法使われ」となっていたかもしれない。しかし、魔法が使えないことなど些末な事なのだ。
新たに連れ帰ったツカワレも、所有と服従の印が消えれば徐々に人の心を取り戻すはずだ。アルバーノはそう思っていた。囚われの時間を受け入れ、全てをあきらめ、言われるがまま指示に従い、自らの魔力を引き渡す忠実な奴隷。そんな歪んだ生き方から解き放たれ、自分のために生きる、自由な人に戻っていく、と。
しかしこのツカワレは少し違った。机での食事にもすぐに順応し、スプーンやフォークを使うことを忘れておらず、ベッドもその日のうちに寝床と認識し、布団の中で小さく丸まって眠った。しかしなかなか言葉を発することはなく、自分の名前さえ口にすることはできなかった。
アルバーノはツカワレをフィオレと名付け、魔法師団の本部で二週間ほど様子を見た後、自分の館に引き取った。
言葉がわからない訳ではなく、人の話はよく理解し、文字も読める。わずかに感情を表に出すことはあったが、その表情は堅いまま、なかなかほぐれない。
アルバーノが屋敷に戻るとひな鳥のように後ろをついて歩き、待機を命じればそのままいつまでも命じられた場所にいる。命令に従順すぎるほど従順だった。
アルバーノがいない時は、フィオレは自分の時間のほとんどを屋敷の中の自分の部屋で過ごした。屋敷にあった書物を読みふけり、物語も、歴史書も、算術書も、魔術書も好んだ。一般の者が読んでも差し障りのない程度の本しか与えられなかったが、魔法が使えないツカワレには何の興味も持てないだろう初級魔法の魔術書を何度も読み返し、何度も発動を試したが、一度も成功することはなかった。
後からもう一人「魔法使われ」が屋敷で暮らすようになったが、ケンカもしないが、仲良くなることもなかった。フィオレより早く人らしさを取り戻したツカワレは、表情の乏しいフィオレを見るとかつての自分を思い出し、どうしてもなじめなかった。
後から来たツカワレは一年半後には街中の工房で職を得、屋敷を出て一人で暮らすようになった。しかしフィオレは二年経ってもまだ独り立ちできる見込みはなかった。
屋敷に閉じこもりがちなフィオレを心配し、少しは気分転換になるだろうとアルバーノは久々の休暇にフィオレを連れて北にある別荘を訪れた。
馬車での移動は昔の戦場行きを思い出すのか、少し身を固くしていたが、道中に見る珍しい風景や、見慣れない食べ物に少しづつ好奇心を寄せるようになり、ほのかな笑顔を見せるようになった。
それでも常にアルバーノのそばにいたがり、気になるものがあってもアルバーノから離れることを警戒して遠目に見ているだけ。アルバーノはあまり子供に好かれる方ではなく、どうしてそんなになつかれるのかわからなかったが、それは「魔法使い」と「魔法使われ」の関係の延長のように思えた。そしてそれはフィオレが乗り越えなければいけないものだ。
いつかはフィオレもアルバーノの屋敷を出て、市民として暮らさなければいけない。しかし、その道はまだまだ遠いように思われた。
短い旅を終え、屋敷へ戻る途中、小さな村で人々が悲鳴をあげながら逃げ出しているのを見かけた。
「あんたも早く逃げな! 魔熊だ!」
足の速い者がそう叫びながら村から離れ、あっという間に姿が見えなくなった。しかし村にはそう簡単に逃げられない子供や年寄りもいるだろう。
フィオレに馬車で大人しく待っているように言い、アルバーノと従者は剣を手に、逃げる村人とは逆の方向に走った。
通常の熊でも村に出れば大きな被害を及ぼすが、立ち上がれば三メートルを超す大熊がさらに瘴気をまとい、凶暴化している。その爪の一撃はただならぬ鋭さを持ち、捕食のためではなく、狂気のために周囲を脅かす厄介な相手だ。
アルバーノは魔熊の位置を確認し、威嚇のために立ち上がったところで手を伸ばし、炎の矢を放った。矢は魔熊の肩を射抜いたが、体に吸い込まれるように炎が消え、魔熊はアルバーノに向けて咆哮をあげた。火の魔法に耐性を持っているようだ。
より強い魔法であれば効くだろうが、村に残る人に危害を及ぼす可能性がある。村の外におびき出すか、雷の魔法を試すか、考えを巡らせる間に魔熊が青黒く光る爪を払った。
爪の先から放たれた空を切る魔法が空気を圧縮し、その先にいた従者に激しい切り傷を負わせた。熊の爪に直接引っかかれた以上の衝撃だった。
アルバーノも頬に痛みを感じたが、ほどなくそれは消えた。
シャツを後ろから引かれる重みを感じ、振り返ると、背後にフィオレがいた。
魔熊におびえも見せず、冷静な目をしていた。何度も討伐に連れ出され、魔物にも慣れている目だ。
今さらここから一人で戻らせるわけにもいかず、そのまま次の攻撃を仕掛けた。同時に魔熊も突進してきて、あの巨大な体で驚くほどの敏捷さを見せた。
「もう一度、炎の矢」
フィオレがつぶやいた。
相手は炎に耐性を持つとわかっていたが、好奇心からその言葉に従った。
放った魔法は炎の矢でありながら、その焔は青白く、大きさは先ほどの攻撃とさほど変わらなかったが、威力はけた違いだった。
正確に心臓を捕らえた矢。魔熊がその体に炎を取り込んだとたん、魔熊の魔力をそのまま燃料に変えたかのように火柱となってはじけ、やがて魔熊は崩れた。
炎に包まれる直前に放った空を切る爪は、アルバーノの髪を一房落としながらも、それ以上の怪我を負わせることはなかった。
アルバーノ自身にもまだ魔力は充分にあった。魔力を補われたのではない。魔法を増幅させる力、防御の力、それに治癒の力。
黒い魔鋼でつながれた特別なツカワレは、ただの魔力補給ではなかった。
久々に魔力を放ち、少し高揚していたフィオレの心臓付近に、透明な何かが刺さっているのが見えた。そこへ魔法を向けると、抵抗というよりもむしろ何もないと思わせる造られた「無反応」があった。精巧に隠された小さな杭。
アルバーノはその杭に気付いたことを隠し、フィオレの頭をそっと撫でると、
「よくやった」
と声をかけた。
きょとんとした顔をしていたフィオレがゆっくりと頬を緩ませた。それは誰の目にもわかるほどの笑顔だった。
屋敷に戻ると、アルバーノはフィオレを深く眠らせ、その胸に突き刺さる杭を除去する方法を考えた。
探る魔法を欺くが、確かに存在する杭。ずいぶん昔に仕込まれたもののようだった。一気に取り除くことは難しく、少しづつ、何回かに分けてその杭を削り、除去していった。杭がなくなる毎にフィオレは感情を取り戻し、言葉を口にし、好奇心をよみがえらせ、時にアルバーノに意思表示することもできるようになった。家を離れるアルバーノに、
「行かないで」
と泣くことさえもできるほどに。
杭は魔法を奪い、言葉を奪い、心を奪うための物だった。焼印に込められた所有と服従よりも深く、長年フィオレを支配し、自由を奪っていたのだ。
その杭でさえ時に抑えきれない力。魔法使いとして生きていたなら、さぞかし手強い敵になっていただろう。
テネブリス王国とグラシエス帝国との小競り合いが続いて三年目、両国は対峙してはいたが双方共に積極的に攻め込むまでの戦いにはならなかった。
グラシエス帝国はレドテッラ国への侵攻も特に望んでいた訳ではなく、つまらない言いがかりをつけ、先に仕掛けてきたからこそ威光を示すため反撃したのだが、相手がもろくも崩れ去っただけだった。その先のテネブリス王国までも手中に収める気はなく、両国は現在の国境を維持することで合意し、戦争は終結した。
旧レドテッラ国の首都ラクスブルで調印式が行われることになり、グラシエス側は皇帝に代わり第二皇子が出席し、魔法師団長であるアルバーノも同行した。テネブリスは王と、その娘にして第三魔法師を務めるオリヴィエラが出席した。
調印式は何事もなく終わり、続く晩餐会を終え、会場を去ろうとしたアルバーノに、オリヴィエラが声をかけてきた。
「グラシエスの魔法師団長殿。私はテネブリス王国の第三魔法師、オリヴィエラ・テネブリセスだ」
家名から王族だということはわかるが、あえて王女と名乗らず今の役職を告げたのは、魔法使いとして対等に話をするためだった。
「あなたは我が国の魔法使いの所有物を勝手に持ち帰っているようだが、両国の停戦が確定した。今後はお控えいただき、これまで持ち帰ったものをお戻しいただきたい」
アルバーノはオリヴィエラに、
「それは、『魔法使われ』のことか?」
と尋ねた。オリヴィエラは即座に
「そうだ」
と答えた。それを聞いてアルバーノは小さく溜め息をついた。
「連れ帰ったのは、所有者がいなくなり、刻印の消えた者。あのまま放置すれば死ぬしかなかった者達だ。今さら返すいわれはあるまい」
アルバーノはそう返して、そのまま立ち去ろうとしたが、オリヴィエラは食い下がった。
「所有権は我が国にある。我が国の貴重な資源である『魔法使われ』を貴国が奪い取るのはいかがなものか」
「資源?」
振り返ったアルバーノの目は恐ろしく冷たかった。
「私が国に連れ帰ったのは、資源ではなく人だ。我が国にも奴隷はいる。だが魔法を発動できない、それだけの理由で自国の民を奴隷のように扱い、使い捨てにして戦場に平気で置き去りにする貴国のやりかたは、感心できるものではないな」
「帝国とは違い、我が国は小さな国だ。魔力を持つ者は貴重であり、その力を有効に活用するのは国としての使命だ」
アルバーノはその言葉を鼻で笑った。
「あなたと私の考えは相容れないものだ。…そもそも、我が帝国も私も、戦いにおいて負けたことはない。我々は勝者だ。負けた者が残した物を持ち帰ることに何の問題がある? 今回の調印で帝国と貴国が対等だと勘違いしているなら、その甘い考えを改めたほうがいい」
その目は、帝国の魔法師団長としての威圧を放っていたが、オリヴィエラが引いたのを見極めると、それ以上事を荒立てようとはしなかった。
軽く礼をしてオリヴィエラから離れようとしたアルバーノの元に走り寄ってきた者がいた。アルバーノの帰りを待ちきれず、馬車を降りて駆け付けたフィオレだった。
「アル、遅い。大丈夫?」
飛びついてきたフィオレを受け止め、片手で担ぎ上げると、アルバーノはあえてオリヴィエラにフィオレを見せた。
「すまないな、この人が君を返せとうるさいもので、返したくないと言っていたんだ」
オリヴィエラはフィオレを見て息を飲んだ。
返せとうるさい、返したくないもの。
つまり、今、目の前にいる、いかにも普通の令嬢で、明るく笑い、甘えているのが、…ツカワレ?
「まさか…」
オリヴィエラの知るツカワレは、魔法を使えないことに絶望し、魔力を提供することでしか生きる証を見出せず、主人である魔法使いに忠実な道具。あんな風に笑い、走る姿など、見たことがなかった。
フィオレはオリヴィエラを見ると、
「こんばんは、王女様」
そう言って軽く会釈し、笑みを見せた。
オリヴィエラは、自分が王女であることを口にしていないにもかかわらず、はっきりとそう返したフィオレを見て、確かに自国の者だと認識した。
「あなたはテネブリスの者なのだな。名は何という」
「フィオレ、…です」
フィオレは自分のことを問われ、少し恥ずかしそうに名を口にした。
「テネブリス、ツカワレでした。ディオニージ様、いなくなりました。アル、助けてくれました。今、グラシエスです」
その笑顔を見ただけで、フィオレが今の生活に満ち足りていることはわかった。しかし、オリヴィエラはそれを認めることはできなかった。
「我が国の民ならば、我が国に戻るべきだ。私と共に…」
オリヴィエラがフィオレに向かって手を伸ばすと、フィオレはびくりと身を震わせ、すがるようにアルバーノにもたれ、アルバーノの襟をぎゅっと握りしめた。
「…王女様、ツカワレ、優しかった。お菓子、おいしかった」
その言葉にオリヴィエラは優しく頷き、伸ばした手を更に近づけた。しかしフィオレはより強くアルバーノにしがみついた。決して離さないで、と訴えるように。
「でも、床、投げた。お菓子、拾い、食べるの、悲しかった。お菓子、お皿の上ね?」
フィオレの言葉にアルバーノはこれまでの魔法使われ達のひどい食事風景を思い出した。椅子に座りもせず、机の上の食べ物に手を伸ばし、立ったまま、あるいは床にしゃがんで口にするツカワレ達。落ちたものを食べるのも躊躇しなかった。
アルバーノはフィオレを安心させるように、襟をつかむ手にそっと手を添え、笑みを見せながら答えた。
「そうだ。菓子は皿の上に置いて、きちんと座って食べるものだ」
話をしているうちに、奥の草陰から人の気配を感じ、フィオレはアルバーノに目をやった。
同じ気配を感じ取ったアルバーノがこくりと頷くのを見て、フィオレは頷きを返し、その手から青白い炎の矢を放った。
草むらに隠れていた賊が悲鳴を上げ、更に三本の魔法の矢を飛ばすと、隠れていた者たちは一斉に逃げ出し、警備の者によって捕らえられた。
オリヴィエラは、目の前で起こったことが信じられなかった。
自ら魔法を放った。
ツカワレでは、ない?
「この子は魔法が出せないよう、魔法封じの杭を胸に埋め込まれていた。ずいぶん巧妙な魔道具だった。他にも意図的に魔法を奪われ、魔法使われにされていた者がいるかもしれない。…それを許すのがあなたの国のやり方か?」
オリヴィエラは顔を青くして、手を固く握りしめた。
「…あり得ない、そんなこと…。このことは、必ず調査しよう。許されるはずがない。こんな…」
アルバーノはフィオレを抱えたまま、ゆっくりとその場を離れた。
帰国したオリヴィエラは、フィオレという名のツカワレのことを調べたが、その存在を確認することはできず、自国民として返還の請求を行うことはできなかった。優秀な魔法使いを取り戻すことができず、オリヴィエラは落胆せずにはいられなかった。
一年後、オリヴィエラの命により魔法使われに関する調査報告がまとめられた。
魔法使われの四半分は魔法の杭を埋め込まれていることがわかり、特に豊かな魔力を持つ下位貴族の子供から多く見つかった。そこには上位貴族たちのやっかみもあり、自分の子供より強い魔法を持つ者を意図的に狙わせ、ツカワレに落ちるのを見て蔑み、優越感を得ていた。
最終的には、当時の第一魔法師ディオニージが独断で行ったこととされたが、ディオニージの死後にも杭を打たれた者は多くいた。魔法を鑑定する聖堂が絡んでいる可能性も疑われたものの、調査がそれ以上進むことはなかった。
魔法使われの親たちは、自分達が金と引き換えに子供を渡したことなど棚に上げ、杭を打った魔法使いを非難した。世論の反発もあり、杭の使用は禁止されたが、一度杭を打たれた者は杭を取り除いても魔法の発動が不安定になり、そのまま魔力までも消えてしまう者もいた。杭の処理方法も影響しているのかもしれないが、フィオレのように魔法を自在に使えるようになる者はいなかった。
その後五年の月日を費やし、ようやく魔法を使えない者を魔法使われとすることは禁止された。それは人道的には喜ばしいことに思われたが、国政から見れば魔法による統治を揺るがす結果となった。
老いた魔法使い達は年齢とともに減少していく魔力を魔法使われから奪うことで魔法を行使し、自らの威信を保っていた。魔法使われがいなくなると高位魔法使いであってもすぐに魔力切れを起こし、その実力の低下を露見させることになった。
若い魔法使いは杭のために激減し、後継者も育たない。
魔法使われが禁止されてわずか三年後、テネブリス王国は自国を守る力さえなく、攻め来る敵国を前に帝国に救いを求め、グラシエス帝国の配下に下ることになった。
フィオレはその後もアルバーノのそばにいたがり、それならばそれを仕事にすることを提案されると、喜んで引き受けた。
フィオレはグラシエス帝国魔法師団員となり、師団長アルバーノ直属の部隊で防御魔法師となった。フィオレの力が防御だけではないことに気付き、囲い込もうとする者もいたが、アルバーノがそれを許すことはなかった。
従順にして、忠実。しかし服従ではなく、向けられる敬意と思慕。
根負けしたアルバーノはフィオレを妻に迎え、命ある限り傍にい続けることを許した。
お読みいただき、ありがとうございました。
2023.2.22
よい飛び石連休を。