真の悪は僕だろう
正直、読む人を選ぶと思う。
ゴホッゴホッ
苦しそうに咳き込んでいる声が聞こえて目が覚めた。
――だっ、大丈夫っ⁉
慌てて駆け寄ろうとして違和感に気づいた。
身体が透けているのだ。
――えっ⁉
どういう事だろうと周りを見渡す。
煌びやかな一室。
でも暗くて、ベッドで横になっている女の子しかいない。
どこか寂しい雰囲気があるのは少し離れた部屋から明るい光が見えて、楽しげな笑い声が響いているからだろう。
でも、彼女の枕元には空っぽになった水差しと何時間も放置されているように見える食器皿。
ごほごほっ
苦しげな少女のそばには誰もいない。
見たところ小さい子供のようなのに誰か一人でも看病としてそばにいるのが普通だと思うのに水差しが空っぽの状態で食器皿がずっと放置されているのが信じられない。
うちだったらうつるから駄目だと言われているのに何度も覗きに来る弟妹がいるのに。
――大丈夫。苦しいよね
そっとその子のそばに近付くと苦しげだった少女と視線が合う。
「天使さま……? それとも精霊さま……?」
ぼんやりと熱で潤んだ目でこちらを見つめてくる少女の額にのせられているタオルはすでに乾いている。
辛そうな……苦しそうな表情を見て、タオルを代えてあげようと手を伸ばすがやはり触れられない。
――どちらでもないよ
天使や精霊だったらこの苦しんでいる子を楽にできただろう。
熱を和らげてあげる事も空っぽの水差しの水を満杯にする事も濡れタオルを交換してあげる事も出来るのに何も出来ない。
ただ、辛そうにしているのを見ている事しか出来なかった。
「じゃあ……あなたのお名前は……?」
熱で苦しいのに辛いのにそれをおくびに出さずに笑い掛けてくる少女に、
――春だよ。渡辺春
と名乗り、そっと触れようとするがやはり触れれない。
「ハル……。わたしはラーシュと言うのよ……」
ゴホゴホ咳き込みながらラーシュと名乗る。
「もう誰も呼んでくれないけど……ハルはわたしの名前を呼んで傍にいてくれる?」
不安げに泣きそうな表情で告げられる。
――うん……
何でここにいるのか分からないが、ラーシュを放っておけなかった。
――ここにいるよ
何も出来ないけどと告げると。
「よかった……」
嬉しそうにラーシュは微笑み。そっと目を閉じて、眠りにつく。
それを見守りつつ。どうしてここにいるんだろうと思いだそうとする。
――ああ。そうか……
自分は弟を庇って車にひかれたのだと思い出して、自分が死んで幽霊になったのだと気が付いた。
一晩眠ったら熱が下がったラーシュを見て、安心して成仏できないかなと試すつもりだったが、ラ-シュに行かないでほしいと止められた。
一人は嫌だと。
最初は意味が分からなかったが、ラーシュとともに行動するようになって知ってしまった。
ラーシュの母親は半年前に亡くなり、亡くなってすぐに父親が愛人と娘を屋敷に連れてきたのだ。
侯爵家であったラーシュの家を管理する事になったその継母はラーシュの母親の形見を根こそぎ奪い、それを止めたメイドや執事を次々と辞めさせて、自分の言う事を聞く者達だけを雇った。
継母とともに来た異母妹は、ラーシュの大事な物を次々と貰っていき、それをラーシュが止めると父親に虐められたと噓泣きをしてラーシュが怒られる。
気が付いたらラーシュの周りに味方がいなくなり、ラーシュを除く家族が出来上がっていた。
「ハルは盗まれないから一緒にいられるよね……」
触れられなくても傍にいてくれる。触れられないから取られないと嬉しそうにでもどこか悲しげに微笑む姿に、ラーシュを守ってあげたいとラーシュが父親に叩かれた頬を冷やす事も出来ないが、ずっと傍には居てあげられると時間が許す限り傍にいた。
そんなラーシュの環境だが、異母妹は勉強が嫌いで本好きのラーシュの安心できる逃げ場として、図書室に入り浸っていた。
そこには魔術の本がたくさんあり、この世界では魔法が当たり前のようにあるのだとラーシュに教えてもらった。
ラーシュは魔力量が多く、ラーシュの母譲りでこの…クロノ家は魔力が弱まってしまったからこそ魔力の高いラーシュの母親と結婚して魔力量を増やしてかつての栄華を取り戻そうという思惑で結婚したそうだ。
クロノ家の魔術書は魔力量が多くないと開けない禁書もあり、見栄もあって、普通に置かれているのだ。
もっとも置かれていても開ける者がいなかったから問題にならなかったのだが。
ラーシュは普通に読んでいて、読んでいるのを悟られないように目くらましの術も使えるのだ。
「そのうち、ハルと手を繋げるようになりたいから」
と可愛らしく頬を赤く染めているさまを見て、禁書を読んで危険はないかと止めないといけないと思ったが、止められずにいる。
そんな二人だけの日々だったが、ラーシュに婚約者ができて変化が生じた。
ラーシュの婚約者の母親はラーシュの母親の友人だったが、辺境に嫁いでいたのでラーシュの母親が亡くなったという連絡がだいぶ遅くに届いたとラーシュを抱きしめながら泣いていた。
で、ラーシュを気に入り、ラーシュの母と子供同士で結婚させたいと話をしていたのもあり、あっという間に婚約が決まった。
ラーシュに味方ができたと心の奥から喜んだ。だが……。
くすくす
ははっ
ラーシュが婚約して5年過ぎた。
ラーシュが廊下を歩いていると外の庭からラーシュの婚約者と異母妹が仲睦まじくしているのが見える。
――またか。
「ええ……」
最初の一年は普通に会えた。だが、しばらくして、ラーシュと婚約者のお茶会になぜか異母妹が偶然参加するようになり、婚約者が来ているはずなのに誰も教えてくれず、手紙が届かないと言う事故が続くようになった。
接点をどんどん減らされて、その間に異母妹が相手をする事で婚約者の心が異母妹に大きく傾いてしまったのだ。
――いいのか?
「……間に入ったらまたわたしが悪者になるわ」
最初は遠慮するように告げたのだ。だが、異母妹はすぐに嘘泣きをして、『お義兄さまとなられるから仲良くしたいのに』と告げると婚約者が異母妹を庇うようになった。
それを何度も繰り返して印象を悪くさせていったのだ。
――ラーシュを守ってくれる人が出来たと思ったのに
「いいのよ。わたしにはハルが居てくれるから」
庭にいる二人を見ずにこちらに視線を向けてくれるラーシュの姿にどうして自分の身体がないのかと気丈に振舞っているこの子を抱きしめられないのかと何も出来ない悔しさが込み上げてくる。
自分に身体があって、力があれば、ラーシュを守る盾にでも剣にもなるのに。
そんな悔しい想いを抱いていたある日。
「二人きりで出かけるぞ」
とラーシュの婚約者が言い出した。
その日は珍しく、継母がラーシュに期限が切れたからと香水を勢い良く掛けてきて、そのむせ返るほどの匂いにラーシュの顔が顰められた。
「お前が僕と会いたくないと我儘を言うから僕が何かしたかと母上に文句を言われたんだ」
とそのセリフだけで嫌々だというのが伝わって来た。
「ほらっ。来いよっ」
ラーシュの返事も聞かずに無理やり馬車に乗せて、向かう先には大きな森。
「臭いな。その匂い何とかしろよっ!!」
馬車の中で鼻を抑えている婚約者に、
「そうですね。わたしもこの匂いには辟易しています。アザリア蜂の蜜に七雪花で作られて、特徴的な香木も使われていますね……」
どことなく険しい顔で告げると。
――アザリア蜂……。七雪花……。それって、あの禁書にあったよな
確か魔物を。
と思った矢先に森に辿り着き、婚約者が乱暴に馬車のドアを開けて、ラーシュを追い出す。
「ははっ。お前が不幸にも魔物に襲われて亡くなったらさすがの母上も諦めるだろう」
お前のような辛気臭い顔の女と結婚するなんて真っ平だからな。
「それで、私に禁止薬物である香水を使用したのね。魔物を刺激させるという危険薬物の入った香水を」
ああ。それで書いてあったのか戦時中に敵軍にばらまいて魔物を襲わせたという危険薬物の香水。
「知らないな。そんな香水を使ったお前が悪いからなっ!!」
婚約者はそう告げると馬車を勢いよく走らせて森から遠ざかろうとする。
そのタイミングで森から魔物が出現する。
――ラーシュ!!
逃げろと身体がないから庇えない自分の存在に嫌気が出る。
「ああ。丁度いいわ」
にこっ
微笑んだと思ったら、無詠唱で術を行う。
金色の浄化の炎がラーシュの身体を包み込むとその炎を恐れて魔物はラーシュから逃げていく。逃げた先には婚約者の乗った馬車。
「ひぃぃぃぃぃぃ!!」
馬車から悲鳴が上がり、魔物が馬車を破壊しているのが見える。
「もう良さそうね」
ラーシュは馬車に向かって浄化の炎を放つと魔物は怯えて馬車からも去り、森に戻っていく。
ラーシュが壊れた馬車のもとに行くとそこには気を失っている婚約者の姿。
「完全に意識を失っているわね。ああ、よかった」
にこりっ
「これで身体が手に入ったわ」
ラーシュが今度はきちんと呪文を唱える。その呪文によって婚約者の身体から一つの魂が出ていく。
――ラーシュ。それは禁書にあったっ⁉
生きている人間の魂を交換する禁術。
「ええ。ずっと考えていたのよ。どうすればハルに触れられるかと」
手頃な身体がないから諦めていたけど、私を殺そうとするのならやり返しても構わないでしょう。
そう微笑むラーシュはすぐに、
「いや……ですか……」
不安げにこちらを窺う少女の顔になる。
「――いや」
魂が空っぽになった身体に入って、久しぶりの肉体の感覚を確かめる。
「ラーシュの事を殺そうとしたから祟ってやろうと思っていたところだ」
ラーシュの婚約者であった存在の身体を使ってそっとラーシュを抱きしめる。
「嬉しいわ。ジークハルトさま。ハルの名前をこのまま愛称として呼べるわ」
嬉しそうなラーシュを見つめて優しく微笑む。
世間一般だと悪だと言われてもおかしくない所業だが、ラーシュの婚約者。ジークハルトがラーシュの味方でなくて敵になったのだから仕方ない。
誰もラーシュの味方がいないのだから。
だから。
誰かがラーシュを責めるならそんな禁術に手を染めさせた僕の方が悪だと言い切ろう。
彼女を止める事がいつでもできていたのに止めなかったのだから。
タグに悩んだ。後タイトルにも。