第109話 新しい部屋
突き飛ばした、と言っても私の力で彼が倒れ込む訳もなく。少し距離が取れた程度。
それでも私に拒絶された彼のショックを受けた表情に、倒れ込ませた以上の罪悪感が襲ってくる。
「ご、ごめん、なさい……」
自然と謝罪の声が漏れると、黒の公爵は小さく首を横に振って背を向けた。
「……ヨーゼフ、飛鳥さんを部屋に案内しろ。私は一度皇城に戻る……ペイシュヴァルツ!」
その冷たい呼び声と共に彼の影から魔物狩りの時に見た蝙蝠の羽を持つ黒猫が現れ、慣れた手つきで跨る。今のは確実に地雷を踏んでしまった。
「あ、あの……私……」
何か言わなければと恐る恐る声を紡いでみるも後に続く言葉を探し出せずにいると、
「……飛鳥さんの傷が癒えるまで、私は傍にいない方が良いでしょう。私も、貴方に逐一拒絶されるのは辛い。私は……貴方と傷つけあうような関係になりたくない」
優しい口調ではあるけれど、背を向けたままの態度と深く傷つけてしまった事を示すその言葉が心に深く突き刺さる。
「安心してください。傷が癒えるまでの間、私は貴方に近寄りませんし、話しかけませんし、視線も向けません。だからどうか、どうかこれ以上私の事を……嫌わないでください」
こちらを見る事無く黒の公爵がそう呟いた後、ペイシュヴァルツが凄い速さで空に羽ばたき、城の方に飛んで行った。
(……本当に、酷い態度を取ってしまった)
その結果彼が傷ついてしまった。申し訳ない事をしてしまったと思う。
でも、触られたら思考を読まれるかもしれない、圧倒的な実力差、下手に媚び売ったらハグとかキスに黒の魔力の恐怖があるそして今の状況で万が一事に至られたら精神崩壊、しかも彼自身性格に癖がありどこに地雷があるのか分からない。
この状態で彼を一切傷つける事無く、触れられる事無く、距離を詰められる事無く彼をご機嫌にさせて円満な関係を築く事が出来る人間がいるのだろうか?
重い嘘も平気でつけるような度胸と、感情の動きを瞬時に読み取れる観察眼と、人の好意を手玉にとっても痛まない心があれば出来るのかもしれないけれど。私には無い。
(……でもこれで、1ヶ月距離を置ける事になった。お互いに傷つけ合いたくない、とあの人は私にとっても最善の判断をしてくれた。それでいいじゃない。それで……)
「アスカ様、それではお部屋に案内いたします」
歯を食いしばって俯いていると、後ろから黒の家令に呼びかけられる。
「ヨーゼフさん……あの、ドレス、勝手に使ったばかりかボロボロにしてしまってすみません……」
振り返って頭を下げる。かつて仕えた主の想い出のドレスを勝手に使った挙句思いっきり破損した事はちゃんと謝っておこう。
「……主から事情は聞いております。こちらこそ無礼な物言いをつけてアスカ様に恥をかかせてしまい申し訳ありません」
そう言われ、ヨーゼフさんは私は下げたよりも深く頭を下げる。
その言葉は本心かどうか分からないけど自分自身の罪悪感を流せただけでも良しとしよう。
(それにしても……事情って、何?)
チラ、とセリアの方を見ると、私が投げ捨てたアクセサリーや婚約リボンを持ってあの人が飛んで行った方をぽかんとした様子で見上げている。
後で二人きりになった時に何て説明したのか聞いてみよう。
2階に通された部屋は、皇城で与えられた部屋より一回り大きかった。
黒と灰色が基調な部屋には大きなベッド、ローテーブルにソファ、タンス、鏡台が置かれただけのシンプルな内装。
壁の一面はクローゼットになっており、ベッドのすぐ近くにはバルコニーに繋がるガラスの扉がある。
「お気に召しましたかな?」
部屋の入り口で問うヨーゼフさんに、私より先にセリアが降り返る。
「一見した所、浴室とトイレの部屋がありません……公侯爵家には皇家と同じように浴室とトイレも完備されてるツヴェルフ専用の部屋があると聞いていますが、使えないのですか?」
言われてみれば確かにこの部屋にはバルコニーへのガラスのドアと通路と繋がる物以外のドアが無い。
「生憎、この館は20年以上ツヴェルフがいなかったので専用の部屋は今物置になっておりまして……トイレも浴室もこの部屋のすぐ近くにあります。日常生活で魔道具を使う分には白の魔力を使われても良いそうですので共用の物でも特に問題無いでしょう?」
「アスカ様に私達と浴室とトイレを共有させるなんてとんでもない。物置になってるのなら、私、お片付けします」
セリアの提案が都合悪いのか、ヨーゼフさんはこちらに視線を向ける。
「……アスカ様はこの部屋ではご不満ですか?」
専用の浴室とトイレがあった方が助かるけど、強要する程のものでもない。個人的には良い天気の時に部屋からバルコニーへ出られるのはなかなか良いなと思うし――
「特に問題無いです。早速夕食の時間までここで休ませてもらっていいですか?」
「かしこまりました。それでは時間になりましたらお呼びいたします」
ヨーゼフさんが一礼して退室した後、セリアが納得いかなそうな顔で私を見据えてくる。
「アスカ様、本当によろしいのですか? この部屋にトイレや浴室が無いと致す前と致した後、身を清める際等にいちいち服を纏って部屋を出なければならないんですよ? アスカ様が重視されるロマンもムードもありませんよ?」
「えっ……!?」
その発想は無かった。だから皇城ではツヴェルフの部屋に浴室とトイレを完備していたのか。
「まあ、そういう状況になって嫌だと思った時に言うわ。部屋自体は素敵な部屋だと思うし……」
致す事を考えると躊躇するけれど、そもそも致すつもりがないから全く問題無い。
「……アスカ様が良いなら良いですけど……アスカ様が来られるのは早くから分かってらっしゃるはずなのに、ツヴェルフ専用の部屋を片付けてないとか本当信じられません! この館には女性がいないのかしら……? この部屋には洗面台も無いから今すぐ化粧を落とす事も出来ませんし……」
私の言葉をよそにセリアはブツブツ言いながらクローゼットを開き、ズラリと並ぶ灰や黒の衣服から灰色のワンピースを、続いてタンスの引き出しから灰色のブラとパンツを取り出し手渡される。
「もうすぐ私の荷やアスカ様の私物が届くはずですので、届き次第戻って参ります。アスカ様は着替えた後ゆっくり休まれてください」
そう言ってセリアが部屋を出たのでいそいそと着替える。ドレス着る時はちょっと苦労したけれど、裂け目が出来た事で楽に一人で脱ぐ事ができた。
ワンピースに着替えて身軽な状態になってようやく余裕が戻ってくる。ヒールを脱いでベッドに横になり、体の力を抜く。
(この1ヶ月、あの人との接触については、あの人がしばらく私に関わらない、と言ってくれたから考えなくてもいい……考えるのは1ヶ月後にここから脱出する方法と、下着の件か……)
隠すつもりでいたのに結局見られてしまったっぽい。もしこの事がレオナルドにバレたら私、死刑になるんだろうか?
私がそれで死んだらクラウスはどんな顔をするだろう? 困った事があったら相談してと言われたけど『有利に立とうと思って黒の勝負下着付けたら相手が豹変した上にレオナルドにバレて殺されそうになってて困ってます』なんて相談、できるはずがない。
そして死刑の件が無かったにしてもあれだけ自信と余裕に満ちていた人が私のせいで一生あんな感じなのかと思うとあまりに気の毒過ぎる。
やってしまった立場で言える事じゃないけど、元に戻したい。
それに――一生涯私に対する衝動が続くのなら私が地球に帰った3年後あるいはそのずっと後に彼自身がル・ターシュを通して地球にやってくる可能性も否定できない。そんな恐怖に脅かされる未来も嫌だ。
衝動が無くなれば地球に帰った面倒な女を追うより10年後のツヴェルフに切り替えようとするはず。
未来の為にも罪悪感無く帰る為にも、彼を元に戻す方法を考えなくては。
(黒パンでこうなったのなら、白パンで元に戻らないかしら……?)
そんな単純なものでもない気がするけど、こんな世界だし案外在りうるかも知れない。
製造者も死刑になるような物が今も存在するとは思えないけど、純白の布地と糸が手に入れば自分でパンツっぽいものを作りだす事は出来るはず。
(純白の布地も糸もダンビュライト家にありそう……クラウスに会った時に事情を話して布と糸貰う? え、『黒パン見せちゃったから白パンで中和しようと思う。材料頂戴』って言うの? 言えるの? 無理だわ……うん、まずはセリアに彼にもし白パン見せたらどうなるのかさりげなく確認した方が良いわよね……ああ、セリアにドレスの事も死刑の事も知ってたのかも聞かないと……)
何度も寝返りを打ちながらあれこれ考える私の心境とは裏腹に、ガラスの扉からは暖かで明るい日差しが差し込んでいた。




