ゴッホ・イエロー
こんばんは。
多治凛です。
遅くなって申し訳ありません。
毎日投稿の最終作品です。非常に読み応えのある作品を用意しました。
芸術を味わってください。
頼む。間に合ってくれ。一生のお願いを今ここで使う。
快速電車に揺られながら私は左手の腕時計を何度も確認する。残り時間は十分あるかないか。これを過ぎれば支払った金が無駄になる。間に合え。
駅に着く前に席を立ち、ドアの前に移動する。神田への到着を告げるアナウンスよりも早くホームへ出る。左右を見渡し、階段の位置を確認するとわき目も降らずに向かう。しかし、一紳士として決して走ってはならない。焦りを外へ出してはならない。天井に据え付けられている案内表示に沿って最短のルートで時間のロスなく乗り換えのホームへ向かう。
ホームへはニ、三分程で電車が来るが、その時間すら私には惜しい。電車が来たら颯爽と乗り込み、席には座らずドア付近に陣取った。残り八分弱。
神田から一駅、二駅と電車が進むにつれ私の焦燥感は内側から自分自身を焼きそうな程大きくなっていった。
目的の上野へ到着した。ホームの数が異様に多いため、案内表示をいち早く見つけ、いかに案内表示通り行動できるかが勝負だ。階段を降りると早速案内表示に会うことができた。私が行きたいのは公園口である。公園口の表記は無いが、公園改札への行き方は書いてあるため、公園改札へ急ぐ。二十メートルほど進んだときに道を間違えたことに気づいた。公園改札へ行くためには一度別のホームへ移動したのちさらに階段を上るというものだった。今私がいる場所から直接行ける通路は無かった。
階段を持ち前の俊足で駆け上がり、やっとの思いで改札がある階へ来た。しかし、公園口が見当たらない。案内表示を探して付近を二周ほど歩き回った。やっと見つけた案内によると、さらに長い通路を通ることを強いられるようだ。
もはや私は周囲の人間にどうみられるかなど気にしていなかった。ぶつからないように気を付けながら通路を駆け抜けた。左右を見渡し、左手に公園改札を見つける。ICカードで素早く自動改札を抜けて上野公園を目指す。
明るい時間のため、まだ人はたくさんいる。その人々にどう思われるかなど気にせず私は美術館まで全力で駆け抜けた。
入口についたと同時に五時になった。私の持つチケットは日時指定券である。入館する日付と受付時間が指定されているものであり、時間を過ぎると効力を失う。私の持つチケットの受付時間は四時半から五時である。門前払いされる恐怖に震えながら入口の前に立つ係員にチケットを見せる。私の恐怖とは裏腹に係員は極めてにこやかに行列へ案内してくれた。はやり病のせいで特別展示を見るためには日時指定券が必要であり、入場制限の一環で一定時間に一定の人数しか展示室への入室が認められない。
結構な人数が列をなしていた。しかし案外早いペースで入場できるようだ。しかも、行列に並ぶ分遅延が発生するため、指定した時間を若干過ぎても問題なかろう。
行列の最後尾に並んだが、私は落ち着けなかった。走ったせいで上がった息はまだ収まっていない。また、これから体験する贅沢な時間への期待が私の鼓動をさらに早めた。私の後ろに女子大学生の二人組が並んだ。この特別展示には幅広い年齢層の人々が訪れている。男女比はほぼ半分に思える。
慣れない一人暮らしに私の身心は疲弊していた。都会の綺麗とは言えない空気と水のせいで私の体は内側と外側から蝕まれていた。さらに学校がある上に家事をすべて自分でこなさなくてはならないため、常に時間に追われており心が休まる瞬間が寝る時しかない。その寝る時間というのも生活習慣の乱れのせいでまともな時間に寝て起きることが出来なくなっていた。私は高校に在学中は自信に満ち溢れていたのだが、今ではその自信も揺らぎに揺らぎ、自分が何者であったかも少し危うくなっていた。そんな中、ひと時の癒しを求めてこの美術館に足を運んだ。
この特別展示というのはイギリスの国立美術館のコレクションを展示している。コレクションを海外に持ち出すのは初の試みだそうだ。何といってもこの展示の目玉はオランダが生んだ後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」だ。私は印象派の絵画を愛してやまない。特にクロード・モネとゴッホの絵画が好きだ。ずっと現物をこの目で見たいと思っていたがその夢がこれから叶う。好きな人に告白する前というのはこのような感覚なのだろうか。全ての感覚が鈍り、自分が現実の中にいることが信じられない。もしかしたら自分は夢の中に迷い込んだのではないか?どちらにせよ、興奮と先程走った疲労で鼻息が荒くなっていた。マスクのせいで呼吸がしにくいため、酸素が足りなくなりそうだ。
夢見心地でいると、私と数人の番が来た。チケットを見せ、階下へ移動する。地下は開けており、さらに受付があった。受付嬢にチケットを手渡し、受付嬢がチケットの端を切り離し、私は控えを受け取った。右手の壁にはこの特別展の大きなポスターが掲げられ、その隣に展示室への自動ドアがあった。私は自動ドア脇のパンフレットを一部貰ってから中へ入る。
展示室はやや涼しく、湿度は低めであった。
私は最近まで全く美術と関わりのない日々を送ってきたため、美術に関する理論はとんと見当がつかないが自分が持つ教養と語彙を総動員してこの美しさを表現しようと思う。
最初の展示はルネサンス期の絵画であった。主にキリスト教に関する絵画で、聖書に出てくる場面をモチーフに描かれている。
絵画を見た瞬間私は息を呑んだ。宗教画というのはあまり上手な絵ではないという偏見があったが、それが誤りであったことに気づかされた。想像以上に写実的なのだ。馬に乗る騎士の勇敢さ。猛る馬の躍動感などがひしひしと伝わってくる。
また、聖母に抱きかかえられた赤ん坊からは楽しそうな笑い声が聞こえてきそうだ。赤ん坊のふっくらとした体形も精密に再現されている。聖母はというと慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべている。母性や慈愛といった要素を前面に押し出しているため、エロティシズムは感じられない。恐らく御法度なのだろう。
同じコーナーに兜を脱いだ騎士の絵もあった。血色のいい色男で、武勲を立てていそうだ。しかも大きなサイズの絵画のため、描かれている騎士は実際の人間とほとんど同じ大きさだ。まるでその場に騎士がいるような錯覚を起こした。「よっこいしょ」とでも言って絵の中から出てきそうだ。
美術館というのはそれぞれの展示室の隅にスーツ姿の係員が待機している。私はこの人々が非常に苦手である。個人的な恨みなどは微塵もないが、私は誰かに見られるのが非常に苦手なのだ。どうしても人の視線を気にしてしまう。別に私一人を見ているわけではないのだが、客一人一人を見ているのだから、私のことも確かに見ているのだ。同様にプールの監視員やライフセーバーも苦手である。故にこの時の私は滑らかさに欠けた非常に奇妙な歩き方――――――普段から私の歩き方は特徴的なのだが、この時ばかりは目も当てられないほど奇妙であった――――――をしていた。
次の展示へと移ると、ルネサンス以降のオランダ人画家の絵が展示されていた。中でも目を引くのがレンブラントの自画像だ。どれだけ盛って描いたのだろうか。加工アプリがない時代は人力で加工していたのだろう。これはまさしく描こうアプリだな。
食卓の静物画も展示されていた。茹でたロブスターが描かれており、絵画から湯気が上がってきそうであった。水の入ったグラスや金属製の食器には光や部屋の中の光景が反射している。喉が渇いてきたため、この絵から水を一杯貰いたい。
見ていくとフェルメールの絵画もあった。楽器の練習をしている少女の絵である。豪華なカーテンをめくると少女と目が合ったという状況である。少女の表情は不信感のような恥じらいのような微妙なものだ。少女は鍵盤楽器を練習しているが、部屋にはチェロらしきものもある。
次の展示は肖像画であった。ここには貴族や王族、資本家の肖像画が展示されている。もともと画家は貴族や王族といったパトロンがついており、そういった人々の肖像画を描いていたが、イギリスで産業革命がおこった結果、資本家という新たな階級の人々が現れた。資本家は王族や貴族が肖像画を描かせたことにあやかり、自分たちの肖像画を描かせたそうだ。
写真の代わりということでさらに写実的に描かれている。絵の上手さというのは写実的であるかどうかでは決まらないが、やはり私のような初心者には写実的な絵が上手いと思ってしまう。
しかし、肖像画には犬が描かれることが多い。この時代は犬派が多いのだろうか。今の時代の日本なら猫が多くなるだろう。
私も人財産こしらえたら肖像画を描いてもらいたいものだ。
ああ、なんて居心地がいいんだろう。この場には芸術を愛する者たちと芸術が集まっている。ここに居る人間全員が芸術でつながる仲間であり、兄弟である。
次はイタリア人の画家の絵のコレクションである。十八世紀にはグランドツアーといわれるイタリア旅行が流行したらしい。イギリス人の学生がこぞってイタリアを訪れたそうだ。そして、土産物としてイタリア人画家が描いた絵画を購入したそうだ。
いつの時代も学生は海外旅行に行きたがるもののようだ。私も外出が憚られるご時世でなければ海外に行きたい。特にイタリアやドイツ、イギリスに行き、博物館や美術館、王宮をめぐりたい。
作品を見ていくと水が多く描かれているのが分かる。多くの絵画に川や湖らしきものが描かれている。当時の世相はよくわからないが、イタリアいうと水道設備や水運というように水のイメージが強い。同じく水運で栄えたイギリス人はイタリア人の描く絵画に親近感を覚えたのだろう。水運で栄えた国はほかにオランダや日本があるため、オランダ人も好むのではなかろうか。ちなみに日本人の私は一目見ただけで、気に入った。
ヴェネツィアを描いたものが数枚ある。
一つはサンマルコ広場を描いたものだ。写真で見たサンマルコ広場と酷似していた。画家の技量もそうだが、歴史的建造物が三百年前と同じ姿で同じ場所に立っていることに言葉にできない感動を覚えた。恐らくヴェネツィアの人々に愛され続けているのだろう。今も昔も。
同じヴェネツィアを描いた作品だが、隣の作品はヴェネツィアの祭りの様子を描いたものだ。派手に装飾したゴンドラを使ったレースのようだ。この絵画は本来なら見えるはずのない橋を絵画の最奥に描くことで、奥行きを持たせている。
一つとして同じ装飾をしているゴンドラは無く、それぞれのチームにユニフォームがある。道は見物人であふれかえり、建物の窓や屋上も観客が顔を出している。身を乗り出す者がいない窓は一つもない。レース開始前の緊張感と黄色い声援、祭りの熱気がカンヴァスの向こうから伝わってきた。もしかしたらこれは窓かもしれない。絵画ではなく窓なのかもしれない。私は実は上野に居ないのであり、ヴェネツィアに居るのだ。そして、目の前で祭りが開催されており、身を乗り出せばそこはヴェネツィアであり、観客として祭りに参加できるのだ。すなわちこの窓は時間と場所を超越する装置なのだ。
立ち止まって長考していると、やはり素晴らしい絵は皆見たいようで、私の周りに人だかりができていた。他の人の芸術鑑賞の邪魔になってはいけないとそそくさと絵画の前を去った。
イタリア人の画家が描いた絵たちは素晴らしい。無機質な現実のコピーではなく、絵の中で人々の営みが息づいている。町の日常の一瞬を切り取ったようにも思えるが、それは違う。絵画の中の時は止まっていない。今もなお継続しているのだ。絵画の中の人々は今なお呼吸している。
隣の部屋に移動するとスペイン人が描いた作品のコレクションだった。
昔、スペインとイギリスというのは不仲であった。もともとイギリスのスペイン政策は友好的だったが、エリザベス一世はスペインとの国交を拒絶した。スペイン近海でイギリス人の海賊がスペインの商船や植民地から帰る船を襲っていた。しかし、エリザベス一世は海賊行為を黙認した。さらに宗教面においてスペインはカトリック、イギリスはイギリス国教会と違う派閥であった。故にアマルダの海戦へと発展したのだ。
しかしスペイン人画家の絵がイギリス国内で再評価されるようになったようで、スペイン人画家の絵を収集したそうだ。
この展示室にあるスペイン絵画はそのすべてが人物画である。製作年代はほとんどが十七世紀のものであるため、当時のスペインでは人物を描くことが流行していたのだろう。
初めに無邪気に笑う少年が来客を迎えてくれた。窓枠から身を乗り出している少年だ。さわやかでみずみずしい純真無垢な笑みである。私はそう言ったものを見ると優しい気持ちになると同時に酷く動揺してしまう。富士の雪解け水のように純粋で清らかなこの少年も成長したら、溶け出して泥と混ざった雪のような世界に生きねばならぬのだ。そしたら、この少年は果たしてこれと同じような笑みを浮かべられるだろうか。そしていつか、笑う事すら忘れてしまうのだろうか。
私の女友達に美しいものは美しさが失われないように閉じ込めて保存しておきたくなると語ったものがいた。私はその意見に同意できない。それは私の中の美しさの定義によるものだ。私にとって美しいものとは「いつか消えてなくなるもの」だ。終りが来るということが美を美たらしめるのだ。故に私は永遠を嫌悪する。美しさが永続するというなら、それは美しくないのだ。彼女の意見は美しさの永久保存を望むものであり、私とは相いれない。
しかし、私もどうしようもなく人間であり、永遠を願ってしまう気持ちは分かる。今私は一瞬、永遠を願ってしまった。カンヴァスの上で無邪気に笑う少年の笑顔が永遠に続くことを願ってしまった。それは美しいものではないのだが、この少年にはいつまでも笑っていてほしいと思ってしまった。
ずいぶん長い時間滞在している。左腕に巻いた腕時計に目を遣ると、入館から二時間以上が経過していた。私の上半身を懸命に支えていた腰が悲鳴を上げている。展示室の隅に椅子が置いてあるため、少しだけ休ませて貰おう。
とは思ったものの、椅子から人が移動することは無かったため、私は芸術鑑賞を続行した。
次の展示室は風景画のようだ。風景画とはいえ写実主義的なものではないらしい。ピクチャレスクというらしい。現実の風景の中に理想の自然を織り交ぜて描くことをいうそうだ。このピクチャレスクが登場するまで自然というものは無秩序で混沌としたものという認識であったそうだが、ピクチャレスクという思想における自然とは調和のとれたものという認識だそうだ。私の自然観を語らせてもらうと、多くの人間は驚いた猫のような顔をするだろう。
私が思うに自然とは混沌としていながらも知らず知らずのうちに調和がとれ、秩序があるようでとてつもなく自由である。つまり、ピクチャレスク前とピクチャレスク後を混ぜ合わせたものである。そう言うと皆口々に「矛盾しているではないか」と言うだろう。しかし、矛盾こそが――――――少なくとも私が到達したのは――――――世の真理である。
自分語りが長くなってしまった。早く人類の宝を観賞しよう。
ピクチャレスクに分類される絵画たちは私に奇妙なほどの親和性を示した。洋菓子を頬張りながら紅茶を飲んでいるような気分であった。先程述べたようにピクチャレスク絵画は風景画が主体である。それも人の営みや情緒、温かみといったものが感じられる田舎をモチーフとしているものが多い。私は過疎地の出身であるため、とてつもない懐かしさと愛おしさ、寂しさを同時に感じていた。
秋めいた並木の中に複数の石碑がひっそりと佇む作品がある。茶色と灰色がカンヴァスの多くを占めるため哀愁を感じるが、暗さはどこにもなかった。枯葉の間からあふれる木漏れ日がさりげなく石碑を照らしているため、石碑が愛されていることを暗示している。
また、朝日に向かって出港する作品もあった。船に乗る兵士たちのたくましさと敵から逃れられた歓喜が額縁から溢れてきた。しかし、最も特筆すべきはその光の表現であろう。太陽系の中心から届く光がエネルギッシュな黄色で大胆に描かれている。太陽から相当の距離があるというのに、その光は減衰しているように見えない。その力強さはというと水面の揺らめきや人物の顔、山の稜線、船の帆までもを曖昧にするほどである。カンヴァス上では満足できなかったのか観賞している私までもが熱エネルギーを感じた。
このピクチャレスク絵画は印象派に大きな印象を与えているのではないか。風景を描くことと光の表現が巧みである点で似ている。制作年代も印象派の前である。
次の展示室は階下のようだ。ここへ来る前にすでに一度階段を下りたため、結構な地下なのではないかと思う。
次の展示室はフランス近代美術である。私がずっと楽しみにしていたテーマだ。私がこよなく愛す印象派もフランス近代美術に属する。今回の特別展の目玉である「ひまわり」はここに居る。
階段を下りているというのに自分は宙に浮いてるような気がした。展示室に着いたときは息を呑んだ。
モネやゴーギャン、セザンヌといった巨匠たちの作品が並んでいる。ああ、ここは天国か。ジョンレノン、天国は私の前にあったぞ。個人的に天国や地獄というのは来世の暗喩ではないかと思っている。そんなことはどうでもいい。素晴らしき芸術で私の網膜を満たそうではないか。
左手の作品から観賞する。花瓶に生けられた花々の絵だ。背景は地味な黄土色だが、花々は白や青、赤といった刺激的な色である。さらに青々とした葉も生けられている。花瓶は濃い群青色で重たさを感じる。さらになんとなく色使いから浮世絵を感じた。奥行きがないところも似ている。
浮世絵が海を渡って欧米の近代美術に大きな影響を与え、ジャポニズムという文化運動を起こした。浮世絵は欧米の美術の常識からはずれたものであり、印象派の画家たちはこぞって浮世絵の要素を自身の絵に取り入れた。ゴーギャンをはじめ、ゴッホやモネも影響を受けている。
黄土色の背景に鮮やかな花々がよく映える上品な作品だ。机の上には落ちた花びらが散らばっている。落ちた花びらすらも美しい。私の中の無常さへの愛が激しく揺さぶられた。青い花はアイリスだろうか。ゴーギャンの元親友であるゴッホも一面のアイリスを描いた。もしこの青い花がアイリスなら面白い共通点だ。
隣はクロード・モネの作品だ。モネは自宅の庭に日本庭園を造り、池に睡蓮を植えた。その睡蓮をモチーフに大量の絵を描いた。これはその中の一枚である。私はモネの描く睡蓮が大好きである。
モネの睡蓮の絵は大胆な書き方だと思う。池全体を描けばいいのに睡蓮の浮かぶ水面に接近して水面の一部だけを切り取ったような書き方をする。水面をよく観察すると睡蓮の葉ではないところも緑色である。この緑は水面に映る柳の葉である。
睡蓮や柳の葉がカンヴァスのほとんどを覆っているため、緑一色になりそうに思えるがモネの絵は緑ばかりではない。かわいらしい睡蓮の白や桃色、変色した睡蓮の葉の紫、水面に映る空の青。膨大な量の色を使って情緒溢れる池を書いている。池の中央には太鼓橋がかかっているが、橋の裏に水面で緑を受け取った日光が映り、橋の裏はさながら映画館のスクリーンである。
この絵は奥が明るく、手前が暗いという構造になっている。明るい奥は夏の昼のような黄色と黄緑、暗い手前は夏の黄昏時のような紫と赤が使われている。説明によればこの絵は夏の昼の光を表現しているそうだが、この絵は夏の午後を表しているのではないかと思う。つまり一枚の絵が時間の経過を表現しており、奥が昼を表し、手前へ近づくにしたがって時間が経過し、最も手前に来たときは黄昏時という構造である。
印象派の作品たちを十分に堪能したのち、満を持して「ひまわり」を見ようと思う。壁の向こうにはかのゴッホの大作「ひまわり」が待っている。しかし、隣の展示室へ移れずにいた。一枚の壁が隔てているというのに光と熱を感じる。激しく荒ぶるものではない。もっと優しいすがすがしく晴れた夏の日のような黄色い輝きを感じる。私のような美術の理論も歴史も知らぬものがお目にかかってもよいのだろうか。奇妙なことだが私は申し訳なさに襲われた。「ひまわり」が目当てで来たのだから、見ずに帰ってどうする。私は恐る恐るアーチをくぐり、「ひまわり」の前に立った。
その瞬間私は不可視の激流に襲われた。流れは容赦なく私から穢れや疲労を流し去った。流れに飲まれたのち鳥肌が立ったが、温かい黄色い光が私を温めた。「ひまわり」だ。これまでにない体験だった。絵から後光が発せられているのだ。後光は先程感じた優しい夏の日差しのようだ。大人も子供も女も男も皆絵画に張り付き、微動だにしない。私の近くの婦人が目元をハンカチで拭った。
絵画の前の人だかりは少しずつ動いていた。見終わったものが去り、未だ見ていないものが人だかりに参加する。私はその動きに上手いこと乗り、徐々に「ひまわり」の正面に移動し、ついには絵画の真正面の最前列にたどり着いた。自分が大作を独り占めしている気分であった。
ゴッホはひまわりの絵を数枚描いていたようで、これはそのうちの四枚目だそうだ。ゴッホはフランス南部でゴーギャンと共同生活を始めるにあたり一軒家を購入し、その家を飾るためにひまわりの絵を描いたそうだ。描いたもののうち三枚目と四枚目に署名し、四枚目はゴーギャンの寝室に飾るものだったようだ。ゴーギャンが羨ましい。贋作ではなく本物のひまわりを寝室に飾るだなんて。ひまわりを見て床に就き、目を覚まして初めにひまわりを見るだなんて贅沢の限りを尽くしている。
近くで見るからわかることがある。絵具を大量に使っている。カンヴァスの表面が盛り上がり、立体的なのだ。漆喰を盛って作品を作る漆喰こて絵を思い出す。絵具を筆にたっぷり含ませて強い筆圧で勢いよく描いている。特に花びらや葉が顕著だ。筆圧と勢いからゴッホ本人のエネルギッシュさとひまわりの生命力がありありと表現されている。
花瓶にはゴッホの署名が書いてある。その隣には奇妙な白い点がある。この点の意味は分からない。実際の花瓶にあった打痕か何かだろうか。それとも花瓶の艶を伝える光沢を表現しているのか。
恐ろしいことに花瓶も花瓶を置く机も壁もひまわり自身も黄色なのだ。しかし一つとして同じ黄色などない。黄土色に近い黄色やオレンジに近い赤みを帯びた黄色、柚子のような黄色、カスタードのような黄色。黄色の見本市である。フェルメールブルーがあるならゴッホイエローがあってもよいのではないか。
机や花瓶、がくの影は青で表されている。青は黄色の隣接補色色相もしくは対称色相のため、コントラストがとても目立つ。素人の私なら黒を使ってしまうところを青を使うのが巨匠を巨匠たらしめているのだろう。
黄色という色がもたらす効果と大量の絵具を使って強い筆圧で勢いよく描くという技法の影響で絵画から膨大な生命力を感じた。人物画でなく動物でもなく風景画でもない静物画から生命力と大胆さを感じる。きっとゴッホも夏の南フランスで同じような黄色い生命力を感じたのだろう。それを絵にしたのだろう。
実際には五分ほどしか絵の前に居なかったのだろうが、体感としては一時間ほど眺めていたように感じる。しかし、大作を独り占めするのはよくない。ほかの客のために特等席を譲る。人だかりから抜けたのち人だかりを眺めた。皆恍惚とした顔をして絵画を見ている。ああ、そうか。私を含め、観賞するものは皆この絵に恋をしてしまったのだ。恋をした対象の前から離れられないのだ。罪な作品と作者だ。製作から百年以上経過しているというのに人々を恋に落としてしまう。
芸術と芸術を愛する者たちに別れを告げ、私は出口に向かった。上昇するエスカレーターに乗ったが、私はエスカレーターの動力ではなく満ち足りた気分で上昇していた気がする。
登りきると物販スペースであった。特別展に関する限定の商品を扱っている。私は展示品に関するガイドブックと複製画とクリアファイル、しおり、妹への土産を購入した。
荷物も心もいっぱいになった私は美術館にまた来ると約束し、別れを告げた。上野公園はすっかり闇に沈んでいたが、街灯や建物の照明は煌々と輝いていた。
私は明るく照らされた上野駅へゆっくりと向かった。
読了有難うございます。
編集作業に時間がかかってしまい、投稿が遅くなってしまい申し訳ありません。
芸術の秋に丁度いい作品を仕上げました。
一週間毎日短編を投稿するという試みをしました。わたくし自身大変楽しかったので、またの機会に開催しようと思います。この一週間、私が投稿した短編を楽しんでいただけていたなら幸いです。
感想や評価、レビューをいただけると励みになりますので、よろしくお願いします。
失礼します。