時すでに遅し
では北欧神話というものについて確認しておこう。
キリスト教が西洋を支配する前、北ヨーロッパ地域で信仰されていた神話体系である。ゲルマン神話の一種とされているが、押し寄せてきたキリスト教徒によって資料の大部分が燃やされてしまっており、比較的被害の少なかった北欧神話も無傷とはまったく言えないので、ギリシャと肩を並べるほど有名な神話でありながらその実、現代に残っているのは一部の物語のみだったりもする。
世界構成としてはユグドラシル、これが世界を体現する。資料によって枝の上に国が乗っている事もあるし、張り巡らせた根が異なる世界を繋いでいる事もある。主役となるのはアースガルズに住むアース神族で、オーディンを最高神とし、トール、フレイア、バルドルなとがその下に名を連ねる。
この神話は大きく見て終末神話という枠組みに入り、神々は自らが最終的に滅びる事を知っている。それが最終戦争と呼ばれるラグナロク、終末を告げる笛が鳴った時、すべては火の海に消えるのだという。
「スズ」
「ん?」
「どこで何してたらここに放り込まれたんだ?」
極めてマトモに隠密行動したら一切気付かれず洞窟に入り込めた、ランタンを片手に進んでいく間、後回しにしていた質問をしてみる。
「ちょっとサボってたら落っこちた」
「サボってたら」
「そう」
「なら仕方ないな」
「うん」
何をサボっていたかは教えてくれなかったが、まぁそこまではいい。名前の通り東の方の出身、頭にケモミミ生やした種族がいるとは知らなかった。
意識を洞窟の観察に切り替える、天然の鍾乳洞である。乳白色の石柱が立ち並び、足元は濡れていてよく滑る。風はまったくなく、最奥は行き止まりなのだろう。こんな狭い場所に巨人が入って来れるとは思えないが、スズによると人間とほぼ同じサイズと知性の巨人族もいるという。
それ巨人ではなくない?
「っと……」
などとやっていたらさっそく視界の端に現れた、地面に寝転がった足の先、ランタン以外の照明に照らされ壁面の隅に見切れている。このびしょ濡れの地面で睡眠する筈もなし、明らかな違和感を覚えて長剣を構え、音を立てずに少しずつ接近する。
そのうち足元を流れる水が赤く濁っているのに気付く、最初は土が溶け出しているのかと思ったものの、この石灰質の鍾乳洞から出た土にしては赤すぎる。出所を目線で辿ると足、倒れてピクリとも動かない人物から流れ出ていた。
「おい何だよ……」
無意識に歩を早める、真っ白な動物の毛で編んだ厚手の服を着るその人物は首が無かった。長剣を杖代わりに突き立て傍にかがみ、よく観察すると体は冷めきっており、頭部をまるごと失ったにしては出血も少ない。流す血液がもう残っていないのだろう、死亡からそれなりの時間が経っている。
「武器はなに?」
「鋭利な大型の刃物だ、エッジ達の装備じゃここまですっぱりとはいかない。……てか…怖くないのか? 死体見て」
「昔いろいろあったから」
斬れ味はまぁまぁ、剣身を厚く重くして引き裂くように斬る。それが実用的な長剣というものだ、多少の刃こぼれでは威力が損なわれないので乱暴に扱える。この人物を殺害したのは斬れ味を高めて剣身を軽量化した類の武器である、取り回しが良く、持ち主が多少非力でも威力を保つ反面、雑な扱いに弱い。
「総合すると?」
「そうだな……おそらく単独での奇襲攻撃だ、外の巨人が平然としてるのを見る限り、犯人は誰にも気付かれずに全員を殺した」
顔を上げて辺りを見回す。
似たような死体が5体前後あった、腕や胴体をやられている者もいるので正確な人数はわかりかねる。配置と状態からして一切の反撃を許されなかったようだ、逃げようとして背中を斬られたものは1人いたが、いずれも武器を抜いた形跡が無い。
それと壁面に傷があった、閉所で大型刃物を振るったために切っ先を引っかけた跡に見える。これが不可解だ、一度突き刺して、そこから横移動させた傷なのである。剣ではない、槍でもない。
「鎌だな」
「かま」
「戦闘用には不向きだが例はある、死神って知ってるか?」
「いや……あ、でもお母さんが言ってたかも」
元の世界の話だが、あれも鎌が武器と推測されている、だから死神と名付けられた。やり口も似ている、姿を見た者は1人もいない。このユグドラシルというらしい世界に来ているとは聞いていないが。
「ん……?」
そこで地響きがした、洞窟の外で何か始まったのだろう。援軍が来たのか、また見つかったのか。
洞窟にはまだ先がある、こちらも調べなければ。
「外見てくる、奥調べといて」
「ああ」
置いてあった古風なオイルランタンを拾ったスズ、シドに告げつつ来た道を戻っていった。彼女を見届けたのちシドは奥へ、探索を継続する。ここから先は非常に狭く、隙間に体を押し込むようにして進んでいく。
見つけたいものはすぐに見つかった、殺人現場から50mほど進んだ最奥部の行き止まり、暗闇の中で2人並んで座っていた。片方は小学校高学年くらいの少年、泣きそうな顔で、というか泣いており、ランタンの光で照らすと小さく震える。
もう片方は空色の髪とネイティブ柄のケープレット、こちらはシドを見つけて笑顔になり、少年の頭を撫でて落ち着かせ、立ち上がった。
「来ると思った」
こちらが安堵するとフィリスは言う、乱暴な扱いは受けなかったようで、顔も服も綺麗なまま。
「無事か?」
「うん」
「その子は例の?」
「そうだと思う」
「じゃあ後は帰る方法を……」
と、振り返った瞬間、地面がいきなりなくなった。
「はぁぁっ!?」
まさかのボッシュートである、グッバイ異世界とか言ってる間もなく視界が真っ暗に、すべての感覚が消えていく。その前にフィリスの腕を掴んで、来た時と同じ、その場から消え失せた。