5.
八月一日。校庭の工事が本格的に始まる日だ。
ヤンマから聞いた工事が始まる時間の一時間前の、朝七時から僕とリョータとサクラちゃんは校庭に忍び込んで隠れていた。校門の鍵を開けたりして手引きしたのは勿論ヤンマ。「こんなのバレたらクビになってしまう」とか嘆いていたけど、ナツミのお願いを断りきれなかったみたい。ナツミってば、すごいなぁ。意外な一面にちょっとびっくりする。
「このあたりでいいかな」
僕が葉っぱをかきわけながら言うと、すでに位置に着いていたサクラちゃんが黙ってうなずいた。
僕とサクラちゃんがいるのは、何と水浪桜(つまりサクラちゃんの本体)の木の上だ。青々と茂った葉っぱの間にうずもれるようにして身を隠し、下をのぞいている。さっきから風もぴたりとやんだ校庭はまだ朝なのに焼けるような暑さだったけど、濃い緑色の葉っぱが何重にも覆って太陽の光を遮っている木の上はそれほどでもない。
森の中が遊び場の僕たちにとって、木登りは大の得意だ。サクラちゃんもさすがは木の精、というべきなのか、身軽に木の上に飛び乗ってみせた。
ちなみにリョータは校庭の別のところで身を隠している。全ては作戦通りだ。
「うまく行くかなぁ」
木の上から、工事用の赤い三角コーンやら大きな黄色いショベルカーやらが配置された校庭を見下ろしながら、僕は思わず呟いた。
「大丈夫、きっとうまく行きます」
安心させるように僕の目をまっすぐ見つめて、サクラちゃんがきっぱりと言う。
サクラちゃんが大丈夫、って言うとなんだかそんな気がしてくるから不思議だ。
「こう見えても私は、三〇〇年も生きてる植物の精なんですよ? みなさんにはまだ見せてないとっておきの技だってあるんです」
そう言ってふふふ、と笑うサクラちゃん。
とっておきの技、か。それはなんか大丈夫な気がしてきたぞ。
僕は目を閉じて、静かに大きく息を吸い込んだ。新鮮な空気が頭の中にまで届いて、僕の脳みそをはっきりとさせたような気がする。
なんだかんだ言って、たったの四人で大人に立ち向かうってことに、僕はちょっとだけ臆病になっているんだ。
いつもいつも、大人たちから「まだ子供なんだ」と言われ続ける僕たち。だけど、もう小学生じゃない僕らは、子供であることを開き直るほどには無知ではいられない。
自分には何ができて何ができないか、それさえはっきりとはわからないけれど、でもきっと、僕らだってその気になれば、大人たちがはっとするようなことができるはずなんだ。そして、そういう、自分でもびっくりするような力が出せるのはいつも、大切な友達を――仲間を守ろうとする時なんだ。
「来たみたいです」
僕の背中をそっと叩いて励ますような声で、サクラちゃんが言う。
耳を澄ますと、校庭に近付いてくる数人の声が聞こえてきた。それから、葉っぱの緑の間から見える黄色いヘルメット。工事の人たちが、水浪桜を切り倒すために集まってきたんだ。このまま放っておけば、今日の夕方までにはきっと、水浪桜は切り倒されてしまうはず。
(そうはさせないぞ)
自分に言い聞かせるように、僕は心の中で呟く。
この日のために、夏休みが始まってからずっと、ナツミを中心に作戦を立ててきたんだ。大丈夫、うまくいくはず。
工事の人たちの声は、だんだんと大きくなっていく。葉っぱの陰から見える黄色も、数を増していく。これから切り倒す木々の中でも一番大きな水浪桜の様子を確認するために、みんなが木の下に集まってきているんだ。
(今だ!)
僕は心の中で思う。ちらりとサクラちゃんに目をやると、サクラちゃんも大きくうなずいている。
僕は一瞬だけ目を閉じて、右手に握っていたロープを思いっきり引っ張った。
ガサガサガサッ!
想像以上に大きな音が、まだ静かな朝の校庭に響き渡った。僕が手にしているロープは、水浪桜の枝という枝に結びつけてあって、僕が手元で引っ張るだけで木全体が大きく揺れるようにしている。風もないのに巨木がざわざわと揺れる姿は、下から見ると随分と不気味に見えるはずだ。もちろん、葉っぱの位置を確認して、下からはロープも僕らの姿も、見えないようにしてある。
「お、おい、なんであの木揺れてるんだ?」
「さ、さぁ。風じゃないのか?」
「だってさっきから風なんて吹いてないぞ。しかも揺れてるのあの木だけだし……」
僕たちの思惑通り、下からは工事の人たちの、驚いた声が聞こえてきた。僕は、木の揺れがだんだんと激しくなるように、力を込めてロープを揺らす。
「きっと誰かが上に登っていたずらしてるんだ。おい、お前、上に登って見てこいよ」
工事の人の中でちょっと冷静な人がそう言った。その声に押されるように若い人がひとり、こちらに近付いてこようする。どんどん近くなる話し声と足音に、心臓がきゅうっと縮まったのを感じた。
僕はゆっくりと息を吸い込んで、自分を落ち着かせる。大丈夫大丈夫。これも想定済み。
「ぎゃあっ!」
若い人が水浪桜の幹に手を掛けようとした瞬間、別の方から低い悲鳴。プシュッという水の音。
校庭のスプリンクラーから勢いよく水が噴き出して、水浪桜を囲んだ人たちの背中を直撃したんだ。
もちろんこれも僕らの作戦のうち。スプリンクラーの操作スイッチがある倉庫に隠れているリョータの仕業だ。リョータ、ナイス!
単なる水だと侮っちゃいけないわ。ちょうどいいタイミングで起きた機械の誤作動なんて、ものすごく不吉に思えるものじゃない? そう言ったのはナツミだ。
ナツミの思惑通り、下の人たちは驚くほど大きな悲鳴をあげて混乱している。
大人なのに、いや、大人だからこそ、自分たちの常識で考えられないことには滅法弱いんだ。
「だからですね、あの水浪桜はこの村ができた頃からここにある、由緒あるものなんです。歴史的にはいわば御神木に近い形で崇められていたこともあるものでして……」
聞こえてきたそんな声は、僕たちの聞き覚えのある声。絶妙なタイミングでヤンマが、校長先生を連れて来たんだ。
「うーむ、言い分はわかるが、しかしなぁ……」
「あたしたちも、あの桜の木は学校のシンボルだと思っています。お願いです、切り倒したりしないでください」
これはナツミの声だ。見事な優等生っぷり。ヤンマひとりで言うより、よっぽど説得力があるに違いない。
「ん? いったいどうしたんだ?」
校長先生の声。どうやら、工事の作業員たちの様子がおかしいのに気づいたらしい。
「それが、さっきからなんかおかしなことばかり起こるんですよ。風もないのに木が揺れたり、急にスプリンクラーが水を吹いたり……」
工事のリーダーらしい、中年のがっしりした体つきの男の人が不安そうな顔で校長先生に報告しているのが、葉っぱの隙間から見えた。
僕はちらりとサクラちゃんを見る。サクラちゃんもこっちを見ていて、僕らは目でうなずき合う。
ここまでは、びっくりするぐらい順調だ。あと一息。最後のひと押しだ。
「おかしなこと? ただの偶然でしょう。そんなことより、工事の方は大丈夫ですよね? この後の予定も詰まっていますので、しっかり予定通りに進めていただかないと……」
「予定通りに、ってこの木、やっぱり切り倒しちゃうんですか?」
ナツミが咎めるような口調で言うと、校長先生が困ったように頭を掻く。
「そう言われても、仕方ないのだよ。校庭の整備は教育委員会からの通達だし……」
「私の出番みたいですね」
ポツリ、と呟いたのはサクラちゃんだ。もちろん、下の校長先生たちには聞こえないような小さな声だけど、僕の耳にははっきりと届いた。僕はサクラちゃんに目を合わせて、頑張れ、ってうなずいてみせる。
しっかりと僕の目を見てうなずいて、サクラちゃんは静かに目を閉じた。それから両手の指を組んで、何かに集中し始める。
いったい何が起こるのだろう。
確かにナツミが考えた作戦では「最後にサクラちゃんがとっておきの技を披露する」っていう段取りになっているんだけど、具体的に何をするのか、僕にはさっぱり分かっていなかった。ナツミだってわからないだろう。ただ、サクラちゃんが「最後は私に任せておいてください」って言うから、そうすることにしたんだ。
興味津々でサクラちゃんのことを見つめていると、やがてサクラちゃんの体がピンク色に光り始めた。
うそだろ? 体が、光っているだって?
そう、サクラちゃんの体全体から、まるで水があふれ出すみたいにピンク色の光が漏れ出して、サクラちゃんの体全体を覆い始めたんだ。ピンク色の光、と言っても街のネオンサインみたいなどぎつい色じゃない。優しさとあったかさを合わせた、ほのかに染まった色――そう、まさしく桜の花びらのような。
サクラちゃんは目を閉じたまま、組んでいた指を解いて、その真っ白で綺麗な指で水浪桜の幹にそっと触れた。とても大切な人の頬に触れるような、そんな触れ方だった。
桜色の光に覆われたサクラちゃんの指が触れると、水浪桜が一瞬、ふわっと揺れたような気がした。眠っていた人たちが、一斉に目覚めたように。雨の後の街路樹が、大きく息を吸い込んだ時みたいに。
木から落ちないように思わず水浪桜の枝をつかんだ僕は、その枝からもサクラちゃんの体を包んでいるのと同じ桜色の光が漏れ出しているのを見てぎょっとした。視線を上げれば、僕が乗っている水浪桜の、枝という枝、葉っぱという葉っぱがすべてうっすらと光っているのが見えた。
「工事をやめろとは言いません。せめてこの木をどこかへ植え替えるということはできませんか?」
「もともとこの木は水浪山にあったそうです。そちらへ移すというのは……」
下からは、ナツミとヤンマが必死で校長先生を説得する声が聞こえてくる。水浪桜が桜色の光に包まれているというのに、びっくりしているような様子は全くない。みんなにはこの光は見えないのだろうか?
「あと少し……」
苦しそうに息をつく声が聞こえてきて、僕はサクラちゃんの方を見た。目を閉じたそのおでこにはうっすらと汗が滲んでいて、その表情は苦しそうだった。この光は、たぶん水浪桜の、そして桜ちゃんの生命力とか、そういうものなんだろう。サクラちゃんは自分の中の力を振り絞って、この光を放っているんだ。
「サクラちゃん!」
僕はとっさに、サクラちゃんの手を握った。サクラちゃんはびっくりしたように目を開けて僕の方を見た。それから僕に向かってちょっとだけ微笑んで、また目を閉じて自分の中に集中する。
僕も目を閉じた。
視界が真っ暗になると、今まで気づかなかったいろんな音や、においや、手触りや温度が、僕に押し寄せてくる。サクラちゃんのやわらかな手を握った右手からは、暖かい力を感じる。だけどその感覚はゆらゆらと揺れて頼りない。
僕の力を、サクラちゃんに伝えよう。そう思った。やり方なんてわからない。僕の思いはただ、サクラちゃんの力になりたい、それだけだった。
目を閉じて自分の中へ潜り込んでいくと、体の奥の方――たぶん、心臓のあたりに小さな光を見つけた。暗闇の中で、青白く輝く透き通った光。そして、誰かにぎゅっと抱きしめられている時みたいな優しい暖かさ。
僕は意識を右手に集中した。自分の心臓の奥から感じる光と温度を、右手に送り込むみたいに。
僕の青白い光と、サクラちゃんのピンク色の光が混じり合うのを、僕は目を閉じたままで感じた。
「さ、桜が! 水浪桜が!」
下から聞こえてきたヤンマの驚く声で、僕は我に返った。深く深く自分の中に潜り込んでいた意識が、ゆっくりと浮き上がってくる。僕はゆっくりと目を開けた。
そして、見たんだ。緑色の葉っぱに覆われていた水浪桜の枝という枝から、あらゆる葉っぱがものすごいスピードで縮んでいったのを。
理科の時間なんかに見るビデオの中で、植物の成長をものすごく早回しで見せるのがあるけど、あれにそっくり。しかもそれをさらに逆回しにした感じ。ふさふさとした葉っぱは見る間に茶色の枝の中に引っ込んでいく。
葉っぱが全部引っ込んでしまうと、今度は枝のてっぺんから何かが伸び始めた。逆回しが終わって、早送りを始めたみたいに、それはどんどんと突き出していく。うっすらとピンク色をした、尖った塊。あれってもしかして……。
「つ、蕾?」
思わず声に出して呟いた。その声に気付いたサクラちゃんがうっすらと目を開けて僕の方を見て、にやり、といたずらっぽく笑う。
そう、それはまさしく桜の蕾。それは僕たちの見ている間にどんどんと膨らんできた。そして――。
「水浪桜が、咲いた……」
呟いたのは、誰だっただろうか。
僕らの目の前には、上品な桜色の花を無数につけた、満開の桜の大木が、確かにあった。
そのあとは、誰も何にも言わなかった。桜の花の圧倒的な美しさに、魅入られたようになってしまっていたからだ。
真夏の校庭に、夢の中のように現れた桜色。いつの間にか蝉たちもシン、と鳴きやんで、静寂に包まれた校庭は時間の感覚さえも曖昧にさせた。
ゴォッ。
静寂を打ち破るかのように響いたのは風の音。突然のつむじ風が水浪桜の枝を震わせる。
数えきれない桜の花びらが、宙に舞った。
一面の桜色が、僕らを包み込む。
「水浪桜の水浪山への植え替え、検討してみよう……」
木の下で校長先生がそう呟く声が、ひどく遠くから聞こえたような気がした――。