第二話「霧島友哉天国に逝く」
「完璧だ! 完璧なスクランブルエッグだ!」
リビングは香ばしいスパイスの香りに包まれていた。盛り付けられたアツアツふわふわの卵の横に新鮮なサラダが添えられている。芸術作品と呼ぶにふさわしい見事な出来栄え。朝の料理が成功するとやはり気分が良い……ただしここまではだ。
「さて……」
霧島友哉は階段を登り、もっか爆睡中と思われる亜里沙の寝室に向かった。
彼の朝は早い。
「料理は私の任務ではない」と言い張る料理の出来ない亜里沙の為に、朝食を作らなければならないからだ。つまり、料理は彼の任務であった。そして、寝起きの悪い亜里沙を起こすことが、彼の第二の任務である……それは命懸けの、極めて危険な任務であった。
友哉は恐る恐る亜里沙の寝室の前に来た。色んな意味で緊張する。まずはノックを三回――
「姉さん、朝食が出来たんだけど……」
無反応……なのはいつものことだ。友哉は、ビビリつつもドアノブを回して、亜里沙の部屋に決死の潜入を開始した。
「姉さん……」
――次の瞬間、友哉の喉に、鋭利な長剣が突き立てられていた。動いたら斬られる……チーズケーキの様に。
ベッドに人の姿は見えない。まるまった毛布が、この聖域における主人の不在を物語っていた。
友哉は目だけをゆっくりと人影の方に動かした。
友哉の姉、霧島亜里沙が、死刑執行人の様に半目でこちらを見下ろしていた。
「夜襲とはいい度胸だな……そんな腕で、私が倒せると思ったのか?」
「姉さん、俺だよ! 弟の友哉。朝食が出来たから呼びに来たんだ」
「……愛する弟の名を語り、手料理まで作るとは、手の込んだ夜襲だな」
「俺がその弟だ!! それに夜でもない……あの朝陽を見てくれ!」
半目の寝坊介に処刑されてはかなわない。友哉は実の姉に弟宣言をしたのだった。
「…………………………」1分経過。
「…………………………」2分経過。
「…………………………」3分経過。
友哉の喉に長剣が張り付いたまま、既に3分以上経過している……友哉は心の中で、快心の出来栄えのスクランブルエッグに詫びた。
「見覚えのある顔ね……」
それが第一声だった。
油断は禁物だ。
亜里沙は永い冬眠から目覚めた熊の様に、まだ寝ぼけている。
「姉さん、今年一番のスクランブルエッグがピンチなんだけど……そろそろ……」
亜里沙はようやく夜襲者と弟の顔が判別出来る様になったようだ。
「ああ……良く見たら、とも……友哉じゃない。」
亜里沙はそう言うと、喉に突き立てた長剣を鞘に収めた。そして満面の笑みを浮かべて言った。
「おはよう友哉」
……これで友哉の命は救われた……筈だった。
「ちょっと待って……今着替えるから」
そう言うと、亜里沙は黒のタンクトップと、ショートパンツをベッドに脱ぎ棄てた。中からは、身体に密着した黒のランジェリーが姿を覗かせる。細身で引き締まった筋肉。ギリシャ彫刻を思わせる完璧なプロポーション。白い身体と対比する様に、黒く長い髪が腰元まで伸びている……って、実の姉に対してそんなこと形容してる場合か!
友哉はドキドキした気持ちを隠す為に、亜里沙に背中を向けた。
だがその態度は、亜里沙にとっては気に入らなかった様で……
「友哉、何故後ろを向いた?」
「……………………………………」
「私が敵だったらどうするんだ?」
「姉さん……今日の朝食は完璧な出来栄えだ。早く下に降りて食べよう。スープは今温める……」
次の瞬間、友哉は襟首を掴まれて、亜里沙の部屋を引きづられていた。
「ちょっ、ちょっと姉さん、何してんの!?」
そのままベッドに押し倒される。
「最近……足りてなかったでしょう、コ♡ミュ♡ニ♡ケーション♡」
亜里沙は友哉の上にまたがり、あっという間にマウントポジションを取った。下着姿の姉にまたがられて、動けない弟がそこにいた。
「姉さん、こんなこと良くないよ……姉弟でこんな、絶対駄目だ……」
「友哉君はさっきから~~どうしてず~~っと顔が赤いのかな?」
「どうしてってその下着、身体に密着して……輪郭が……」
ふと我に返り、亜里沙は急に顔を赤らめた。
「Hなことを考える友哉君には、お仕置きが必要みたいだね……」
――この展開、逃げたい……
「姉さん、なんでいつも俺にこんなことを……」
「友哉、姉さんには弟を導く義務がある」
「天国に導く義務がね!」
亜里沙は友哉の左腕を抱え込むと、自分の両足を素早く彼の左腕に差し込んだ。
――腕ひしぎ十字固め。
友哉は極まる寸前に状態を起こし、左腕を引き抜いた。
亜里沙は既に友哉の背後を取っている。
胴を両足でフック、右肘は彼の首深くに巻き付いている。左腕は後頭部を押さえ付けていた。亜里沙は身体を深く密着させると、背中に全体重を載せて、後方に引っ張った。
チョークスリーパーかよ……天国に導くってこのことか……
――霧島亜里沙・友哉姉弟はリビングで並んで朝食を取っていた。
家は広々とした作りで、白を基調に設計された内装は、ホテルの様な清潔感を感じさせる。
向かいに座っていた両親は、訳合って今はいない……
「どう? 朝から天国に旅立った気分は?」
亜里沙は悪戯が成功した子供の様に笑った。
「……生きていることに喜びを感じるよ、姉さん」
「そんなことより姉さん……」
友哉は両手を上にあげて、やれやれだというジェスチャーをした。
「俺の料理人生最高傑作のスクランブルエッグが……冷めている!」
「これに懲りて、目の前に裸の女性が現れても、決して目をそらさないことね」
友哉は亜里沙を見て、先程の壮絶な光景《密着した黒いランジェリー姿の姉》を思い出して赤面した。
「ちょっと、何赤くなってんのよ!」
「ご、ごめん……なさい」
忘れるには惜しい光景もある……
友哉は気まずい空気に耐えかねてテレビを付けた。
「姉さんには、いつも作り立ての最高に美味しい料理を食べて欲しいと思ってる」
友哉の声は気恥ずかしくなって自然と小声になっていた。
「……いつも感謝……してるから……」
――姉弟のアットホームな会話をよそに、テレビは無機質な情報を流していた。
いつもの様に当事者でも何でもないアナウンサーが、正義の代弁者の様にニュースを語っている。伝えているのは表面的な情報だけだ。事件の真実は、実際の所当事者にしか解らない。
『――昨日のニュースです。八日、十八時三十分頃、神奈川県川崎市多摩区の住宅街で、猟奇殺人鬼の犯行と思われる殺人事件が発生しました。被害者は身元不明の女性で、両目をえぐられた状態で死亡。なお犯人の目撃情報は無く、今なお川崎市内に潜伏中と思われます。県警では、今月に入り起きている二つの事件と関係があるものとみて現在捜査しています。――次のニュースです……』
亜里沙の顔から、先程の悪戯な表情が消えていた。
「友哉、私達の敵にこの星の常識は通用しない……現場では私以外を信用するな」
……私達姉弟も異種だ……この星では……
違う種族が同じ惑星で共存することは可能なのか???
亜里沙の切れ長の目はどこか悲しげだった。
そんな時の姉の目を見るのが、友哉はとても辛かった。