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 春の風が心地よかったのも束の間、気がつけばいつの間にか季節は夏へと移ろっていた。容赦なく照りつける太陽の下、グラウンドでは生徒たちがみな玉のような汗を掻き、光に反射してキラキラと輝いて見えた。そんな彼らを、クーラーの効いた部屋の中で窓越しに見下ろしながら、私は右手で自分の顔をパタパタと仰いだ。


「いやぁ、ホントに暑いよねえ。やんなっちゃうよ」


 そんな私の様子を見ながら、向かい側の机に座った先生が微笑んだ。腕まくりされたワイシャツの下から、指先までしっかりと日に焼けた肌が顕になっている。私はぼんやりと数学教師の目を見つめた。


「じゃあ高橋さん。卒業後は就職するんだね?」


 先生が念を押すように尋ねた。窓の向こうから歓声が上がった。野球部の誰かがヒットでも打ったのだろうか。それともサッカー部の誰かがゴールでも決めたか。生徒たちの楽しげな声が、一枚のガラスを挟んで私の耳に飛び込んできた。


「はい」


 私もまた先生の目から視線を逸らさず、顔はまっすぐ向いたまま小さく答えを返した。

 その時。

『嘘つき』


 胸の奥から、姉の声が聞こえてきた。

 私は気がつかないフリをして、黙って先生の焼けた肌を見つめ続けた。


 先生は小さく笑みをこぼした。

「そうか。別にそれがどうということではないけれど、大学という道は考えてない?」

「はい」

『本当は行きたがってたくせに』

「それじゃあやっぱり実家を継ぐのかい? ご両親は納得されてる?」

「はい」

 私と先生の会話の間に、胸の奥から無理やり姉が割り込んでくる。窓の外では、もう一度さらに大きな歓声が巻き起こっていた。一体どんな素晴らしいことがこの世に起きれば、人はあんなにも嬉しそうな声が出せるのだろう? いつか誰かに真面目に聞いてみたいと思った。


『嘘ぉ。継ぎたくないんでしょ?』

「高橋さん。君自身も納得しているのかい?」

『してるわけないよ』

「高橋さん?」

『有希ちゃん?』

「大丈夫かい? 高橋さん」

『ねえ有希ちゃん……」

「……ちょっと黙ってて!」


 姉の声と、先生の声が耳の中を何度も何度も行き来する。気がつくと私は立ち上がり、思わず大声を上げていた。その瞬間、私は凍りついた。生徒相談室に流れていた穏やかな空気が、一瞬にして固まっていく。驚いた先生の顔を、私もまた狼狽しきった表情で見つめ返した。


……ちょうど窓の外では、三度目の大歓声が上がったところだった。





 私の肺には、姉が住んでいる。


 もしこれから肺に住もうかな、などと呑気なことを考えている者がいても、私は決してオススメしない。事実姉は、居候の身にも関わらず私の肺に文句ばかり言っている。薄暗いし、狭いし、壁面はベトベトしているし、決して居心地が良いわけでもない。歩き回れない広さではないが、何分縦に長いため、およそ住むのに適した内臓とは言えない……というのが姉の言い分だ。正直さっさと出て行って欲しいと常々思う。


 何より私としても、自分の肺に姉が入り込んでいたら大変気を使っている。プライベートなどもちろんあったものじゃない。私の周囲の会話は胸の中の姉に筒抜けだった。今日の進路相談にしてもそうだ。迷惑極まりない。



「ど、どうした? 大丈夫か高橋?」


 先生が恐る恐る私に声をかけた。普段から物静かで目立たない私が、まさか自分を怒鳴りつけるとは思っていなかっただろう。そんなことは、私だって思っていなかった。


「いえ……な、なんでもありません。申し訳ございませんでした……」


 バカ丁寧に平謝りし、私は平静を取り繕った。先生はなおも怪訝そうな表情で、私をマジマジと眺めてきた。私はというと、顔から火が出るかと思うくらい恥ずかしくて、ひたすら自分の胸元を見つめ続けていた。



『いいからちゃんといいなよ。自分が本当は何をしたいのか』

(もう! お姉ちゃんは黙ってて!)


 胸の奥で姉が呆れたように声を出す。私は心の中で必死に姉に叫んだ。私の肺の中にすむ姉の声は、外には聞こえない。私の身体の中だけで響いていた。もう!『会話が混乱するから、人と喋ってる時は黙ってて』と、あれほど言っておいたのに!


「続けて大丈夫かい?」

『ちょっと落ち着いて考えましょうよ』

「もちろんです!」


 私は強めに言い切った。先生は若干引き気味に私を見つめてきたが、それでも進路相談を続けてくれた。どうやら上手く誤魔化せたみたいだ。私は中の姉ごと胸を撫で下ろした。


「高橋さん。今日は君と僕二人だけだ。親御さんもいない。だから遠慮なく意見を言って欲しい」

『そうだよホラ、胸を借りて言っちゃいな有希ちゃん』

「二人だけ……そうですよね……」

 私は曖昧に笑って見せた。

「先生も色んな生徒を見てきた。自分の進みたい道を進める人、家庭の事情、金銭的な問題、学力の有無……色んな事情で、進みたくても進めない人」

『有希ちゃんならきっと大丈夫だよ。お姉ちゃんも見守ってあげる』

「……はい」


 窓から聞こえる生徒たちの声が、今度は随分と遠くに感じられた。私はますます頭がぼんやりとしてきた。


「高橋さん、あれは勉強合宿の七夕のイベントの時だったかな。君が胸を躍らせて夢を語っているのをね、先生は覚えているよ」

『あーあの時ね。短冊にちゃんと書いたよね有希ちゃんの夢』

「はい……え……? 書きましたっけ私……?」


 先生は柔らかい笑顔を浮かべたまま窓越しに遠くを見つめた。なんとも気恥ずかしくなるセリフだったが、今の私にはその時のことを思い出せなかった。そんなことあっただろうか。私の夢は誰にも言ってなかった気がする。親にも、先生にも、肺の中の姉にも、直接語り合ったことはない。書いたような、書いてないような……そんな恥ずかしいもの、自分の胸の中だけの秘密だった……はずだ。


「もちろん僕も無責任に背中を押したりしない。君には君の事情があることは分かってる。だけどこれだけは胸に刻んで欲しい。最後に自分の道を選ぶのは高橋さん、君なんだよ」

『自分だけで勝手に決めちゃって……ちゃんとお父さんたちとも相談しないと絶対後悔するよ?』

「……お姉ちゃんみたいに?」


 私はポツリと呟いた。胸の奥がチクリと痛んだ。

「……その通りだ。もう一度聞くよ。高橋さん、卒業後は就職するんだね?」

「……はい」

「そうか。ならいいんだ」


 そういって先生は開いていたノートをパタンと閉じた。

「今日はありがとう。それじゃあ、次に藤堂さんを呼んできてくれないか」

「はい」

 先生が優しく私に声をかけた。窓から聞こえてくる楽しげな声にくるりと背を向け、私はドアに手をかけた。


「先生」


ドアを開ける前に、私は思い切って尋ねた。


「どうした?」

「お姉ちゃんは幸せだったと思いますか?」

「………そうだな……」


 表情を一瞬暗く翳らせ、先生は答えた。


「移植のことは、事故が起こる前から君のお姉さん自身が自分で決めたことだ。僕や君が負い目を感じることじゃない。そして、そんな彼女と結婚できた私は、とても幸せだよ」

「そうですか。……それならいいんです」


 私は先生の目を……かつて姉だった目を……見つめながら静かに微笑んで踵を返した。ドアを開けると、いい加減見飽きたはずの、いつもの日常が待っていた。しばらく外の空気を吸ってなかったような気がして、私は廊下で立ち止まり、思わず深呼吸した。



 何だか胸がスーっと軽くなってくような気がした。

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