彼と毒薬
困った。
外はいい天気だ。急な来客でもなければ、きっと目的もなくふらりと出かけていただろう。
…困った。
先程から迷うように、チラチラとこちらを伺う様子の彼女。
恐らく、『男色と女装のススメ』とやらに、俺が無視を決め込んだものだから、彼女なりの謝罪にでも来たのだろう。
………それはともかくとして、だ。
幼馴染の気安さで、彼女がこの部屋を訪れるのはこれが初めてではない。
学園に通うようになってからは、昔のようにお互いの家を行き来せずとも顔を合わせるので、ここに来るのは久しぶりではあるが。
ただ、だからと言って侍女も連れず、婚約中とは言え未婚の女性が相手の部屋に上がりこむなど。
知らず、ため息が漏れる。
先触れもなく、突然ひとりで押しかけて来て。
こちらの執事が気を遣って給仕の侍女をひとり寄越してくれたから良いようなものの、しかしその侍女も今は扉脇で、常ならぬ俺たちの様子にハラハラと心配顔だ。
「……せっかくあなたの好きなお菓子を持ってきたのに、喜んでくれないの?」
こちらの心配をよそにそう言われて、後で食べるよ、とついそっけない返事をしてしまう。
彼女が眉を下げて、かなしそうな顔をするのが視界の隅に映る。
会えて嬉しいのに。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
供も連れずにやって来て、彼女からの信頼を喜ぶ気持ちと、それじゃ困る、という気持ちと。
…また、だ。
ここ最近、ずっとこうだ。
俺は一体、どうしたいんだろう。
幼馴染としての心地よい距離感と、彼女にちゃんと異性として見てもらいたい欲のバランスが、取れない。
だから、なのだろう。
俺がどっちつかずだから、彼女も男色だの女装だの、訳のわからないことを言って、彼女なりに今の俺たちの距離感を測ろうとしているのだろう。
きっと、無意識に。
なら、悪いのは、俺じゃないか。
そう、分かっているのに。
侍女に目配せをして、下がるよう伝える。
こちらの様子を伺っていたからであろう、ホッとした様子で一礼し、けれど扉は開けたまま、廊下の奥へ姿を消す。
そこまで確認して、扉からは見えない位置、彼女をちょうど影に隠すような位置に移動する。
「レティ」
心細げな顔でこちらを見上げて来る彼女の、頭をひと撫で。
相変わらず慣れないのか、くすぐったそうな顔をされる。
彼女に触れるたび、触れた場所から何かに侵食されたような気分を味わう。
ゆっくりと、じわじわと、引き返せなくなる。
「レティは、お菓子食べた?」
「食べないわ。あなた用で持って来たのだもの」
なるほど、来たとき最初に渡された手土産は、俺の好物のビターチョコレートのようだ。
彼女が好きなのは、どちらかと言えば甘めの菓子類だったから、気を遣ってくれたのだろう。
「そうか、…たまには食べてみればいいのに」
「だって、苦いのだもの…」
てっきり自分が食べたいものを持って来たのかと思っていたので、渡されてすぐ移し替えて出すよう指示したが…髪に触れる手はそのままに、もう片方の手で、チョコをひとくち摘む。
うん、美味しい。
横目で彼女を見て、その口元に視線が引き寄せられる。
この間初めて触れた、その場所。
「ほら、美味しいから」
気づけば、そんな言葉が、口をついて出た。
彼女の目の前に、チョコを差し出す。
返事はない。
「俺のご機嫌伺いに来てくれたんだろう?…それなら、これで仲直りだ」
そう言われては断れないのか、渋々、口を開いたところにひとつ、放り込む。
「………」
「渋い顔だな、やっぱり好きじゃない?」
食べ慣れないのだろうその味を、神妙な顔をしてモグモグとする様が可愛らしくて、つい頰が緩む。
コクン、と頷く、その無防備さ。
ダメだ、と頭の隅で警鐘が鳴る。
気にするな、と誰かが囁く。
「…俺が食べるから、返して」
「っ…」
迷ったのは、ほんの一瞬。
触りたい。触りたい。触りたい。
抗えなくて、後先考えずに口付ける。
歯列を、上顎を、舌を。
無我夢中だったこの間と異なり、幾分かの余裕があるのか、彼女の反応を見ながら口の中を蹂躙する。
数週間ぶりに触れたそこは、やっぱり甘くて。
後悔しながらそれでもこの行為をやめられない自分と、歓喜する自分とがいて。
まるで、毒を浴びているような、薬を与えられているような。
どっちなのか最早分からない。
「…っ、は……っ…」
苦しそうな声。
俺の中に凝る熱が、毒が、いっそ彼女を侵してしまえばいいのに。
そんな薄ら寒いことを思う。
「…溶けてしまったな」
口の中に残っていた欠片をすっかり舐めとって、放心している彼女のの頰を、唇を、指先でなぞる。
その瞳に映るのは、混乱と、不安。
「あなた、ルパート、よね…?」
震える声で、そう聞かれる。
「…そうだよ、俺の可愛い婚約者さま」
露悪的な態度に見えるよう、肩をすくめて、わざとからかうような返事をする。
たった今まで触れていたのに、また触りたい。まだ触りたい。
足りない。足りない。もっと、と。
まるで、甘い毒薬だ。
「か、える……」
ふらふらと立ち上がる彼女。
「…大丈夫か?」
…大丈夫なわけ、ないか。
気休めにもならない言葉をかける俺は、さぞかし酷い人間に見えることだろう。
今にも泣き出しそうに潤むアメジスト。
そうさせたのは、自分だ。分かっている。
好きだよとか、愛してるよとか、言ってみればいいんだろうか。
それで、彼女に伝わるだろうか。
首を振って、弱々しく両手で俺を押しのけるような仕草。
けれどそれで俺が動くはずもなく。
当たり前だ。
力も、体格も、何もかもが、俺と彼女じゃ違うのだから。
だから、こんな不用意に、自分のことしか考えられないような男の前で無防備になるべきじゃないのだ。
「…レティ」
胸に押し当てられたままの彼女の両手を、ゆっくりと引き離す。
「今度来るときは、ちゃんと侍女を連れてくるんだ、…いいな?」
今日みたいにまた悪戯されたくないのなら、と耳元で囁けば、どう受け取ったのか、彼女の頰に朱が差す。
「今度なんて、ないもの…っ」
気丈にも睨んで言い返してくる姿に、思わず苦笑する。
悪戯?
そんなわけがない。
今までの無垢な信頼を壊してでも、彼女に触れたい。
そう自覚してしまったら、箍なんて、外れっぱなしだ。
これ以上、ここに居させてはいけない。
「帰るのなら、あっちだ。…まあ、知っているだろうけど」
開け放たれたままの扉を指し示す。
すれ違いざま、ふわりと金髪が揺れるのをつい触りそうになって、ぐ、と拳を握る。
彼女の居なくなった部屋で、残されたチョコに手を伸ばす。
口にしたそれは、いつになく苦い味がした。