彼の体温
背中まで波打つ髪は、緩く巻いてただ流すに任せる。
ドレスは瞳の色に合わせた紫に、白のコントラストが映えたものを。
剥き出しの肩の、けれど首元は紗のかかった生地で覆い、それをさらに豪奢な首飾りで隠すように。
頭には、結局今日まで訪れのなかった彼から、昨日になって謝罪のカードとともに送られてきた、花を模した紫に、金の螺鈿が美しい飾りを添えて。
そうして侍女の手によって丹念に化粧を施されれば、あとはもう不実なエスコート役の訪れを待つばかりであった。
正直なところを言えば、まったく気乗りしない。
夜会も茶会も、マナーにがんじがらめになって、とにかく疲れるばかりなのだから。
必要以上に目を合わせてはいけない。
口を開けて笑ってはいけない。
自分から踊りに誘ってはいけない。
みだりに異性に触れてはいけない。
食事もダンスも、ないない尽くしで窒息しそう。
けれど。
つと、薄紅を引かれた唇に手をやる。
…口寂しい、という言葉の意味が最近わかるようになったのはなぜだろう。
チョコではない、何かを。
私はどうして欲しがるのだろう。
やがて、お嬢様、と呼びかけられ、待ち人が来たことを知る。
頷いて階下に向かえば、いつもは無造作に流した黒髪を夜会向きに撫で付け、髪の色と揃いのタキシードに身を包んだ彼。
なぜか目を逸らされるのにムッとしながらも、手を差し出す。
…ちり、と指先が触れる瞬間感じる熱。
考えてみれば、1ヶ月ぶりだ。
会うのも、触れるのも。
そのまま手を引かれて、馬車の中へ。
私と彼だけを乗せて、王宮へと進んでゆく。
「…約束を破って、悪かった」
バツが悪そうに、唐突な謝罪を寄越されて、
「うそつき」
ポロリと悪態が口をつく。
本当は、会えない間、色々考えていた。
婚約が決まった時のことだ。
私にとって、彼と婚約するということは、気心知れた相手と、彼と、この先も変わらない関係を継続していくことにほかならなかった。
私が淑女らしからぬ言動をしても、変わらず隣にいてくれること。
束縛されず、かといって野放しにするわけでもない、程よいその距離。
成人した男女が、幼い頃のままの付き合いを続けるのは難しいと両親から説き伏せられた結果の提案が、婚約者、という肩書きだった。
隣にいることに、彼が他者から眉を顰められずにいること。
それが婚姻ひとつで保証されるなら、それで良かった。
でも、そうじゃないのだと。
幼馴染であることよりも、婚約者であることを強調されるようになったのは、最初にキスをされてからだ。
頰への口づけは、親愛を。
唇への口づけは、……愛情を。
「…最初から約束を違えるつもりでいたわけじゃない」
私の詰る口調に反応してか、参ったな、という風に、もごもごと反論される。
「ただ、なんていうか、タイミングが掴めなくて」
「贈り物、…ありがとう」
言い訳を聞きたくなくて、半ば遮るように話題を変える。
今夜つけた、髪飾り。
あぁ、うん、としばらく視線を彷徨わせ、ひと呼吸おいてから、似合ってる、と言われる。
「…ご機嫌伺いの方法はちゃんと考えてきたんでしょ?」
いつかのやりとりを揶揄するように意地悪な言い方をすれば、彼もそれを思い出したのだろう、ふ、と笑われる。
「あいにく、チョコは持ってこなかった」
「そう」
ぷい、とそっぽを向く。
別に、それが欲しいわけじゃない。
欲しいのは、もっと、別のーーー
そう思っていると、行儀よく膝に乗せていた右手を取られる。
そのまま、
チクリ、と。
火傷したような痛み。
「ぃ…っ」
彼の口元に運ばれ、手のひらにほど近い手首の皮を、吸い上げられる。
握られた手首と、触れる舌先の熱さ。
私よりも、ほんの少し高い体温。
ずっと昔からよく知ってる、男の子のままだと、思ってた。
性別が違うだけだと、成長しても何かが変わることなど特にないと、思ってた。
そうじゃない。
温かくて、熱くて、溶かされてしまう。
もう、わからないじゃ済まされない。
しばらくして、名残惜しむように軽く舌先を這わされ、ようやく手を解放される。
熱さを、私の手元に残したまま。
「チョコの代わりにはならないけど」
「…うん」
「せっかくの紅が剥げるのも勿体無いし」
「…そうね」
「それで、ご機嫌は?」
「…悪くないわ」
そっか、よかった、と、口元を押さえて、なぜか視線を逸らしたままで返事が返ってくる。
目を伏せたまま、手首の赤い刻印をじっと見つめる。
王宮へは、じきに到着するだろう。
小さな嘘をついた。
本当は、キスがほしかった。
それはきっと。




