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おやすみ、ジャンヌ

作者: 四境

なろうにあげる、二作品目の小説です。

今回も楽しんで書かせていただきました!



「ふぁーあ……」

鳥がさえずる心地の良い朝。

出窓から朝日が差し込む少女の朝は、間の抜けた大きな欠伸から始まる。

少女の名前はジャンヌ。赤みがかった髪の女の子だ。

「大変!」

ジャンヌは壁にかけられた赤い屋根のついた時計の短針を翠色の大きな瞳で確認すると、寝ぼけ眼を見開き、絡みつくシーツを体から剥ぎ取ってベッドから飛び降りた。

勢いよく寝巻きを脱いで、紫がかった黒いトップスとワンピースに着替える。

スカートの裾がふわりと膨れ上がるのをぱたぱた抑えて空気を抜く。

鏡の前に立ってボサボサの髪の毛を強引に櫛で整えて、大きなつばの広いとんがり帽子でぎゅっと押さえ込んだ。

皮と布でできた小さなカバンに、床に散らばったプリントを無理矢理詰め込んで、急な階段ともハシゴともつかない段差を駆け下りた。

木の板の廊下をどたどたいわせながら走る。

流し台で顔を洗ってから、ジャンヌがダイニングに顔を出すと、人とぶつかりそうになった。

「エヴァお姉ちゃん、おはよう!」

「あらジャンヌ、おはよう」

少し驚いたような声、ジャンヌよりも背は高く目つきも鋭いが、赤い髪の輝きはジャンヌと同じだ。

ちょうど姉のエヴァが食事を終えたところだった。

姉はいたずらっぽい笑みを浮かべてクスクス笑った。

「今日もお寝坊ね?」

「寝坊ってわかってるならどうして起こしてくれなかったのー!?」

食ってかかるようにぐいと顔を近づけるジャンヌの顔を撫でながら押しやって、エヴァは廊下に出た。

「あまりにも気持ち良さそうに寝ていたんだもの。じゃ、私は出るから早く用意しなさいね」

カバンを脇に抱えて、玄関にかけられていたジャンヌと同じような帽子をかぶって、エヴァは家から出て行った。

エヴァはジャンヌよりも三つ年上で、ジャンヌの追いかける背中の一つだ。優秀な姉は妹であるジャンヌをかわいがってくれるが、ジャンヌには彼女の優秀過ぎる存在が時おりコンプレックス――もちろん尊敬しているし、大好きではあるが――に感じられるのだった。

ジャンヌはそんな姉の後ろ姿を見ていたが、そんな場合ではないことに気づいて、今度こそダイニングに入る。


四人掛けのダイニングテーブルの上にはすでに朝食が並んでいた。

料理以外にも、父が何かを作っていたのか机の端に紙や布の切れ端が置かれている。何かの作業を中断した跡だ。

母は……いなかった。

今朝も早くに家を出ていったのだろう。それとも家にすら帰ってきていないのだろうか。

母はジャンヌが起きるより早くに家を出て、ジャンヌが寝てから帰ってくることが普通だった。

父は早起きして母を見送っているらしいが、ジャンヌは母を見送ったことあんあてしばらくなかった。


「お父さんおはよう!」

奥のキッチンに向かって挨拶をすると、入り口にかけられたカーテンを押し上げて父がぬっと顔を出した。

その顔は不安っぽくて、ジャンヌはしまった、と口に手を当てて気付く。

「いいから早く食べて行きなさい。毎日寝坊していることを母さんが知ったらまた呆れられるぞ」

腕を組んで呆れたように口を開く。

父はこうなるとお小言が止まらない。

体は大きい分、小言もたくさんその中に収納されているようだった。


そんなに言うのなら、起こしてくれたっていいのに。

頭の中でそんなことを思いながら、父の小言を背中に、席について食事を取り始めようとする。

すると父が隣にやってきて、ジャンヌのかぶっている大きな帽子を取り外した。

「いくら寝癖がひどいからって、食事中に帽子をかぶってちゃダメだ」

帽子の存在を忘れていたことにジャンヌも気づいて、少し笑いながら言い訳はせずに今度こそ食事を始める。

父はそれを見てまた呆れながらも、食事の邪魔にならない程度に気を使いながら愛娘の乱れた髪を整え始めた。

「お母さんはいつ出たの?」

「ジャンヌが起きるより一時間も前に仕事に行ったよ」

「……そっか」

朝食を口に運びながら、ジャンヌは残念そうに小さく呟いた。


朝食はジューシーなベーコンと半熟の目玉焼きの乗ったトーストだ。

出来立てのモーニングからはとめどなく湯気が登り、香ばしい匂いが部屋を包んでいた。

父の料理は素朴なものが多いが、腕は間違いなく一級品だ。

ベーコンの焼き加減も、目玉焼きの黄身の半熟さも、誰が作るよりも父のものが美味しいとジャンヌは信じて疑わなかった。

だが今はとにかく、時間が無い。

そのモーニングを急いでもぐもぐ頬張り、ゆっくり味わいたい気分や時間と格闘しながら平らげる。

コップの牛乳を飲み干すと、ジャンヌは席を立った。


頭に触れると、その時には髪の毛の乱れも随分マシになっていた。

急いで歯を磨いて、もう一度帽子をかぶりなおす。

机の上に置かれた父お手製のお弁当セットの袋をつかみ、ちらっと中身を確認して(サンドイッチだ)、カバンに入れる。

玄関でもう一度鏡で服装を確認していると、後ろから声がかけられた。

「行ってらっしゃい。気をつけてな」

父が腕を組んで頷いた。ジャンヌもそれに頷いて、大きく返事をした。

「うん!お弁当ありがとう!行ってきます!」









朝の空気はまだ寒く、陽射しに照らされてようやく温かみを感じられる時分。

二階建てのレンガ造りの自宅の玄関から飛び出て、ジャンヌが真っ先にするのは、箒立てに立てかけられた箒を掴むこと。

姉も母も外出しているので今は数が少ない。スペアも合わせて三本ほどしかなかった。

数本の箒の中から自分の箒を探して先に付いたゴミを払ってからそれに跨る。

そして両手で箒の先をしっかりつかんだ。


「行ってきます!」

少し力を込めて念じると、ふわりと体が浮き上がった。

深く暗い紫の服のスカートの裾がまた風をはらんで膨れ上がる。

片手を離し帽子をもう一度深くかぶりなおすと、箒の柄の先をぐぐと持ち上げた。

途端に体がふわりと上空へ舞い上がる、さらに体を前傾にするとスピード前へ進み始めた。


「遅刻しちゃう!」

できる限りのスピードを出して、全力で空を駆ける。

右方にも左方にも、空を飛ぶ影は鳥の群れ以外に何も見えなかった。通学の時間はとっくに過ぎている。こんな時間に空を飛んでいるのは遅刻確定の者だけだ。

目的地は学校。学校は街から離れた山の中にあった。

“閉じられた狭い世界の中”とは言え、学校に行くのにも十数分かかってしまう。

世界の外へ仕事に行く優秀な人間たち――母を含めた素晴らしい魔法使いたち――を思い浮かべ、こんな遅刻を繰り返しているようではそれら憧れの存在にさえ追いつけないなと唸る。

どれだけ早くに寝ても、目覚ましの設定時間よりもたっぷり寝てしまうのは最早自分の身体の仕様としか思えなかった。

出来るだけのスピードを出して、ジャンヌは学校へ向かう。


遅刻の言い訳を考えているうちに、すぐに学校が見えてきた。

豊かな自然の中、山の上を切り崩した台地の上に建てられた校舎は、本で見た外の世界の学校――まるでお城のようなあんな学校――程は大きくない。

ほとんどが二階まで、一部が三階建ての中規模の建物だ。

山の中に建てた理由はよく分からなかったが、初代校長がかなりの変わり者だったからこんなところに建てたとよく言われていた。

もっと街の近くに建ててくれたら朝もこんなに急がなくて済むのに、とジャンヌはしょっちゅう思っていた。


近くまで来ると始業の鐘――校舎の三階のさらに上に取り付けられた大きな鐘だ――が鳴ってしまった。

これが鳴ると、出席が取られ始める。

急いで校門の近くに降り立つ。できれば校舎の近くまで行きたかったが、学校の敷地内では授業外での魔法類(もちろん箒にかける魔法も)の使用は原則禁止だ。

いくら急いでいても校則まで破るつもりはない。

箒を担いで、青々とした芝生広がる広場の真ん中を校舎まで抜けるレンガ道をせっせと走って、建物に入る。

「大変大変……」

口の中でぱたぱた呟いて、小走りで廊下を駆ける。

通り過ぎた高等部の校舎、教室から先生の出席を取る声が聞こえてくる。

と、なるときっと今頃は初等部のジャンヌの教室でも同じように出席がとられている最中だろう。

この街にたった一つだけの学校だから人数が少し多いとはいえ、その分クラスも幾つかに分かれているし、出席なんてあっという間に終わってしまうのだ。


中等部の校舎を越えて、初等部の棟に入る。いつのまにか全力疾走だった。

校内は相変わらず人影一つなく、山の中の朝らしく恐ろしく静かだ。

廊下を曲がり、初等部の一番奥、ようやく教室が見えてきた。

ジャンヌが教室に滑り込むと、魔女帽をかぶり、外套を羽織ったMs.ピアットがちょうど名簿を閉じたところだった。

――しまったぁ。

あちゃあと頭に手を当てる。

クラスメイトの残酷な視線が一斉にジャンヌに注がれて、そして一瞬のうちに笑いの渦が巻き起こる。

絵に描いたような爆笑だった。

「ジャンヌがまた遅刻した!」「遅刻魔ジャンヌ!」

クラスの男子たちが入り口で突っ立っているジャンヌを指差して笑う。

自業自得とはいえ、本当に恥ずかしかった。顔を真っ赤にして俯く。

毎度毎度、遅刻する度に笑われるのはたまったもんじゃない。

遅刻しないように気をつければいいと言われたらそこまでだが。


そうしているとMs.ピアットが少し神経質そうな眉を吊り上げて、呆れた顔で教室の入り口のジャンヌを手招きした。

「ほら、キャラウェイさん、席について。最近遅刻が多いですよ。これが続くようでは来年中等部に上がれません。気をつけるように」

中等部に上がれない!時折あるテストの落第こそあれ、進級不可の落第のないこの学校で、そんなことは起こり得ないと分かってはいても、そう聞くだけで背筋がヒヤッとする。

ジャンヌはクラスメイトたちの笑い声を受けながら、先生の言葉に素直に頷いて、教室の後ろの棚に、箒とかぶっていた魔女帽を素早く乱雑に突っ込んで、自分の席についた。


笑い者にはされたが、間に合ったのには間違いない。

学校に来る一番大事な目的の、授業内容を聞き逃さずに済んだのは幸いだった。

『授業は絶対に何かの役に立つから、きちんと聞いておくこと!』

前に聞いた母の言葉が蘇る。

カバンから教科書や授業で使用するアレコレを取り出して、カバンを足元に置く。

コホン、とMs.ピアットが咳払いをした。

クラスメイトが一斉に教科書をパラパラめくる音がする。

ジャンヌは今度こそ他に遅れないように、教科書を開いた。

「では、今日の授業を始めます。教科書の四十五ページを開いて……」









受けられたのはいいが、今日の授業はどれも散々たる有様だった。

一時限目の魔術の歴史ではMs.ピアットに問題を当てられて、マトモに答えることができなかった。炎魔法の基礎を固めた人物の名前なんて覚えているわけがなかった。

二時限目の数字学は、宿題を昨日途中で放っぽり出していたことを忘れていて、授業前に気付いたのはいいものの結局提出に間に合わなかった。

三時限目の屋外授業の箒の取り扱いだけはなかなか楽しかったが、楽しかったのはその一時限だけである。

四時限目の薬学演習の実験では、白い煙が出るはずの反応実験で黒い綿あめみたいなものが出来るなんていう大失敗に終わったし、五時限目の魔法基礎学に至っては、突如襲ってきた眠気(毎日あれだけ寝ているのに、おかしなことである)に負けて、最後には先生に教科書の角で頭を叩かれて起こされるといった有様だ。

『授業をちゃんと聞く』、母の教えを守りきれなかった残念さと、自分の意志の弱さには我ながら呆れる。コツンと叩かれた頭を抑えてうーんと唸る。

それに失敗する度に笑われて、すっかり気が滅入ってしまっていた。


今日は普段よりもずっと酷いことが続いた、ジャンヌはため息をつく。

いつもなら遅刻するだけなのに、今日はやけに悪いこと続きだ。

昼食のお弁当のサンドイッチは美味しかったけど……ジャンヌは空の弁当袋をいじりながらランチを思い返した。

ハムとマヨネーズのハーモニー、卵とパンの調和……。

思い出すだけでお腹が鳴りそうだ。

「じゃーなージャンヌ!」

夢想中、挨拶されて、ハッとなって手を振り返す。

男子。朝は指差して笑ってたくせに、と内心不満を漏らしたが、ここはオトナになっておく。


「ハァイ」

ジャンヌが荷物をまとめながら、帰る準備をしていると、 クラスメイトの女の子がジャンヌに声をかけた。

初等部に入ってから三年連続で同じクラスになっているルミアだ。

タレ目でまつ毛が長くいつも眠そうに見え、髪はチョコレートを湯煎で溶かしたようななめらかっで深い茶髪で肩にかかるぐらいの長さ、身長はジャンヌと同じくらいで高くはない。

一見気弱そうな顔だが、その顔に似合わないぐらい快活で明快(でもちょっと面倒くさがりで適当)な性格が、ジャンヌは好きだった。

ジャンヌはカバンに教科書を詰め込む作業の手を止めて、ハイと返事をした。

「ジャンヌ、この後用事ある?」

「今日は別にないけど……」

黒板のうえに取り付けられた壁時計を確認する。

午後四時前、大した用事もない。

「新しい雑貨屋が出来たの、ジャンヌも知ってる?」

「うん、知ってる。アルパートお婆さんの薬屋の隣の空き地に新しく建てられたところだよね!」

使い古された魔法具の不法投棄とかなんとかで、少し前に話題になっていた空き地に、魔法であっという間に建物が生えたのは最近のことだった。

最近夕飯の食卓でも、父と姉と話題にしたことは記憶に新しい。


「その雑貨屋さんがどうかしたの?」

ジャンヌが尋ねると、ルミアはニヤッと笑ってジャンヌに耳を貸すように促した。

その通り耳を預ける。ルミアは耳元で小さな声で耳打ちする。

「その雑貨屋さん、うちのお母さんがやってるの」

言い終えて、少し恥ずかしそうに頭をかくルミアを見て、「ええ?!」と驚く。

まさかあの新しいお店が、夕食の時に話題に出たあのお店が友だちの親が開いたお店だったなんて。

エヴァがとてもその店に興味を持っていたし、ジャンヌも少し気になっていた。

詳しいことは知らなかったが、あまりお店が潰れたりしない分、新しいお店なんかが出来ることは相当珍しく、かなりいろんな場所で話題になる。

ふと最近のことを思い返すと、休み時間の教室で新しいお店が出来るらしいとその雑貨屋の話になった時、ルミアが少しむず痒そうにしていたことがあった。

ああ、言いたいのを我慢していたんだなと今ようやく気付けた。


「よかったら、一緒についてきてくれない?今日開店でさ。お母さんの様子見たいから、ちょっとついて来て欲しいんよ」

ルミアはお願い、と言って手を合わせた。

あまり遅くなると父が心配するだろうからあまり長居は出来ないが、少し顔を覗かせるぐらいなら大丈夫だろう。

……寄り道して帰ってきたとなったら父はまた困った顔をするだろうか。

あまり困らせたくはないが、悪いところに行くわけでもないし、むしろちゃんとした大人のいる場所だし、多分大丈夫……。

ジャンヌは自分に言い聞かせて、好奇心のまま頷いた。

「……うん、いいよ」

「よかった!じゃ、行こう」

がしっと腕を掴まれる。

気弱そうな顔の割に、少し強引なところがあるのがこの子だった。

ぐいぐい引っ張られながら苦笑する。

カバンは持てたものの、頭の上が寂しい。お気に入りの箒もまだ教室の後ろの棚の中だ。

「ちょっと待ってまだ私箒と帽子とってない!」

「行くよー」









初等部の授業が終わる時間は、中等部高等部に比べると随分早い。

来年にはジャンヌも中等部に進学する。

それを考えると少しだけ憂鬱になるので、あまり考えたくはなかったが、最近では学校が終わって自分より年下の生徒たちが横を駆け抜けていくのを見ると、それを考えずにはいられなくなるのだ。

来年は中等部、来年は中等部……。

中等部に入ると勉強が一気に難しくなって、先生もかなり厳しくなるとは初等部のジャンヌのクラスの専らの噂だ。

姉のエヴァは弱音を吐いてはいないが、それは姉が優秀だからで……ジャンヌがぐるぐる考えていると、またルミアに腕を引っ張られた。


空の黄色はかなり西に傾き、世界は橙と赤に染まっていく。

橙と赤に空の青が混ざり合い、解けていく景色はいつまでも眺められるほど美しい。

ルミアと共に箒に跨り、たわいもないお喋りをしながら、街へ向かう。

行き道は急いでも急いでもなかなか目的地に着かなかったのに、帰り道は随分進むのが早く感じられた。


商業通りは、様々な店が立ち並ぶ商店街のような通りだ。

魔導書の専門書店や、お婆さんが一人で営む薬屋、精霊との契約を斡旋する契約所など様々だ。

もちろんパン屋だとか、青果店だとか、そういった魔法使いや魔女に大きくは関係のないお店も並んでいる。

ちなみにジャンヌの家は、商業通りよりもずっと向こうの住宅街の中の一軒家にあるので、学校からある程度離れたこの場所まで来ても、自宅まではまだ少し離れていた。


箒通りも人通りも多いのが、この夕方の時間帯だ。

食料店なんかはこの時間は更にごった返しているだろう。

「よっと」

二人は人にぶつからないように箒から降りた。

箒を片手に持って、先を走るルミアについて行く。


本当に人通りが多かった。

立ち止まれば必ず誰かの邪魔になってしまう。

基本的に学校が終わったら直帰するのがここ最近の習慣だったので、この時間帯に街の中をうろつくのはかなり久しぶりだ。

最後に来たのは、父と一緒に買い物に来て以来だろうか?


「ここだよ!」

そう言って指差したルミアの指先を視線で辿ると、こじんまりした建物が、そこに建っていた。

二階建てで、水色に塗られた壁のかわいらしい建物だ。

窓の周りやドアの周り、壁の端っこは白く縁取られていて、屋根の色は赤色。

窓の中からは黄色っぽい優しい色が見えている。

肝心の客足は、子どもであるジャンヌから見てもそこそこの来客数のようだった。

お客さんが出たり入ったり、物珍しい目で店に入って、店から出てくる人はせっかくだからといったところだろうか、ほとんどみんな揃って何か大小様々な包みを持っているのだった。


ルミアがカラコロとドアチャイムを鳴らして白いドアを開け、中に入る。

ドアが閉まる前にジャンヌもそれに続いた。

さすが開店初日プラス仕事終わりな時間だけあって、店内にも人が多い。

そこまで広くない店なのに、これだとキャパオーバーだ。

開店初期の一過性のものとはいえ、人が多すぎるのも考えものだとジャンヌは人の後ろを通り抜けながら思った。


お店の商品もちらちら見てみる。

お店の外側の壁は水色だったが、内側は白い壁紙が貼られていた。

電気は黄色っぽい光に統一されていて、なんだか眠気を誘うような落ち着いた雰囲気だ。

部屋の中にポンと置いておけるような小物がメインのようだ。

小さな建物の模型だとか、クマの小柄なぬいぐるみだとか。鉄製のミシンの形の置物とか、スノードームなんかも置いてある。

天井からも、モビールだとか鉢に入った観葉植物だとか、いろいろなものが吊り下がっている。銀のお皿や銀のカトラリーなどのちょっと値が張りそうな食器も目に入った。


思っている以上に色々なものが置いてあるようだった。

ザ・雑貨屋といった感じだが、でも何処かに統一感があって安っぽさは感じなかった。

開店から数時間は経っているし、商品棚にいくつか空きがみられるところからして、すでにいくつか商品が売れてしまっているんだろう。

もっと早くに来て他にどんな商品があるのか一通り確かめておきたかった、とジャンヌは少し後悔した。


「ジャンヌ!」

こっちこっちと呼ばれた方へ、人の間を通り抜けていくと、ルミアと目元がよく似た背の高い女性――言わずもがなルミアの母親だ――がそこにいた。

彼女はレジのカウンターから丁度出てきたところだった。

「あらジャンヌちゃん、久しぶりね」

ルミアの母親と会うのは初めてではなかった。

何度か一緒に遊んでいるので、その時にお互いに顔を知っている。

それでも顔をあわせるのはかなり久しぶりだった。ジャンヌは頭を下げて挨拶した。

「ルミアのお母さん、お久しぶりです!」

「一人でくるのちょっと心細かったし、頼んでついてきてもらったんよ」

ルミアがそう言うと、ルミアの母は深々とお辞儀して礼を言った。

「いつも遊んであげてくれてありがとうね」

「いえいえ、私もいつもルミアにお世話になってます!」

大人の相手は得意だ。ジャンヌは丁寧に対応した。

ルミアは二人の会話にむず痒そうにしていたが、いよいよ耐えきれなくなって間に割って入った。

「ちょっとちょっと、二人で盛り上がらないでよ!」

「あはは、ごめんごめん」

ジャンヌが笑っていると、ルミアの母親がレジの裏に回って、何かを取り出した。

そして「こんなものしかないんだけど、ごめんね」と言って、小さな包みを渡した。

中身を確認していいか尋ねてから、袋を開けてみると、色とりどりの飴玉が入っていた。

赤や黄色がキラキラ光るガラス玉みたいで、ジャンヌは嬉しくなった。

「そんな、でも悪いです」

「いいから貰っといてよ。ここまでついてきてくれたんだし」

へへ、と顔に似合わない笑い方で言った。

これ以上遠慮すると逆に失礼になる、ジャンヌはもう一度お礼を言ってそれを大事にカバンにしまった。


「で、ルミア。今日の授業はどうだったの?」

「んー、別に何も。授業は何もなかったけど、お母さんのお弁当は美味しかったよ」

「あら、そんなこと言うなんてめずらしいわ」

「たまには言っとこうと思ったんよ……たまにはね」

「なによー、それ」

ジャンヌは、目の前で緩やかに流れる二人の会話を眺めていた。

母と、娘。母と娘、面と向かった会話。

一瞬、二人のことが、羨ましいと思った。

最近の自分には母ときちんと話す時間なんてそうそうなかった。聞いてもらいたい話がいくらでもある。聞きたい話だって同じぐらいあるだろう。

仕方ないのだ。母は仕事で忙しい。それ以上何もなかったけれど。


ふと、ふとまた、母の言葉が頭をよぎる。

『ごめんね、お母さん、忙しくて。お弁当一つも作ってあげられないなんて』

今度の言葉はひどく重い言葉だった。

父の弁当が嫌だったわけじゃない、母にどうしても弁当を作ってもらいたかったわけでもない。

ただ、なんとなく尋ねた言葉。あの言葉はどれだけ母を傷付けてしまったのだろうか。

気丈な母の顔を、声を悲しく歪ませたのは、自分だった。


「少し、店の中見てきますね」

ジャンヌはルミアとルミアの母にそう言った。

「あら、ゆっくりしていってね。なにか欲しいものあったら教えてね。ジャンヌちゃんだったら、おばさんちょっとだけ値引いてあげちゃうかも」

ルミアの母はニヤッと――この笑みの浮かべ方もルミアそっくりだった!――笑った。

ルミアに軽く手を振って、ルミアが怪訝な顔をするのも気に留めず。

「飴、ありがとうございました!」

ぺこっと頭を下げて、背の高い大人の客たちの中に入る。

ぐるっと店の中を一回周ってから、二人がこちらを見ていないことを確認して、店を出た。


……普段なら、きちんと挨拶して帰るところだった。

いけないと思った。黙って帰るなんてとても失礼なことだ。丁寧に良くしてくれて、お菓子までもらってしまって。

でもその時はそんな丁寧な気持ちになれなかったのだ。これ以上、あの親子の仲のいい会話を聞いていられなかった。

もう胸がいっぱいいっぱいだった。

ジャンヌを見守る太陽は眠そうにゆっくり傾いていく。









外に出て、しばらく箒で帰路を辿っていたが、考え事をしているうちに、急に地面を歩きたくなかった。

住宅がぽつぽつ並び、カボチャ畑やよく分からない野菜の畑が時おり姿を見せる。

ここまで来ると、街の中心でもないし、ましてやお店もほとんどないので人も箒も少ない。

ゆっくりと降下して、ふわっと足元から風が吹き上がり、地面に足をつける。

箒を逆さにして肩に寄りかけ、絵の部分を両手で持って道を歩く。

一度帽子を脱いで、赤い髪を整え直し、また帽子をかぶった。


この街は、魔法使いの街だ。

男性と女性のパワーバランスが均等、いや、少しだけ女性の立場の強い街である。

だから魔法使いの男性を指す言葉はないのに、女性を指す『魔女』という言葉だけがある。


ジャンヌの母は、魔女の中でもその筆頭だった。

今のこの街にいる偉大な魔女の中、上から数えた順で見たら必ず上位五本の指に挙げられるような素晴らしい魔女。

ジャンヌはそれがずっと自慢だった。そして今も自分の母を誇りに思っている。

だが、母が凄い魔女だということは、それだけ母は忙しくなるということの裏返しでもあった。

授業参観や箒レース大会には父が一人だけで来たし、日々のことで言えば朝食も夕食も一緒に食べることなんてほとんどない。

母はみんなが休日の日も外に出かけなければならないことが多かったから、一緒にどこかへ出掛けることも、ここ数ヶ月していない。

母がすごいからそうなるのだと、理解していたけれど、それでもジャンヌは……。


数年前のことだった。魔法学校初等部に入学したての頃、一度ふとお弁当のことを母に言ったことがある。

『今度はお母さんが私のお弁当作って欲しいな!』

その時に幼い少女の予想に反して母から返ってきたのは、彼女の涙だった。

『ごめんね、お母さん、忙しくて。お弁当一つも作ってあげられないなんて』

ジャンヌはその涙が衝撃的すぎて、それからは二度と母に“ワガママ”を言わないと誓った。

彼女は家族を愛していたが、いつだって仕事に纏わり付かれていた。

そのお母さんの頑張りは娘の私がしっかり支えてあげなくちゃ、なんて思った。

いろんなことで大変な母に、涙を流させるようなことはしちゃいけないとも。


少しだけ、泣きそうになる。考え始めると止まらなくなるのはいつものことだ。

今日の夕飯のことに思考をシフトしようとそう決めた。

ジャンヌは下唇をぎゅっと噛んで、ゆっくり歩いた。


「ジャンヌ?」

後ろから声がかけられた。

立ち止まって振り向くと、ちょうど姉のエヴァがゆっくりと箒から降り立つところだった。

「やっぱりジャンヌね」

小走りにジャンヌに近付いて、横に立つ。

同じようなデザインの魔女帽をかぶって、中等部の証の紋章を胸に当てている。

横に並んだエヴァは、妹の顔……妹の目を見て驚いた顔をした。

「あら、どうしたの?誰かに泣かされた?」

ジャンヌはギクッとして、急いで服の袖で目元を擦った。

涙が溜まっていたなんて。

母の事を考えて泣きそうになっていたなんて言えなかった。

「ち、違うわ、目にゴミが入っただけ」

「……そうなの。だから歩いてたのね」

姉は適当な口ぶりで、言ってもいないことまで都合良く納得すると、さっとジャンヌの手を握った。

「さ、帰りましょ」

そしてそう言って、ジャンヌの手を軽く引っ張った。

犬みたいに引っ張らないでよー、ジャンヌが言っても、エヴァは引く手を緩めない。

横に並んで顔を見ると、いたずらっぽい光を帯びた瞳と余裕のある笑みがあった。

全部見透かしているような顔だ。

でも深くは何も聞かないのが、その時のジャンヌにはとてもありがたかった。黙って手をつないだままでいる。


「ジャンヌ」

「なぁに、お姉ちゃん」

「今日の夕飯なんだと思う?」

「さあ、分からないわ。スパゲッティとか?」

「スパゲティ、いいわね。私もスパゲティ食べたいわ」

お父さんの作る料理だから何であれ美味しいことに違いはないなと、ジャンヌは思った。

多分、エヴァも同じように思っているだろう。

でもなんとなく、今日の夕飯はスパゲッティが出るような気がした。

根拠はないが、なんとなくそう思った。


「ジャンヌ」

「なあに、お姉ちゃん」

「今朝は授業に間に合ったの?」

「間に合ったよ」

「あら、良かったじゃない」

「……滑り込みで」

「間に合ったなら問題ないわ」

そう言ったのを聞いてに少し嬉しそうな顔をしたジャンヌの顔も見ずに、エヴァは笑いを堪えて付け足した。

私は遅刻しないけど。

お姉ちゃんのイジワル!ジャンヌは自分の細い腰に手を当てて頬を膨らませた。

エヴァは楽しそうにふふと笑った。


夕焼け。

神々しさのある黄色い空が頭上に広がる。

日は大きく傾き、地平線の彼方、遠くに見える山の向こうへ沈もうとしている。

空の青と太陽の赤のグラデーションも、終幕に近い。


隣を歩く姉の横顔を見る。

自分よりも背の高い姉の年齢を追い抜けると信じていたのは小さい頃の話だ。

でもいつまで経っても、三つ離れた年齢が縮まることはなくて、ジャンヌはガッカリした。

いつも姉は自分の先を行く、そして余裕のある笑みで振り返り、ジャンヌを手招きするのだ。

エヴァは追いつくべき背中で、憧れだった。

そしてエヴァはいつだって大人だった。

だからケンカが起きない。ジャンヌが姉に対して怒ったことも少なかったし、逆のことなんて思い出せもしない。

年齢の近い姉妹にしてはケンカがないのは、とても珍しいことだと気付いたのは、初等部に入ってしばらく、友だちのきょうだいの話をいくつか聞いてからのことだった。

そしてエヴァはいつだってジャンヌの味方だった。

困った時は必死で頼らなくとも、そっとそばに来てアドバイスをくれる。

それに甘いだけじゃない。突き放すところは突き放すし、一瞬勝手なように思えても、その突き放すことに意味があるのだと。不思議なことに昔からジャンヌには理解できた。


そして今も、ジャンヌはエヴァに救われているのだと気付いた。

特に何も言わないし、聞かない。たわいない会話を交わすだけ。

でも。一緒に歩いて帰ってくれる。

何も聞かずに、くだらない会話をして、一緒に横に並んで帰ってくれる。

大好きな母親のことで悩むのを、自然に頭から追い出すことが出来たのだ。

だからジャンヌは、そんなエヴァのことが大好きだった。


「お姉ちゃん」

「なあに、ジャンヌ」

「帰ったらトランプしようよ」

「あら、いいわよ」

でも宿題が終わってからね。

えー!?

せっかく頷いてくれた姉が付け足した言葉に小さく抗議しながら、ジャンヌは嬉しそうに笑った。

そして少しだけ強く姉の手を握った。









西の空に陽が沈む。

普段帰るよりも遅い時間だ、夕陽は今日最後の輝きを放とうと、眩しくオレンジを世界に魅せていた。

箒に乗って十分足らずの短い距離を、三十分近くかけて、二人は家に着いた。

住宅街の中でもそこそこの大きさの我が家。

それもこれも母のお陰でこんな家に住めている。

門をくぐり、芝生の広がる小さな庭の小道を歩き、ドアまで歩く。

でも家に入る前に、箒立てに箒を立てるのが先だ。

「…………」

箒の数は出て行く時と変わっていなかった。

スペアが二本、ほとんど使われない父の箒が一本。

ジャンヌは心の中で、ほんの少しだけガッカリした。

――今日も帰ってないか。

「お願い」

「はいよ」

エヴァの箒を受け取って、自分のと合わせて箒立てに立てる。

ドアの前のマットレスで、靴についた泥を払う。

エヴァが少しだけ重いドアを手前に開けて、ジャンヌはそこに潜り込んだ。


「ただいま!」「ただいまー」

姉妹が声を揃えて、家に上がる。

よく慣れた自分の家の匂いがした。

「ん?」

だが、何かがおかしかった。

姉妹は顔を見合わせる。

声が、聞こえた。

誰かが話す声。

誰の声だろう。

口を閉じて、耳をすます。

低い声は、父親だ。

そしてもう一つ、もう一つの声は……。


ジャンヌは魔女帽を脱ぎ捨てて、思わず廊下を駆けた。

エヴァも後を追いかける。

勢いよくリビングルームの扉を開ける。


「おかえり」

二人が部屋に入ると父が朗らかに笑って言った。

そして父はゆったりとした手つきで、二人の視線を誘導する。

ジャンヌは、顔を輝かせた。

エヴァも、驚いたように目をまん丸にした。

「おかえり、私の可愛い娘たち!!」

「お母さん!!」

両手を広げる母の細い腕の中に、ジャンヌが飛び込む。

ゆっくり近付いたエヴァも、母の腕にぎゅっと寄せられる。

二人の娘の深い抱擁、ジャンヌとエヴァの母親は、心底嬉しそうに目を閉じて、二人の娘の存在を感じていた。

「どうして今日はもう帰っているの!?」

「早くに仕事が済んだの、貴女達の顔が見たくて飛んで帰ってきちゃった」

ジャンヌの質問に、母は優しく答えると、頭をゆっくり撫でた。


「ソフィー、子ども達には先に手を洗わせようか」

父は咳払いして、固まったままの妻にそういった。

「あら!そうねレオンス。さ、二人とも、先に手を洗ってらっしゃい」

母、ソフィーは恥ずかしそうに笑うと二人を離して、背中を押した。

たくさん話したいことがあるし、たくさん聞きたいことがあるわと、そわそわしながら言った。

二人は何も言わず頷いて、部屋を出て行った。


「箒を隠しておいて正解だったわね」

「サプライズは成功だな」

両親は、二人の娘が部屋を出て行ったのを見計らって悪戯っぽく微笑み合った。









四人掛けの食卓が満席になるのはとても久しぶりのことだった。

白っぽいクリーム色のテーブルクロス。

湯気の立つお皿がそれぞれの前に置かれている。

太くて丸い麺と、赤いトマトソース。夕飯はミートスパゲティ……。

ジャンヌとエヴァは思わず顔を見合わせた。


「今日は私が全部作ったのよ!」

母は得意気にそう言って、フォークとスプーンを持った。

さぁ、食べましょう。

母が言うと、ジャンヌはフォークとスプーンを握る。

スプーンの上でフォークに麺を巻きつけて、父が口に放り込む。

「うん、美味しい」

「本当?よかったわ?二人はどう?」

エヴァも同じようにしてお上品にパスタを口に運んだ。

モグモグ噛んで飲み込んで、頷く。

「美味しいわ」

「あらあら!」

ジャンヌは?母の視線がジャンヌに向く。

ジャンヌはゴクリと息を飲んで、少し拙い動作でフォークに麺を巻きつけて、パクッと食べた。

父の作る料理の味とは、少し違う、不思議な感じ。

久しぶりの、母の味。じわじわ口の中に広がる、ミートソース。

ジャンヌは感極まって、味の感想を口に出せずに、ゆっくり頷くことしかできなかった。

大袈裟ね!姉がクスクス笑いながら、もう一口パスタを食べた。


「ジャンヌ、そういえば今日はなんで姉さんと一緒に帰ってきたんだ?」

初等部の授業は中等部よりも一時間以上早く終わるだろう。

皿の上の二杯目のスパゲティを平らげた父の質問。

「ああ、今日は帰りにね……」

ジャンヌは思い出したように、雑貨屋のことを話した。

帰り道ルミアに誘われて寄ったこと、そしてあの雑貨屋はルミアの母が開いたということ、雑貨屋の中はすごく綺麗で楽しかったこと。あと飴を貰ったこと(これは話している時に思い出したのだった)……。

どんな商品が並んでいたのかをジャンヌが話し終えると、私も行ってみたい、とエヴァが珍しく羨ましそうに言った。

「私ももう一回行きたい」

「……じゃあ週末に行こうか」

父がそう言うと、二人姉妹はやったと小さくガッツポーズをした。

ちら、と父が母を見る。母は最後の一口を口に入れて、娘達が気づかないように夫に小さくウィンクした。


「お母さん、仕事の調子はどう?」

雑貨屋の話が終わり、ジャンヌは母に尋ねた。

母の仕事は忙しい。ほとんど休みなく世界を飛び回らなければいけない。

時間をおいて母に会う度に、ジャンヌは母にそう尋ねるクセがついていた。


「上々よ」

今日は雲湧山に行ってきたの、母はそう言うと、懐から長方形の紙を数枚取り出した。

雲がもくもく湧き出す山や、山の中の小屋が写されている。

これは母が“撮った”投射影魔法で、景色や人物を一枚の紙に収める最近造り出された画期的な魔法だ。

小屋の前で、老人と少年がニコニコ笑っている写真もある。

エヴァが魔法写真を手にとって、母に尋ねた。

「この人たちは?」

「“雲造り”の人たちよ。ちょっと北の方にある山で、私たちが普段見てる“雲”を造っているの」

母は同じように他の数枚の魔法写真を見せる。

小屋の中の大きな壺、少年が壺の中身に何かを入れて混ぜている様子。

ジャンヌは身を乗り出して覗き込んだ。外の世界の様子だ。


「調査対象だったから、いろいろ話を聞いてきたのよ」

「この壺の感じ、私たちが薬を作るときと似ているわ」

「そういうこと。さすがエヴァね」

ジャンヌもエヴァも、こうやって母が外の世界で見たものや触れたものの話を聞くのが大好きだった。

二人に限らず、この街の人間――この魔法使いの街にいる内側の人間――が、外の世界に行けることなんて滅多にない。

そんな場所へ出て、他の人には出来ないような調査や探検をしている母はやはり凄い魔法使いなんだと、ジャンヌは再度確認した。

「この前はね……」

母は二人の反応が嬉しいのか、さらに魔法写真を取り出した。


窓の外はとうに暗闇に。

暖かい光のもと、四人の家族はゆっくりと久しぶりの時間を過ごした。










……ノック。ベッドの上で、枕を腰の裏に当てて座ってぼんやりしていたら、ドアを叩かれた。

部屋は暗く、月明かりだけが唯一の光源だ。

ジャンヌは不思議そうな顔をした。

「……どうぞ?」


母の話は永遠に聞いていられる気がしたが、更ける時間はそれを許さない。父が頃合いを見てストップをかけて、お話はおしまいになった。

お風呂に入り、支度を済ませ(忘れていた宿題を適当に片付け)、寝巻きに着替えてベッドに入った時のことだった。


「まだ寝ていない?」

ぎぃとドアを開けて、顔をのぞかせたのは母だった。

ジャンヌは「うん」と答えて、息を整えた。

母が部屋の中に入ってくる。そして小さな椅子の背もたれをつかんで、ベッドの脇にトンと置いた。

「ちょっとだけ、お話ししましょ」

母はニッコリ笑って、椅子に腰掛けた。

なんだか嬉しくて、ジャンヌも笑った。


「結局、今日はずっと私が喋っちゃった……」

母は笑いながら言った。

でもお母さんの話面白かったよ、ジャンヌがフォローすると、母はありがとうと言った。

「久しぶりなんだから、娘たちの話も聞かなきゃなのに。聞きたいこといっぱいあるのにな」

視線を落とす母の顔は、暗がりでしっかりとは見えなかったが、少しだけ力なく見えた。

月明かりだけでは暗すぎるだろうか。

ジャンヌは枕元のテーブルの魔法燭台のスイッチを入れた。

溜めておいた電気魔法を光球に流し、傘の中でぽうっと光るスタンドだ。

光を灯してから見た母の顔は、全然力無くなんて無かった。

気のせいだったのかな、ジャンヌは心の中で首を傾げた。


「学校はどう?」

「……お父さんから聞いてる?」

「遅刻ばっかりしてるって?」

「聞いてるんだ」

ジャンヌは恥ずかしくなって顔を俯けた。

母は「しっかりしなきゃ」と笑って言った。


「勉強は付いていけてる?」

「うん。授業も頑張って聞いてるよ」

「あら、それはいいことよ」

「……たまに寝ちゃうけど」

ジャンヌがえへへと笑うと、母は呆れたように笑った。

それから少し、学校のことを話した。

好きな授業の話もしたし、箒の乗り扱いがまた上手くなったことも話した。中等部に上がることが少し不安だという話もした。

母はその一つ一つに優しく頷いて、相槌を打って、言葉を入れた。

とても話しやすい、相手だ。ジャンヌはもっと嬉しくなった。

久しぶりの母との時間だと、何度目か分からないぐらいに認識していた。


ふと。ふと思ったこと。

「……お母さん、帰ってきてない日が多いよね」

「…………」

言ってはいけなかったか、とジャンヌはハッとした。

これはお弁当の時と一緒なんじゃないか、そう思った。

でも、言ってしまおうと思った。

それは何故かはわからなかったが、とにかくそう思ったのだ。

「お父さんは……いつも私が寝てから帰ってきて、私が起きるより早く出て行くと言っているけど、本当は帰ってきてないんでしょ?」

「……やっぱり、気付いてたか……」

笑みが薄くなる。母の瞳が俯く。ジャンヌは、できるだけ暗くない、悲しくない声で「うん」と答えた。


「仕事だからって、酷いことしてるわよね」

やっぱりいけない、そう感じた。

辛いのは母だって一緒だって、よく分かっている。

もっと、私たちと一緒に時間を過ごしたいと。

「ううん、いいの。私はお母さんが仕事をしていることに誇りを持っているもの」

でも今回は違うのだ。

数年前のお弁当の話の時に自分が言えなかったことを、思っていることを言った。言えた。

あの時は、母の涙に驚いて黙ってしまった。今度は違う。

これは伝えておかなければならないと感じた。理解していることは少なくとも。

そしてここからも。


「でもね」

緊張した。

思ったことをそのまま口に出すのはいつだって、緊張する。

言葉を選ぶ。慎重に、慎重に。


「ホントはちょっと寂しい……かも」


その言葉を口に出すのには大きな勇気が必要だった。

“ワガママ”を言わない子どもになろうと、長い間努力してきたつもりだ。

その努力を壊すことだと、ジャンヌはよく分かっている。

「…………」

母は静かに頷いた。


「“ワガママ”だって、分かってるけど、でも今日みたいに一緒にご飯食べられる日がもっと増えたらいいのにな……って」


母は唇をかんで、目を瞑ってぎゅっとジャンヌを抱きしめた。

顔を娘の肩の上に乗せる。

そして、ごめんねと、耳元で言った。泣いている声だった。

ジャンヌは目をつむった。


「ずっと、寂しい思いをさせてきた」

居て欲しい時に、いられなかった。

来て欲しい時に、来られなかった。

そんなことばっかりだったもんね。

ずっと淋しかったわよね。ごめんね。

自分勝手で、貴女たちにずっと構ってやれないで……。


自分でも分かっていたのだ。

仕事をするために生きているのではないのに、と。

驚くほど仕事が忙しいのは事実だ。

でも、それでも、仕事に身をやつし尽くす理由を、いつの間にか見失っていた。

そして母は、そっと顔を離して、少し笑った。

「すごく、遅いかもしれない」

ジャンヌは涙をぬぐった。

ふぅと息を吐いて、母は娘の両肩に手を乗せて言った。


「これから週末は、家で過ごせることになったの」


ジャンヌは、思わず口をぽっかりと開けた。

口をぱくぱくさせる。

母はその反応を見て、笑いながら涙を流した。

「ほんと?」

ようやく出た言葉はたった三文字、ジャンヌは頭をぐるぐるさせた。

忙しくて、今までほとんど家にいられずに、ごくたまにしか一緒に過ごせなかった母が?

これからは週末一緒に過ごせるようになる?

大好きな母と一緒に、過ごせるようになる?

夢じゃないだろうか。

これは夢じゃないのだろうか。

「ようやく、大きな仕事がひと段落したの。あと、優秀な新人も何人か入ってきて、お母さんのやらなきゃいけない仕事が減ってきたのよ」

週末にまたサプライズしようと思ってたんだけどね、母は子どもっぽい笑い方で言った。

今までごめんね、そして加えた。

これからはもっと一緒に過ごせるようにするから。

貴女にもエヴァにも、今までの分、たくさんごめんねをしなくちゃ。

そしてもう一度、母は娘を強く抱きしめた。


「だから今週末の雑貨屋は、お母さんも行くからね」

「えっ、今週からなの?」

「そうよ、久しぶりにみんなで商業街に行きましょう」

「……うん!」

「それで帰ってきたら、みんなでご飯を作りましょう」

「……うん!」

「それで今度はご飯を食べながら、ジャンヌ、貴女の話を聞かせてちょうだい?」

「うん!お姉ちゃんの話もね!」

「もちろん」


ジャンヌは目を輝かせた。

これはどうやら現実らしい、頬をつねっても痛かった。

母は涙を拭うと、遅くなっちゃったと言った。


ジャンヌは、ふかふかの枕に頭を乗せた。

母の顔が、自分の顔を覗く。

それは自分が小さい頃、母が自分を寝かしつける時に覗いた顔と一緒だった。

シーツを被せられて、枕元の魔法燭台のスイッチが切られる。

オレンジの光が消えて、訪れた優しい闇が部屋を包み、青い月明かりが窓から差し込んだ。


頭をそっと、優しい指と手のひらで撫でられる。

途端にまぶたが重くなる。

沈んでいく黒、月明かりも、母の顔も、明日に行こうとしている。

明日に落ちる前に、優しい母の声が、するりと入り込むように耳に聞こえた。

「おやすみ、ジャンヌ」

ジャンヌは、優しい微笑みと共に今日から明日へ、踏み出した。



最後までご覧いただき、ありがとうございました。

自画自賛になりますが、なかなか気に入っている文章であります。

それではまた。


Twitterもやってます→@PornZel

Twitterでは一日ひとつ、短い文章や詩を書いてます。よかったら覗いていやってください。

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