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T,SOHARA

作者: 夏野あかり

「何階ですか?」

「六階で……お願いします」

「はい」


 ソハラさんと初めて会った時、僕たちの間にあったのはそんな他愛無いやりとりだった。

 夏の終わりの日曜日。時刻は二十二時半を過ぎており、ビルのショッピングフロアである三階に人気は無い。僕が勤める書店の営業時間も二十一時までで、アルバイトのスタッフたちは早々に帰宅していた。僕はひとり寂しく、違算を出した新人の尻拭いで、上司への報告書を書いていた。どこで何を間違ったのか、その日のレジは五千円もマイナス。また店長の機嫌が悪くなると思うと、とても楽しい気持ちにはなれなかった。

 レジ裏に用意された狭い事務スペースは、エアコンの効きがひどく悪い。小さな扇風機が心ばかりの風を送って、僕を応援してくれていた。報告書は手書きと決められているので、自分のあまり綺麗とは言えない文字を用紙に並べて行く。据わりの悪い机をがたがた言わせながら報告書を書き終え、我ながらテンプレートな文章を一応見直す。まぁこんなものだろうと納得して、ようやく席を立った。

 事務所は同じビルの六階に入っており、売り場からは業務用のエレベーターを使用して上がることになっている。僕は事務所に上げようと思っていた大量の書類を抱えて、売り場を出た。随分長い間、レジ裏に置きっ放しになっていた様々な書類を集めたら、段ボール一箱はありそうなほどの紙の山が出来たのだ。

 紙の束は見かけよりもはるかに重く、僕はえっちらおっちら言いながら、やっとのことでエレベーターまでたどり着いた。膝を使って書類を抱え直しながら、エレベーターを呼ぶ三角のボタンを押す。すぐにチンとベルが鳴って、目の前の扉が開いた。

ソハラさんは、長い栗色の髪をポニーテールに結んだ、大人しそうな女性だった。丁寧に手入れされた髪の毛の先は、ほんの少し丸まっている。白いシャツに、黒いカフェエプロン。その出で立ちから、下のフロアに入っている飲食店に勤めているのだとわかった。

「何階ですか?」

「六階で……お願いします」

「はい」

大量に紙束を抱えた僕を見て、ソハラさんはすぐにそう聞いてくれた。見た目からして、そんなに歳が離れているようには見えなかったけれど、僕よりずっと気が利く。細やかで優しい心配りが、疲れた身体に心地よかった。

「すみません……ありがとうございます」

「いえ。お荷物多くて大変ですね」

にこりと笑いかけられて、その眩しさに僕が思わず書類を取り落としそうになった時、エレベーターは四階に停止した。

「お疲れさまです」

ありきたりな言葉だったけれど、ソハラさんが残したその挨拶は、僕の心を攫って行くのに十分だった。



「それで?その後どうしたんだよ」

「まぁそう急かすなって……とりあえず飲もう。飲みながら話すから」

 酒はあまり嗜まない口だが、今日は特別だ。中学の頃からの古い友人である武井と、久しぶりに再会した。仕事終わりの飲み会だったので駅前の安い居酒屋だが、半個室になっていて悪くない。変わらず好物だという唐揚げを頬張る武井の横顔は、中学の頃の面影を残したまま上手に歳をとっている。くしゃくしゃと捲ったシャツの袖が、学生服を思い出して懐かしい。

 人懐こそうなたれ目が特徴的で、みんなから構われるクラスの末っ子のような存在だった彼とは、一緒に図書委員をやったときに仲良くなった。社会に出てから、仕事仲間ばかりが増えて友人は減っていく一方なので、どうやって人と仲良くなるのか思い出せなくなってしまった。武井ともずいぶん長く付き合っているが、親しくなってからの記憶しか無い。おそらくどちらかが何でもないことで話しかけたのだと思うけれど、その何でも無いことが思い出せないのだ。

「一目惚れか……そんなの本当にあるのかね?」

「僕も無いと思ってた。でもあった。だからあるね」

「ふーん」

武井は納得できない様子で生ビールをぐいと煽り、続きを急かした。



 ソハラさんの名前を知ったのは、その次にエレベーターで居合わせた時だった。

いくら彼女のことが気になっていても、それは僕の側の話であって、あくまでソハラさんと僕はたまたますれ違っただけの他人に過ぎない。初恋も知らない小学生でも無し、そのことを僕は重々承知していて、だからこそ取り立ててどうこうということも無かった。そもそも同じビル内ではあるが、飲食店と販売店ではシフトの組み方が違うようで、飲食店スタッフとエレベーターですれ違うことすら稀だったのだ。あの夏の日、彼女と同じエレベーターに乗り合わせたことは、かなり貴重な出来事だった。

僕は毎日売り場と事務所の往復をしながら、ひとつ下の階で働くソハラさんのことを考えた。下の階にはイタリアンレストランや韓国風の焼き肉屋、オシャレなケーキが食べられるカフェ、オリジナルカクテルが人気のバーなんかが入っている。食事に行ったことは一度もなかったが、ソハラさんの制服がどのお店のものなのか、少し調べればすぐにわかる。しかしそんなことをするのは些か気が引けて、ソハラさんへの気持ちは、希望の無い恋だからと諦めようとしていた。いつもそうやって機会を逃し続けた結果、三十も近いというのに僕は未だに女性経験が無いのだった。

 夏が終わって、秋の初め。その日の店締めは実に順調。アルバイトスタッフを帰した後、戸締まりだけ済ませると、すぐに売り場を出ることが出来た。終日ミスやクレームも無く、金曜日ということもあり売り上げも上々。忙しかった分疲れてはいたけれど、達成感もひとしおで、エレベーターのボタンを押す指先すら軽やかだった。こんな日ばかりだと仕事も楽しいな、と一日を振り返りながら悦に入り、エレベーターを待った。

 扉が開いて、僕はその日の幸運がまだ終わっていなかったことを知った。無機質な業務用エレベーターに一人、夢にまで見た人が乗っていたのだ。

「お疲れさまです」

思わず僕が声をかけると、彼女はにこりと微笑んで、小さく頭を下げた。控えめな仕草だが、面倒くさそうな感じは微塵も無く、遠慮がちな分おしとやかに見えた。乗り込む僕にスペースを空けようと、ソハラさんは少し端に寄ってくれた。僕は六階のボタンを押して、出来るだけソハラさんより後ろに立つ。そうしていると、前を見る振りをして彼女を見ることが出来る。気がつかれないようにそっと目だけを動かして、僕はソハラさんを観察した。身長が僕より大分低いので、ソハラさんの肩は僕の胸元あたりにあった。仕事の時はいつもまとめているのか、その日も彼女はポニーテールにしていて、うなじから後れ毛がこぼれていた。襟まできちんとアイロンがかけられたシャツは、よく見るとほんの少し色が入っている。襟のすぐ下の部分に、うっすらと肌色が透けていた。エレベーターはあっという間に四階に停止し、扉が開いた。降りようとしたソハラさんが僕の前を通り過ぎると、かすかに甘い香りがした。

 お疲れさまです、と丁寧に挨拶をしてエレベーターを降りる彼女の左胸に、小さなネームプレートが光っていた。そこにはアルファベットでSOHARAとあり、その時ようやく、僕は彼女の名前を知ったのだ。



 アルコールが回っても、武井は耳をほんのり染める程度で、あまり顔に出ないタイプだ。僕はというと、最初の一杯が限界で、その後はちびちびと舐めるようにビールをすすっている。僕の三倍のスピードでグラスを空ける武井は、ちっとも酔う様子が無い。いつまでもしっかりと正気を保っている。

「名札ね……。そうやって聞くと、お前、なんかストーカーみたいだな」

「別に普通だろ。僕も名札つけてたわけだし」

「そんなにじろじろ見ないのがフツーだろ」

失礼な言い草だ。ただ、どちらかと言えば武井が正しい気もする。ソハラさんの名札は僕のような他人のためではなく、彼女のお店で食事をするお客様のためにあるのだ。だから、僕がその名札を堂々と見ることは出来ないわけだけど、ちらっと見るくらい許してほしい。僕としては、自分の胸ポケットにつけた名札の裏に電話番号を書いて、その場でソハラさんに差し出したいくらいだったのだから。

「焼き鳥頼むか。藤本は塩派?タレ派?ちなみに俺はタレ」

「タレでいいよ。塩派だけど」

「さんきゅ。じゃあタレで」

タッチパネル式のリモコンで焼き鳥と追加の飲み物を注文し、空いた皿をテーブルの端によける。腹も膨れて人心地つき、武井はそろそろ僕の話に飽きて来ているようだが、まだもう少し続きがあるのだ。



 二度目の偶然により、僕の恋路にも希望が見えて来たと感じた。僕はすっかりソハラさんに心を奪われ、彼女への思いを綴る日記を書き始めるくらい重症だった。けれど、今日は会えなかった、今日も会えなかった……と、日記が続くにつれて、気持ちはまた少しずつ萎んでいった。二度あることは三度あると言うのに、到底その三度目が訪れる気配が無い。季節は冬に移ろっていた。

 三度目の奇跡が起こったのは、十二月の半ば。クリスマスを目前にして世間は賑やかで、街を歩けばクリスマスソングを耳にしない日は無い。そんな寒い日の夜だった。

 その日もまた遅番。しかも年末で忙しく、全ての仕事を終えて職場のビルを出たのは、二十三時近かった。駅まで五分ほどの道のりを、身を切るような寒さに震えながらひとりで歩いた。飲み会帰りの大学生らしき連中が大きな声でうるさく騒いでいたけれど、そんなことに腹を立てる気力も無いほど疲れていた。忘年会シーズンなのか、平日の遅い時間にも関わらず駅前もそこそこの賑わいで、電車に乗ればむわりと酒の匂いがした。暖房で温められた空気が頭をぼーっとさせ、疲れもあって眠気を誘う。車内は混んではいないが座ることも出来なくて、僕はドアに寄りかかってぼんやり窓の外を眺めていた。

 しばらくそうして半分眠っていたけれど、ふと携帯の着信音が聞こえて、意識を戻した。慌てて確認すると僕の携帯電話はきちんとマナーモードになっており、顔を上げれば、向かいに立っていた女性が鞄から携帯を取り出したところだった。女性は画面を確認して電話を切り、メールを打っているようだった。何気なく眺めて居たら、女性と目が合ってしまった。僕は気まずさにすぐ目をそらそうとしたが、女性は「すみません」と一言謝って、ぺこりと小さく頭を下げた。一瞬何のことかわからなかったものの、すぐに携帯の着信音のことだと気がついた。

 そしてそのとき僕は、もっと大事なことに気がついたのだ。驚いたことに、僕の目の前に立っている女性は、ソハラさんだった。職場の制服でないからなのか、カジュアルな印象で、それまで彼女に抱いていたイメージとは少し違う。けれど、栗色の綺麗な髪に、大人しそうだが可愛らしい顔立ち。顔周りにこぼれた髪の毛をすくう、上品な仕草。まさかあのエレベーターの外で、その姿を眺める日がくるなんて。なんと言う偶然か、もはや奇跡だ。これは神様が僕にくれた、少し早いクリスマスプレゼントなのだと感じた。

 いつかのエレベーターの時のように、ばれない様にこっそりと、ソハラさんを観察した。白いスカートに焦げ茶のブーツ。僕はソハラさんの私服を見たことが無かったので、初めて見る彼女の新しい一面にどきどきした。想像していたよりも幼い印象の服装だ。もしかしたら、僕より少し年下なのかもしれない。白いシャツに黒いエプロン姿のソハラさんは、いつもすっと背筋を伸ばしている印象だったけれど、目の前の彼女は寒いのか猫背気味だ。赤いマフラーに顔を半分埋めたまま、手のひらの中の携帯をついついとつついている。指先には、薔薇の様な濃い赤色のネイルが塗られていて、服装とのギャップが色っぽい。

 アナウンスが流れて、次の駅が僕の降車駅であることを知らせた。僕はソハラさんに声をかけるべきか悩んでいたが、何を話せばいいのかわからなかった。お疲れ様ではおかしいし、かと言って、こんばんはも場違いだ。もたもたしているうちに電車はホームに滑り込み、ドアが開く。せっかく神様に貰ったチャンス、諦めがつかなかったけれど、僕は仕方なく電車を降りた。


「あの、落ちましたよ」

「え?」

 ホームを少し歩いたところで後ろから話しかけられ、振り返るとソハラさんが居た。僕は目を丸くして驚いた。まさか同じ駅で降りるなんて、奇跡もここまで来ると出来すぎている。もしこれが本当に神様のくれたチャンスなら、神様は僕の背中を突き飛ばし、前のめりに転ばせるつもりなのだろう。それくらいの強い後押しを感じた。

「パスケース、違いますか?」

ソハラさんが差し出している定期入れは、確かに僕のものだった。いつの間に落としたのか、わからなかった。

「あ、僕のです……。ありがとうございます」

「いえ」

お礼を言って頭を下げ、定期入れを受け取った。ソハラさんはにこりと微笑んで、歩き出す。僕はその背中に声をかけた。空から、ちらちらと雪が落ちて来ていた……。



「なんだそれ。クリスマスの奇跡って奴?」

「うん。まぁね」

「はいはい、めでたしめでたし」

 武井は露骨につまらなそうな顔をして、串に残っていた鶏皮を三つ、まとめて口へ放り込んだ。勢い良くビールを流し込み、わざとらしく音を立ててテーブルにグラスを戻す。僕は既にソフトドリンクに移行しており、グラスにはしゅわしゅわと炭酸がはじけるジンジャエールが入っている。

「で、最終的にどう落ち着いたんだよ?」

「聞くのか」

「話すつもりのくせに」

嫌そうに言う武井に、思わず吹き出す。それでも聞いてくれるというのだから、武井は良い奴だ。

「結論から言うと……手酷く振られた」

「ほう。何て?」

「何なんですか気持ち悪い、やめて下さい警察呼びますよ、ってな」

「お前はどんな声のかけ方をしたんだ……」

「初めてだったんだ。しょうがないだろ」

武井はたいそう呆れたといった顔で、僕を見ている。自分で言っていて悲しくなるソハラさんの台詞だが、それは真実だった。



「お疲れさまです!」

 僕がそう声をかけた時、ソハラさんはぱっと振り返ってくれた。こちらを見て軽く会釈をし、彼女はまた歩き出したので、僕は咄嗟に隣に並んだ。後から思えばその時、ソハラさんはわずかに歩幅を広げた気がした。けれど僕の方が歩くスピードが早かったため、簡単に並んで歩くことが出来てしまった。

 ソハラさんに離されないようぴったり並び、改札を抜けた。駅を出て人の波が落ち着いたところで、意を決して再び話しかけた。今を逃せば二度とチャンスは来ないかもしれない、そう感じていた。

「えっと、僕のこと覚えて下さってますか?」

「え?」

「度々会ってるんですけど、あの、エレベーターで……」

「エレベーター?」

ソハラさんは首を傾げつつ、記憶を探るように目をそらした。もちろん覚えて貰えているとは思っていなかったが、とにかく何か話しかけなければという想いから、口が先に動いていた。僕とソハラさんの接点は、あの業務用エレベーターただ一つ。他に話のきっかけを見つけられなかった。

「……すみません。お名前を聞いても……?」

思い出せなかったのか、ソハラさんは申し訳なさそうに切り出した。突然帰り道に話しかけられて、さぞ驚いただろうに、丁寧な対応で僕は感激した。

「あ、いえ、名前は知らないと思うんですけど……あ、僕は書店員なんです。あなたと同じビルで働いていて、以前お会いしたことがあって」

「……はい……」

「それで、えーと、あの……」

話しかけたものの話題が見つからず、僕はしどろもどろだった。明らかに挙動不審。背中が嫌な感じに寒くなり、手汗がじんわりと滲む。電車を降りた乗客の波はすっかりはけてしまい、周りが住宅街なこともあって、深夜の駅前に人は少なかった。

「何か御用でなければ、これで」

「あ、ちょっと、待って下さい!」

ソハラさんが遠慮がちに言って立ち去ろうとしたので、思わず手を取り引き止めてしまった。それが良くなかったのか、彼女の表情は一変して恐怖と不快感から来るものに変わった。僕は恋の終わりを咄嗟に感じ、最後まで手伝ってくれない意地悪な神様を恨んだ。



「それは神様は悪くない。お前が悪いんだ」

「……わかってるよ」

 正論を言われて、僕はため息をついた。武井は大きい梅干しの入ったお茶漬けをすすり、漬け物をいい音をさせながら齧る。お腹が一杯の僕は、その様子を眺めながらすっかり氷が溶けて薄くなったコーラを飲む。

「で、あなたなんか知りません気持ち悪いです止めて下さい誰か助けて、って叫ばれたってことか」

「微妙に違う。脚色するな」

「はは、大体一緒だろ」

人の不幸話は良い酒の肴になる。武井はけたけたと楽しそうに笑って、僕の肩を叩いた。

「まぁそう気を落とすなよ。次に行けば良いさ」

「ありがとう。でもまだ続きがあるんだ」



 ソハラさんに拒絶されてからというもの、僕はすっかり調子を崩した。仕事をしていても、釣り銭を間違えたり、カバーを上下逆にかけたり、書類の記入をしくじったり。精神的にとにかくどん底の中、立て続くミスの後処理でさらに自分の首を絞めた。このまま年明けを迎えられないのではと思ったが、時の流れは傷心の僕に優しく、ようやく年内最後の営業日が終わった。大晦日なので営業時間が短く、十八時半頃には売り場を出た。

 いつも通りにボタンを押してエレベーターを待った。チンとベルが鳴って、扉が開く。そこにはソハラさんが立っていた。

「あ……」

僕は当然、乗り込むのを躊躇った。密室で二人きりになるのは、流石にまずいのではないか。ソハラさんに怖い思いをさせるかもしれない。一方ソハラさんは、扉を開くボタンを押して、僕を待っていてくれた。乗り込まない僕を不思議そうに見る彼女。無言の視線に押されて、エレベーターに乗った。

 先日のこともあり、僕はソハラさんから出来るだけ距離を取って立った。それでも狭いエレベーター内。手を伸ばせば簡単に触れられる距離に、ソハラさんは居る。

沈黙に耐えかねて、僕は口を開いた。言わなくてはならないことが、まだ残っている気がした。

「あの、お疲れさまです……この間はすみませんでした。なんか変な感じになっちゃって。本当に、その……ご挨拶しようと思っただけだったんです」

「お疲れさまです。……この間?」

ソハラさんは、愛想の良い笑顔で言いながら、首を傾げた。

「どこかでお会いしましたっけ?」

「えっと……駅で。僕の定期入れを、拾ってくれましたよね」

「定期入れですか……?」

「はい。クリスマスの少し前に」

あくまでにこやかに受け答えるソハラさんに、僕は違和感を感じていた。もしかしたら僕のことを覚えていないのかもしれない。だとしたら、蒸し返すのも良くないのではないか。

「すみません。ちょっと覚えていなくて……藤本さんですよね?」

「え?」

ソハラさんの口から聞き慣れた名前が出て、僕は思わず大きな声を出した。一度も名乗った覚えが無かった。

「あ、ごめんなさい!いつも、名札をつけてらっしゃるので……」

「あ……あぁ、名札。そうか、そうですね。僕は藤本と言います」

「祖原です。いつもお疲れさまです」

まさか以前から名前を知っていましたとは言えず、初めてを装った。自己紹介をするソハラさんの顔を初めてはっきり見て、ようやく僕は気がついた。左目の目元に、見落とすはずの無い、印象的な泣きぼくろがあったのだ。そして、一つの可能性に思い至る。

「……不躾で申し訳ないんですが……もしかして、ご兄弟がいらっしゃいますか?」

「あ、はい。双子の妹が居ます。妹とお知り合いですか?」

「まぁ……ちょっと……そんな感じです」

そこで丁度、エレベーターは四階に到着した。ソハラさんはいつも通り、その階で降りた。

「じゃあ、良いお年を。来年もよろしくお願いします」

「は……はい!お疲れさまです」

「お疲れさまです」

はにかむ彼女を見送りながら、僕は新年の幕開けに心を躍らせた。



「あーあ。お前がぺらぺら喋るから、終電無くなっちまったよ」

 居酒屋を出た頃には電車がなくなっていた。季節は秋の終わり。もうすぐまた冬が来る。外に出ると夜風がひんやりと冷たかった。僕たちはタクシーを拾うか迷ったが、酔い冷ましもかねて、二駅先の僕の家まで歩いて帰ることにした。武井も僕も翌日は休みなので、家に帰って飲み直す算段だ。駅前のコンビニで、つまみと酒を買って帰ろう。

 線路沿いの大通りを、ひたすらまっすぐに歩く。元より酒に強い武井の足取りはしっかりとしている。

「それで、大事な話ってなんだったんだ?」

大事な話があるから。そう言って連絡したのは僕だった。武井とは定期的に連絡をとってはいたが、どうしても会って話したいことがあったのだ。もちろん、ソハラさんのことだ。

「結婚するよ」

「へぇ。どうでもいいな」

わざとらしく言って、武井はにやりと笑った。人懐こいたれ目が僕を見る。街灯に照らされた頬が、ほんの少し赤らんでいた。

「今度会わせろよ。ソハラさんに」

「もうソハラじゃなくなる。家に居るから、すぐ会えるよ」

「早く言えよ、そういうことは!」

家まではあと一駅。夜はまだまだこれからだった。


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