さかみちのうえで
俺は走っていた。
右手に持った朝食のコンビニおにぎりを、口に運びつつ、左手で筆記用具と簡易充電機をつけた携帯電話以外何も入っていない鞄を走るのに合わせて振りながらだ。
周りに俺と同じ制服を着た生徒は見当たらない。それどころか、人すら俺の通り道には一人も見当たらなかった。
「まぁ、当たり前なんだけどな」
そう呟く。
俺の周りにあるのは、木、木、木。足元は濃い茶色の土。たまにその上にある木の葉を踏んでは音が鳴っている。
俗に言う、獣道のようなものである。実際に獣が通っている訳ではないのだが。
別に、俺の住んでいるのは電車が二時間に一本しか運行していなかったり、一学年に一クラスしかない学校しかないほど人が少なかったり、コンビニが二十二時まで営業していればすごい、とかいう田舎町ではない。大都市ではないにしても、それなりに電車は本数があるし、クラスも一学年四クラスはあるし、二十四時間やってるコンビニだってある極々普通の町である。
どうしてこんなところを走っているかといえば、端的にいえば遅刻しそうだからだ。
「くそっ! ちゃんと充電を確認しておけばよかったぜ!」
走りながら愚痴る。
前日まで夏休みだったこともあって、生活のリズムが崩れているからと、昨日はちゃんと早く寝た、それまではよかったんだ。ところが、俺の身体は合わせることができても、その生活を基準に動いていた道具たちまでは俺にはついてきてくれなかったのだ。具体的に言うと携帯電話。
普段から携帯電話のアラームで起きている俺なので、昨日も今日起きる予定だった時間にアラームを合わせて寝たのだ。しかし、夏休み三時に寝て十一時に起きるという不規則な生活をしていたためか、携帯の充電を行う間隔がズレているのを考慮しておくのを忘れていた。俺の携帯は購入してからもう三年が経過しようとしている古い機種で、電池の減りが激しいのだ。要するに、寝ている間に充電が切れてしまったということだ。
そんな俺が今日目覚めたのは八時二十分、一時間目開始の予鈴が鳴る時間の二十分前。ちなみに、俺の家から学校までは『普通の道』を行けばどれだけ上手くいっても最低で三十分はかかる。そう、『普通の道』を行けば。
学校は町の中央にある山の上にあるのだが、その山に登る唯一の道である傾斜およそ二十五度の坂道への入り口は俺の家のある場所とは反対の方向にあった。また、山の周りは開発の際に自然保護のためとかなんとやらで、坂道の入り口以外の周囲は林のままとなっている。
その為、いつもならば一緒に行く友人がいることもあって、本来の通学路である、きちんと舗装された距離的には回り道となる道を通って行くのである。しかし、その道は大通りを通るために信号が多く、走って行ったとしてもさほど時間の短縮にはならない。だが、家の近くからこの林を抜けていけば信号など勿論ないため、止められることなく走り続けることができるし、距離的にも普通の三分の二程度で坂道の入り口まで行くことができるのである。その為に俺は今この道を全力で走りぬけているという訳だ。
「よっ、と」
所々隆起している木の根をぴょんぴょんととび越えて進む。寝坊したり、急いで家に帰りたい時などに頻繁にココを通っている俺にとっては一見すればとても道とは言えないこの道でも難なく走り続けることができる。
ちらり、と腕時計を確認する。長い針は丁度文字盤の五と六の数字の間を指していた。
「ちょっと遅れ気味だな……急がねぇと!」
俺はそう言ってペースを上げた。
―――――――――――――
私は走っていた。
口には朝ご飯のあんパンを頬張り、左手に筆箱しか入ってない鞄を持って、人の合間を抜けていく。生まれてからこの夏休みまで住んでいたところは人をよけつつ道を通ることなんて年末年始の神社の参道と盆と七夕のお祭りの中で位でしか起こらないところだったこともあって、少し苦労する。 人の横を抜けるとき、いつもの癖で「おはようございます」と声を出すのだが、どうやら全く気付いていないようで、悪い事をしている訳ではないのになぜか申し訳なくなってしまう。
「寝てるときに手で飛ばしちゃって目覚まし時計の電池が抜けてるなんてありえないよー!」
思わず悪態をつく。普段からあまり寝相は良くない私だから、時計を寝ている内に手で飛ばしてしまって、ということは別に珍しい事じゃなかった。でも、それで時計の電池が抜ける、なんてことは初めてだった。何度も何度も落としている内に電池のフタが取れやすくでもなってしまったのだろう。そんなこんなで寝坊をしてしまい、余裕を持って始まるはずだった新しいスクールライフはいきなり波乱のスタートなのであった。
「でも、よかったー。昨日のうちに何度も学校までの道をシミュレーションしておいて」
私はどれだけ贔屓目に見ても鈍くさい。その為に、人が十分かけて歩く道は十五分かけて歩かないといけない。道がわからないとどうしてもただでさえ遅いペースをさらに落とさなければいけない。私が今も走るペースを落とさないで行けるのも昨日の初登校シミュレーションのおかげで間違いない。提案してくれたお母さんに感謝しないと。
人の多い道を離脱するように曲がってしばらく行くと、両サイドを木々に囲まれた坂道の入り口にたどり着いた。一旦そこに止まって一息ついて、坂道の上を見上げる。転校手続きをしたときに話した担任の先生の話だと、この木々たちは桜の木であるという。春にはピンクの花びらが舞って大層綺麗な通り道になるとのことで、昨日は通りながらその光景を想像して笑顔になっていたけど、今はそうやってはいられない。むしろ、かなり傾斜のある坂道を見てげんなりしたくなる。
私が新しいスクールライフを始めるこの学校の生徒が学校に通うために必ず通らなければならないというこの坂道に、同じ制服の人は愚か、人一人すら見られなかった。明らかに出遅れていた。右手に付けた腕時計を見ると八時半を少し過ぎた時間を示していた。しっかり読みこんだ学校マニュアルには始業時間は八時四十分と書かれていたと思う。
「……急がなきゃ! 転校早々遅刻なんてしてられないよー!」
私は坂道の入り口で立ち止まるのをやめて、スカートが大きく揺れるのも気にせずに大きく足を動かして坂道を登りだした。
「脱出!」
俺はそう言って木々の間を抜けて坂道の入り口に飛び出した。セット出来ていない髪や制服のズボンには踏んで飛ばした木の葉の破片がいくつかついている。俺は一旦止まってそれを払う。
と、同時に、鞄の中から携帯電話の着信を知らせる音が聞こえる。鞄を開けて携帯電話を取り出すと、メールの着信が一件あった。俺はそれを開封する。
「2010/9/1 08:33
FROM:ハルキ
SUB:〈件名なし〉
やばいよ、今日はゴリラがいつもより早く出て行った。多分一度目の予鈴と同時に校門締められるよ」
「マジかよ……」
ゴリラとはこの学校の体育教師兼風紀員会を担当している教師のことだ。学校の風紀を守ることに情熱を注いでいて、その熱さは常に熱湯のようである。と、そんなことはどうでもいい。
「2010/9/1 08:34
TO:ハルキ
SUB〈件名なし〉
マジかよ、俺今坂道の入り口なんだが」
メールを送信して鞄に携帯電話をしまおうとする。しかし、すぐに返信が届く。
「2010/9/1 08:34
FROM:ハルキ
SUB:〈件名なし〉
南無。」
携帯電話を投げつけたかった。が、普通の携帯電話でも投げつけたらご臨終の可能性が高いのにこのご老体を投げつけるのはすなわち即死を意味する。買い替える金がないからこの機種を維持している俺にそれは出来ない行動だった。衝動を抑えて携帯電話を鞄にしまう。
「ハルキのヤツ……後で覚えてろよぉ!」
俺はそう言って坂道をダッシュで登りだした。
「ふぅ、はぁ、はぁ……」
坂道の途中あたり。息を切らせながら私は坂道を登っていた。昨日歩いた時でさえ厳しいと感じた坂道である。走って登ればそれ以上に身体が感じるのも当然であった。
でも、それももうすぐ終わり。あと少し。あと少し坂道を登り切った先に見えている校門を通り抜ければ遅刻をしないで済むのだ。
「あと……少しっ!」
私は一気にラストスパートをかける。多分、後ろを通っている人にスカートがめくれて見えているのかもしれないが、今の私にとっては遅刻しないことの方が大事だった。それに、多分誰も見ていないだろうし。
キーンコーンカーンコーン
と、そこで、無機質な鐘の音が鳴るのが聞こえた。
「あれ……」
走りながら時計を確認する。まだ八時三十五分である。
「まだ始業時間じゃない……よね?」
ガラガラ……
と、今度は何か重たい、車輪のついたものを動かしているような音が聞こえてきた。
「って!」
その音とともに私の目の前三十メートルほどで校門が閉められて行く。
「ちょっ、ちょっと……、ちょっと待ってくだ……さい……」
息が上がっていることもあって抗議の声もろくに出せないまま、無情にも校門は閉まってしまった。
「ああっ……、はぁ、はぁ……」
閉まってしまった校門の前で鞄を置いて、両ひざに手をついて息を整える。
目の前を見る。目の前に映るのは完全に閉められてしまった自分の身長より高い校門であった。
「ん……、えいっ、えいっ!」
ぴょん、ぴょんととび跳ねてみる。だけれども、全く届く気配はない。母親に似た低い身長が憎い。
「ど、どうしよぉ……」
「くっそ、予鈴が鳴りやがった!」
坂道を登りだしてすぐ、始業五分前を告げる予鈴が鳴りだした。
「ハルキの言う通りだともうあのゴリラが校門閉めてるんだよな……急がねぇと!」
俺はペースをさらに上げて坂道を駆け上がっていく。このペースでこの坂道を駆け上がったらこけそうなものであるが、これも慣れたものの俺には関係がなかった。
すぐに頂上までたどり着く。
「よしっ、到着!」
俺は坂道の上に到達すると同時に目の前を確認した。目の前にあるのはまるで外界を遮断するがごとくに行く手を阻むよう閉じられた鉄製の門だった。
「やっぱりしまってやがるか……ん?」
俺はその目の前で見慣れない姿を見つける。その姿――この学校の制服を着た少女は閉まってしまった校門の前で必死にぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「えいっ、えいっ……」
「……」
どうにかして校門を越えようと思っているのだろう。少女は身長が足りないその身体全身を使って何とかしてよじ登ろうとしていた。だが悲しいかな。全く届く気配はない
「もうっ、何でこんなに校門が高いの……? そもそも校門なんて閉めなくてもいいのに……」
「……何やってるんだ?」
声をかける。
「わひゃあっ!」
よほど校門を越えることに夢中だったのだろう、俺の存在に今まで全く気付いていなかった少女は俺の声を聞くなり漫画のように両手を上げて驚いていた。
「ご、ごめんなさいっ! 私今日がこの学校への初めての登校でしてっ! まさか始業時間より前に校門が閉まるなんて知らなくてっ! でも遅刻したくなかったのでつい魔がさしてこの校門をよじ登ろうとしたのでありましてっ! だから遅刻届は書きますので許してください風紀委員さんっ!」
そして俺の方に向き直るとひたすらぺこぺこと頭を下げ続けていた。その度に、頭の両側で結ばれた二つの尻尾が動く。
「いや、ちょっと待ってくれ、えーっと……」
とりあえず、俺はひたすら上半身の前後運動を繰り返す少女を止めて話をしようとするが、どう呼んでいいものか悩んで言葉を止めてしまう。
「あ……、私、今日からこの学校に転校してきましゅた、二年三組の三崎りゅいでしゅ!」
噛んでいた。
「あ、俺と同じクラスなんだ。え、えーっと、三崎、りゅい、さん?」
俺がそう言うと、少女は顔を真っ赤にする。
「わ、私、三崎留衣でしゅ……」
また噛んでるな。言ったそばからまた赤くなった。相当緊張しているのだろうか。
「そんなに緊張しなくていいから。あ、俺は同じクラスの香月卓磨ね。よろしく、留衣」
俺がそう言うとまた少女、留衣は顔を赤くしていた。
「え、えっと……あの、その、名前……」
どうやらいきなり名前で呼ばれたのが恥ずかしかったようだ。
「あ、ああ、ごめん、つい癖で……」
「いえ、別にいいんですけど……じゃあ、私も卓磨君って呼ばせてもらいますね」
留衣はそう言って俺の方を見上げた。俺の身長は一般的な同年代の男子ぐらいでそこまで高くはないのだが、留衣が一般的な同年代の女子の身長より低いせいだろうか。
「ああ、それでいいよ。あと、俺は風紀委員でも何でもないよ。むしろ、留衣のお仲間だ」
俺は肩をすくめてそう言う。
「あ、なんだ、そうなんですか……」
留衣が安堵の表情を見せる。
「まぁ、安心してもらっても困るんだがな。正直、あと二分もすればもう一回予鈴が鳴ってホームルームが始まっちまうし、そうなったら遅刻扱いで鬼教師に怒られること確実だな」
鬼という言葉に反応したのか、今度は俺の方をみてプルプルと震え出す留衣。
「ひ……ひえっ……。そうなったら大変です、怒られたくないです……」
しかしまぁ、こうして感情が出やすいのといい、ちんまい身体といい、ホントに俺と同じ年なのかと思えてくる。何か天敵に見つかって怯えてるリスみたいだ。って、まぁ、それはともかく。
「俺だって怒られたくはないな。じゃあ、共同戦線と行こうぜ」
「ふぇ……?」
「ん……しょっ」
「わわわわっ、高いです、高いです!」
校門の上の方に乗っけてあげようと留衣を腰から持ち上げる。
「落ち着けって。とりあえず、校門の上の方に何とかしがみついてくれ」
「は、はいっ」
「誰も見てないよな?」
留衣を手で支えながら聞く。
「う、うん、今のところは……」
「だったら今のうちにさっさと越えた方がいいな。急いでくれよ、もう後一分もないからな」
「は、はいっ、ん……しょっ……」
留衣は懸命に登ろうとするが、なかなか上の部分に登りきれないようだ。運動とかが苦手そうな第一印象を勝手に持ってしまっていたが、どうやら間違いではなさそうだ。
「うーん……」
しかし、それを言うのも初対面の子に対しては流石に失礼というものだ。とりあえず、留衣をそのまま見守ることにする。
「あ、あの……どうしました?」
俺が唸ったのが聞こえたんだろう、留衣がそう聞いて来る。
「いや、何でもねーよ。さっさと登ってくれ」
「あ、はい。でも、それより……見えて、ませんか?」
「ん?」
留衣の言っていることが分からず思わず上の方を見てしまう。そして、
「!」
見えた。見えてしまった。ってか最初から見えていたけど、今までは留衣を越えさせるのに必死でそんなの気にならなかった。しかし、気にしてしまった今となってはそれをどうしても意識してしまう。
「ん、一般的にパンツとか言われる物体だったら見えてるけど……」
俺は無意識に、正直にそう言ってしまう。
「え……?」
「あ……」
まずいと気付いたのはもう言ってしまった後であった。
「んーーーーっ!」
顔を真っ赤にして無言で留衣が暴れ出す。
「こら! 暴れるな! 落ちるぞっ!」
留衣の身が危険なので押さえようとする。
「で、でもっ!」
「ああもう! そんなことしたら危ないし余計にスカートまくれるぞ!」
「ら、らってぇ……」
あ、ちょっと留衣のことわかった。留衣のヤツ、結構慌てん坊だな。それに、慌てると言葉をよくとちるようになる。
……って、そんな分析はどうでもいいんだよ!
「お、落ちる! 落ちるって!」
「ーーーーーーーっ!」
ところが留衣は混乱しているのか、俺の言葉が耳に入っていないようで暴れるのをやめない。そして……、
「あっ……」
「ひゃっ……」
上の方に引っ掛かっていた留衣が。
バランスを、崩した。
「ひゃああっ!」
「うわっ!」
そして、俺の上にそのまま落下してきた。
ご丁寧に、膝を俺の腹に食らわせるかのように。
「ぐはっ!」
ちんまいながらも高さのせいで意外と大きいダメージとなった膝蹴りのおかげで、俺の意識は薄れて行った……
薄れゆく意識の中で、柔らかい感触を感じながら……
「んっ……んみゅ?」
あれ、私、どうしたんだっけ。確か、卓磨君に手伝ってもらって……って、どうして卓磨君の顔がこんなに近くに……
「!!」
私は今現在自分がどうなっているかに気がついて、すぐさま身体を起こして卓磨君から離れた。
「え、え、えええっ!?」
顔がさっきまでよりはるかに真っ赤になっているのがわかる。卓磨君の方は完全にのびてしまっている。だから、多分、どうなったかということには彼は気がつかないだろう。でも……
「はいはーい、風紀委員ですよー、遅刻したタクマみたいな悪い子はいるかなー?」
と、そこで、校門の反対側、つまりは学校の中の側からひとりの声が聞こえた。
「わひゃうっ!」
私はその声に驚いてさらに卓磨君から飛びのいてその声の主の側を見つめた。
「おおっ! タクマだけかと思ったら他にもう一人いるじゃん。見かけない顔だけど……」
声の主は私の方を見てそう言う。
「あ、は、はひ。今日からこの学校に転校してきまひた二年三組の三崎りゅいでひゅ!」
あぅぅ、また噛んじゃった。私のそんな姿を見て風紀委員の人は笑いだす。
「ちょっと、緊張しすぎだって! そっかそっか、キミが今日から新しく来るって言う転校生なのね。あ、ボクは滝沢春希。あなたと同じクラスね。あ、今校門開けるね」
そう言って風紀委員さん……ハルキさんは鍵を開けて校門を開けてくれた。
私は校門を抜けて中に入る。
「あ、ありがとうございます……」
「いいっていいって。ボクとして厳しく取り締まって遅刻者が増える方が手続きの手伝いとか面倒だし」
ハルキさんは面倒そうにそう言った。恐らく建前とかではなく本心のまんまなのだろう。風紀委員って、お堅い人ばっかりのイメージだったけど、この人は例外なのかな? それとも皆がこんな人だったり?
私がそう考える横で、ハルキさんは卓磨君の方に寄って行った。
「でさー、タクマがのびてるのは何で? 三崎さん、何か知らない?」
「い、いえっ! ま! 全く! 全く知りまひぇん!」
さっきのことを思い出してしまい、つい噛み噛みな返事をしてしまう。
「ん?」
それを見て不思議そうな顔をした後、
「……んっふっふー」
にやにやとした顔で私を見つめてくる。すべてを見透かされているような表情だった。
キーンコーンカーンコーン
そこで、二度目の予鈴が鳴った。
「あ、あの、私、先に職員室行かないといけないのでもう行きますね! 校門、ありがとうございました!」
私はそう言って頭を下げた後、一目散に校舎へ駈け出して行った。
「あ……、また後でねー!」
ハルキさんのそんな声を聞きながら、私はつい顔に手を当ててしまった。
意識を取り戻すと、ハルキの声がいきなり聞こえてきた。
「おーい、タークマー。大丈夫ー?」
「ん、んん……」
目を開ける。目の前に映ったのはハルキの顔だった。
「のわあっ!」
慌ててのけぞる俺。
「どうしたのさ、そんなに驚いて?」
「か、顔が近いっての!」
慌てたままそう言い返す。
「んっふっふー、別にいいじゃーん。ボクたちは、結婚を前提に付き合っている者同士なんだからぁー」
ハルキが両手を顔に添えて恥ずかしそうに身をくねらせる。
「そんな事実はねぇよ。それに、俺はお前に興味何ぞねぇ。あと、留衣はどこ行った?」
俺はいつものように適当にハルキをあしらいながらいつの間にかいなくなっていた留衣のことを尋ねた。
「ああ、三崎さんならもう職員室に行っちゃったよ」
「そっか、それならいいんだ」
俺は心からそう思った。今この場にいないってことは、少なくとも遅刻はせずに職員室に入れたはずである。転校初日から遅刻するなんて、最悪のスタートだろうしな。
「だ、け、ど……」
そう言いながらハルキが再び近づいてくる。
「な、なんだよ?」
身構える俺。
「えいっ」
むぎゅう。
「んなぁっ!」
ハルキが俺の後ろから抱きついてきた。背中に何かあたっている感触がする。
「こ・れ・で・も、ボクに興味ないって言いきれる?」
ハルキが俺の耳元でそう囁く。
「あ、ああ、言い切れるね。お、俺は、い、言い切れるさ!」
ちょっと動揺しているものの、何とかそれを隠すようにしている。
「むぅ、風紀委員に嘘をつく生徒には遅刻届三倍増しの刑にするよ?」
「職権乱用だっ!」
「あはははっ! でもまぁいっか!」
ハルキは笑いながら俺から離れる。普段ならこれくらいでは離れてくれないのだが、珍しい事もあるものだ。
「あれ、あきらめが早いな?」
「うん。まぁ、多分タクマはこの後もっと苦しくなるだろうしね」
俺を見て笑うハルキ。
「……どういうことだよ?」
「んっふふー、ヒ・ミ・ツ。じゃ、ボクは先に行くねー」
そう言って俺の発言に対する答えははぐらかしてとっとと校舎の方にハルキは向かって行ってしまう。
「あ、おい、ハルキ!」
俺のその言葉に反応したのか、ハルキが歩みを止める。
「あ、そうだ! ちゃんと遅刻届は三倍増しだからねー」
「鬼かっ!」
「あはははは、じゃーねー!」
そう言ってハルキは、俺のことを置いてスカートをひるがえしながらとっとと校舎の中に消えて行ってしまった。
「……マジで書けって言うのかよ……」
――滝沢春希。♀。俺の幼馴染で、風紀委員。
奴は、本当に鬼である。
二年三組、教室。
私は担任の先生の隣に立っていた。先生が私の後ろの黒板に私の名前を書いていく。
「はい、今日からこのクラスに転校してきた三崎留衣さんです。みなさん、仲良くしてあげてくださいね! はい、三崎さん、自己紹介」
担任の先生から会話のバトンを渡される。
「え、えっと……」
サッとクラスの中を見回す。廊下側後ろの方の席にハルキさんの姿が見えた。小さく手を振っている。そして、横二つの席が空いている。どうやら卓磨君はまだ教室に来ていないようだ。
「三崎さん、どうしたの?」
先生が何もしゃべらない私に心配そうに話しかけてきた。
「あ、いえ、何でもないです!」
「そ、そう、じゃあ、簡単にでいいから自己紹介、お願いしますね」
「はい」
いけない、ちゃんと話さないと。この自己紹介でちゃんと皆に私の名前を覚えてもらって、楽しい楽しいスクールライフを作ろうって決めて昨日の夜何回も練習したんだからっ!
「え、えっと。こ、このたび、この学校に転校してきましたみ、三崎りゅいでしゅ! よ、よろしくおねがいしまひゅ!」
あぅ、また噛んじゃった。
「「「……」」」
沈黙。
ただひたすらに沈黙。
誰も喋ることはなく、皆がずっと私の方どうしたものかという目線で見てくる。
「ううっ……」
皆の視線が刺さる。この空気、苦手だよぅ……
私がそう思っていた時だった。
「はいっ! せんせー!」
一つの手が上がるとともにさっき聞いたばかりの声が聞こえた。
「はい、何ですか? 滝沢さん」
「三崎さんに質問、いいですかー?」
ハルキに渡された三枚の遅刻届を書いて提出した後、俺は頭を擦りながら自分の教室に向かって歩いていた。
「ちくしょー、なんで俺があのゴリラに殴られなきゃならないんだ……三枚出せって言ったのはハルキだろうが……」
やりようのない不満を吐き出している内に、すぐ教室の前に着く。
教室は、やけにうるさかった。
「まぁ、それもそうか。転校生、来てるんだもんな……」
恐らく、中では留衣がとちって噛み噛みな自己紹介でもして、皆にいいようにいぢられているのだろう。
留衣がいじられている姿を想像する。
相当そそる。
「……面白そうじゃねぇか」
そう思った俺は、早くその輪の中に加わりたい一心で、何もためらうことなく教室に入って行った。
「すいません! 遅れましたっ!」
「……」
「あ……」
「「「……」」」
先生、留衣、クラスメートの視線が一斉に俺に集中する。心なしか、何だか普段遅刻して入る時よりも冷たい視線が浴びせられている気がする。
中には、特に、ハルキと留衣を除くクラスの女子からは何かとんでもない物を見るような目線が送られている。
「あの……えっと……何か?」
戸惑う俺。と、そこに沈黙を打ち破るかの如くハルキが声を上げた。
「諸君! お待たせしました! 今話題沸騰中の許すまじ女の敵。かつ、転校初日の三崎さんの唇を奪った挙句膝蹴りを食らって失神した情けない男、香月卓磨君の御登場だーっ!」
その声とともに声にならない声がクラス中から響く。
「んなっ……」
突然の言葉を処理できず絶句する俺。
「貴様、いつかやるとは思っていたが……」
「最っ低!」
「大体お前には滝沢さんがいるというのに……」
「転校生をいきなり落とそうとする、そこにしびれる憧れるぅ!」
「○ね!」
そんな俺の状態はお構いなくクラス中から声が浴びせられる。
「え、あ、え?」
「あはは、困ってるねハルキ!」
事の発端が第三者であるかのように言う。
「お前が言ったことのせいだろうがっ!」
ハルキにつかみかかるように言う。
「おいおい、女の子に手を上げちゃダメだって教わらなかったのかい?」
「んなことどうでもいい! これはどういうことなんだ!」
俺は言葉への怒気を弱めることなくハルキを問いただす。
「いやね、ボクが校門に向かった時、ハルキはのびていて、三崎さんが近くでへたりこんでいた。その状況から推察できる事象と、三崎さんへの質問によって得られた彼女とタクマが校門を乗り越えようとしたことと、それに失敗してしまったことを踏まえて推理する、その結果によって得られた結論がさっきの発言ということさ!」
自信満々にそう答えるハルキ。
「あぅあぅ……」
と、教壇の方でどうすればいいのかわからずおろおろしている留衣。
「テメェ、勝手な推論で語るんじゃねぇよ! それが俺だけの話ならいい。だが、他を巻き込むんじゃねぇ!」
俺はそう言って、留衣の方に視線を送る。
「……」
留衣は何を言ったらいいのかわからないというような困惑した顔で俺の方を見ていた。
「へぇ、じゃあ実際はどうなんだい?」
自分の考えに相当の自信でもあるのだろう。どこが違うといわんばかりの目でハルキは俺を見てくる。
「確かに校門を越えようとしたのも事実だし、失敗したのも事実だよ。だけどな、落下してきたのは留衣の方で俺が襲ったなんて事実はどこにも……」
「そ、そうです! 失敗して落下しちゃったのは私で、その時ちょっとお互いの唇が触れちゃった位なんですから!」
「「え……」」「ほぅ……」
留衣の発言に再び教室は静まり返る。
そして、先程の俺に浴びせられたような視線が留衣に注がれる。
「え、あ、あの、私、何かマズい事言いました?」
自分の発言したことが何なのか、どうやら全くわかってないらしい。
「三崎さん……さっきの自分の発言、もう一度発言してくれないかな?」
ハルキが言う。
「え、あ、はい。えっと、『失敗して落下しちゃったのは私で、その時ちょっと……』……っ!」
言葉を言い終わる前に留衣は顔を真っ赤にして口を両手でふさいでしまった。
「……」
「……」
「「……」」
留衣以外の全員が無言になる。
そして。
「……諸君! 大変長らくお待たせしました! 今話題沸騰中! 転校初日の三崎さんに唇を奪われた揚句失神させられた情けない男! それが香月卓磨だーっ!」
その声とともに再び声にならない声がクラス中から響いた。
その後、俺がどうなったかなど言うまでもないだろう。
「さて、転校生との壮絶な出会いによって大きな転機が訪れた俺の人生、果たしてどうなるのやら」
「いや、ココはまさかの勢いに任せて持ったボクとの関係が原因で『当確でました! 責任とってね』ルートしかないだろう?」
「それは勘弁だ。倫理的にも俺の精神的にも」
「さて、次回はこのドタバタを聞きつけ、正義感ある少女が卓磨君に挑戦状をたたきつけるお話です。全く誤解の因縁をつきつけられる卓磨君、はてさて、どうなることやら」
「出来る限り平穏無事であることを祈りたいんだがな」
「まぁぶっちゃけ続かないんだけどね。という訳でタクマ、早速ボクとゴール……」
「しねぇよ!」「それはダメ―っ!」
ふぃん。