始まり―出会い―
強烈な腐臭。
それが、少年が最初に感じた感覚だった。
「………………」
――ああ、気持ち悪い。
急激に込み上げてくる吐き気を必死に堪えながら、少年は上半身を起こす。
直後、右のこめかみ辺りに鈍痛を覚えて、自分がヤマネコと名乗る黒服部隊の隊長に蹴り落とされたのだと思い出した。
しかし、どうやらこの吐き気は、頭部にダメージを負ってのものではなさそうだ。
「…………」
そろそろ我慢できなくなって口元を押さえようとして、気が付いた。
ガスマスクがない。
――どおりで吐き気がするほど臭い訳だ。
少年は頭の中で冷静に納得しながら、急いで周囲を見回す。すると、案外近くで見つかった。
というより、すぐ傍に置いてあった。
疑問に思いながら、取り敢えず疑問を横に置いて、ガスマスクを着ける。
『……フー』
安堵の息をフシューと吐いて、少年は改めて状況を整理する為に辺りを見渡した。
四方は所々に穴の開いたトタンの壁。狭い中に布団と、後は瓦礫が幾つか散らばっているだけだった。廃墟、というか風化した掘っ立て小屋といった風情だ。
更に遠くに視線を向ける。
少年が目覚めた場所は、どうやら【ガストロ商会】の近くらしい。それは、雨風に曝されてボロボロになった薄いトタン壁の穴から見える極彩色のビルから分かる。
逆に言えば、今少年がいる場所は、ガストロ商会のビルの真下ではない、ということだ。
それが示唆する意味は、一つ。
「おお、起きてたか。見た目によらず丈夫だな」
『…………アンタ、誰ダ?』
風化小屋の入口方面から男口調の若い女性の声が聞こえてきて、少年がやや警戒しなから視線を向け、問いかける。
「ハハハ、そう警戒するな。私はお前の命の恩人だぞ?」
返ってきたのは、軽快な笑い声と愉快そうに笑う少女の笑顔だった。
若い、どれだけ上に見ても20代前半以上は有り得ないだろう。見たまんまのイメージでは、17~8才くらいだろうか。
腰まで伸ばしたストレートの美しい金髪と澄んだ青眼。体つきは良く言えばスレンダー、遠まわしにいえば凹凸の少ない、悪く言えば発達途上の体型だった。身長は女性の中では高い方の、170前後だろう。
後頭部で金髪を一房束ねている、少女の頭より一回り小さいくらいのサイズの紅いリボンが、余計に少女をお人形にしか見えない外見にしていた。
ただし、服装が黒のパンツスーツ姿でなければ、だが。
「それにしても、吃驚したぞ。いきなりガストロタワーの上から人が降ってくるんだからな」
アハハ、と笑う少女の声は、やはり少女のそれそのものなのだが、口調が口調だけに、そして服装が服装だけに少女感の足りない少女だった。
『……質問の答えハ?』
少女のフレンドリーでフランクな態度を一切無視して、少年は歪みの掛かった声で不愛想に質問を重ねる。
「……女性に名を尋ねる時は、まず自分から名乗るものだと思うが?」
突然、女性の表情が明るい笑みから薄い微笑に変わる。
少年はその返事を聞いて、無言で立ち上がった。
『サヨーナラ』
そして軽く手を振ると、少女の横をすり抜けて風化小屋の入口に向か――
「って待たないかっ! そこは普通名乗る場面だろう!」
――おうとして、少女に勢い良く右腕を掴まれて引き止められた。
慌てた風の少女を面倒そうに横目で見て、フシュゥとガスマスクから息を吐き出す。
『オレは二度質問シタ。アンタは二度はぐらかシタ。三度目はナい、ってやつダ』
「い、意外にシビアだな……しかし、仏の顔も三度までと言うだろう、チャンスをくれ」
『オレの顔が仏に見えるのカ?』
ガスマスク少年に無表情で問われ、少女はうぐ、と言葉を積もらせた。重たい印象を受ける黒髪を伸ばし放題にして目元を隠し、髪の隙間から覗く紅眼は淀んでいて感情が映りづらい。そして顔の下半分はガスマスクに覆われている。
どこをどう頑張って解釈しても、仏どころか悪魔である。
言葉に困った少女は、口を開く代わりに腕を掴む手に込めている力を強める。
「せめて、名前を教えてくれ」
『シン』
「へ?」
不意打ちに放たれた言葉に、少女が手の力を抜いてしまう。その隙を付いて、少年が手を振り払い、スタスタと小屋を出ていこうとして、思い出したように立ち止まって少しだけ振り返る。
『名乗ったゾ』
それだけ言って、少年――――シンは風化小屋から出ていった。
☠
「なぁシン、訊いていいかい?」
『………………』
「聞いているのか?」
『…………………………』
「おい、人の話を無視するな」
『……フシュー…………』
――なんで、付いてきてんダ……。
瓦礫と死体、崩れかけた石壁の家と崩れた廃墟、破れた赤い旗や黄色い旗が乾いた風に揺れる区画、九龍街路。
瓦礫の上や崩れかけた石壁の家の窓からこちらを睨む黄色く濁った目玉たちを全く意識することもなく、風化小屋で出会った少女はシンに嬉々として話しかけていた。
最初は無視を決め込んでいたが、いい加減、小煩く感じてきていた。
『お前、ナんナんダ』
「ん? 私か? 私はサーシャだ」
『名前を訊いてるんじゃナイ』
噛み合わない会話に、シンはもう一度フシューと息を吐く。
「名前じゃないとすると、所属か? フフフ、覚悟して聞くんだな。きっと驚くぞ!」
しかも、サーシャというらしい少女は何やら勝手に盛り上がってしまっている。
「私はな――」
『興味ナイ』
声高に名乗りを上げようとしたサーシャの言葉をバッサリと切り捨てて、シンは少女の人形のような顔を半眼で睨む。
『オレはナ、別にお前を受け入れて名乗った訳じゃナイ。寧ろ逆ダ』
「照れるな照れるな」
一瞬、割と本気で殴りたい衝動に駆られたが、それを意識した瞬間、シンは無気力に苛まれた。
『……もういイ』
色々とどうでも良くなって、何かを期待して目を輝かせているサーシャを無視して、歩を進める。シンの後を、幾ばくかがっかりした雰囲気のサーシャが追う。
暫くの間、二人は無言で九龍街路を歩いていた。耳に痛い程の静寂。周囲には黄ばんだ眼球の九龍人が多数いるが、彼らは自分たちに危機が訪れない限り、自発的な行動を起こすことはない。この場合の自発的な行動とは、身じろぎすら含まれる。
ただし、彼らの眼球は全て、シンとサーシャを捉えている。
彼らの緑掛かった、皮と骨だけの体や頭には、無数の目玉が付いてる。それらを自由に開閉して、彼らは周囲の様子を探っているのだ。
そんな九龍人たちの主街区である九龍街路を、二人はひたすら進む。
シンは一応、明確な目的地があるのだが、サーシャはただシンについて行っているだけだった。
歩くこと約10分。幾つもの瓦礫や九龍人を通り過ぎた先に、一角だけやけに目立つ場所があった。
石壁の家と家の間の隙間、それ自体は珍しくも何ともないが、その場所には、大量の赤い旗が地面や石壁から生えていた。
その旗をくぐって、シンは迷いなく壁の間を通っていく。見た目だけなら上品そうなサーシャも、臆することなくその後に続く。
壁に挟まれた通路の先には、少しだけ拓けた空間があった。
大体10メートル四方くらいの、東西南北を石壁に囲まれた空間。その空間の、二人が通ってきた通路――つまり出入口から見て奥の方には、火の点いていないカンテラと、割と清潔な寝袋だけがあった。
他には、何もない。
「……ここは?」
沈黙に耐えていたサーシャが、耐え切れなくなって疑問を口にする。
問いかけに、シンは振り向きもせずに答える。
『オレの寝床』
「……フレンドリーが売りの私でも、出会ったその日に股を開くほど尻軽じゃないぞ?」
『………………』
サーシャの下らないジョークを、シンは濁った無感情の紅眼で黙殺した。
「すまない。忘れてくれ」
羞恥からか、サーシャは白い肌をやや紅潮させて冷めた視線から目を逸らした。果たしてその羞恥は、下品なことを宣ったことに対するものか、下らないジョークを言ってしまったことに対するものか。
たぶん、後者だった。
シンは応えずに寝袋の上に腰を下ろすと、サーシャを見上げて、
『デ、ナんで付いてきたんダ?』
「うん、スルーなんだね」
『デ、ナんで付いてきたんダ?』
「…………」
ジィィ、と、シンとサーシャが見つめ合う。
2秒ほどで飽きたシンがカンテラを弄り出した。
「……君って、面白くないな」
『デ、ナんで付いてきたんダ?』
「村人Aって柄じゃないだろうに……全く」
訳の分からない事を呟いて、サーシャは観念したように息を吐き出した。
「率直に言おう。私と一緒に来てくれ」
『…………』
シンは、カンテラを弄る手を止めない。
言外の拒否、にも取れる行動だ。
「君に興味がある」
サーシャは更に言葉を重ねる。
「どうだ? 後悔はさせない」
『……』
「初めて会った人間を信用できないというのなら、信用してくれなくてもいい。ただ騙されたと思って――」
なおも言い募ろうとするサーシャに、シンが唐突にカンテラを投げた。「――っと?」
『それ、直せるカ? 壊れたままナんダ』
「いや、まあカンテラくらいなら直せるが……マイペースだな、君は」
シンの言動に呆れ、気勢を削がれたサーシャの顔に苦笑いが浮かぶ。
『じゃ、行こうカ』
「ああ。――――って、何処にだ?」
立ち上がったシンに促されて無意識に頷いてから、サーシャは慌ててシンの後を追う。再び石壁に挟まれた通路を進みながら、シンが怪訝そうな顔で振り返る。
『付いてきて欲シいんだロ? 案内、ヨロシク』
何処までもマイペースなシンの言動に、サーシャは呆気に取られ、
「……ハハハッ。前言撤回だ……フフ」
耐え切れなくなったように笑い出した。
『…………』
「やっぱり君は面白いよ。見立て通りだ」
サーシャの意味深なセリフにも、シンは、表情一つ変えなかった。
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