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音楽と書いて《しゅくてき》と読む

作者: 黒木猫人

 ――音楽なんて、地球上から滅びて無くなればいい。


「本田ってさー、ほかのことは何でも出来るのに、リコーダーだけはへったクソだよなー」

 小学校の時、居残りで一人、リコーダーの練習をやらされている俺のところへ、クラスメイトの女子がやって来て、言った。

「うるさい、黙れ。ここからとっとと消え失せろ」

 わざわざ放課後、音楽室まで来て、本当に嫌味な女だと思う。

「消えろなんて、人に言うなよなー。もしも死んで消えちゃったらどうするの? 後味悪いだろー?」

 黙れ馬鹿。俺より勉強も、運動も出来ない癖に。

「何しに来たのか知らないが、練習の邪魔だ。出て行け」

「いやなこった」

 べー、と舌を出す彼女。ちなみに名前は、小森明日奈と言う。彼女はランドセルを適当な机の上に置いて、俺の前の席に腰掛ける。

「音楽は、私がゆいいつ本田にかてるものだもん。だから、出て行かない。ここにいることで、私は本田にかつことが出来る」

 頭に血が昇る。怒りでこめかみの血管がぶち切れそうになる。

 言い訳したくても出来なくて、俺はひたすら、リコーダーを鳴らし続ける。

 知識はある。理解もしている。なのに、吹くリコーダーの音はぎこちなく、リズムも音程もことごとく外れ続ける。

 クラスの女子のリーダー的存在で、男子女子問わず慕われる少女は、俺の前から消えようとしない。

 くそっ、くそくそくそくそくそくそ!

 馬鹿の癖に! テストで百点なんか取ったことない癖に! お前が出来るのは運動だけじゃないか!

 俺は勉強も運動も両方出来る! しかも、お前よりも! マラソンだって、球技だって、お前に負けたことは一度も無い!

 音楽さえ無ければ! この世に音楽さえ存在していなければ、こんな惨めな想いはせずに済んだんだ!

 大嫌いだ。俺の通知表のオールA評価を阻み、こんな屈辱を味合わせて来る音楽も、馬鹿の癖にクラスの皆から人気があって、その癖俺を妬んで来るこいつも。

 俺の前から消えろ、今すぐ!




 成績優秀、文武両道を自負する俺――本田達雄には、昔から相容れないものが二つある。

 その一つが『音楽』。

 図画工作や、美術は出来るのに、この音楽というジャンルだけは、何をどうやっても上手く行かない。

 知識は問題無く頭に入って来る。中学、高校共に、ペーパーテストで困ったことは一度も無い。ケアレスミスや、マニアックな問題が出て来ない限り、満点を取れる自信がある。

 だが、実践となると、途端に手も足も出なくなる。頭では理解していても、全然上手く行かない。歌を唄えば、音を外し、リズムは狂い、クラスメイト達に「音痴だね」と言われ、苦笑いを浮かべた先生に「残って練習しよう」と肩を叩かれる。楽器も同じ。リコーダー、ピアニカ、木琴、シンバル、トライアングル、カスタネット、音の出る森羅万象が俺を見放す。綺麗な音が絶対に出て来ない。リコーダーの授業で、音楽の先生に「本田くんのリコーダー、不良品かしら」と言われた時は、恥ずかしくて、悔しくて、家で枕を濡らしたこともあった。

 小学校、中学校において、音楽は必須科目であるが故に、俺は通知表で一度たりともオールAやオール5を取ったことが無い。必ず実践で足を引っ張られる。

 『音楽』はまさに、俺の宿敵と言える存在だった。俺にとっての不協和音的存在。

「そんなわけで、週一回の選択授業を、音楽、美術、書道の中から一つ選んで下さい。提出は来週の月曜日。じゃあ皆、よろしくねー」

 担任の若い女性教師が、にこやかに言った。

 高校二年生の始業式が明けての火曜日。一年生の時と異なる担任とクラスメイト達もそうだが、何より選択授業の希望用紙を前にして、俺は学年が一つ上がったのだということを実感する。

 チャイムが鳴って、六限目――選択授業の時間が終了。今回は最初ということで、単なるガイダンスだった。先生が教室を出て行き、机の上に広げた教科書やノートを閉じていると、離れた席で立ち上がった一人の女子生徒が、こちらに近寄って来た。

「おーい、本田ー」

 ウザイのが来た。俺は「ちっ」と舌打ちをして、視線を逸らす。

「何の用だ」

「舌打ちしなくてもいいじゃんかよー。私が本田に何かしたか?」

「別に」

「冷たいなぁー。そりゃあ、小学校の時には多少、剥きになってた部分があるけどさぁ私も。でも今は、本田と仲良くしたいと思ってるんだよ、マジで。同じ高校、同じクラスで二年目だぜ? 昔のことは綺麗さっぱり水に流して、今年こそ友好な関係を築こうじゃないか」

「嫌だといつも言ってるだろ」

 俺は女子生徒を睨み付ける。

 俺がこの世で相容れないものの二つ目、小森明日奈。

 身長百五十七センチ、髪は染めておらず黒色で、髪型は小学校時代から変わらないツインテール。やや童顔気味だが、腹の立つことにパーツの形と並びは整っており、大きく丸い瞳は可愛らしいと言えなくも無い。スタイルは比較的良好。胸はEカップで、自慢ポイントだと自分で言っていた。

 高校生となった今も、男女問わず人気を集めている。

 小学校、中学校共に、成績はそこまで良く無いはずだったのだが、俺と同じ進学校を受けて合格しやがった。しかも、何の因果か、二年連続同じクラス。

「――お前と話してると、アレルギー症状みたいに鳥肌が立つんだよ」

「それってまさか、恋じゃね!?」

「一発殴っていいか?」

「うわっ、嘘だよ嘘! ……なんでそう、私に対してだけはトゲトゲしいかな。他の女の子には優しいのに」

 口先を尖らせて、しゅんとなる小森。

 そんなもの、決まっている。

 音楽と同じく、小森明日奈も俺の宿敵だからだ。

 小学校時代、俺に屈辱を味合わせた少女。俺の前の席に座り、壊滅的なリコーダーの音色に耳を澄ませて、勝ち誇こっていたこいつ。

 俺はあの日、こいつに敗北したのだ。

「とにかく、俺に話し掛けるな」

「そう釣れないことを言わないでさー。本田はさ、選択科目はどうすんの?」

「どうしようと俺の勝手だろ」

「教えてよー。いいじゃん、減るもんじゃなし。ちなみに私はさ、音楽を選択しようと思ってるんだ。ほら、私軽音部じゃん?」

 小森はつくづく、俺の嫌な琴線に触れて来る女だった。

 馬鹿の癖に、俺と同じ進学校に合格したこともそうだし、二年連続同じクラスなのもそう。しかし、何よりイラッとするのが、中学、高校と軽音楽部に所属していることだった。

 俺がこの世で相容れないもの――『小森明日奈』と『音楽』のコラボレーション。最悪にして最凶の組み合わせ。

 屈託の無いように見える笑顔の裏で、実は俺に嫌がらせをする為に、わざとやっているのではなかろうかと、常々思う。

「そうそう、軽音部というワードで、話は変わるんだけどさー。今週の土曜日、体育館で新歓ライブやるんだよね」

「あっそ」

 全く興味が無いので、適当に返事をしてやると、「ほい」と目の前に一枚の紙が差し出される。

「なんだこれは」

「新歓ライブの上級生用チケット。これがあれば、一年生じゃなくても体育館に入ることが出来る。普通は申請しないと手に入らないんだけど、偶然余ってるから、これを本田に譲ってあげよう」

「いらん」

 はっきりと拒絶の意思を示すが、小森は「まあまあ、そう仰らずに」と、俺の制服の胸ポケットにチケットを突っ込んで来る。

「何すんだ! 気安く触んな!」

 頭のツインテールの左片方を掴んで、引っ張る。彼女は「痛でででででで!」と声を上げながらも、

「私、去年の文化祭のライブよりも、ギター弾くのが上手くなったんだよ」

「知らねぇよ、見てねぇし!」

「今年はついに、ヴォーカルもやらせてもらえることになってさ。本田が音楽嫌いのは知ってるけど、騙されたと思って見に来てよ」

 俺は音楽だけじゃなくて、お前のことも嫌いなんだよ! と頭のつむじに言ってやりたい。

 こちらの態度で、いい加減そのことに気付いて欲しい。口で直接言わないのは、険悪なムードになるのを避ける為だ。自然に距離を取って、自然に会話をしなくなるのが、一番良い。だから、気付け。

 ツインテールを離し、俺はポケットに捻じ込まれたチケットを取り出して、突き返す。

「新歓ライブには、別の奴を誘え。俺は絶対に行かない」

「うー、痛いー。……分かったよ。でも、せっかくだから、チケットは受け取ってよ。ひょっとしたら、途中で気が変わるかもしれないし」

「あり得ない」

 プロミュージシャンのライブにさえ、欠片の魅力も感じない俺が、高校生の素人が行うライブに興味を持つはずが無い。

 大嫌いな音楽とこいつに時間を取られるよりも、家で授業の予習復習や、ジムに行って筋トレをしていた方が、俺にとっては何万倍も有意義で楽しい。

「だとしても、別に参加を強制するわけではないからさ。お願い! せめてチケットだけは受け取ってよ!」

 手の平を合わせて、頭まで下げる小森。一緒にツインテールも垂れ下がる。

 なんでそこまで新歓ライブに来させようとするのか。全く意味が分からない。

「チケットを受け取るだけでいいんだな?」

 これ以上のやり取りは、面倒臭くなりそうだったので、仕方なく受け取ってやることにする。

 所詮は一枚の薄い紙切れ。何の強制力があるわけでもない。ここはひとまず受け取っておいて、邪魔なら後でゴミ箱に捨ててしまえばいい。

「よっしゃあ!」

 ぐっと拳を握り締め、ガッツポーズをする小森。

 その満面の笑顔を見て、今すぐにでもチケットを真っ二つに引き裂きたくなる。

 なんだその喜び様。まるで俺が、こいつに負けたみたいじゃないか。

 イライラして、彼女に言う。

「はしゃぐな。チケットがあっても、俺はライブには行かない」

「いやー、まだまだこれからですぜ、本田くん! 戦いは今、始まったばかりですから!」

 何の戦いだ。

 やがて、帰りのHRの始まりを告げるチャイムが鳴る。

「ちゃんとチケット持っててよ、本田!」

 元気に手を振って、小森は自分の席へと戻って行く。

 俺は溜め息を吐いてから、手に持った新歓ライブのチケットに目をやる。

 開催日時は、今週の土曜日、放課後の午後一時から。

「馬鹿馬鹿しい」

 チケットを制服の右ポケットに突っ込んだ後で、ペンケースからシャープペンシルを取り出し、選択授業の希望用紙に向き直る。

 自分からわざわざ嫌いな物に首を突っ込む必要性なんて、どこにも無い。避けられるなら万々歳だ。

 『美術』か『書道』で一瞬考えて、俺は『書道』の横の空欄に丸を付けた。




 翌日の水曜日。

 昼休みに、小森が、今年から一緒のクラスになった女子生徒を連れて来て、俺に紹介した。

「えっと、この子は軽音部で、私と同じバンドをやってる宮島翔子」

「よろしくね」

 彼女はまず、背が高かった。百七十センチくらいある。明るい色をしたロングヘアーは、ややウェーブが掛かっており、顔立ちは驚く程に整っていて、中世的な印象を受ける。切れ長の瞳がセクシーで、小森を可愛らしいと表現するならば、この宮島翔子は美しいという表現が似合う。胸は控えめだが、その分腰や手足が細く、まるでモデルのような体型をしていた。

「本田くんのことはよく知ってるわ。イケメンで、学園一の秀才って有名だからね」

 そう言われて、悪い気分はしない。

 宮島が握手を求めて来るので、俺は快くそれに応える。

「こちらこそよろしく。クラスメイト同士、仲良くしてくれると嬉しい」

「あら、明日奈から聞いてたよりも、礼儀正しいのね」

 俺は横の小森を睨み付ける。

 彼女はそっぽを向いて、口笛を吹く。

「それで、小森。俺に一体何の用だ」

「いやー、ほら、昨日も言ったけど、私としては、今年こそ本田と友好的な関係を築きたいわけ。だから、翔子も混ぜて、お昼ご飯でも一緒にどうかなぁ、と」

「と言いつつ、軽音部のメンバーを使って、俺を新歓ライブに誘う腹だろ」

「うぐっ……!」

 大きな瞳を見開いて、一歩後退さる小森。

 宮島が「だから言ったじゃない、明日奈」と彼女を見やり、、

「どう考えてもバレるって。本田くん、頭良いんだから」

「くそっ……! こうなったら――」

 小森は俺の前に立ち、人差し指を向けて来る。

「本田! お前の言う通りだ。私はお前を新歓ライブに誘う為に、翔子を呼んだんだ! というわけで、新歓ライブに来い!」

 完全に開き直りだった。俺は首を横に振る。

「全くもって意味が分からん」

「いいじゃんケチ! お金が掛かるわけじゃないんだから、見に来いよ!」

「金は掛からなくとも、時間が掛かるだろ」

 ふと、宮島が訊いて来る。

「本田くんが音楽を嫌いっていうのは、本当なの?」

「え?」

 俺の心臓が大きく脈打つ。

 何故それを、宮島が知っているのか。

「明日奈からそうだって聞いたんだけど」

「小森、お前ぇ……!」

 殺意が湧いた。小森のツインテールの右片方を掴み、引っ張る。

「痛ででででででで! ご、ごめん、本田! 決して怒らせるつもりじゃ……!」

 人様の弱点をバラすとは、やってくれる。俺に喧嘩を売ってるとしか思えない。

 そこへ宮島が割って入る。

「待って、本田くん。違うのよ。私から明日奈に訊いたの」

「どういうことだ?」

「だって、本田くんが新歓ライブに来ることを拒むのには、何か理由があるわけでしょ? それを聞かない事には、明日奈を手伝うにも手伝えないじゃない」

 理屈は分からなくもない。

「全く……」

 俺はため息を吐いて、ツインテールを離す。

 宮島は続ける。

「それで、新歓ライブの話なんだけど、私からも本田くんにお願いするわ。是非、見に来てくれないかしら。こう見えて、私達結構上手いのよ? 演奏を聴けば、もしかしたら本田くんも音楽を好きになれるかもしれない。あと、明日奈がヴォーカルとして歌うの。ライブを見たら、明日奈のことを見直すどころか、メロメロにされちゃうかもよ?」

 断じて無い。特に後者。

「考えてみてくれないかしら?」

 宮島は友好的な笑顔を俺に向けて来る。

 彼女の横では、「うんうん!」と頷きながら、小森が期待の眼差しを浮かべている。

 俺は迷うこと無く、答えた。

「悪いけど、遠慮させて貰う」

「えぇ――ッ!?」

 小森が露骨にショックそうな表情を浮かべて、叫ぶ。俺の机を、ばんっと叩いて、

「なんで!? 女の子二人して頼んでるんだから、来てくれたっていいじゃん!」

「行きたくないものは、行きたくない。大体、どうして俺なんだ」

「どうしてって?」

「嫌だと言ってる奴を、わざわざ新歓ライブに引きずり込む理由がどこにある? どうしても来て欲しいなら、まずその理由を言え。話はそれからだ」

「それは……!」

 口ごもる小森。俺の目を見て、何か言おうとし、俯いて、拳を握り締める。

 それから、ばっと顔を上げて、言った。

「わ、私はまだ、諦めないぞ! 行くぞ、翔子!」

「え? ちょっと、明日奈、いいの!?」

 戸惑う宮島の手を引いて、小森は教室を出て行く。

「何なんだ一体……」

 とり残された俺は、首を傾げるしか無かった。



 

 ――本田達雄様へ。

 突然のお手紙、申し訳ありません。直接お会いすることも考えたのですが、どうしても勇気を出せず、こんな形で気持ちを伝えることになってしまいました。どうかそのことをお許し下さい。

 率直ではありますが、私は本田くんのことが好きです。

 あれはまだ、去年の春のこと――。




「本田ー! おはよー!」

 木曜日の朝、二年生玄関の下駄箱の前で立ち止まっていると、相容れぬ少女の声がした。

 俺は振り返り、答える。

「さようなら」

「あれ!? 出会いの挨拶をしたはずなのに、何故か別れの挨拶が返って来たよ!?」

 そこに居たのは、我が宿敵・小森明日奈。スクールバッグの他に、軽音部らしくギターケースを背負っている。

「うるさい。挨拶してやっただけでもありがたいと思え」

「冷たいなぁー。まだ春なのに、冬みたいな肌寒さだよ」

「精神世界でダイヤモンドダストが見れるくらいには、冷たく接したつもりだったんだが、まだ足りなかったようだな」

「本田! 新歓ライブ、見に来いよな!」

「何の脈絡も無く話を進めるな」

「マジでか! 来てくれるのか、やったぁ!」

「そして、勝手に人の回答を捏造するな」

 小森は「くそう、また失敗かー」と苦い表情を浮かべていたが、ふと、俺の手元に視線を向ける。

「本田、なんだそれ?」

「別に」

 俺は広げていた紙を折り畳んで、元の便箋に仕舞う。

「あっ、さてはそれ、ラブレター!?」

 急に真面目な顔になった小森は、俺の手から便箋を奪い取ろうとする。

 が、させない。

 俺は彼女の頭を鷲掴みにし、押し止める。

「なに取ろうとしてる」

「いや、他人のラブレターって、凄く読みたくない?」

 小森の頭を押し返し、便箋を制服の上着のポケットに入れる。

 彼女は頬を膨らませて、

「ぶー。減るもんじゃなし、読ませてくれたっていいじゃん」

「誰が読ませるか。相手の人が可哀想だろ。お前は自分が書いたラブレターを、赤の他人に読まれたいと思うか?」

「それは……嫌だけど……」

 俺は半端に履いていた上履きに、踵を入れ、昇降口に向かって歩き出す。

「あっ、本田! ちょっと待ってよ!」

 小森が慌てて靴を脱ぎ、下駄箱から上履きを取り出して、履き替える。

 足早に付いて来て、横に並んだ。

「本田ってさー、高校に入ってからモテるようになったよね」

「音楽が必須科目じゃ無くなったからな」

 小学校や中学校では、音楽の授業における歌や楽器の演奏の壊滅的下手さにより、男子には馬鹿にされ、女子には「マジ幻滅」と陰口を叩かれていた。

 しかし、高校に入って、音楽が無くなってからは、俺を邪魔するものは小森だけとなり、通知表でオール5を取れるようになった。男子達は「本田って、凄いよな」と言ってくれるようになり、友達も出来た。

 それからだ。女子に呼び出されて告白されたり、ラブレターを貰ったりするようになったのは。

 音楽と関わりさえしなければ、俺の人生はこんなにも明るいのだと知った。

「ずっと前から訊きたいことがあったんだけどさー。本田って女子からかなりアタックされてるじゃん?」

「ああ、自分でも驚く程にな」

「どうして誰とも付き合わないの?」

「付き合いたいと思える女子が居ないからだ」

 単純な理由だった。アタックして来る女子達の中で、付き合いたい思える子が、一人も居なかった。それだけだ。

「本田が付き合いたい女子って、どんなのさ?」

「それをお前に答える義務は無い」

「えー、いいじゃん。教えてよー」

 階段を登りきり、二年生の教室が並ぶ廊下に出たところで、小森が俺の前に回り込む。邪魔くせぇ。

 横切ろうとすると、再び前に回り込まれる。

「ねー、本田ってばさー」

 彼女は露骨に瞳をキラキラさせる。うわぁ、ウザい。

 俺はため息を吐く。仕方ないので、教えてやることにした。

「俺が付き合いたいのは――」

「うんうん」

「俺の欠点を理解してくれる女の子だ」

「欠点……?」

 高校に入ってからアタックして来る女子達のことを、俺は信用出来ないでいた。

 俺だって普通の男子だ。女子から告白されれば嬉しいし、付き合ってみたいとも思う。

 けど、俺は知っている。一度致命的な欠点が露見すれば、どうなるのかを。手の平を返したように、冷たい目をするのだ、どいつもこいつも。小学校でも、中学校でも、そうだった。

 それを知っているから、ろくに話したことも無い、俺の表面的な部分しか知らないであろう女子から告白されても、付き合う気になれなかった。

「まぁ、ついでに言うなら、聡明で、気が利いて、ウザくない女子を望むよ、俺は」

 目の前のツインテール少女と正反対のことを言ってやる。

 ところが、彼女は、ぱぁっと表情と輝かせて、

「それって私じゃね!?」

「今すぐ脳外科に行って来い」

 きっと重大な疾患が見つかることだろう。

 小森はがっくりと肩を落とす。

「何もそこまで言わなくても……」

 彼女を無視して、俺は廊下を進み、教室に辿り着く。

 扉を開けたところで、ちょうど一人の女子生徒と対面する。

 黒髪のストレートロングヘアーに、黒縁の眼鏡。彼女は俺の顔を見ると、頬を赤くする。

「お、おはよう、本田くん」

「ああ、おはよう、委員長」

「あっ、どうぞ」

 はっと気付いたように脇に退き、道を開けてくれる。

 俺は「ありがとう」とお礼を言って、教室の中に入る。

 委員長は「い、いえ」と小さく答えて、廊下へと出て行く。

 その後に、入れ違いで小森がやって来る。彼女は廊下の方を見ながら、

「何か今、委員長が廊下を慌てて走って行ったけど……どうかしたの?」

「……聡明で、気が利くのは確かだな。ウザくもないし」

「え? 何? ひょっとして私?」

「お前じゃねぇよ」

 小森は俺を見、それからまた廊下の方を眺めて、「ふぅーん」と曖昧な返事をした。




 重大な問題が起きた。

 四限目、体育の授業が終わり、昼休みが始まった時のことだった。

 教室に戻って来て、ジャージから制服に着替えた後、何気なく上着のポケットの中に手を入れると、ラブレターが無くなっていた。

「そんな馬鹿な……」

 どこかに落としたとでもいうのか。姿勢を低くして、席の周りを見回すが、便箋らしき物はどこにも無い。

 一体、どこに落としたのか。そもそも、いつポケットから無くなっていた?

 俺は冷静に思い返す。一限目から三限目までは、普通に授業で、教室から移動していない。

 つまり、落としたのなら、四限目が始まる前の着替えの時だが、それならば、周辺に落ちているはずだ。

 加えて――

「ん? どうした本田? 何か探し物か?」

 クラスの男子達は、きょとんとした様子で、こちらを見ている。

「いや……何でもない」

 俺は首を横に振る。

 もしも男子の内の誰かが拾っていたとしたら、物がラブレターであるだけに、もっと騒ぎになっているだろう。

 ということは、ラブレターが無くなった原因は『落としたこと』ではない。

(盗んだのか、誰かが? でも、誰が? 何の目的で?)

 制服の上着のポケットを探っていると、紙の感触がした。

 俺はそれを手に取り、ポケットから抜き取る。

 新歓ライブのチケットだった。月曜日に小森から貰って、そのまま入れっ放しになっていたやつ。

 ちょっと待てよ。上着のポケットの、右にラブレター、左に新歓ライブのチケットが入っていて、その内ラブレターだけがピンポイントで抜き取られていたってことは……。

「そういうことか……」

 俺は走って、教室から抜け出した。

 廊下で、制服姿の宮島と擦れ違う。

「あれ、本田くん、走ってどこ行くの?」

「ちょうどよかった。宮島――」

 俺は彼女に尋ねた。

「小森はどこにいる?」




 宮島に言われた通り、校舎の屋上に行くと、小森明日奈はそこにいた。

 隅の方に腰掛けて、ご丁寧にも、ラブレターを広げて読んでいた。

「小森!」

 俺が怒鳴ると、彼女はビクッと肩を震わせ、俺を見て、目を丸くした。

「げっ、本田……!」

「人のラブレターを盗んで読むとは、趣味が悪いと思わないのか?」

「ちっ、違っ、これは……!」

「誤魔化そうとしても無駄だ。俺の制服の上着から、ピンポイントでラブレターだけが盗まれてた。それはつまり、俺がラブレターを貰ったことを知っていて、かつ制服の上着の右ポケットにラブレターが入ってるのを知っている奴が、犯人ってことだ」

 それに該当するのは、小森ただ一人。

 彼女に近付き、見下ろす。

「……なんでこんなことをした?」

「そ、それは……」

「答えろ!」

 大声で怒鳴った。堪忍袋の尾はもう、今にもはち切れそうになっていた。

 小森は驚いたように、大きい瞳を見開く。

 俺が怒っていることを理解したのか、彼女は俯く。

「ど、どうしても気になったんだよ。ラブレターの中身が」

「なんで気になった?」

「誰から貰ったのかなって……思ったから」

「だとしてもだ。朝にも言ったよな? 自分が書いたラブレターを赤の他人に読まれて、嬉しい奴がいると思うか?」

「……」

 小森は答えない。

「やっていいことと、悪いことがある。そんなことの区別も出来ないのか、お前は?」

 一度怒りのメーターが振り切れると、堰を切ったかのように、次々と文句が溢れ出て来る。

「今回のことだけじゃない。いつもそうだ。お前はいつもいつも、俺の腹の立つことしかしない。わざわざ俺の同じ高校に進学して来るし、進学したら進学したで、二年も同じクラス! こっちは放って置いて欲しいのに、友達面して近付いて来るし! どれだけこっちが冷たく接しても、素っ気無い対応をしても、俺がふざけてやってると思ってる。分からないのか? いい加減気付けよ――」

 彼女に言った。

「俺はお前が大っ嫌いなんだよ!」

「え?」

 小森が顔を上げた。「何を言っているの?」というような、呆然とした表情。

 心底腹が立つ。こいつは、何も分かって無かったということだ。無意識で俺を苦しめて来た。

「じ、冗談だよね、本田? 私のこと、嫌いって……」

 彼女が手を伸ばして来る。掴んで欲しいとでも言わんばかりに。

 俺は一歩後ろに下がって、それを拒絶する。

「至って本気で言ってる。俺は小森が嫌いだった。昔っから」

「そんな……」

「逆に訊くけど、お前、俺に好かれるようなことを何か一つでもして来たか?」

「……」

 俺が小学校、中学校とクラスで孤立する一方で、小森はいつもクラスメイト達の輪の中心に居た。軽音楽部に入り、俺が大嫌いな音楽を奏で続けて来た。

 俺が出来ないことを平然とやって退けて来たのだ、こいつは。

 その度に、俺は敗北を味合わされた。何度も、何度も。

 腸が煮え繰り返って、心の中でいつも念じていた。

 頼むから、俺の前から消えてくれ、と。

「うっ……くっ……」

 小森はツインテールを垂らして、ポロポロと床に涙の雫を落とした。

「これで分かっただろ」

 俺は彼女の手元から、ラブレターを奪い取り、言う。

「俺はお前と音楽が嫌いなんだ。だから、新歓ライブなんて行きたくないし、興味も無い。関わり合いにもなりたく無い。はっきり言って、ウザい。だからもう、俺に話し掛けるな」

 背を向けて、俺は屋上を後にした。

 これでいいんだ。

 そもそも、今まで関わり合いを保って来たことの方がおかしかったのだ。

 相容れない、不協和音だと知っていながら、放置して来たこと自体がおかしい。

 嫌いな奴と関わる必要なんてどこにも無い。

 世の中には、どうやったって、合うことと合わないことがあるのだから。




 木曜日の昼休みに、小森は学校を早退した。

 軽音部の練習がどうなっているのかは知らない。

 そうして、翌日の金曜日、小森は学校を休んだ。

 さすがに困った様子で、軽音部の宮島翔子が、俺の席までやって来て、言った。

「ねぇ、本田くん。明日奈の欠席について何か知らないかしら?」

「知らない」

「携帯に連絡しても、全然繋がらなくて、困ってるのよ」

「……」

 小森の気持ちは分からない。けれど、昨日俺が投げ掛けた言葉は、相当なショックを与えたのではないかと思う。泣いていたし。

 でも、事実だ。俺が小森を嫌いなのは、紛れも無い事実。

 彼女がどうなろうと、軽音部のライブがどうなろうと、知ったことじゃない。

 俺には関係ない。

 忌々しい宿敵の片割れは、俺の前から消えて無くなったのだ。むしろ喜ぶべき結果。

 だというのに――。

 横で話す宮島に気付かれないように、俺は胸を押さえる。

(どうして、こんなにも空虚なんだ?)

 精神の大事な物をごっそりと持って行かれたような、胸にぽっかりと風穴が開いてしまったような、そんな感覚。

 激しい違和感。それが気持ち悪くて、全然喜べない。

 分からない。




 土曜日。新歓ライブの日。

 朝、教室の扉を勢い良く開け放った宮島翔子は、俺の姿を見るなり、怒鳴った。

「本田ぁぁぁ!」

 鬼のような形相で、俺を呼び捨てにし、駆け寄って来る。

 鞄を床に放り捨てながら、席の近くまで来ると、彼女は拳を振り被り、俺の左頬を思いっきり殴り飛ばした。

 椅子ごと倒れて、俺は床を転がる。左頬が焼けるように熱く、口の中が切れて痛い。

 くらくらする頭を振って、思考を正常に戻そうとしていると、続けて胸倉を掴まれ、引っ張り上げられる。

 切れ長の瞳を吊り上げ、怒りに表情を歪ませた宮島の顔が、視界に映った。

「あんた、明日奈になんかしたでしょ!?」

「いきなり何だ」

「明日奈があんな風になる原因なんて、あんた以外にあり得ない! 答えなさい! あんた、明日奈に何したの!?」

「お前に答える義務は無い」

「このっ……!」

 もう一発、顔面左をぶん殴られる。頭がチカチカする。

「やっぱりあんたが……! 何をしたのよ!? 明日奈に何を言ったのよ!? 答えなさいよ!」

 更に一発、拳が入る。こちらも段々、苛立ちが募って来る。

「あの子、新歓ライブにあんたが来るのを、凄く楽しみにしてたのに! それをあんたが全部ぶち壊して……! ふざけるんじゃないわよ!」

「……お前に、何が分かるんだよ……!」

 俺の何が。

「新歓ライブなんざ、俺は最初から、興味無いっつってんだろ! 小森やお前が来いって、ほざいてるだけで……! それを、俺がぶち壊しただと? ふざけろ!」

「あんたは何も分かって無い! あの子の何を考えてるとか、全然分かって無い! 分かろうともして無い!」

「分かりたくも無い! お前に教えてやる。俺はあいつのことが大っ嫌いなんだよ! 音楽と同じくらいにな!」

「まさかあんた、それを明日奈に言ったわけ……?」

「そうだ、悪いか! ずっと思ってたことだ! お前が知らない、小学校、中学校の時も、俺はあいつとの付き合いの中で、『嫌い』って感情を持ち続けて来た。それを今回、あいつに言ってやっただけだ!」

「そんな……」

 胸倉を掴んだ手の力を緩める宮島。

 俺は彼女に言う。

「もう話は終わりか? だったらこの手を退けろ」

「……まだよ」

「え?」

「まだ、私の話は終わってない……!」

 宮島が、ぎゅっと手に力を込め直す。

 怒りの形相は消えたが、切れ長の瞳には一層の力が篭もっているように見えた。

「本田。あんたは、明日奈のことが嫌いかもしれない。明日奈がどうなろうが、新歓ライブがどうなろうが、知ったこっちゃ無いかもしれない。でも、私には、軽音部のメンバーにとっては違うの」

 目を逸らさず、真っ直ぐに俺を見る宮島。

「明日奈は、私達の大事な仲間で、友達なの。だから、このまま、何もしないで、新歓ライブが出来なくなって、あんたが明日奈のことを何も知らないまま、仲違いして終わるなんて、私には納得が出来ない」

 俺は言葉を発することが出来ない。宮島の瞳に気圧されて、身動きが取れない。

「だから、私は、この場で言うわ。たとえ明日奈に嫌われることになったとしても、言わなきゃ本田には分からないだろうから」

 言う? 何を?

 宮島の唇が動く。

「明日奈はね、本田、あんたのことが好きなのよ」

 頭の中が真っ白になった。

「小学校の時からずっと」

「小森が……俺のことを好き?」

「そうよ。だから、新歓ライブに本田のことを一生懸命誘ってたの。自分が歌う姿を見て貰いたかったのよ、好きな人に」

 それだけのことよ、と宮島は言った。

 そっと胸倉を離される。俺は両手を床に着いて、崩れ落ちそうになる身体を支えた。

 周りでクラスメイト達が騒ぐ声が聞こえる。頭に血が昇って、それまで全く気付かなかった。

「先生、こっちです!」

 事態を見兼ねた生徒が呼んだのだろう、担任の女性教師が教室に現れて、俺と宮島のところへやって来る。

「ど、どうしたの二人共?」

 戸惑いを浮かべる担任に、俺は何も答えることが出来なかった。




 一限目は、職員室へ呼ばれ、担任から喧嘩の理由を聞かれた。

 俺は答えず、代わりに宮島が何かを答えていた。

 途中で解放されて、宮島は教室に戻り、俺は保健室に行った。腫れた左頬に湿布を貼られる。

 その後、教室に戻って、二限以降は普通に授業を受けたが、俺はノートも取らず、黒板の方だけを見続けていた。

 先生の言葉も耳に入らなければ、黒板の字も頭に入って来ない。

 俺はただ、小森のことだけを考えていた。

 小学校の時、わざわざ俺の居残りに付き合って、壊滅的なリコーダーを笑うでもなく、蔑むでも無く、ただただ聞いていた小森。悔しくて、憎らしくて、俺は彼女を自分の宿敵と定めた。

 俺に無い物を持っている彼女が、凄く嫌いだった。嫌いで、嫌いで、大嫌いで、だから俺は、彼女の気持ちを考えようとはしなかった。自分から関わろうとはしなかった。

 制服のポケットから、新歓ライブのチケットを取り出す。

 土曜日の午後一時から、という文字が目に入る。

 これを受け取った時、小森は満面の笑顔を浮かべていた。とても嬉しそうな表情だった。

 今年こそ友好な関係を築こうじゃないか、と彼女は言っていた。

 ふと、ポォーッと、長い、サイレンの音が聞こえた。窓の方を見て、それから教室の前の時計を見やる。

 短い針と長い針が重なって、ちょうど十二時を指し示していた。耳に届いた音は、正午を告げる時報だった。

 続いて、授業の終わりを告げるチャイムが、校内に鳴り響く。

 虚ろに過ごしている内に、気付けば、土曜日最後の授業である三限目が終わるところだった。

「じゃあ、今日の授業はここまで――」

 教卓の前に立っている教師がそう言いかける中、俺は勢いよく立ち上がる。

 椅子がガタンと大きな音を立てて、クラスメイトが皆、振り返って俺を見る。

「えっと、どうかしましたか?」

 驚いた顔をする教師を無視して、机の横に掛かった鞄を漁る。

 中から取り出したのは、自転車の鍵。俺はそれを握り締めて、駆け出す。

 教室の後ろの扉から廊下に出ようとして、「本田!」と名前を呼ばれた。

 宮島だった。彼女はこちらに駆け寄って来て、一枚の紙片を俺に手渡す。

「これは……?」

「明日菜の住所と手書きの地図。あんた、明日菜のことを嫌いだって言ってたから、今まで家に行ったこと、ないんじゃないかと思って」

 頭に血が昇って、すっかり忘れていたが、宮島の言う通りだった。

「本田」

「っ!?」

 紙片から顔を上げると同時に、左頬を思いっきり平手打ちを喰らわされる。ちょうど湿布の貼られた場所であり、激痛が走った。

「行って来い、このクソ野郎!」

 俺は頷いて、教室を飛び出す。

 廊下を走り、階段を段飛ばしで降り、二年生玄関で靴を履き替え、自転車乗り場に行き、通学用の自転車に鍵を挿す。

 俺は自転車のペダルに足を乗せ、全力で漕ぎ出した。




 自転車による全力疾走を続けること、およそ十五分。

 宮島に渡された住所と手書きの地図を頼りにして、小森明日奈の家に辿り着く。

 携帯の示す時刻は、十二時二十三分。新歓ライブまで、残り三十七分。

 チャイムのボタンを押すと、玄関の扉が開いて、小森に目元がそっくりな女性が現れる。

 おそらく、小森のお母さんだろう。

 どう説明すべきかと考えて、とりあえずまず自分の名前を告げると、

「ああ、ひょっとして、明日奈がいつも話してる本田くん!?」

 と手を叩いて、あっさりと家の中に入れてくれた。

「あの子ね、一昨日からずっと落ち込んでて、部屋に篭もってるのよ。理由を尋ねても、何も教えてくれないし。昨日は同じクラスの宮島さんって女の子が来て、明日奈と話をしてくれたんだけど、それでも駄目で……」

 小森のお母さんはそう説明してくれた。

 俺が原因だとは言えなかった。

 お母さんに許可を貰って、俺は二階に上がる。

 『明日奈』と書かれたネームプレートが下がっている扉の前で立ち止まり、俺はノックした。

『お母さん……?』

 部屋の中から、消え入りそうな小森の声がした。

「違う。俺だ。本田」

『ほ、本田!?』

「そうだ」

『なんで……本田がここに……?』

「お前を新歓ライブに出させる為に迎えに来た。学校の体育館に行くぞ」

『な、何言ってるの!? 本田がなんで私の迎えに来るのさ! 意味が分からないよ!』

「俺もそう思う。でも、俺は事実、ここに来てしまった。だから、俺はお前を連れて行く」

『嫌だよ! 新歓ライブなんか行かない!』

 小森は怒鳴った。

 俺は扉のドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。

 部屋の中に押し入ると、ベッドの上で体育座りをし、ギターを胸に抱えて、頭から毛布を被っているツインテール少女の姿があった。

 彼女は目を丸くする。

「ちょっ、本田! 年頃の女子の部屋に、なに無断で入って来てるのさ!?」

「部屋の外からじゃ、埒が開かないと思ったからだ」

「わ、私は新歓ライブには行かない! 行きたくない……!」

 ぎゅっとギターを抱き締める小森。

「なんで行きたくないんだ」

「もう意味が無いから……!」

「意味?」

「私が音楽をやる意味は、もうどこにも無いんだ!」

「それは、俺と関係があることなのか?」

 俺が問うと、小森は視線を逸らす。

 あくまで答えない気なのか。

 これ以上、肝心なところをはぐらかして訊いたところで、彼女は本心を話してはくれないだろう。

 だから俺は、言うことにする。

「お前、俺のことが好きなんだってな」

「なっ……!」

 かあぁあああぁああっと顔を赤くする小森。

「宮島から聞いた」

「そ、それは……」

 彼女は俯く。どうやら本当のことであるらしい。

「音楽をやる意味が無いって、どういうことだ?」

「……私が音楽をやっているのは、本田に追い着く為だったんだ」

「俺に、追い着く?」

「私は、音楽以外で、本田に勝てないから。勉強でも、運動でも、本田に全然届かない。だから、軽音部に入った。音楽で勝って、本田に認めて貰おうと思ったんだ。何か一つでも対等以上になれるものがあったら、本田も私のことを認めて、優しくしてくれるんじゃないかって思った。でも、違った」

 大きな瞳から、ポロポロと涙が零れて落ちる。

「本田は私のことが嫌いだった。最初から、嫌いだったんだ」

 ギターにポタポタを雫が当たって、伝って行く。

「本田に嫌われてるのに、これ以上音楽を続ける意味なんて無い……」

「俺が……新歓ライブを見に行くと言ってもか?」

「え?」

 小森は涙目で、顔を上げる。

「俺が、新歓ライブを見たいと言っても、お前は歌わないのか?」

「ど、どうして? なんで本田が新歓ライブを見に来るの?」

「お前にチケットを貰ったからだ」

「だって、新歓ライブには行かないって、あんなに散々言ってたじゃん!」

「気が変わったんだ」

「そんな気紛れ……!」

「お前は、歌わないのか?」

 俺はもう一度問う。

 小森の声が震える。

「でも……本田は、私のことが嫌いなんじゃないの?」

「ああ、嫌いだ。大っ嫌いだ」

「だったらなんで、新歓ライブに来るのさ! 音楽も、私のことも嫌いで、どうして見たいと思うわけ!?」

「嫌いなものに向き合ってみようって、思ったからだ」

「向き合う?」

「俺は確かに、お前が嫌いだ。けど、宮島からお前の気持ちを聞かされて、俺はまだ、お前に一度も向き合ってないってことに気付いた。だから――」

 俺は彼女の目を見て、言った。

「俺は今日、お前の新歓ライブを見てみたいと思う。駄目か?」

 小森に手を差し伸べる。

 彼女は俺の顔と手を、交互に見比べる。

 やがて、彼女は立ち上がって、口を開く。

「……もしも私がステージに上がったら、本田はちゃんと、最後まで見てくれる?」

「ああ」

 俺が頷いてみせると、彼女は涙を拭いて、俺の手を取った。




 本番の衣装に着替え、ギターケースを背負った小森を自転車の後ろに乗せて、俺は学校までの道のりを爆走した。

 ここまで来たら時間を確認しても仕様が無い。間に合うことを信じて、とにかく自転車を走らせる。

 やがて校門から高校の敷地内に入って、自転車乗り場には向かわず、体育館の前に直行する。

 体育館の周りには、慌しく行き交う生徒の姿が見える。

「小森、走れ!」

「う、うん!」

 適当なところに自転車を乗り捨て、俺は小森の手を引っ張って走る。

 片手で携帯を開く。時刻は、十二時五十九分。ギリギリだ。

 体育館に入って、開いている扉の中に駆け込む。中はまだ照明が点いており、明るかった。

 並んでいるパイプ椅子には、生徒達が着席している。席に座れず、立っている生徒達も見える。前者が一年生で、後者は上級生だろう。

 と、照明が消え、体育館の中が一気に暗くなる。

 俺は小森の背中を押した。

「始まるまで、もう時間が無い。行って来い」

「あのさ、本田」

「なんだ?」

「本田は音楽のこと嫌いかもしれないけど――」

 暗さで、小森の表情は見えない。しかし、彼女の言葉は、しっかりと耳に届いた。

「ライブを見れば、きっと音楽を凄いって思えるから。見てて」

 駆け足で、ステージの方へ去って行く小森。

 俺は入り口横の受付のところへ行って、チケットを渡す。

 そうして、ステージに近い、体育館の壁際に立つ。

 しばらくして、ステージを覆っていた、カーテンが開く。

 眩いライトの光を浴びて、女子四人によるバンドが姿を現す。

 中央のマイクスタンドの前に立つのは、ギターを持ったツインテールの少女・小森明日奈。最後方に控えるドラムは、明るいロングヘアーの宮島翔子だった。

 小森が、左右に立っているメンバーに目配せをする。

 それから、振り向いて、宮島と頷き合う。

 小森が前に向き直り、ギターをちゃんと持ったところで、宮島がドラムスティックを叩き――。

 一曲目の演奏が始まった。




 最初のイントロは、普通に聞いていた。

 いつも通りの、俺の大嫌いな音楽。良さなんて少しも分からない。

 ただ、生の演奏が体育館の空気を揺らして、それが伝わって来て、ほんの少しだけ肌が震える。

 その程度だった。

 けれど、イントロが終わって、小森がマイクに向かって歌い始めた時、俺の心臓が大きく波打った。

 普段の小森からは想像も出来ない、綺麗に澄んだ、大人っぽい声。

 驚いて、彼女の横顔を見ると、まるで別人のような真剣な顔付きをしていた。

 宮島の叩くドラムや、他の部員が奏でるギターとベースギターの音がそこに重なり、俺は自分の身体がどんどん熱くなって行くのを感じる。

 気付けば、俺は拳を握り締めていた。手の平が凄く汗ばんでいる。

 サビに入って、全身に鳥肌が立った。

 宮島達が弾き出す音の一つ一つ、小森が歌う詩の一節一節が、俺の鼓膜を通して、心をぐらぐらと揺らす。

 気持ちが掻き乱される。

 何だろう、この感覚。どこかで、味わったことがある。

(あの日と同じだ……)

 思い出したのは、小学校時代、リコーダーが壊滅的で居残りになったあの日。

 俺の中に今、湧き上がって来ている感情の正体は、『悔しさ』だった。

 小森が今、ステージで歌っている。

 音を操って、生徒達の心を震わせている。

 正直、凄く格好良い。

 そして、そのことがとても悔しい。

 音痴の俺には、決して出来ないこと。それを今、小森はやって退けている。

 くそっ、くそくそくそくそくそくそ!

 悔しくて仕方が無い。

 何故俺は、音痴なのか。何故あいつには出来て、俺にはそれが出来ないのか。

 俺はステージ上に立つ、ツインテールの少女を睨み付ける。

 そして、思った。

 やっぱり俺にとって、音楽と小森明日奈は紛れも無く――


 『宿敵』なのだ。


 やがて、曲が終わり、体育館は大きな拍手に包まれる。

 小森が笑顔を見せ、それから俺の方を見て、ウィンクする。

 なんて憎たらしい奴だろうと思う。

 さっきまで家に引き篭もって、鬱々とした表情を浮かべていた癖に。

 今はあんなにも、良い顔で笑いやがる。くそったれめ。

 本当は嫌だった。凄く嫌だった。

 でも、多分、あいつは一番、それを望んでいるだろうから。

 ここまで来たんだ。ライブが終わるまでくらいは、付き合ってやるさ。

 俺は彼女のウィンクに、絶対にするまいと決めていた拍手で返した。




 ライブが無事に終わり、休日が過ぎて、月曜日がやって来た。

 朝のHR前、予鈴ギリギリに教室へ入って来た小森は、いつもの調子で「おはよー!」と俺の席に近寄って来る。

「うっへー、危ない。ギリギリセーフだよー」

「何故、鞄も置かず、いきなり俺のところへやって来る」

 意図が不明過ぎる。

「いやー、本田にどうしても言いたいと思ってたことがあったんだけどさー。この通り、ギリギリの登校になっちゃったもんで。席に着く前に、手っ取り早く済ませちゃおうかなー、と思ってさ」

「言いたいこと?」

「うん。あのさ、なんか先週、気持ちは伝わっちゃってるんだけど、実は言って無いことに気付いて」

「何をだよ?」

「私さ、本田のこと好きだから」

「ちょっ!」

 ぶわっと全身から汗が噴き出す。

「朝っぱらから何言ってんだお前!?」

「いや、こういうのは、早く言っといた方が、妙な誤解が生まれなくて澄むかなー、って思ったんだけど」

「せめて場所を選べよ! 逆に誤解が広がるわ!」

「誤解じゃないし! 私、誰がなんと言おうと、本田のこと好きだし! つーか、今回のことで惚れ直したし!」

 教室の空気がすっかりざわついている。クラスメイト達の視線が全て、こちらに集まっている。

 小森は構わず、続ける。

「でさ、私は本田が好きなんだけど、本田は私のことが嫌いなんだよね」

「……正直な気持ちを言えば、そうだな」

「じゃあ、本田はさ、私とはもう、話してくれないの?」

 上目遣いの瞳は、潤んでいる。

 ざわついていたクラスメイト達が、一気に静まり返る。俺の答えを待っているようだった。

 何だこの空気。凄く言い辛いんだけど。

「本田ー! 男ならちゃんと答えろー!」

 喧嘩して以来、すっかり俺のことを呼び捨てするようになった宮島が、野次を飛ばす。

 俺はため息を吐き、それから深く息を吸って、

「そのことなんだが――」

「う、うん」

 俺の前で、ごくりと喉を鳴らし、頷く小森。

 その時だった。


 キーンコーンカーンコーン。


 HRの始まりを告げるチャイムが鳴った。ほぼ同時に、教室に担任の女性教師が入って来る。

「朝のHR始めまーす」

「「「えーっっっ!」」」

 と、小森と宮島を含めたクラスメイト全員が声を上げた。

「え!? 何事!?」

 事情が全く飲み込めない女性教師は、教室を見回す。

 小森は呆然とした様子で、

「この重要なタイミングで!?」

「まぁ、とりあえず、席に着け。その話は、HRが終わってからな」

「えー、嫌だよ! 気になるじゃん!」

 腕を引っ張り、文句を垂れる小森だが、先生から「よく分かんないけど、小森さん! 席に着いて!」と言われると、渋々自分の席へと戻って行く。

 俺はため息を吐いて、教卓の方へ向き直る。

 先生は挨拶の口上を述べてから、言った。

「えー、それでは早速、先週言っていた、選択授業のプリントを提出して下さい」

 俺は筆箱から消しゴムとシャープペンを取り出す。

 消しゴムで書道の横の空欄を消した。


 ――さて、それでは、宿敵と向き合ってみますかね。


 俺はシャープペンで、音楽の横の空欄に、丸を付けた。

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