戦火の火種 2
翌朝、早朝。
各人が目を擦りながら屋敷のエントランスに集合した。
「偉いな、ちゃんと起きられて。」
そう言いながら、ウォルフが笑った。
「子供じゃねぇっぺ…と言いたいところだがや、よく起きられたと自分でも感心したべ…。」
「ボクも。」
アルバインとリチュが苦笑した。
「ゆっくり行こう。」
ウォルフが腰の道具袋に手を入れながら言った。そして袋から羊皮紙を取り出すと、裏山と紙を見比べた。
「執事の人から地図を借りた。裏山は私有地だし、今は閉山しているので、この屋敷にしか地図はないそうだ。」
「私有地なれど、ケモノはいるってか?」
ミンミが片眉を上げて言った。
「いるだろうな。気を抜かないでくれ。」
一同の顔を丁寧に見回して、ウォルフは歩き出した。
屋敷の脇にある径が、裏山へ続いてる。屋敷の裏手から山へと伸びており、この道のある山の裾野には、岩肌の山を覆うように草木が生い茂る森が広がる。
「人工的に生やしただな。」
アルバインが言った。
「そんなんわかるの?」
ミンミが訊ねると、アルバインは笑って言った。
「んだ。間引きしてあっぺ。ホレ、あの辺り。」
そう言って、アルバインが森の中を指差した。指先には、比較的若い細い樹木が並んで伸びていたが、葉がぎっしりと空を覆い、土には日が当たっていなかった。
「自然の木は、あんなビッチリ並ばないべ。他んとこの木と木の間も、間隔が不自然だべ。」
「この辺りは、土に栄養はあるのに、何故か木が生えない地域だったそうだよ。」
リチュが、短い脚で一生懸命、デコボコの山道を歩きながら言った。
「海に近いから、海風が多くて、種が運ばれて来ないんだって。だから川べりには植物は沢山生えるのに、少しでも起伏があったり、水の流れがない場所には、植物が生えない。
この山は、鉱山らしいから別だろうけど、山裾にも何も生えないのは、そういう理由があるらしいんだ。」
「そうだか。そういえば、エルフィの国は緑豊かだなぁ。」
「熱帯地域を含むからじゃないかな。風の行き来も多いから…。」
話ながら、アルバインとリチュはウォルフを追い越して行った。ウォルフは呼び止めようとも思ったが、この辺りはケモノの出る場所でもないし、山までは一本道なので、そのまま行かせる事にした。
振り向くと、ミンミがとぼとぼ歩いていた。いつもの破棄がない。
「ミンミ?」
呼ばれて、ミンミがウォルフを見た。
「うん?」
返事をしたが、ウォルフは穏やかな表情を浮かべた顔を少しだけ傾けて、ミンミを見るだけだった。
「行けるか?」
「うん、行けるよ。大丈夫。」
ミンミはそう言って笑ったが、やはり破棄がなかった。
「リチュの話…。」
「ん?」
「『雨乞いの唄』の話。」
「ああ。」
「トールズは、あの唄の続きを知ってたんだな…。」
「…続き?」
「うん。」
ミンミはそこで口を噤み、それ以上話をしなかった。
『雨乞いの唄』は、エル・アムルの偉業を唄った唄である。
乾いた地だったこのカストダル大陸に緑の恵みを齎したエル・アムルは、カストダル大陸のみならず、今やこのヴェル・ヴィーラの創生神の一つとして崇められている。
大天使を神として崇める事実に違和感こそあれど、そして信仰するまでには執心せずとも、ヴェル・ヴィーラに住まうヒトビトはみな、エル・アムルを讃えている。
そんなエル・アムルに関する唄ならば、『雨乞いの唄』以外にもあってよいものだが、不思議とエル・アムルの唄はこの『雨乞いの唄』以外には存在しなかった。それについて、『ミンミならば知っているだろう』と思ったが、当のミンミは話したくない様だった。
ミンミは、”水竜”の話を聞いてから、ずっと破棄がない。憎まれ口も余り叩かないし、普段ならとっくに出ている「いきたくねぇ」「めんどくせぇ」の一言も、今日は聞いていない。
ウォルフは少し考えて、ミンミの肩を歩きながら抱き寄せた。互いの装備がぶつかって少し邪魔になり、歩き難くなったが、お構いなしにウォルフは、ミンミの頭に自分の頭を乗せ、肩を抱いていた手でミンミの頭の上に生える耳を触って撫でた。
「…村を出ても、エル・アムルからは逃げられない…。」
ウォルフの耳元で、ミンミが呟いた。
「どこへ行っても、アレがいる…。」
ミンミは、エル・アムルから『逃げる』ために、傭兵になった。だが、この世界にいては、どこへ逃げても必ずエル・アムルの名を聞き、唄を聴き…。今では逃げる事すら、無意味になってしまった。
「あと少しの辛坊だろ…。」
ウォルフが耳に触れていた手で、ミンミの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
ミンミはその振動で、喉まで出掛かっていた愚痴が落ちて行くのを感じて、ふと肩の力を抜き、頷いた。
「…うん…。」
◆ ◆
神が産み落としたのは、何もない世界。
ただ彷徨うだけの世界。
落胆して壊れた破片で、命は産まれた。
しかし世界のように、命たちの手にも何もなく、
命たちはただ、彷徨う。
やがて命は知る。
世界に、命に、必要なものがある事を。
命は乞う。
世界を潤す、命を潤す恵みを。
そして恵みは与えられた。
命を育てた手によって。
そして手は言う。
幸あれ、と。
◆ ◆
不意に、森が拓けた。
左右へ大きく延びる山裾の前には、明らかに人の手によって樹木が切られた円形の広場があり、背の低い雑草に覆われた地面擦れ擦れに、入り口と思しき大きな穴が見えた。穴からはトロッコ用の線路が食み出ていて、しかしその線路は草の広場に出るなり、草に侵食され、錆付いて使い物にならない状態になっていた。
「黒鉱石の流通が一向に増えないのは、これが原因かね?」
ミンミが言った。
大昔には武器や防具を始め、船や家、城などにも使用していた黒鉱石は、近年その流通量の少なさから高騰し、高級素材として取り扱われている。目の前の鉱山は大きい。恐らく採掘量も膨大な量であった事だろう。
「忍び込んで無断で掘る輩がいるんでねぇべか?」
「それはないんじゃないかな。」
アルバインに答えながら、リチュは右の人差し指を親指に引っかけ、弾いた。リチュの指先から、穴目掛けて小さな光の珠が飛んだ。その光が穴に入る瞬間、穴を塞ぐ様に青白い光の壁が現れ、珠を粉々に砕いた。
「封術がしてある。魔封というよりは、進入者避けの軽いヤツだけど。でも、普通の傭兵には解除出来ないんじゃないかな。」
スタスタと穴に歩み寄って、リチュが少し背伸びをした。穴の上を見つめている。が、どうにも少し背が足りないようだ。それを察したウォルフが、リチュを抱き上げた。
「ごめん。」
罰が悪そうに、リチュが照れ笑いをした。ウォルフがにこりと笑い返す。
リチュは視線を戻して穴の上を見つめた。穴の上には、注視しなければ解らないほど小さく、何かが彫り刻まれていた。
「うん、封紋だ。」
「解除出来そうか?」
「出来ると思う。」
それを聞いて、ウォルフがリチュを下ろし、何歩か下がった。アルバインとミンミも、ウォルフに倣ってリチュとの距離を開けた。
リチュは三人が十分に離れた事を確認すると、両手を前に翳して目を閉じた。そして両手の指先で幾つかの形を作っては解いてを繰り返していると、リチュの足元で風が舞った。風を感じ取ったリチュは、少し鼻で息を吸い込み、ゆっくり開封の言葉を唱える。
「『オルダ・リリス』…。」
リチュの言葉に応える様に、封紋が光った…が、光は矢のように鋭く尖り、リチュ目掛けて噴出した。
「!」
「『バルア』!」
ミンミが反応すると同時に、リチュが翳していた両手で空に素早く円を描いた。保護の言葉と同時に円には淡い緑色の光の壁が出来、光の矢を跳ね返す。が、矢は次々リチュへ向けて放たれる。
「頑固だのぅ。」
アルバインが杖を握った。
「待って。」
リチュが、アルバインを制した。と同時に、リチュの足元の風が一層強く舞った。風が舞うにつれ、リチュが手を翳す光の壁は強烈に光輝き出す。そして、矢が途切れたほんの一瞬を狙い、リチュが翳した両手をパンと勢いよく合わせると、壁は瞬時に珠となった。
「『コマン・リリス』…!」
絶対開封の言葉を唱えたリチュが素早く両腕を広げると、珠は勢いよく封紋にぶつかった。
パリン…。
封紋はガラスのような音を立てて割れ、崩れ落ちた。地面に落ちた封紋の欠片は、風に吹かれて舞い、消えた。
「…リチュは何で騎士に職替えしたっぺ…?」
呆けた顔でアルバインがリチュに声をかけた。リチュは後ろ斜め上に振り返って、にこりと笑った。
リチュは元々、封術、攻撃術、治癒術、保護術、総ての魔術を操る事の出来る、優秀な魔道士として名高い傭兵だった。『リチュリー・リチュ』と言えば、一時は誰もがその存在を認識出来るほどの知名度と実力を誇る傭兵だったのだ。
ウォルフとパーティを組む少し前に、リチュとアルバインは知りあった。だが、その時はすでに、リチュは騎士として傭兵をしていた。
「なんでだっけ…。忘れちゃった。」
あっけらかんと答えるリチュに、アルバインがゆっくり首を振った。
「”絶対履行”を使える魔道士は、そうそういねぇべ。魔道士としちゃ、ホントに貴重な人材だっぺ。
騎士としての実力も認めるが…、もったいねぇべさ…。」
残念がるアルバインに、リチュはもう一度笑った。
「いざとなったら、両方使って役に立つよ。」
「んだぁ。リチュはすげぇべ。」
アルバインは自分の事のように、胸を張って笑った。
「さぁ、行こう。外から封がされていたんだ、中にケモノが入る事はなかっただろうが、中のケモノも外に出ていない。中で妙な進化をしているケモノもいるかも知れない。用心してくれ。
鉱山は暗黒系のケモノが多いから、純白系や光属性の武器か術を使う事。」
ウォルフが指示をすると、各々が短く同意の返答をした。
◆ ◆
ヴェル・ヴィーラには、暗黒・純白・黄土・紅蓮・紺青・碧緑という合計六つの系統と、それを二分する光・闇という属性が存在する。
それぞれに意味があり、黄土は地、紅蓮は炎、紺青は水、碧緑は風を司り、黄土は紅蓮によって焼かれ、紅蓮は紺青によって鎮火し、紺青は碧緑によって流れを妨げられ、碧緑はその流れを黄土によって支配される。暗黒は翳、純白は灯だ。また、系統にはそれぞれを司る女神がいるとされる。
そしてこれらを支配する属性が朝である光と、夜である闇である。
「封術は、ぱっと見ただけでは、どの属性で封がされているか解らない。だから、解らない時は純白系の力を少しぶつけてみる。そうすると、吸収されれば純白系の紅蓮か碧緑だし、弾かれれば暗黒系の黄土か紺青になる。あとは、その瞬間の光の色を見ればいい。赤く光れば紅蓮だし、青く光れば紺青だし…。」
アルバインに強請られて、道中リチュが封術について解説をしていた。
「さっきのは?」
松明を片手に振り向きながら、ミンミが言った。
「入口の封は青白い光だったから、紺青系だよ。封紋を見ても解るけど。さっきのは少し風化しちゃってて見辛かったんで、最初に純白系を飛ばしてみたの。」
「ふぅん…。私はやっぱり魔道士向かねぇわ!」
そう言って、ミンミが笑った。
「頭使わなきゃいけない事は、したくない。」
「あはは。誰が見ても、ミンミには無理だっぺね。」
調子に乗ってアルバインが同意すると、ミンミはアルバインをじろりと睨んだので、アルバインが肩を竦めて苦笑した。
「自分で言ったっぺ…。」
思いの外しょぼくれたので、ミンミがしてやったりと、にやりと笑った。
「でも、アルバインもリチュと同じように魔術を使うだろ? それは素直にすげーと思う。」
「んだな事ねぇだ。オラ、リチュには本当に敵わないっぺ。
オラにはまだ、不得意な系統があるもんなぁ。」
「不得意? 得意不得意があんの?」
「そら、あるべ。
オラの場合は、紅蓮系が下手糞なんだべ。
でも、リチュはなんでも使えるっぺな。」
アルバインが言うと、リチュが苦笑して「そうでもないよ。」と言った。
「ボクも、暗黒系は苦手なんだ。」
「んあっ!」
リチュの言葉に、アルバインが手を叩いて変な声を上げた。
「そうか、それでリチュは騎士だっぺ。」
「どういう事?」
ミンミが訊ねると、一番後ろを歩いていたウォルフが答えた。
「戦士系は魔道士と違って、得意とする属性や系統に応じて向き不向きがある。
騎士は純白系や、光属性の扱いに特化している者しかなれない。
ミンミがモンク系を習得したのは、暗黒系や闇属性を得意としているからだ。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
キョトンとするミンミに、リチュが笑った。
「大抵は、戦士系の向き不向きも系統や属性の力加減に沿って出るんだよ。
だから、暗黒系が苦手なボクは純白系が得意だし、暗黒系が得意なミンミは純白系が苦手な筈だ。
でも、中にはオールマイティに使いこなせる人もいる。
ウォルフみたいにね。」
と、リチュがウォルフを振り返った。
「俺にも不得意はあるよ。」
ウォルフが手を振って答えた。
「そっただ事ねぇっぺ。リチュには敵わなくても、ウォルフも相当センスあっぺね。
魔道士としてもやって行けっぺ。」
「そうだね。ウォルフが凄いと言われるのは、魔道系も戦士系もこなせるからだからね。」
「んだぁ。オラ、ウォルフと出会う前にいた村で、ウォルフが魔術も武術も使って『顔のない者』を倒したって噂を聞いただもの。」
「たまたまだよ。それに俺は魔道騎士にはなれない。黄土系が扱えないからな。」
「いやぁ、頑張ればいつかなれっぺ!」
魔道騎士は、魔道士が操る封術、攻撃術、治癒術、保護術と、戦士が操る武器を使いこなして初めてなれる、ヴェル・ヴィーラ最強の傭兵である。傭兵はそもそも、魔法か武器を扱う事が出来なければならない。武器ですら、例え刃がついていても、ただ振っただけでは物を切る事は出来ない。必ずその武器にあった属性を使う事が出来なければ、武器を手にしても意味がないのだ。
武器を扱う方法と、魔法を扱う方法は大きく異なる。それ故、双方を操れる者は多くない。
さらには、魔道士としても戦士としても、総ての系統と属性を扱う事が出来なければならない。
だから、魔道騎士は究極の傭兵と言って過言ではなく、傭兵なら誰もが憧れるものなのだ。
若干興奮気味に言うアルバインが、前のミンミにぶつかった。
ミンミは立ち止まって、耳をぴくぴく動かしている。
「リーダーを煽ててる場合じゃいかもよ。」
一向はいつの間にか、大きくも狭い横穴の途中にぽっかりと開いた広間に出ていた。
朽ちかけた木のテーブルや椅子が散乱し、壁沿いに置かれた樽や木箱からは、保存食を入れてあったのであろう布袋やコルクがしたままのビンが食み出ている。
「労働者たちの休憩所みたいなところだったんだべなぁ。」
「道、別れてるね…。五本か…。」
耳を澄ますミンミの邪魔をしないよう、アルバインとリチュは小声で喋りながら辺りを詮索した。
「その道のどれかから、唸り声が聞こえる。
でも、反響しちゃって特定出来ない。」
ミンミが眉を顰めた。
「狭い横穴では出くわしたくないな。」
ウォルフが言いながら、執事に借りた鉱山内部の地図を取り出した。
ミンミが歩み寄って、地図を松明で翳した。脇から、アルバインとリチュが覗き込む。リチュは、アルバインが抱き上げている。
「鉱山の地図なんか作ってたんだね。」
「ああ。迷路みたいな場所の地図を、よく作ったものだよ。」
「この途中で道が切れてる横穴が、例の空洞のあった横穴だろうね。」
「他の道の途中にも広場はあるみてぇだが、出来ればこん中では、何にも会いたくねぇっぺ…。」
鉱山内部はしっかりとしているため、落盤などの危険はなさそうだが、何せ狭い。
武器や魔法を心置きなく使えるほど、余裕のあるスペースではないから、戦闘になったところでどのような誤算が生じるか検討もつかない。
さらには黒鉱石は闇属性の素材のため、ケモノが持ち合わせる属性と一致し、ケモノの力を増幅させている。
そして追い討ちをかけるのは、ミンミが手にしている松明以外、灯りがない事だ。照明をキープしながら戦闘をする事は困難だ。
「よし、比較的横穴が広いのも空洞への道だし、このまま進もう。
いざとなったら、横穴の途中に封をしよう。リチュ、その時は頼む。」
「うん。」
「ここから先、空洞へは右端の横穴を進む。途中三つ、今いるような広場がある筈だ。可能なら、そこで休憩をしながら進む事にする。
先頭は俺とリチュ、後方にミンミとアルバイン。」
「うぃ。」
「おっしゃ。」
「はい。」
三人の返事を待って、ウォルフは地図を仕舞い、歩き出した。
◆ ◆
ミンミから受け取った松明を手に、ウォルフとリチュは横穴を進んだ。背後にはアルバインとミンミが続く。地図の通りならば、あと三十分ほど歩けば空洞に辿り着く筈だ。
「リチュ。」
ウォルフが前方に広がる闇を見据えながら、リチュに声をかけた。
「うん?」
「『雨乞いの唄』の続き、唄えるか?」
「…え?」
唐突に訊ねられた言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「トールズはあの遺跡の前で、『雨乞いの唄』の続きを唄ったようなんだ。」
「それで、”水竜”が出現したと?」
「憶測だけどな…。試すにはリスクが大きすぎるが、タイミングがあれば、試してみたい。」
「う、ウォルフ…。」
リチュが慄くと、ウォルフが慌てて訂正した。
「勿論、危険性については十分理解しているつもりだ。だから、何も今日これから、という事ではない。」
「…。」
リチュが俯いた。
ゴルタダのあの村で、確かに聞いた記憶はあった。だが、今思えば明らかに、冒険者として適切ではなかったと解るが、あの時は本当に興味がなく、聞き流してしまった。
ささやかながら残っている記憶の断片を繋ぎ合わせれば、適当に唄う事は出来るだろうが、恐らくこれでは、”水竜”の一件を再現する事は出来ないだろうと思った。
「無理だと思う。ごめん…。」
リチュが謝ると、ウォルフが小さく笑った。
「いや、謝る事じゃない。
俺は、『雨乞いの唄』に続きがあった事すら知らなかった。さっきミンミから聞いて、初めて知ったくらいだ。」
ウォルフが首を振ると、リチュが言った。
「白い民でも、『雨乞いの唄』に続きがあると知っている人は僅かだと思うよ。
本当に、ヴェル・ヴィーラではエル・アムルを讃える唄は『雨乞いの唄』しかないと思われているんだから。」
「伝わらなかったんだと思うか? それとも、伝えなかったんだと思うか?」
ウォルフが、静かに訊ねた。
ウォルフやリチュが属するエルフィ種でも、エル・アムルを崇める民は沢山いる。ヒュントにもミーヤにもエルフィにも伝わっていないものがあるのであれば、それは意図的に隠された事である可能性だってある。
だとするならば、手記にある”水竜”のような危険な何かが関係しているという推測も出来るし、それによって、この探索の方向性も変更する必要が生じる。
「エル・アムルの事で言うなら、伝えなかった事は山程あると思う。
現存している史実や資料、唄だけが全てというには足りないというか…。」
「足りない?」
「うん。
今や、ヴェル・ヴィーラを作ったのはエル・アムルとその他の神と言われるほどに、エル・アムルの存在は大きなものになっているでしょ?
でもその根拠としては、今ボクたちが知っている事だけでは少なすぎると思う。
そもそも、『その他の神』ってなんだろう? それすら、情報としては殆ど残っていない。
大天使と言いながら、”最高女神”として崇められる理由が、どこかにある筈なのに、ボクたちが学校や本を読んで知る情報の中には、ないんだ。」
普段から慎重に、丁寧に言葉を紡ぐリチュが、いつにも況して言葉を選んでいるのが、感じ取れた。
ヴェル・ヴィーラに住まうヒトビトは、白い民以外も、無信仰なれど決してエル・アムルの存在を否定する事はない。絶対的な創造神として意味づけられたエル・アムルは、この世界のその位置になくてはならず、そしてそれを疑問視する者もいない。
「みんなは気付かない。だって、気付く必要がないから。
『雨乞いの唄』に続きがなくたって構わないし、これ以外に唄がなくたって、何も困らない…。」
どこか、何か煮え切れない、というニュアンスを残して、リチュが話すのをやめた。
傭兵を始めて、村や町の外に出て、様々なヒトに会って、気づいた事がある。
それは言葉にならない疑問であり、その答えが見出せなくても生きるには困らず、だからそのうち忘れてしまう。だがその疑問は心の底で燻って、ふとしたときに思い出す事になる。
ウォルフが傭兵になるべく故郷を出て十年余り。いつしか心に抱いた、忘れていた疑問が、まだ心の中に燻っていた事を、リチュの言葉で知る。




