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未来の私から届いたメッセージで、七年前の後悔をやり直した話

作者: 三幸 奨励
掲載日:2026/03/27

最後に届くメッセージ


 スマホの画面が光ったのは、深夜の十一時を過ぎた頃だった。


 デスクに広げた資料の山をどかして、私は手を伸ばす。残業続きで目の奥が重く、指先が冷えていた。送信者の名前を見た瞬間、眉をひそめた。


「遥」


 それだけが、送信者の欄に書いてあった。


 名前だけで、苗字はない。ロック画面に浮かんだ通知には、本文の冒頭が少しだけ見えていた。


「今日、あの人に会いに行って」


 私は数秒、そのまま固まっていた。


 部屋の空気が静かだった。会社からの書類を広げたまま、蛍光灯の下に座っている。窓の外には夜の街が広がっていて、遠くのビルの明かりがぽつぽつと光っている。いつもの光景だった。何も変わらない、疲れた平日の深夜。


 スマホを手に取って、メッセージを開く。


 送信者は「遥」。私と同じ名前だった。


 本文は一行しかなかった。


「今日、あの人に会いに行って」


 知らない番号だった。登録していない。でも何かが引っかかって、すぐに削除する気になれなかった。迷惑メールにしては文面が妙だったし、何より「あの人」という言葉が頭に残った。


 あの人、という言い方をするような相手が、私には一人しかいなかった。


 悠斗のことを、久しぶりに思い出した。



 田中悠斗と最後に話したのは、大学を卒業する春だった。


 四年間、同じゼミにいた。文学部の、人数の少ないゼミで、顔を合わせる機会は多かったけれど、二人きりで話したことはほとんどなかった。ゼミの飲み会でたまに隣になって、短い言葉を交わす。それだけの関係だった。


 でも私はずっと、彼のことが気になっていた。


 特別なことが何かあったわけではない。静かな人だったと思う。ゼミの議論では的確な言葉を選んで話すのに、普段は目立たなかった。読書が好きで、研究室の本棚の前でよく立ち止まっていた。笑うと目が細くなった。


 そういうことを、気づいたら覚えていた。


 卒業式の後の謝恩会で、私は一度だけ彼に話しかけた。連絡先を交換しようか、と思って近づいたけれど、その場に別の人が来てしまって、タイミングを逃した。それきりだった。


 社会人になってから、SNSで名前を検索したことがある。でも同じ名前の人が多くて、それらしいアカウントは見つからなかった。探すほどのことではないと自分に言い聞かせて、そのまま忘れようとした。


 でも、完全には忘れられなかった。


 入社一年目の冬、残業帰りに乗った電車で、似た後ろ姿の人を見かけた。黒いコート、少し長い髪、文庫本を立ったまま読んでいる男の人。心臓が跳ねて、次の駅で降りるのを忘れかけた。その人が振り返ったのは隣の駅で、全然違う顔だった。


 二年目の春には、本屋で同じことが起きた。文庫コーナーで、背の高い男の人が背表紙を眺めていた。立ち方が似ていた。近づくつもりはなかったのに、足が少し動いていた。その人は知らない人だった。当たり前だった。


 三年目を過ぎた頃から、似た人を探すことは減った。代わりに、何かのはずみで思い出す、ということが続いた。ゼミで読んだ本と同じ作家の名前を書店で見かけた時。誰かが「的確な言葉を選ぶ人だよね」と言うのを聞いた時。そういう、小さなきっかけで。


 思い出すたびに、謝恩会のことを考えた。あの時、もう少し早く動いていたら。別の人が来なければ。タイミングが合っていたなら。


 でもそれは、もう起きないことだった。


 忘れようとしながら、七年が過ぎていた。



 翌朝、メッセージの送信者に返信してみた。


「あなたは誰ですか」


 短く、直接的に書いた。昼休みに確認したら、既読はついていたが返事はなかった。夕方にもう一度見たけれど、同じだった。


 その日の夜、新しいメッセージが届いた。


「明日、グレーのコートを着て、会社を少し早めに出て」


 また一行だけだった。


 私はしばらく画面を見つめた。グレーのコートは持っている。去年の冬に買ったウールのもので、クローゼットの奥にかかっている。最近はあまり着ていなかった。


 翌朝、迷いながらもそのコートを手に取った。なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できない。ただ、何かが動いていた。日常の中で何かが変わるかもしれないという、かすかな予感のようなものが、あった。


 その日は残業が少なく、定時より三十分ほど早く会社を出ることができた。いつもは地下鉄で一本だが、なんとなく歩いてみようと思った。夕暮れ時の街を、グレーのコートを着て歩いた。寒かったけれど、気持ちの良い寒さだった。


 何も起きなかった。


 悠斗に会うことはなかった。



 メッセージは次の日も届いた。


「木曜日の午後、本屋に寄って。文庫のコーナーに行って」


 また一行だった。


 私は少しずつ、このメッセージの送り主のことを考えるようになっていた。「未来の自分」などというのは荒唐無稽で、普通に考えれば誰かのいたずらか、番号の打ち間違いか、そういうことだろうと思っていた。でも内容が妙に具体的で、害があるわけでもなく、指示通りに動いてみても私自身が困るわけではなかった。


 木曜日の昼休みに、会社の近くの本屋に入った。


 入り口を抜けた瞬間、紙のにおいがした。古い本のにおいではなく、新しい本の、少しインクの混じったにおい。子どもの頃から好きなにおいだった。特に目当ての本があったわけではなく、ただ「遥」のメッセージ通りに文庫コーナーへ向かった。


 棚はそれなりに広く、背表紙が整然と並んでいた。私はゆっくりと歩きながら、タイトルを流し読みした。知っている作家の名前、見知らぬ作家の名前。手に取ってみてから戻す。また別の棚を見る。


 五分ほどそうしていた。何も起きなかった。やっぱりただのいたずらだったかもしれない、と思い始めた頃、背後で人の気配がした。


 足音が、私の隣で止まった。


 同じ棚の前に立とうとしているのか、と思って私は少しだけ横にずれた。


 その時、声がした。


「あれ」


 低くて、静かな声だった。独り言のような小さな声だったのに、なぜか耳に残った。


 振り返った。


 男の人が立っていた。三十代くらい、黒いダウンコートを着て、手に文庫本を一冊持っていた。私が動いたことで目が合った形になって、相手も少し驚いたような顔をしていた。


 見覚えのある顔だった。


 私は一瞬、頭の中で何かが弾けるような感覚を覚えた。記憶の中に仕舞ってあった顔が、目の前の顔に重なっていく。七年分の時間の差を、数秒で埋めていくような感覚。


 悠斗だった。


 七年ぶりに見る顔は、確かに少し変わっていた。髪が短くなっていた。大学の頃は少し長めだったのが、今はすっきりと整えられている。顔つきも大人びて、目の下に薄く疲れの影があった。でも骨格は変わらなかった。ゼミの議論の時に少し前のめりになる癖も、きっと変わっていないだろうと思った。


 彼もまだ、私を見ていた。


「田中悠斗、だよね」


 先に言ったのは私だった。自分でも驚いた。七年間、会う機会があったとして、咄嗟に声をかけられるかどうか自信がなかったのに。


「うん、そう」彼はしばらく私を見てから、口元が緩んだ。「本間さん、だっけ。ゼミの」


「本間遥。覚えてた?」


「もちろん」


 即答だった。もちろん、という言葉の軽さが、かえって自然で、私は少し力が抜けた。


 二人で、短く笑った。七年間の空白を埋めるような、でも埋め切れないような、そういう笑いだった。



 本屋で偶然会ったのだから、そのまま少し話しましょうか、ということになった。


 近くのカフェに入った。窓際の二人席で、外を行き交う人が見えた。昼時を少し過ぎていて、店内は落ち着いていた。


 悠斗は出版社に勤めていると言った。文庫のコーナーで本を手にしていたのも、担当している著者の新刊が出ていないか確認しに来たのだという。「書店巡り、みたいなのが仕事になるとは思わなかった」と言って、少し苦笑した。


 私はIT系の会社で働いていると話した。システムの保守管理が主な仕事で、最近は新しいプロジェクトに入って残業が続いている、と言うと、悠斗は「出版社もそういう時期はあるよ」と言った。「校了前とか、本当に帰れない」


「校了って?」


「印刷に入る前の、最終確認。あの頃は徹夜もざらだった」


「今は?」


「今は少しマシかな」と彼は言った。「でも繁忙期はある」


 話しながら、私は彼の話し方が大学の頃と変わっていないことに気がついた。言葉を選ぶ。あまり余計なことを言わない。でも沈黙を恐れていない。ゼミの議論でも、彼はそういう話し方をしていた。


 二人の話はゼミのことになった。指導教員の先生がどうしているか、ということ。先生は今も大学にいるらしく、悠斗は年賀状を出していると言った。共通の知人の名前もいくつか出た。誰が結婚した、誰が転職した、誰が地方に引っ越した。緩やかで、当たり障りのない話だった。


 それでも私は、七年前に言えなかったことを思い出しながら、目の前のコーヒーを飲んでいた。


 コーヒーが半分くらいになった頃、少し間があいた。外を路面バスが通り過ぎた。悠斗が窓の外を見て、また私を見た。


「遥さんって、本、読む?」


「読む。最近は全然時間なくて、でも」


「何が好き?」


「小説。特にジャンルはなくて」


「俺も」と彼は言った。「担当は実用書なんだけど、個人的には小説が好きで」


 また少し笑った。今度は最初より自然な笑い方だった。


 一時間ほどで、彼は立ち上がった。


「仕事に戻らないと」


「うん、私も」


「また、どこかで」


 社交辞令のような言葉だったと思う。でも彼は財布を出しながら、少し間を置いてから、「連絡先、交換しよ」と言った。迷ったような、でも迷ったと気づかせないような言い方だった。


 私は少し驚いて、それからスマホを取り出した。



 その夜、メッセージが届いた。


「よかった」


 それだけだった。


 送信者は変わらず「遥」。私は画面を見つめて、「よかった」という二文字を何度か読んだ。


 書き方が変わっていた。指示ではなく、感想のような一言だった。まるで今日のことを知っているような、その一言だった。


 私は返信した。


「今日、本屋で会った。悠斗に」


 少し間があって、メッセージが届いた。


「知ってる」


「どうして知ってるの」


「私が行くように仕向けたから」


 指が止まった。


「あなたは誰なの」


 返事はすぐに来なかった。しばらくしてから、一行届いた。


「あなた自身だよ。未来の」


 私は、スマホを置いた。


 部屋の天井を見上げた。ばかばかしいと思った。でも同時に、完全に否定できないものが胸のどこかに引っかかっていた。


 そんなことがあり得るはずがない。あり得るはずがないけれど、あの本屋での出会いは確かに、メッセージの通りに動いた結果だった。


 しばらくしてから、もう一度スマホを手に取った。


「どんな未来にいるの」


 すぐには返事が来なかった。十分ほど経って、届いた。


「それは言えない」


「なぜ」


「言ったら、変わるから」


 私はその返事を読んで、少しの間考えた。もし本当に未来の自分なら、何を言って何を言わないかは、きちんと計算しているはずだ。「変わる」という言葉が引っかかった。良い方向に変わるのではなく、何かが狂ってしまうのを恐れているような言い方だった。


「じゃあ、一つだけ聞く。彼と会ったのは、よかったの?」


 返事は短かった。


「うん」


「それだけ?」


「それだけ」


 私はスマホを伏せて、窓の外を見た。夜の街が静かに光っていた。何が「うん」なのかはわからなかった。でも「うん」という一文字に、何かが詰まっている気がした。



 それからしばらく、悠斗とのやり取りが続いた。


 最初は短いメッセージだった。お互いの近況を報告するような、短い言葉のやり取り。彼からメッセージが来ることもあれば、私から送ることもあった。


 同時に、「遥」からのメッセージも続いた。


「今日、彼に好きな映画を聞いてみて」


 その通りにすると、悠斗は少し考えてから「邦画が多いかな」と言った。「最近だと——」と具体的なタイトルを挙げて、「遥さんは?」と返してきた。私が答えると、「それ、俺も好き」と言った。偶然ではなく、好みが重なっていた。


 次のメッセージが届いたのは、その三日後だった。


「週末、美術館の企画展、誘ってみて」


 私は少し迷った。映画の話が盛り上がってから間がない。早すぎないかと思ったけれど、「遥」がそう言うのなら、と送ってみた。


 悠斗の返事はすぐに来た。「行こう」の一言だった。


 ただ、美術館の前に一度だけ、うまくいかない日があった。


 十一月の最初の週末、私たちは近所のカフェで会う約束をしていた。当日の午後になって、悠斗から短いメッセージが来た。


「ごめん、急ぎの仕事が入った。今日は難しそう」


 私はしばらく、その文を見ていた。「難しそう」というのは来られないということなのか、少し遅れるということなのか、判断しかねた。「大丈夫だよ」と返したが、それきり既読がついたのは夜になってからで、返事は「本当にごめん」の一言だった。


 怒っていたわけではなかった。出版社ならそういうこともあるだろうと思った。でも、その夜は少し気持ちが落ち着かなかった。何かが変わったわけではなかったのに、不安定な感じが残った。


「遥」からはその日、何もメッセージが来なかった。


 翌週、悠斗から「先週のこと、またどこかで」というメッセージが届いた。それで十分だった。不安定さは、すうっと落ち着いた。



 二人で歩いた美術館は、平日の午後で空いていた。


 企画展は近代の日本画をまとめたもので、こぢんまりとした会場だった。入ってすぐの大きな作品の前で、私たちは少し立ち止まった。山の稜線を描いたものだった。薄い墨と、かすかな青。


「これ、好きだな」と悠斗が言った。


「どのへんが?」


「遠いところがちゃんと遠く見えるのに、近くにあるもののことも忘れてない感じ。空気の重さがある」


 私は改めて絵を見た。言われてみると、確かに空気があった。


「そういう見方したことなかった」


「俺もそんなに詳しいわけじゃないけど」と彼は言った。「本と一緒で、好きかどうかはわかる気がする」


 展示室を少しずつ進んだ。悠斗はゆっくり歩く人だった。急がない。一枚一枚に均等に時間をかけるわけでもなく、気になったものの前で自然に足が止まる。私もそれに合わせて歩いた。


 中ほどの部屋に、小さな風景画があった。川と、橋と、橋を渡る人の後ろ姿だけが描いてある絵だった。橋はアーチ形で、人は半分ほど渡ったところにいた。こちら側の岸はもう離れていて、向こう側にはまだ届いていない。


「この人、どこ行くんだろ」と私は言った。


「帰るんじゃないかな」


「なんで?」


「足の向き。帰る足に見える」


 私は笑った。悠斗も笑った。展示室の中で、二人の笑い声が少し響いた。


 でも笑いながら、私は絵の中の人のことを考えていた。橋の途中、というのは、どちらにも属していない場所だ。渡り終えてもいないし、引き返してもいない。七年間の私も、そういう場所にいたような気がした。言えないまま、でも忘れられないまま、橋の真ん中で立ち止まっていた。


 悠斗は、この絵を選んでいた。川の橋を、帰る足で渡る人の絵を。それがどういう意味なのかは、彼本人にしかわからない。でも私は少しだけ、気になった。


 最後の部屋を出たところで、窓から外が見えた。曇り空だった。


「雨、降りそうだね」と悠斗が言った。


「そうかも」


「傘、持ってる?」


「折り畳みが一応」


「じゃあ大丈夫か」


 そのまま出口に向かった。ミュージアムショップを少し見て、ポストカードを一枚ずつ買った。私はあの山の風景を選んで、悠斗は川の橋の絵を選んでいた。


 帰り道に雨が降ってきた。最初はぱらぱらと、すぐに本降りになった。軒下に入って、私は折り畳み傘を出した。小さなものだったので、二人には明らかに狭かった。


「貸して」と悠斗が言って、傘を受け取った。


 肩が近くなった。傘を持つ彼の腕が、少し私の肩に触れた。雨の音が近くなった。


 何も言わなかった。何も言う必要がなかった。


 その日の夜、「遥」からメッセージは来なかった。



 十二月に入ると、街はイルミネーションで明るくなった。


 悠斗とは月に二、三回会うようになっていた。食事をしたり、本の話をしたり、たわいない時間を過ごした。彼と話していると、仕事の疲れが少し遠くなった。


 ある日の夕方、会社の近くの定食屋で二人で食べた帰り、悠斗が「最近、担当の本が出た」と言った。著者は若い人で、初めての単著で、緊張している、と言っていた。


「本を作る仕事って、どういう感じ?」と私は聞いた。


「んー」と彼は少し考えた。「著者のものを、より著者のものにする仕事、というか」


「著者の原稿に手を入れるの?」


「入れる時もある。でもそれより、その人が一番書きたいことを引き出す、っていう方が近いかな。余計なものを取り除く、みたいな」


「余計なもの」


「本人が当たり前すぎて書かないことだったり、逆に説明しすぎてるところだったり」


 私は少しの間、その言葉を考えた。余計なものを取り除いて、本当に書きたいことを引き出す。それは、人と話すことにも近い気がした。


「それ、向いてる仕事だと思う」と私は言った。


 悠斗は少し驚いたような顔をして、「なんで?」と言った。


「言葉を選ぶのが上手いから」


 彼はしばらく何も言わなかった。それから、「ありがとう」と言った。短く、静かに。


 「遥」からのメッセージは、毎日来るわけではなかった。三日空くこともあれば、続けて来ることもあった。内容はいつも短く、具体的だった。


「今日の待ち合わせ、五分早く行って」


 その通りにすると、悠斗が珍しく遅れてきた。五分早く行っていなければ、私が先に着くはずだったのが、ほぼ同時になった。「ごめん、電車が少し遅れて」と彼は言った。「待たせてないよね?」。私は「今来たところ」と言った。それだけのことだったけれど、なぜかその言葉がすとんと落ち着いた。


「彼の新しい仕事のこと、聞いてみて」


 翌週に聞くと、新しい著者を担当することになったと教えてくれた。エッセイを書く人で、と言いながら、悠斗は少し嬉しそうだった。仕事の話をする時の彼の顔は、普段よりも少し表情が豊かになった。


 私はその指示の意味を、ある時から考えるようになった。「未来の自分」が、今の私を導いているとしたら、その未来では一体何が起きているのか。うまくいっているのか。それとも、何かが違ったのか。


 ある夜、私は「遥」に聞いた。


「何のためにこれをしているの。未来で、何がある?」


 返事は遅かった。翌朝になって、一行届いた。


「後悔している。だから」


 それだけだった。


 私はその一行を、何度か読んだ。「後悔している」という言葉は、シンプルで、でも重かった。未来の自分が後悔している、ということは、今の私がどこかで間違えたということなのか。それとも、間違えそうになっているということなのか。


「何を後悔してるの」と私は返した。


 返事はすぐには来なかった。夜が更けて、返ってきたのは短かった。


「言えなかったこと」


 それ以上は来なかった。でもその夜、私はその三文字をずっと考えた。言えなかったこと。それが何なのか、私にはもうわかっていた。



 十二月の半ば、悠斗から食事に誘われた。


 いつもと違って、彼から誘ってきたのは初めてだった。「ちゃんとした店で」と彼は言った。「ちゃんとした」という言葉の重みが気になって、私は少し緊張した。


 当日の朝、「遥」からメッセージが来た。


「今日、本当のことを話して。全部」


 私はしばらく、その一行を見つめた。


「全部って、何を?」


 返事はすぐに来た。


「七年前から好きだったって。言えなかったってこと」


 指が震えた。


「どうして今日なの」


 少し間があった。今までより長い間だった。


 返ってきたのは、今まで届いたどのメッセージよりも長かった。


「本当は、もっと早く言えばよかったと思ってる。最初のメッセージを送った時から、ずっとそう思ってた。でも怖くて。あなたが動いてくれるかどうか、わからなかったから、少しずつしか言えなかった」


 私はその文を、ゆっくり読んだ。


「あなたが言えるなら、それでいい。私が言えなかった分も、全部」


「全部って」


「私の分の後悔も、一緒に終わらせて」


 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 未来の自分が、後悔している。今この瞬間も、後悔を抱えたまま、どこかの夜に一人でスマホを持っている。そう思うと、胸の奥に何か重いものが沈んでいくような感覚があった。


「今日しか、ないから」


 それ以上の説明はなかった。



 待ち合わせは駅の近くだった。


 改札を出ると、悠斗が先に来ていた。コートを着て、少し寒そうにしていた。私に気づくと、いつものように目を細めて笑った。


 お腹が空いてるよね、と彼は言った。


 歩きながら、私は「遥」のメッセージのことを考えていた。今日しかない、という言葉の意味を。何が今日しかないのか。未来の自分がそれを知っているなら、私は知らなくていいのか。


 お店は小さなイタリアンだった。窓際の席で、外のイルミネーションが見えた。注文をして、ワインが来て、しばらく二人で話した。


 悠斗はいつもよりゆっくり話していた。仕事のこと、最近読んだ本のこと、子どもの頃に住んでいた街のこと。私は彼の話を聞きながら、今日が特別な夜になる気がして、少し怖かった。


 ワインのグラスが空いた頃、悠斗が言った。


「遥さんと、こうして話せるようになって、よかったと思ってる」


 私は顔を上げた。


「最初に本屋で会った時、びっくりしたんだ。探してたわけじゃないけど、でも、また会いたいと思ってた人だったから」


「また会いたいと思ってた?」


「大学の頃から」


 外のイルミネーションが、窓ガラスに映っていた。


「俺、卒業式の後に声をかけようとしてたんだよ。でもタイミングが悪くて」


 私は何も言えなかった。


「謝恩会が終わった後、駅まで行ったんだ」と悠斗は続けた。グラスを少し回しながら、窓の外を見ていた。「ホームまで行けば、電車に乗る前に声かけられると思って。でも、いなかった。もう帰った後だったのか、別の出口から出たのか」


「知らなかった」


「まあ、結局タイミングが合わなかったってだけなんだけど」と彼は言った。「それが、ずっと頭に残ってて」


 私は、あの日のことを思い出した。謝恩会の後、友人と一緒に別の出口から出た。改札を抜けた後に、もう一度戻ろうか、と思った気がする。でも戻らなかった。


 ホームで。


 彼がホームにいた時間と、私が改札の前で迷っていた時間は、もしかすると重なっていたのかもしれない。


「それからずっと、どこかで後悔してて」


 七年間。同じだった。私も彼も、七年間ずっと、同じ後悔を抱えていた。


「私も」と私は言った。声が少し震えた。「声をかけようとして、できなくて。ずっとそれを引きずってた」


「そっか」


「ずっと好きだったよ。大学の頃から、ずっと」


 言ってしまってから、心臓が痛いくらいに動いていた。七年間言えなかった言葉が、こんなにも短い文になるとは思わなかった。


 悠斗は少しの間、テーブルの上を見ていた。それから顔を上げて、私の目を見た。


「俺も」


 それだけだった。


 でも、それで十分だった。



 帰り道、二人で歩いた。


 イルミネーションの街は明るく、人が多かった。悠斗の手が私の手に触れた。自然な、ためらいのない触れ方だった。私は何も言わなかった。彼も何も言わなかった。


 ただ、歩いた。


 七年分の距離が、少しずつ縮まっていくような夜だった。



 家に帰って、コートを脱いでから、スマホを見た。


 「遥」からのメッセージはなかった。


 私は少し待ってみた。それから、自分から送ることにした。


「言えた。今日、全部言えた」


 返事は来なかった。


 翌日も来なかった。でも翌日は、悠斗からメッセージが来た。「昨日、ありがとう」という短い一行だった。私は「こちらこそ」と返した。それきり、その日はやり取りが続かなかった。でも不思議と不安はなかった。夜が来て、眠って、朝になった。


 三日後、「遥」からのメッセージは届かなかった。


 一週間後も届かなかった。


 私は待ちながら、少しだけ寂しかった。毎日来ていた一行が、突然来なくなることの静けさに、慣れるまでに時間がかかった。時々スマホの通知を確認して、「遥」の名前がないことを確かめた。それはもう来ない、ということを確かめているような作業だった。


 でもそれは、当然のことだとも思った。


 後悔がなくなったなら、もう送る必要はない。未来の私が今の私に伝えたかったことは、全部伝わった。



 一月になった。


 年が変わって、悠斗から「明けましておめでとう」というメッセージが来た。私も同じ言葉を返した。それから少しだけやり取りが続いた。お互いの正月の話、今年やりたいこと。悠斗は「担当の本を一冊、きちんと作り切りたい」と言った。私は「仕事の速度を落としたい」と言った。


「落とす?」


「早く終わらせることより、丁寧にやることを優先したい」


「いいね」と彼は言った。「俺もそっちが好き」


 悠斗と会う回数が増えた。食事をして、映画を見て、本の話をして、時間をかけてゆっくりと近づいていった。彼は穏やかで、急がなかった。私もそれが嬉しかった。


 一月の半ば、二人で映画を見た帰りに、悠斗が「寄りたいところがある」と言った。古い書店だった。間口の狭い、棚が天井まである店で、彼はそこの常連らしかった。店主と短く挨拶を交わして、棚を見て回った。私も後ろからついていった。


「これ、好きかも」と私は一冊を手に取った。作家の名前は知っていたけれど、読んだことのない本だった。


「それ、いい」と悠斗が言った。「後半が特に」


「読んだことある?」


「学生の時に一回。最近また読み返した」


 レジで、悠斗が「俺が出す」と言った。


「なんで?」


「誕生日、一月だよね」


 私は驚いた。「なんで知ってるの」と言うと、「ゼミの名簿に載ってた」と彼は言った。当たり前のことのように、でも少し照れた様子で。


 私はありがとうと言って、その本を受け取った。


 ある夜、悠斗のアパートの近くを二人で歩いている時に、彼が言った。


「付き合ってほしい」


 街灯の下で、彼はまっすぐに私を見ていた。コートの前をしっかり合わせて、首を少し縮めていた。寒かったのかもしれない。でも目だけは真剣だった。


「うん」と私は言った。


 今度は、迷わなかった。


 悠斗は少し息を吐いて、「よかった」と言った。ぼそっとした、小さな声だった。私は笑った。彼も笑った。冬の夜の路地で、二人で笑っていた。



 春になった頃、私はスマホの受信履歴をもう一度見た。


 「遥」からの最後のメッセージは、十二月のあの夜から届いていなかった。それ以前のやり取りをスクロールして、最初のメッセージまで戻った。


「今日、あの人に会いに行って」


 もしあの時、このメッセージを無視していたら。本屋に行かなかったら。グレーのコートを着なかったら。


 悠斗とは会わなかった。あるいは、会っていたとしても、声をかけなかったかもしれない。また七年が過ぎて、また十年が過ぎて、やがて顔も思い出せなくなる日が来たかもしれない。


 そしておそらく、そのどこかで——もう一人の私が、スマホを開いてメッセージを書いたのだろう。届かないとわかりながら、過去の自分の番号に向けて。


 その人のことを、私はもう知っている。


 長い間を置いてから返信する人。少しだけ感情が滲む人。「あなたが言えるなら、それでいい」と書いた人。


 あの夜のメッセージは、懸命だった。静かだったけれど、その静けさの奥に、長い時間をかけて積み上げてきた何かがあった。


 そう考えてから、私は少し笑った。


 でも、過去は変えられない。変えられないから、「遥」は私にメッセージを送ってきたのだ。後悔したまま時間が過ぎることを知っていたから。


 私はスマホを手に持ったまま、少し考えた。


 それから、新しいメッセージを書いた。


 送信先は、自分自身ではない。でも、ある意味では自分自身とも言えるような相手に。七年前の、あの卒業式の日に、改札の前で立ち止まっていた私に。


 私は書いた。


「言いたいことがあるなら、言っていい。後悔するよりずっといい」


 送信ボタンを押してから、スマホをテーブルに置いた。


 もちろん、届かない。七年前の自分には届かない。でも書くことで、何かが整理された気がした。言葉にすることで、七年間の後悔に、小さな句点が打てた気がした。



 窓の外に、春の光が差し込んでいた。


 悠斗からメッセージが来ていた。今日の夕方、会えるかという内容だった。私は「うん」と返した。


 部屋の中が、明るかった。


 それだけで十分だと、今の私は思った。後悔は完全には消えないけれど、それは七年間を生きた証明でもある。言えなかった時間があったから、言えた夜の重さを知ることができた。


 最後に届いたメッセージは、「後悔しないように」という言葉ではなかったかもしれない。むしろ、「後悔してきたあなたへ」という言葉だったのかもしれない。


 未来の自分が過去の自分に何かを伝えるなら、それは後悔を消すためではなく、後悔を抱えたまま前に進むための、小さな背中の押し方なのだと、私は思った。


 スマホを鞄に入れて、コートを手に取った。


 今日も、外は寒い。でも歩いていくことにする。


 悠斗が待っている場所へ。

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