トラウマ
「――だからさ、あいつの目、絶対やったでしょ。夏休み明け、急に二重幅広くなってない?」
サークルの夜の飲み会で、グラスの氷がカラン、と音を立てる。主人公、橘 遥は、雑踏のような話し声の渦の中で、その一言だけを鮮明に拾い上げた。
遥は大学生。東京の西側、国際色豊かなキャンパスを持つ名門私立大学「創明大学」。彼女の所属する国際文化研究学部は、英語のディスカッションが日常の、眩い光に満ちた場所だ。このテーブルにいる皆も、皆どこか垢抜けていて、自信に満ちている。
遥は手に持ったジョッキをぎこちなく傾け、熱気に満ちた居酒屋の片隅で、静かに自分の耳を触った。
彼女の耳は、家を出ていった、母の耳と全く同じ形を遥に思わせた。
両親の離婚後、高校卒業まで父と二人で暮らしてきた。父は口数が少なく、母がなぜ出て行ったのかを遥に語ることはなかった。だが、その耳の形を見るたび、遥は母の影を感じ、言いようのない嫌悪感を覚えた。
特に記憶に刻み込まれているのは、幼い頃、母が時折見せた、ヒステリー以上の激しい怒りだった。
ある日、母の機嫌を損ねた父に向かって、母は食器を投げつけるほどの癇窛を起こした。遥は恐怖で身体が固まり、ただその様子を見つめるしかなかった。その時、叫びながら父を罵倒する母の横顔が、遥には鮮明に見えていた。父が怒鳴られれいた理由はよく覚えていない。
怒りで歪んだ表情、吊り上がった眉、そして、髪の隙間から覗く、あの不自然に突出した軟骨のライン。
(あの時の母の顔は、あまりにも醜かった。そして、私は、あの憎むべき形質を、そのまま受け継いでしまった)
その「醜形さ」は、彼女が唯一、母と繋がっている証拠であり、同時に彼女の美意識を根底から汚す異物だった。耳を見るたびに、母の狂気じみた怒りの瞬間がフラッシュバックし、遥は自分の中に潜む、同じ「醜いもの」への恐れと憎悪に囚われるのだ。
周りの視線は内向きで、誰も遥の「変わった耳」に注目しない。それは救いだったが、大学に入学し、上京してからの日々は違った。
渋谷のスクランブル交差点、原宿の竹下通り、きらびやかなファッションビル。東京の都心は、どこもかしこも、完璧な美しさを纏った人々が目についた。鼻筋の通った横顔、均整の取れた目元。誰もが皆、まるで雑誌から抜け出たように洗練されていた。そんな中で、遥の、あの不格好な耳の形は、顔全体の釣り合いを微妙に狂わせ、彼女の心の奥底までを、静かに、蝕んでいった。
(私だけ、何かが違う。私だけ、、、)
飲み会が終わると二次会には参加せず、アパートに帰り洗濯物を畳んでいると、父から電話が来た。
スマートフォンを耳に当て、父の声を聴く。
「ああ、遥か。元気にしてるか?」
「うん、元気だよ。授業もサークルも慣れてきたし、特に問題ないよ」
その時、遥は無意識に、受話部の位置をわずかにずらした。父の声に集中しようとするたび、耳のせり上がった軟骨の出っ張りがスマホの平らな面にコツコツと当たって、うまくフィットしない。その硬い感触が、耳とスマホの間にわずかな隙間を作り、父の声をわずかに遠ざける。
「そうか。無理はするなよ。飯はちゃんと食ってるか」
「食べてるよ。父さんこそ、あんまり働きすぎるなよ」
話すことは、いつも決まっている。生活の心配、休みには帰省するのか。会話自体は他愛ないものだが、遥は電話の間中、耳の異物感と、そのせいで会話にイマイチ集中できない自分自身に、内心で苛立っていた。
「じゃあ、またな」
「うん、おやすみ」
電話を切った後、遥は鏡に向かい、自分の横顔を見た。湿気を帯びた黒髪を耳にかけ、剥き出しになった醜い耳。父との温かい会話の余韻は、この「母の残骸」を感じた瞬間、一瞬で冷たい嫌悪感に変わった。
「……で、結局、整形バレたってわけ。でもさ、目って本当に人生変わるよね。垢抜けるっていうか、世界が明るくなるっていうか」
友人の会話の続きを思い出した。彼女たちは、整形をまるで新しいアクセサリーを手に入れたかのように軽やかに語る声が響いてきた。
その時、遥の頭の中に、稲妻が走った。
耳。耳だって、整形できるんじゃないだろうか。
顔の中心にあるわけではない。メイクで誤魔化せる部位でもない。ずっと隠し続けてきた、自分の内側にある醜形を、外科的なメスで、切り離すことができたら。母の影を、この身体から、永遠に取り除くことができたら――。
その夜、アパートに帰った遥は、誰もいない薄暗い部屋で、携帯電話の検索窓に、震える指で単語を打ち込み始めた。
「耳の形 整形 費用」
「軟骨 出っ張り 修正」
「耳介 変形 治す」
遥は急速に脈打つ心臓を感じながら、スクロールの手を止め左耳を触った。
ーーーーーー
創明大学国際文化研究学部の専門科目の多くは、英語で進められる。遥は、課題で課される分厚い専門書や論文は辞書を引きながらでも難なく読みこなすことができた。しかし、教室の空気は、彼女にとって常に重かった。
教授がネイティブ特有の速さでディスカッションのテーマを投げかける。隣に座るサークルの友人は、その言葉を瞬時に理解し、「Yes, Professor. But I...」と流暢に言葉を返した。
その瞬間、遥の耳に入ってくるのは、もはや意味をなさない「音の塊」だけだった。
(今、なんて言った? 私は、言葉ではなく、ただノイズを聞いているだけだ)
彼女の焦燥は募る。発言の機会は次の瞬間にも回ってくるかもしれない。彼女の優秀なリーディング力は、この教室では何の役にも立たない。ただ、必死に隣人の表情と、教授の口の動きを追うことしかできなかった。
「橘さん、あなたの意見はどうですか?」
唐突に名前を呼ばれ、遥は反射的に顔を上げた。教授の言葉が、脳内で完全に日本語に翻訳される前に、すでに彼女の番は来てしまっていた。彼女の口から出るのは、いつもぎこちない、自信のない英語だけだった。
(どうして私だけ、こんなに聞き取れないんだろう)
彼女は、その「聞こえの悪さ」もまた、自分の耳の形のせいではないかと、奇妙な思い込みを抱くようになっていた。
ーーーーー
この、不自然にせり上がった軟骨。その形が、音を集めるという物理的な機能を果たせていないのではないか。母から受け継いだ、醜い外形。それは、音の情報を正しく受け取るという、人間として当然の機能までを蝕んでいるのではないか。
耳の醜形。母の狂気。そして、言語を理解できないという劣等感。すべてが、この耳に起因している
スマートフォンの画面には、専門的な医療用語や、手術の図解が並んでいる。遥は、その記事の一つ一つを、まるで自分の身体を蝕む病のカルテを読むかのように、食い入るように見つめた。
救いは、この画面の中にしかない。
彼女は深く息を吸い込み、「耳介形成術」という言葉を頭の中で反芻した。それは、彼女が「母」から解き放たれ、「醜い自分」を浄化するため。
指先は汗ばみ、最初に検索で見つけた美容外科の電話番号を呼び出す。
「はい、〇〇美容クリニックでございます」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、とても明瞭で、透き通るように聞こえの良い女性の声だった。遥が抱える「聞こえの悪さ」とは対極にある、完璧な響き。
遥は、緊張で詰まりそうになる声を絞り出した。
「あ、あの……耳の、形のことで、ご相談したいのですが……」
遥の言葉が途切れがちでも、女性は一切の苛立ちを見せず、むしろ穏やかなトーンで応じた。
「かしこまりました。耳の形成のご相談ですね。カウンセリングは無料で承っております。つきましては、今週の金曜日、午前中はいかがでしょうか。午後ですと、翌週の火曜日が最短となります」
声の心地よさが、まるで彼女の抱える不安をすっと拭い去ってくれるようだった。遥はすぐに「金曜日でお願いします」と答えた。
彼女の心は、確信に満ちていた。
誰も、私の耳の形など、普段気にしていない。目や鼻の整形なら、すぐに友人たちにバレて、噂の対象になるだろう。だが、耳だ。髪で隠してしまえば、誰にも悟られない。
手術は、母から受け継いだ醜い部分を切り取る、秘密の儀式になる。そして、手術が成功すれば、自分のコンプレックスは解消されるだけでなく、「聞こえの悪さ」という長年の劣等感も、きっと改善される。
(綺麗な、正しい形の耳になれば、私もあの人たちみたいに、ちゃんと世界を聞けるようになる)
遥の自己肯定感を根底から持ち上げ、母の呪縛から解放し、この場所で、人として生きていくための、救いの道があるかもしれない。
金曜日。たった三日後には、人生が変わる。
遥は、スマートフォンをそっと置き、鏡台に向かった。彼女は両耳を覆い隠すように長く垂らした黒髪を、指先で入念に整え、深く、深く、髪の中に耳を閉じ込めた。




