【短編】幼女と竜と地下ダンジョン
「――バケモノめ!」
7歳の誕生日。実の父親から掛けられたのはそんな言葉だった。
あぁ、またかと私は悲しくなってしまう。
家族からの愛はとっくの昔に諦めたはずだけど……それでも、悲しい気持ちになってしまう。
どうして?
なぜそんなに忌み嫌うの?
疑問を込めた瞳でお父様を見つめると――
「なんだその目は!?」
怒りをまき散らしながら、私にコップを投げつけてくるお父様。本物の、高級な、透明ガラスのコップだ。
「痛っ」
頭部に鈍痛が走る。
ぽた、ぽたと。
髪から滴り落ちているのはコップに入っていた水と――血だ。
血。
血が流れ落ちる。
真っ赤な真っ赤な、赤い血が。
激痛が頭を支配する。
割れるほどに頭が痛い。
いいや、もしかしたら本当に割れているのかもしれない。
そんな激痛の中にあって、私は――
(――あっ)
私は、すべてを思い出した。
「だ、旦那様!? 何をなさいます!?」
私に駆け寄ってきてくれたのは家令(執事長)であるセバスチャン。彼はことあるごとに私を庇ってくれているのだ。
なんだろう? 不思議な感覚だ。私自身を、少し上から見下ろしている『私』がいるような……。
「ぐぬぬ、」
さすがに先々代から仕えているセバスチャンにコップを投げつけるわけにはいかないのか、お父様が忌々しげに吐き捨てた。
「セバス! その気持ち悪い女を別邸に押し込んでおけ! 二度と儂の前に姿を見せるな!」
「旦那様! しかし、お嬢様は間違いなく――」
「ええい! うるさい! そんな銀髪が儂の娘であるものか! 血を啜ったような赤い目が、ランテス家の娘であるものか! 殺さないだけ有難く思え!」
「…………。……承知いたしました。さ、お嬢様。どうぞこちらへ」
何を言っても無駄だと諦めたのか、セバスチャンが私の背中を押し、部屋の外に出るよう促してくれる。
廊下に出ると、中でのやり取りを盗み聞きしていたのかメイド長のサラさんが駆け寄ってきてくれた。キツい顔つきの眼鏡さんだけど、心はとても優しいことを私は知っている。
そう、セバスも、サラさんも、いつだって私の味方になってくれた。前世の記憶を思い出したところで、その事実を忘れるわけでもない。
「お嬢様! あぁ、なんてことでしょう!」
サラさんが自分のハンカチを取りだし、私の頭の傷口を押さえてくれた。
「サラさん、ハンカチが汚れちゃいますよ」
「――っ! そんなこと、子供が気にせずとも良いのです!」
耐えきれないとばかりに私を抱きしめてくれるサラさん。そのぬくもりは、この世界の親が与えてはくれないものだ。前世の私も経験できなかったことだ。
でも、大丈夫。
私の親はクズだけど、私には、ちゃんと心配してくれる『家族』がいるのだから。
「お嬢様。すぐに治癒術士の元で治療をしましょう」
サラさんからの提案を、私が元々持っていた知識を使い、前世の思考力で判断する。
「いえ、大丈夫ですよ。それに、どうせ治療なんてしてくれないですし」
「それは……」
貴族の邸宅には専属の治癒術士がいるものらしいけど、うちの治癒術士はあの父親の味方なので私が向かったところで追い返されるのがオチだ。たとえ家令(使用人を統括する立場)のセバスチャンがいたところで同じこと。治癒術士のバックにはあの父親が付いているのだから。
だから私は期待しない。
私の味方にはセバスチャンやサラさん、他数名のメイドさんがいる。それだけで十分だ。
ちょっと前の私なら泣いてしまっていたかもしれない。
でも、今の私には前世の記憶がある。たとえ別邸に軟禁されたって、なんとかしてみせる。
「別邸に行くんですよね? 早く案内しないと怒られちゃいますよ?」
「お嬢様! しかし!」
「私は大丈夫です。むしろこの屋敷で暮らすより安全そうですし」
「そ、そこまで考えられて……。承知いたしました。すぐにご案内いたします」
こうして。
私は本邸を離れ、少し離れた別邸に軟禁されることとなった。
◇
別邸は十年くらい前まで本邸として使われていた建物らしく、新本邸の建設によって用済みとなり、放置されていたらしい。
元々の本邸に相応しい立派な建物ではあるのだけど、今では外壁に蔦が生い茂り、割れた窓には板が打ち付けられていた。
軋む音を立てながら玄関ドアが開けられる。
夜。誰もいない洋館。前世で言えばもうホラーゲームとしか思えない状況だ。
「――灯火」
サラさんが呪文を唱えると、彼女の人差し指の先に魔法の明かりが灯った。
そう、この世界には魔法があるのだ。科学の発展具合は中世程度だろうけど、その分魔法が発展し人々の生活を支えている感じ、なのだと思う。
「申し訳ございませんお嬢様。掃除が行き届いておらず……」
サラさんが謝ってきたけれど、私からすれば大した問題じゃない。
「大丈夫です。私の部屋も似たような感じでしたから」
「……まことに申し訳ございません」
悔しそうな声を絞り出すサラさんだけど、別に私を軽く見て掃除をさぼっていたわけではない。ただ、あの父親が私の部屋を掃除しないようわざわざ命令していただけで。
ちなみにその情報を教えてくれたのは副メイド長のアンナさんだ。彼女は口が軽いというか、私に同情してくれていたので『不真面目なメイド』を演じて私に色々と教えてくれたりしていたのだ。……私が前世の記憶を思い出す前から。
アンナさん情報によると、私は前妻の娘で、この世界でも珍しい銀髪赤目として産まれたらしい。
あの父親の嫌悪具合からして本当は私のことなんて『処分』したかったのだろうけど、なにやら私の母親の実家は偉い貴族らしく、そう簡単に『処分』はできなかったらしい。
で、私が生まれてから七年間我慢した結果、とうとう今日『ぷっちーん』と来て私を別邸送りにしてしまったと。
ぷっちーんと来て殺されなかったことを喜ぶべきか。その偉い貴族とやらから「孫娘を見せろ」と要求されたらどうするつもりなのかと呆れるべきか。なんとも微妙な心境になってしまう私だった。
(しかし、銀髪かぁ)
サラさんの灯火を頼りに、自分の髪を一房取ってみる。確かに銀。まごうことなく銀。前世の記憶を思い出した今となってはキラキラして綺麗だと思うのだけど、異常と言えば異常なのかもしれない。
物心ついた頃から半軟禁状態だったので、この世界にどれだけ銀髪がいるのかは分からない。
(というか、きっと物心つく前から軟禁状態だったんだよね)
と、そんなことを考えていると、一階の一番奥にある部屋に到着した。
「お嬢様。こちらは代々当主が使用していた寝室でして。おそらく一番居心地がよろしいかと」
「へぇ」
この世界における貴族の邸宅は、一階に食堂や客室。二階に当主などの大人の部屋。三階に子供部屋というのが一般的らしい。なので一階に当主の寝室があるのは珍しいのではないだろうか? いや古い屋敷なので建てられた頃とは常識が変わっただけかもしれないけど。
これまた軋むドアを開けると、さすがは当主の部屋だけあって広々とした豪勢な内装だった。ちょっと埃っぽいけど、まぁそれはしょうがないよね。
「ではお嬢様。すぐにとはいきませんが、少しずつメイドを派遣して掃除をさせますので……」
「え? いや、いいですよ。メイドさんが怒られちゃうかもしれないですし」
あの父親なら私に協力したメイドさんたちも平気で折檻したりクビにするはず。私のせいで人生を狂わされるだなるなんて、そんなことは許されない。
「ですが……」
「それに、私も掃除は得意になったんですよ? だから、任せてください」
「……申し訳ございません」
「いいですから、いいですから」
まだ後ろ髪引かれるセバスチャンとサラさんを帰らせ、ベッドの上で一息つく。
「……あの父親はほんとクズだなぁ」
前世の記憶を思い出してから改めて実感したことを口にする。以前は『お父様』と呼んでいたけど、もう『父親』でいいや。
天井に向かって手を伸ばす。視界を占める手の甲はどう見ても幼女のもの。前世では大人だったので違和感が凄い。
7歳。にしては小柄に感じてしまうのはたぶん栄養が足りていないのだ。私にはまともな食事すら用意されなかったから。
普通ならこんな幼女が別邸送りにされたら泣きわめきそうなものだけど……私は胸が高まるのを感じていた。
ドキドキする。
ワクワクする。
こんな感情はどれくらい抱いてなかっただろう?
だってここでは自由に生きられる。好きな時間に起きて、好きな時間に眠ることができる。
機嫌が悪いと八つ当たりしてくる父親もいないし、言葉と暴力で私の心を折ろうとする継母も、そんな継母の真似をする異母妹もいない。
そしてなにより前世の記憶がある。今ままでできなかったことを、色々と試すことができるのだ。
久しく感じることのなかった、『子供らしい』心の動き。
(こんな薄汚い別邸には義母もアリスもやって来ないだろうし。まさに天国だよね)
ポジティブ・シンキングした私は伸ばしていた手を一旦握り、人差し指だけを伸ばした。
思い出すのは、先ほど人差し指の先に魔法の明かりを灯していたサラさんの姿。
「えーっと、灯火、だったかな?」
サラさんがやっていたように呪文を唱えると、私の指先に明かりが灯った。
「おおー!」
なんかよく分からないけど魔法が使えた。記憶を思い出す前の私は家庭教師も付けられず、魔法も習えなかったからねぇ。
一般庶民は魔法を使えないのが普通だと聞くし、サラさんがメイド長になれた一因も魔法が使えたからだと聞く。その意味で言えば私に魔法の才能がありそうなのは良かった良かった。
あとの問題は灯火しか呪文が分からないことだ。別邸の中になにか魔法に関する本でもないかなぁ。さすがにもう本邸の図書室は使えないだろうし……。
そんなことを考えていると。
ぐぅうう、っと。私のお腹が鳴った。
私の誕生日。普段は食堂にすら呼ばれない私は急に父親と食事をすることになって。久しぶりにまともなゴハンが食べられるかなーっと期待していたというのに……。あの父親、私の顔を見るなり別邸送りを決めてくれたのでまだ夕食を食べていないんだよね。
「……とりあえず。母親の実家がある手前、食事くらいは出るはず」
もし出なかったらセバスチャンに頼んで廃棄食品を恵んでもらうしかないか。貴族のお嬢様なら泣きわめく状況だろうけど、前世では食えない経験もしていたので問題なし。
あとは、やはり――
「――魔法」
どうにかして魔法を勉強しよう。そうすればこの家を出て、別の場所で生き抜くこともできるはず。だってあの父親がまともな嫁ぎ先を見つけるはずがないし。どうせ金目当てでとんでもない相手を探してくるはずだ。
そんなのは嫌だ。
家や嫁ぎ先に人生を狂わされるくらいなら、野垂れ死ぬ覚悟で『自由』を手に入れた方がいい。どうせ死ぬなら前のめりに死んでやる。
異世界ものの定番なら冒険者になるのがいいと思う。だけど、そもそも冒険者という職業があるのかすらも分からない。アンナさんもそっち方面のことは教えてくれなかったんだよね。
あと、もう一つの定番だと修道院か。でも(前世知識だけど)持参金がないと虐められるとも聞いたことがあるし……。いざとなれば森の中でサバイバル生活も覚悟しなきゃいけないかもしれない。
「明日になれば誰かしら様子を見に来てくれるだろうし、とりあえず今日は寝るとするかな」
あの父親に投げつけられたコップのせいで洋服はビショビショ。着替えもないのでもう脱いでしまうことにする。
「……あ、そういえば、頭のケガ」
痛くなくなったからすっかり忘れていたけど、コップを投げられた時に出血したのだった。
滴り落ちてこないからもう血は止まったのだと思う。あとは消毒だけど……この世界に『消毒』という概念はあるのだろうか? 医療の知識が中世だと消毒液すらなさそうだけど。なにせ貴族は回復術士に治してもらえるからなぁ。
そもそも、消毒液があるならまずサラさんが持ってきてくれたはずだ。ポケットの中に入れていたハンカチで傷口を押さえるのもどうなのさって話だし。この世界の衛生観念、推して知るべし。
あとは、一応水で洗い流す?
この世界って水はどうしているんだろう? さすがに水道はなさそうだし、あったとしても殺菌消毒はしてなさそう。井戸水を使うのもなんか怖いなぁ。というか七歳の少女の身体じゃ井戸から水をくみ上げられないかも。
貴族令嬢&自室でもほぼ軟禁状態&前世の記憶を思い出したばかりの私は、この世界のことを何も知らないのだと実感してしまう。もうちょっと副メイド長のアンナさんに質問しておけばよかった……。
「う~ん……よし」
結論。
化膿しないことを祈って、今日は寝る。
それで死ぬならそこまでの人生だ。幽霊になってあの父親を呪い殺してやろう。
決意を新たにしながらベッドに入る。
ベッド自体は良いもので、とても柔らかい。
しかし布団の上には埃が溜まっていたし、カビ臭かった。
でも、大丈夫。
前世。電気も止まった真冬の夜。ダンボールを被って眠った経験と比べれば遥かにマシなのだから。
「……あーさー」
カーテンもないので朝日と共に目覚めた私だった。
全裸のまま寝たので昨日脱ぎ捨てた服を着る。……まだ湿っていたけど、まぁ全裸でいるよりはマシなはずだ。そのうち乾くでしょう。
「さて」
誰かが様子を見に来るにしても朝食の時間だろうし、その前に屋敷の中を確認した方がいいかもしれない。
「最悪、自分で何か狩って料理しなきゃいけないだろうから、まずは厨房を確認しようかな」
屋敷から少し離れた場所には王都に唯一残された森林があり、魔物が出るという噂があると副メイド長のアンナさんが教えてくれた。
まぁさすがに王都で魔物が出るなら討伐されているはずだし、噂は噂だと思う。でも野生動物くらいはいるだろうから、いざとなればハンティングだ。前世の知識をフル活用すればいける、はず。
でもこんな幼い身体だからなるべく危険は犯したくない。屋敷に保存食が残されていれば……さすがに無理か。いくら何でも食べる勇気はない。それに傷んだ物を食べてお腹を下し、脱水症状になったらすぐに死んでしまうだろうし。
そんなことを考えながら一階を彷徨っていると、厨房を発見した。
やはり何とも不思議な間取りだ。普通主人の部屋と厨房なんて別の階にするでしょうに。
「厨房が一階にあるのは普通だから……主人の部屋を一階に作らなきゃいけない理由があったとか?」
もしかして高所恐怖症だったり? あるいは足が不自由だった人がいたとか? なぁんて考えながら厨房を捜索。……ふんふん。使用人のための食事も作っていたのか冷蔵庫はかなり大きい。そして電気はなさそうなので、かつてアンナさんが教えてくれたように『魔石』を使っているのだと思う。
魔石。
その名の通り魔物の『核』となっている石で、貯め込んだ魔力を使って様々な魔法現象を起こすらしい。たとえば氷の魔石なら調整することによって冷蔵庫にも冷凍庫にもなるし、火の魔石ならばコンロになるといった具合に。
「ほんと、ファンタジーな世界だねー。魔石は確か、魔力を充填して使うのだから……」
冷蔵庫の内部にそれっぽい石があったので、試しに触れてみる。身長が足りないので背伸びしなきゃいけなかったけど。
「――ん」
石に触れた指先から、何かが吸い取られるような感覚が。
危険な感じはしないのでそのまま石に触れていると、一分くらいで吸い取られる感覚はなくなり、石から冷気が流れてくるようになった。
「へー、これは便利かも」
試しにコンロの魔石にも触れてみると、こっちも火が付くようになった。いいなぁこれ。家から出るときは魔石だけでも持って行こう。そうすれば保存と火の心配はいらなくなるし。
「調理器具は――ある。包丁も――ある。お、このデカい包丁は武器としても使えそう」
肉切りにでも使っていたのか中々に分厚く、物々しい外見だ。私の腕の長さほどもあるから振り回すだけで不審者も逃げていきそう。
放置されているってことは、本邸に移るときに調理器具類を新調したのかもね。
「そしてこれは……水道かな?」
シンクのすぐ上に蛇口っぽいものがあり、これにも魔石が取り付けられていた。
魔石に魔力を充填し終わり、蛇口を捻ると……なんと、冷たい水が出てきた。
魔石から直接水が出ているのか、あるいは井戸から魔石の力で水をくみ上げているのか……。理屈は分からないけど、飲み水の確保もできそうだね。
とりあえず水を一杯飲んで水分補給をしてから、厨房を出て屋敷の探索続行。豪華な内装のお風呂には蛇口があり、これまた魔石が埋め込まれていた。
「おー!」
魔石に魔力を貯めてみると、なんとお湯が出てきた。しかも入浴にちょうど良さそうな温度。本邸にいたときはお風呂なんて入れなかったし、身体を拭くにも水しか使えなかったので超感動。
(うるさい義母やアリスはいないし、温かいお風呂に入れるし……もしや、ここって天国なのでは?)
今すぐ湯船に飛び込みたかったけど、バスタオルがなかったので入浴は泣く泣く後回しに。
なんだかドキドキワクワクしてきた。父親たちのせいでずいぶん『枯れた』性格になったと思っていたのに、まだこんな子供らしい心が残っていたんだね。あるいは前世の記憶を思い出した影響かな?
「よし、次は二階!」
お風呂パワーによってウキウキとなった私は喜び勇んで階段を上り始めた。の、だけれども……。
「はぁ、はぁ、はぁ……キッツぅい……」
階段を上っただけでもう息切れしてしまう私だった。7歳の幼女、にしても体力がなさ過ぎじゃない?
(あー、そうか。私ってずっと軟禁状態で部屋にいたから、そもそもの運動量が足りていないのか)
子供時代の運動は大切だと聞いたことがあるし、なにより家を出て働くなら体力は必須。これはもう体を鍛えるしかないと決意する私だった。……明日から。
今にも膝を突きそうなほど弱りながら二階に到着。手近な部屋のドアを開けてみると――子供部屋のようだった。
「おー、いかにもな子供部屋。私の部屋はとにかく殺風景だからなー」
ちょっとした探検気分になりながらクローゼットを開ける。
「ふふん、お洋服と靴発見」
いやこの国だと『洋服』じゃないのだけど。まぁ洋服の方が分かり易いからいいとして。
私では着たこともないような可愛くてフリフリした子供用ドレスたち。
今の私にぴったりなサイズがあったので、湿ったままだった服からお着替えする。部屋にあった鏡で確認してみると――うん、我ながら似合っているのでは? これはセバスチャンやサラさんを魅了してしまいそうだね。
と、鏡の前でそんなことを考えていたら、
≪――スキル・魅了を獲得しました≫
「うん?」
なんか、今、聞こえたような?
振り向いて室内を確認してみるけど、もちろん誰もいない。やだなぁ、もしかして幽霊とか? ボロいお屋敷だからほんとに出そうで怖いんですけど……。
しばらく警戒してみたけど、何もない。……よし! 気のせい! 気のせいでした!
怖い経験を忘れるためにもクローゼットを漁る。しかしこの洋服たち、いい素材を使っているなぁ。シルクってやつ? さすがに前世でもシルク製の服は着たことなかったはず。
私が家から出るときに服も何点か持って行って――さすがに無理か。洋服はかさばりすぎるものね。
「異世界のテンプレとしては空間収納みたいな感じのものがあるのだけど……」
この世界にあるのかは知らないし、誰かが使っているところを見たこともない。
ただ、ああいうのはスキルだったり高度な魔法だったりするので、そういうのに縁遠いメイドさんたちが使えないだけかもしれないけど。あとで何とか調べられないかなぁ。
着替えた服と、発見したバスタオルを持って探索続行。
一通り屋敷を探索した結果、成果と呼べるものは魔石と包丁、お風呂、そして子供服くらいだった。あとはバスタオルと、露呈した体力のなさ。
宝石でも残っていれば換金できたのだろうけど、めぼしいものはなし。まぁ貴金属は持って行くよね。
最後に、私が寝泊まりする部屋を調べてみることにする。
昨夜はドタバタしていたのであまり注目していたなかったけど、内装としては、部屋の右側に大きなベッド。左側に本棚と執務机って感じだった。
本棚には……まだ本が残されていた。こういうのって引っ越しのとき持って行くんじゃないだろうか? 特に自室に置いておくなら貴重だったり思い入れのある本なのだろうし。
違和感を覚えた私は椅子の上に乗り、本棚の扉を開け、中の本を一冊取ってみようとする。
「ん?」
さらなる違和感。
「これ、本じゃなくて、本みたいに作ったオブジェだ」
木製だろうか? 背表紙だけだと一冊ずつ独立しているように見えるのに、上から確認するとほとんどの本が繋がっていた。
「おっ」
一冊だけ動かせそうな本があったので、引き抜いてみる。――すると、本は途中で止まり、突如として本棚が震動し始めた。
「じ、地震!?」
慌てて椅子から飛び降り、机の下に潜る私。これは前世の経験が生きた形だ。
「……あれ? 揺れてない? 直下型の地震だったのかな?」
机の下から這い出ると、室内には意外な光景が広がっていた。
「……地下?」
先ほど本を引き抜こうとした本棚が横にずれ、その裏にあった地下への階段が露わになっていたのだ。
「隠し部屋? まさか、わざわざ一階に部屋を準備したのって、地下室を作りたかったから?」
ドキドキする。
興味はある。
すごくある。
でも、何の準備もなく地下に降りる勇気はないし、そろそろ誰かが朝食を持ってくるかもしれない。日が高いうちはその他にも誰かやって来るかもしれないし……。
「……とりあえず、日中は準備をして、探索は夜かな?」
先ほど引き抜こうとした本は斜めになった状態で止まっていたので、押し戻してみる。すると今度は本棚が元の位置に戻り、地下への階段を隠してしまった。
「う~ん、なんだかテンション上がって来ちゃったな。今すぐ探検したいけど、我慢我慢」
自分でも子供っぽいというか、少年っぽいなと呆れてしまう。
とりあえず、地下のことは一旦頭の片隅に追いやり、朝食を待つことにした私だった。
◇
「ほらよ、さっさと食いな」
結局朝食の時間には誰も来ず、昼になって現れたのは義母付きのメイドだった。元々は私の母親付きだったけど、母親が亡くなってからは後妻に鞍替えしたらしい。
そんな彼女が運んできたのは……残飯だった。野菜の切れ端しか入っていないようなスープに、カピカピになったパンの切れ端。明らかに栄養が足りていない一品だ。
「お前みたいな気持ち悪い子供に『餌』を与えてくださるんだ。旦那様に感謝するんだよ」
うわっ。餌って言ったよこの人。七歳の幼女に向けて。いや中身も合わせるともう少し年上になるけどさ、人の心とかないわけ?
「食器は明日持ちに来るから、その辺に置いておきな」
食事だけ置いてさっさと帰ってしまうメイドだった。
あの口ぶりだと明日までやって来ない = 晩ご飯なし。そしてたぶん明日の朝ご飯もなし、と。
「……ま、ご飯がないよりはマシだけどね」
もそもそとパンを食べ、スープを飲み干す。
お腹の空き具合にほとんど変化無し。全然足りない。むしろ中途半端に食べたから逆に空腹が加速した気すらする。
これは早急に何とかしないとマズいなと認識を新たにする私だった。
◇
そうして。空腹は改善されないまま夜となり。
「ででーん!」
空腹と憂鬱な気分を吹き飛ばすのも兼ねて、謎の効果音を叫んだ私だった。夜になってもう誰も来ないだろうから変な叫び声を上げてもいいし、地下室の探検を開始してもいいのだ。
準備内容① 灯火
これはもう出来るのだから準備も何もないけどね。やはり暗いところを移動するなら明かりは必須でしょう。
準備内容② 厨房で見つけたデカい包丁。
まぁ7歳の身体じゃまともに振り回せないだろうし、地下に生き物なんていないだろうけど、やはり武器があると安心感が違うのだ。
準備内容③ 厚手のカバン。
何かいい感じのものを発見したらこれに入れて持ち帰れるし、頭に被れば頭部を守ることができる。さらに腕に巻けば簡単な防具にもなるという一品だ。犬の噛みつきくらいなら防げる……はず。
準備内容④ 子供部屋で見つけた靴。
足をケガするとまともに歩けなくなるし、破傷風になる可能性もある。何が落ちているか分からない場所を歩くときは靴底の厚い靴。これサバイバルの常識ね。
準備内容⑤ 遺書。
この手紙を読んでいる頃、私は死んでいるでしょう。死体は迷惑の掛からない場所にあると思うのでお気遣いなく。という感じの内容を記した手紙を、執務机の引き出しに。
いやまぁ、地下への扉は開いているのですぐに見つけてくれるとは思うけど、何かの事故で扉が閉まってしまう可能性もあるからね。こういう手紙は残しておいて損はないのだ。生きているなら悪戯で済むだろうし。
それに、中途半端に行方不明になるとセバスチャンたちがいつまでも探してしまうかもしれないもの。
「というわけで! リアナ探検隊、出発!」
おー、っと。一人で拳を天に突き出しながら地下への階段を降り始める私だった。
◇
地下室への階段は十数段で終わった。ちょっと残念。
まぁ『屋敷の地下に秘密基地が!』とか『大迷宮が!』なぁんて展開は物語の中だけだということなのでしょう。
「地下にあるのはーっと」
灯火に注ぐ魔力を増やし、地下室全体を照らせるほどの光量にする。
広々とした空間の真ん中。床に書いてあるのは……魔法陣かな? 周縁部になにやら字が書いてあるけど、日本語でも、こっちの言葉でもないので意味は分からない。
そんな魔法陣の真ん中にあるのは……卵?
私が一抱えもできそうな楕円形の卵。
なんだかヤバそうな雰囲気が。
――でも、卵焼きにすれば、しばらくお腹いっぱい食べられるのでは?
ぐぅうぅ、っと。昨日の夜からまともに食べていないお腹が鳴る。
卵。
なんかヤバそう。
魔石のコンロがあるから、火は何とかなる。
卵。
なんかヤバそう。
でも、長期間放置されていたのならもう卵が孵ることはないだろうし、食べても問題はないのでは?
いやいや、落ち着け私。長期間放置された卵なんて食べられるはずがない。しかもあんな大きさの卵は異常すぎる。前世のダチョウの卵より一回りも二回りも大きいじゃないか。ここは危険には近づかず――
ぐぅうぅうっと。再びお腹が鳴る。
おなかすいた。
普段から禄に食べさせてもらっていないこの身体では、いざというときの脂肪もない。
もはや私に残されているのは餓死するか卵にあたって死ぬかの二択なのだ。
「ちょ、ちょっとだけ、ちょっと試してみるだけ……火を通せばいけるでしょ……」
ぐぅうぅうっとお腹を鳴らしながら、デカい包丁を片手に卵へと近づく私。
刃の部分を叩きつけるわけにはいかないので、包丁を返し、峰打ち(?)の体勢を取る。
そして、
「――ふんがーっ!」
7歳の筋力をフル動員し、包丁を振り上げる私! そのまま一気呵成に振り下ろす私!
がきぃいん、と。包丁は卵の殻に弾かれ、宙を舞った。
7歳の筋力、敗北の瞬間であった。
「あいたっ」
卵の反発力(?)に負けた私は尻餅をついてしまう。
そう、お尻と、両手をついてしまった。――床に描かれた魔法陣の上に。
「わっ!? なに!?」
急に魔法陣が光を発し、飛び上がりそうなほど驚く私。でも、実際に飛び上がることはできなかった。――床についた手のひらが、離れないのだ。
「あ、これ――」
魔法陣に触れた手のひらから、何かが吸い取られるような感覚が。これはまるで、魔石に魔力が吸い取られたときと同じじゃないか。
いやでもちょっと待って? なんか凄い勢いで魔力が吸い取られていくんだけど? ちょ、今の私はお腹が空いていて、普段より気力体力に余裕がないというか……。
「あっ」
立ちくらみのように頭がグラグラした私は、そのまま意識を失ったのだった。
≪――危険水準を超えました。自動回復の機能を緊急解放します≫
≪自動回復のレベルが上昇しました≫
≪サブスキルとして自動魔力回復を習得しました≫
頭の中で誰かの声がする。無感情というか、機械的というか。
いるじおん?
いるじかりおん?
なんだそれと夢心地の中でぽやぽや考えていると――
『――みゃっ!』
「ぅん?」
何かに、頬を舐められている? 前世で実家の犬によくやられていたような……。
ゆっくりと目を開ける。
(あ、そうか。私は気を失って……)
たぶん床に倒れているのだと思う。失神したときに灯火が解除されたのか真っ暗で何も見えないけど。
「灯火」
と、呪文を唱えても何の反応もしなかった。
物語のよくある展開としては、あの魔法陣に魔力を全て吸い取られてしまったとか?
『みゃみゃ?』
さっきも聞いたような鳴き声(?)と共に、地下室が光に包まれた。私以外の誰かが灯火を使ったのだろうか?
床に倒れた私。
そんな私のすぐ側にいたのは……蛇? トカゲ? なんというか、黒い鱗をした爬虫類だった。
頭が小さめで、二本の角が生えている。
首は細くて長く、太い胴体からはコウモリのような翼と短い四本の足が生えていた。
尻尾もこれまた細長く、首よりも長さがあるかもしれない。
その尻尾の先には灯火による明かりが灯っている。
なんというか……ドラゴン。ドラゴンを思いっきりデフォルメし、小型犬くらいの大きさにしたような子だった。
ドラゴンっぽいとはいえ所々が丸くてゆるキャラっぽいので、怖さみたいなものはない。
さっきまでこんな子はいなかったはずだ。
「え、えーっと? あの隠し階段から入ってきたの?」
『みゃっ!』
首を横に振るドラゴン(?)だった。まるで人語を理解しているかのような……いやそんなはずないか。
「……あー、それにしても。お腹空いた……」
脂肪もほとんどない幼女に一日一食はやはり無理があったようで。私は力なく四肢を床に投げ出したのだった。
目の前には動物がいるけれど、親しげに頬を舐めてくる存在を食べるようなことはしたくないなぁ。というか返り討ちになりそうだし。
『――みゃっ!』
委細承知。とばかりに片手を上げてからドラゴン(?)が尻尾の先から明かりを消し……もう一度『みゃっ!』と鳴くと、今度は地下室の天井に明かりが灯った。
もしかして、灯火って任意の場所に明かりを灯せるの?
ちょっと驚きながらドラゴン(?)を見ると、ドラゴンは『ドヤッ』という顔をしてから階段を上り、どこかへ行ってしまった。
「ははっ、まさかゴハンを持ってきてくれるとか? ま、期待しないで待っていましょう」
気合いを入れて立ち上がり、改めて周囲を確認。魔法陣の中心にあった卵は――割れていた。けれど、中身らしきものは見当たらない。
「……あの卵からドラゴンが孵化したとか?」
まぁそれが一番可能性が高いかなと思う私だった。正解なんて確かめようもないしね。
卵を孵化させたときのお約束としては、初めて見た人間を親だと思うというのがあるけど……それは鳥だっけ?
「あとは……」
キョロキョロと地下室を見渡していると、本棚を発見。近づいてラインナップを確認する。
「お! 魔法関連の本だ!」
しかも初級から上級までの教本や、各属性についての専門書っぽいものまで! 今まさに私が読むべき本たちだ!
「子供がイタズラしたら危ないから地下室に隠しておいた、ってところかな?」
だとしたらあの卵は何なのだろうと思わなくもないけれど、ま、考えても分からないものに時間を割いても仕方がない。思考にだってエネルギーを使うのだ。
「魔法、魔法、魔法~♪」
空腹であったこともすっかり忘れ。まずは初級の教本を開いてみる。
ちなみに貴族の子供は幼い頃から家庭教師を雇って勉強するのが常識なのだけど。あの父親はそんなこともしてくれなかったので、セバスチャンやサラさんたちが隙を見て私に読み書きなどを教えてくれたのだ。
なんか神話っぽい話から始まったので読み飛ばし、実践的な理論が書いてあるページへ。ちょっと前までの私なら隅々まで呼んだだろうけど、前世の記憶を思い出した影響か少しばかり『悪い子』になっているのだ。
「ほうほう? まずは魔力を感じる訓練から始めると?」
魔石や魔法陣に触れたとき、身体の中から何かが吸い取られたような感覚があった。あれが魔力の流れだろうか?
目を閉じて、魔力を感じる練習をしてみる。あのとき吸い取られたように、身体の中に魔力を流す感じで……。
――ぽうっ、と。
お腹のあたりがなんだか温かくなった気がした。これが魔力なのだろうか?
教本に従い、まずは魔力を動かす練習。温かいものをお腹から胸にまで持ち上げて、それを右手の指先へ。それができたら今度は左手の指先に。うんうん、よく分からないけど、上手くできているのでは?
何とかなりそうなので次の項目へ。
「ほうほう? 魔力が感じられるのは魔力を持っている証拠と? で、魔力持ちが魔力を空にしてしまうと魔力欠乏症で死ぬ可能性が? ……私、死にかけていたのか……」
まぁその状態から生還すると魔力総量が増加するらしいし、良かったのだろうか?
……元の魔力総量がどれほどか分からないから本当に増えたかどうかも分からないのだけどね。
そもそも、私って灯火も使えないくらい魔力を吸い取られたはずなのだけど。問題なく魔力を感じられたね。もう回復したのだろうか?
「ま、考えても仕方ない。魔法が使えるのだから、あとは食糧確保に役立ちそうな魔法を探そうかな」
ペラペラとページを捲っていく私だった。
伯爵家の家令・セバスチャンと、メイド長のサラは沈痛な面持ちでセバスチャンの執務室に集まっていた。
話題になるのはもちろん別邸に押し込まれたお嬢様――リアナのことだ。
「こんな、こんなことが許されていいのでしょうか!」
リアナに対する待遇に涙を流すサラだった。
たしかにリアナの銀髪は珍しいだろう。正直に言えば、リアナの赤い瞳を見て不気味さを感じたことはサラにもある。しかし、だからといって伯爵家の血筋を、自分の娘を、別邸に軟禁するなんて……。
サラが思い出すのは、伯爵から別邸入りを告げられた直後のリアナの態度だ。
実の父から『バケモノ』とか『気持ち悪い』と罵られようとも、リアナは眉毛一つ動かさなかった。さらには執事やメイドにも丁寧な口調で接し、彼らが怒られないようにと別邸での生活を受け入れた。
たった七歳の少女が、だ。
実際には直前に前世の記憶を取り戻したのだが、関係なかった。それ以前からリアナは無表情となり、泣かなくなり、メイドたちにも丁寧に接するようになっていたのだから。
まるで、全てを諦めたかのように。
まるで、一刻も早く大人になろうとしているかのように。
「あんな、あんな態度は、子供がしていいものではありません! 子供は笑って、泣いて、元気に走り回るべきものなのです!」
「……あぁ、そうだ。お嬢様の置かれた状況はとても過酷だ。あぁならなければ心が持たなかったのだろう。私たちが手助けしてやらねばならんが……」
一旦口を閉じるセバスチャン。別邸にメイドを派遣するという彼の申し出を、リアナは少し慌てた様子で拒絶した。
おそらく、派遣されたメイドの口からセバスチャンたちの協力が漏れるのを恐れているのだろう。そうなれば伯爵はセバスチャンたちをさらにリアナから遠ざけようとするだろうし、今の伯爵であれば癇癪を起こしてセバスチャンたちをクビにしてもおかしくはなかった。
――聡明なご令嬢だ。
聡明にならなければいけなかったご令嬢なのだ。
セバスチャンはもう高齢であるし、家令という地位に未練があるわけでもない。だが、ここで自分がいなくなればリアナに対する扱いはさらに悪くなるだろうと思い、踏みとどまっているのだった。
「私たちが表立って協力すると、お嬢様に対する扱いはさらに悪くなるだろう。――あの男であれば食事の供給をやめさせても不思議ではない」
あの男。
セバスチャンは自らの主・伯爵閣下をそう呼んだ。先代、先々代には多大なる恩があるにもかかわらず。
だが、それも仕方ない。あの男はわざわざ後妻付きのメイドに直接命令し、リアナに残飯を与えているのだから。しかも一日一食だけ。そんな男を、セバスチャンは、もはや『主』と認めることはできなかった。
セバスが考えているのは伯爵家の未来でも、家令としての職責を果たすことでもない。――リアナお嬢様を、どうやってこの地獄から救い出すかという一点のみだ。
「ルクトベルク公にお嬢様の窮状をお伝えできればいいのだが……」
大貴族・ルクトベルク公爵家。
リアナの母親の実家であり、現当主はリアナの祖父ということになる。堂々たる公爵家にして、代々宰相を輩出してきた名家。そんなルクトベルク家であれば伯爵家を黙らせてリアナを救うことができるだろう。
しかし、だからこそ、使用人でしかないセバスチャンたちでは接触を図ることすらできない相手となる。身分制度とはそういうものなのだ。
これが他の貴族家であれば使用人同士の人脈を使って『噂』を耳にさせることくらいはできるかもしれないが……大貴族ともなると、使用人の間にも身分制度があるものなのだ。下手に行動して問題となってしまってはリアナの置かれた状況がさらに悪くなってしまうかもしれない。
(いざとなれば、お嬢様を屋敷から脱出させて私の故郷に……いや無理か。ルクトベルク公爵家の血を引く人間が行方不明となれば、まず真っ先に使用人が疑われてしまう)
下手をすれば『貴族令嬢を誘拐した犯人に協力した』として、セバスチャンの一族だけではなく、村の人間までも罰せられてしまうかもしれない。貴族であればそのくらいやってもおかしくないし、平民に抵抗する術はない。
頭を悩ますセバスとサラだったが、そう簡単に名案は浮かばないものであり。
「……とにかく、別邸に食料をお届けしなければ……。サラは口の硬いメイドを選抜してくれ。お嬢様に同情し、決して口を割らない人間だ。私は何とかルクトベルク公爵家と連絡を取れないか試してみよう」
「そうですね。お願いいたします……」
決意を込めた目で頷き合うセバスチャンとサラ。
そう。リアナは、一人ではなかったのだ。