06 新しい学びを実践しました
守り刀というものがある。
腕力に欠ける女性が、いざというときに自身を守るための懐剣。
護衛を傍に置く貴族令嬢にとってのそれは、無用の長物となって久しいけれど、慣習として残っている文化で、女児が生まれると用意される。ある程度の分別がつくまでは親が預かっており、十歳程度を目安に本人へ渡されるのが一般的だ。
リュクレーヌにも勿論それは存在しており、彼女はもっと幼いころから所持していたという。
それは対人を目的としたものではなく、病魔を祓うことを祈願してのものだったそうだ。鞘が容易に外れないように処置を施したうえで、リュクレーヌが臥せっているときは枕元へ。どうか病に打ち勝ってくれますようにという願いを込めて。
「とても素敵なお話ですね」
「だからね、とってもだいじにしようとおもっているの」
リュクレーヌが見せてくれた守り刀は、貴族令嬢が持つには古めかしい造りだ。
今となっては『飾り』としての意味が大きいため、宝石を散りばめた、デザイン性に優れたものが多い。宝石の数は権力の証でもあるし、それこそ嫁ぎ先で虐げられたときの換金アイテムとしての意味もある。
リュクレーヌの懐剣は、鞘に文様が刻まれていて、嵌め込まれているのは黒水晶。邪気を祓うためだろうと知れる。なかなか無骨で物々しい印象があり、線の細いリュクレーヌには不似合いな気もするが、逆にそれが良いのかもしれない。
「フランカせんせいは? 持っていらっしゃるの?」
「ええ、勿論。興味がおありでしたら、今度お持ちしますね」
「たのしみだわ」
「でも、そうですね。小刀の扱いを覚えておくのもいいかもしれませんねえ」
刃物から遠ざけてばかりではよくない。それが危険なものであることを知るには、実際に触ってみるのが一番である。
フランカは部屋にいた侍女に耳打ちしてひとつお願いをしたあと、本日の授業を開始する。
社会学。我がノーテルマンス王国の全土把握、隣国との国境、各地の特徴、特産物など。国の歴史と産業は連動しているし、地形の変化と災害記録も結びつくことが多い。あれこれバラバラに習うより、関連づけて学んだほうが理解が進む。
リュクレーヌの顔に若干の疲れが見え始めたころを見計らい、フランカは休憩を告げる。控えていた侍女が給仕ワゴンを押してテーブルの脇へつける。皿に載ったパウンドケーキを手で示し、フランカはリュクレーヌに言った。
「ではリュクレーヌ様、次は特殊授業です」
「じゅぎょうなの? お茶をのむのではなくて?」
「飲みますけど、今日はその『お茶の準備』を学んでみましょう。お茶会の主催ではなく、その準備のほうです」
フランカはワゴンの上にある小ぶりな包丁を持って、リュクレーヌへ見せた。
「これは厨房からお借りしてきました。料理をするための包丁、その小さめのやつですね。こういったケーキなんかを切り分けるときに使います」
説明しながら、焼き型から外した状態のままを保っているケーキの端に包丁を入れた。数ミリ程度の厚さで切ると、断面にはマーブル模様が現れる。今日のパウンドケーキはプレーンとココア生地が混ざったものらしい。
目を見開いているリュクレーヌをよそに、フランカは自身が切り落としたケーキの端っこ部分を指で摘まみあげ、ふたつに分割すると、その片方をぱくりと食べる。うむ、今日も美味である。
「あ!」
「味見です。これは作った者の特権ですね。まあ、私が作ったわけではないのですが」
うふふと笑いながら、フランカは続ける。
「リュクレーヌ様、パウンドケーキの端っこ、食べたことございますか? 端っこは左右の二か所にしかない、とても希少な部位なのですよ」
「きしょう?」
「数が少ない、特別なもの、ということです」
残りの端部分をリュクレーヌに差し出す。少女は面食らったような表情で、それを受け取っていいのか逡巡して、侍女のほうに視線をやる。侍女が頷いたことを確認してから、おそるおそる手を伸ばし、くちに入れた。
「……なんだかちょっと苦いわ」
「そうですね。焦げ付いている部分ですからね」
「だから、いつも端っこは外してくれているのね」
「見た目を綺麗にするというのも目的のひとつですね。そのほうが美味しそうでしょう?」
「ええ、そう思うわ。りょうりちょうは、こんなふうにてまをかけているのね」
感心したように頷くリュクレーヌを見ながら、フランカは次なる段階へ進む。
「ではお嬢様、端っこを落としたあとは、切り分けてお皿へ盛り付ける作業となります。ここでひとつ、素敵な提案をしましょうか」
「どんなこと?」
「ふふふふふ。お嬢様、ケーキ、たっくさん食べたいって思ったことございませんか? もっと大きかったらいいのになーって」
言いながらフランカは包丁を入れる。いつも提供される厚さの倍ぐらいのところへ。
分厚いケーキを別のお皿へ横倒しに置いたあと、これまたいつもの倍ぐらいある量のクリームを、ぼってりと盛り付けた。
「禁断の倍盛りケーキの出来上がりです!」
「ま、まあ。そんなことしては、しかられてしまうわ」
「罪深いですよねえ。でもお嬢様、ここには私たち三人しかおりません。つまり、我々が黙っていれば、バレないのですよ」
「そ、――それ、は」
リュクレーヌの瞳が揺れる。フランカは駄目押しをした。
「これは刃物を扱うための実践授業です。お嬢様、切ってみましょう。これは練習ですもの。多少、包丁を入れる位置を間違えて、結果的に分厚くなってしまったとしても、仕方がないのです。練習ですもの」
「……そうね、れんしゅうだものね」
「はい」
ずっしりと目の詰まったパウンドケーキは、硬すぎず柔らかすぎない。フランカの指示通りの角度で刃を入れたリュクレーヌは、拙いながらも切り分けに成功。斜めになってしまい、場所によって厚みが異なっていることに落ち込んでいたが、それもまた手作り感を演出して良いものだろう。
「こんなにたくさんを一度に食べたのは、はじめてよ。おなかがいっぱいになって、ディナーが食べられないかもしれないわ」
「では、このあとはお庭の散策とまいりましょう。運動の時間です。お腹は減らせばいいのですよ」
「フランカせんせいってすごいのね。なんでも知っていて、なんでもできる」
「なんでも、というわけではありませんよ。私の場合、悪知恵というほうが近いかもしれませんしね」
分厚いケーキは子どものころ、料理長の計らいによって実現したものだったりする。
六人兄弟ともなれば、お菓子だって取り合いだ。男の子のほうが食べる量も多い。フランカの割り当ては少なく、ひそかに不満を抱いていたのを見抜かれたらしい。
ある日、料理長が「女の子だから厨房の管理もお仕事ですよ」と言ってフランカだけを中に引き入れ、調理のお手伝いをさせたことがあった。
やっぱり女なんて損ばかりだと思っていたが、それはあくまで口実であり、料理長はフランカの好きなものを遠慮せずにたくさん食べる機会を与えてくれただけだった。
分厚いケーキの切り分けもそのひとつ。
お好きなところで切りましょうと言って、くちを開けるのに苦労するぐらいの厚みで切り、フランカはそれに噛りついて食べたのだ。
貴族令嬢としては褒められた行為ではない。眉をひそめられる類のものだが、とても楽しかった。
実家に居たころ、学院へ入ったあとのこと、嫁ぎ先で起きたこと。
すべてがフランカを作っている。
無駄だったことなんてひとつもないと、胸を張って言えた。
「先生という立場にいる私が言うのもどうかと思いますが、悪いことを知っておいて損はないと思います。世の中、綺麗なものばかりではないので、良いこと悪いこと、両方を知って、あとはお嬢様がお感じになったことを信じればよろしいのです」
「わたしがしんじること?」
「そうです。そのために、いろいろなことを体験しているのが今ですね。私がお嬢様にやっていること、すべてを受け入れる必要はありません。嫌だと思えばおっしゃってください。検討します」
「やめるとは言わないんですね」
黙って聞いていた侍女が、そこで思わずといったふうにくちを挟んだ。
彼女に向き直ってフランカは言う。
「嫌だと思っても必要なことって、世の中にたくさんあるでしょう?」
「ありますねえ」
なにやら実感のこもった深い頷きが返ってきた。
フランカよりもいくつか年上の彼女の人生が気になりつつも、フランカの教育方針に異を唱えなかったので良しとする。
「いやだと思ったことはないわ。たいへんなこともあるけど、さいごにはたのしい気持ちになるから」
「楽しいですか?」
「それと、とてもうれしい。わたし、げんきになれてうれしいの。フランカせんせい、今日の探検は、どこへ行くの?」
「秘密基地でも作ります?」
「なあにそれ」
「みんなに内緒の秘密の場所です」
「とってもたのしそう!」
「では、着替えを用意いたします」
侍女がすかさずテーブルの上の食器を片づけると壁際へ寄せ、隣の部屋のクローゼットを開ける。すっかり常備された『庭歩き用の服』を取り出し、着せていく。髪もひとつにまとめ、つばの大きな帽子も取り出す。
(……本当によかったのかしら、これ)
お転婆に育ちつつあるリュクレーヌ。
ちょっとやりすぎたかなと思いつつ、子爵からはとくにお咎めがないのだから問題ないだろう。
フランカは希望を込めて結論づけた。
兄弟姉妹がいると、ホールケーキを切り分けた際に、どれが大きいか吟味したりしませんでしたか