05 身分違いを自覚しました
「フランカせんせいは、お兄さまのごえいとおともだちだったのね」
「私の実家に、彼の家族も住んでいるんですよ。一家で仕えてもらっているんです」
「へえ、そうなのね」
リュクレーヌが感心したように頷き、フランカは笑みを浮かべる。けれど心の内側は大波のように揺れていた。
お試し入寮期間はひとまず終了し、マルセロはタウンハウスへ戻り、そこから学院に通っている。もともと兄妹の仲は良いらしく、マルセロは病弱で寝込みがちだった妹が元気になったことが嬉しいのか、しょっちゅう部屋を訪ねてくるようになった。
つまり、アーサーともよく顔を合わせるようになったということだ。気まずさが半端ない。
お互いに『バカ』を連呼して決裂してから一か月は経っただろうか。さすがに他人の目があるところでは平然とした顔をしているが、いざ二人きりになる瞬間があると、アーサーの態度は一変する。
不機嫌。
このひとことに尽きた。
(なにも、そんなに怒ることなくない? バカ呼ばわりはお互いさまじゃないのよ)
子どものころ――領地で暮らしていたころは、口喧嘩なんて日常だった。おまえたちを見ていると『喧嘩するほど仲が良い』とはこのことだと思うよ、とは、アーサーの兄の弁。
言い合いをしても一晩経てば元通り。
後に引きずらない、気心の知れた仲。
そう思っていたのはフランカだけなのだろうか。
だとしたら寂しいことだと思う。これではまるで一方通行だ。
(……まあ、そうでしょうとも。わかってるわよ、私の勝手な片想いだってことぐらい)
アーサーにとってのフランカは、物心ついたころから隣にいる兄弟のようなもの。
成長するにつれて、『主と使用人』という立場を理解するようになったとしても、家族に似た親愛の情は消えていない。
アーサーの父とフランカの父は、それこそ生まれた時期も同じで、ずっと共に成長してきた仲である。互いの子どもたちは、みんなひっくるめて等しく可愛がってくれていた。
兄弟みたいなものなのだ。兄たちに付いて森を探検したり、川で水遊びをしたり、およそ女の子らしくない。
アーサーにとってフランカは男友達のようなもの。
女として見られていないことぐらいわかっている。
王都へ出てフランカは気づいたのだ。都会の華やかな女の子たちと比べて、自分はただ性別が『女』というだけの存在であることを。
平民の女の子だって、みんなとても可愛らしい。
フランカは男爵令嬢で、アーサーは平民。
彼にとって釣り合いの取れる相手は、町にあふれる普通の女の子たちだと気づいて、とてつもなく苦しくなった。
ようやく気づいた。
これは恋なのだと。
初めから叶うわけがない、不毛な恋なのだと。
身分違いの恋。
物語によく出てくるけれど、たいていの場合、それは女性側の身分が低いもの。平民の女の子が、高位貴族の男性との恋愛に悩むのだ。
苦難を乗り越えてハッピーエンドが定番だけれど、フランカの場合は、貴族令嬢と平民男性であり、さらにいえば、貴族令嬢の片想いである。男性側に好意がないとはいわないけれど、それは恋情ではなく、家族愛に近しいものとくれば、行く末はお察し。悲恋である。
悲恋なら悲恋で、貴族令嬢は家の事情で結婚をして、その相手となんだかんだと幸せになり、子宝にも恵まれちゃったりなんかして。
そうして数年後に平民男性と再会し、お互いに新しい家庭を築いていることを確認して、彼が元気でよかったわ、みたいなかんじで締められる。
ただ現実はそう簡単にはいかなくて。
貴族令嬢であるフランカが嫁いだ相手は御年四十歳を迎えた伯爵で、すでに二人の妻がいた。嫁いだころはその妻とも別の女性にご執心で、フランカは初夜もないまま今に至る。
白い結婚だが、誰もそうは思っていないだろう。
フランカだってわざわざ言わない。だってそれは『夫に興味を持たれなかった』ということであり『女として見られていない』と喧伝することに他ならないから。
まったく、世の中は男だ女だと面倒くさい。
廊下を歩いていると、メイドたちが庭のほうを注視して騒いでいるところに出くわした。近づいていくにつれ聞こえてきた内容は、護衛騎士の話題。庭の一角にある演習場で、子爵家の護衛たちが鍛錬をしているようだ。
フランカの実家は私設の騎士隊を抱えるほど裕福ではなかったので、アーサーの父を筆頭とした、ベリト一家が身辺警護を担っており、庭師や厩番などを力自慢の者でかため、不審者対策としていた。そのため、一般的な貴族家における護衛が何人いるのか、いまいちピンとこない。
嫁ぎ先の伯爵家では、当主を護るひとは多く配置されていたけれど、新参妻のフランカはわりと放置されていた。妻の近くに若い男を置くと不貞の始まりだというのが伯爵の考えだったので、女性騎士も雇っていたように思う。
まあ、その女性騎士も伯爵のお手付きになったりもしたわけだが。
ブルーメ子爵家はといえば、当主夫婦、その長男夫婦に孫二人という人数を必要最低限の人員で護っている。ひとにってそれは人件費の削減だと笑うかもしれないけれど、少数精鋭部隊ということでもあるわけで。
フランカが知るかぎり、彼らはとても優れた人材だ。人格も申し分ない。未婚のメイドたちが騒ぐ気持ちはよくわかる。出戻りバツイチなフランカは彼らにとっては対象外だろうが、同じく未婚の騎士がメイドと懇意になったところで責める者もいないだろう。
マルセロの護衛を勤める若い独身騎士が、メイドたちの人気一位らしいことは知っていた。
楽しそうでいいわねーなんて呑気に考えていたけれど、それがまさかのアーサー・ベリト。フランカの幼なじみだとは思わなかった。
マルセロ側から話が伝わったのか、アーサーとフランカが知己であることはメイドたちのあいだに広まり、フランカに対する視線も真っ二つである。
恋人がいるメイドからは微笑ましい視線と言葉を向けられ、未婚のメイドからは刺々しい視線と嫌みをぶつけられる。
結婚二年目で追い出されたバツイチ令嬢のくせに、出世頭の騎士に手を出そうとしている。図々しい。
平民の女性使用人からは「これだから貴族令嬢はイヤなのよ」と聞こえよがしに言われたりもした。
権力を振りかざして、平民の男を囲おうとしている。
さすがバツイチ女は節操がない。
お嬢様の家庭教師が男漁りだなんて、後がなくて焦ってるのかしらね。
などなど。
まったく女というのは、色恋に対する噂話が好きな生き物だと呆れ返る。
しかし、噂に興じること自体を責めるつもりはなかった。
フランカだってその『色恋の噂話』が好きな一人だから。他人の不幸は蜜の味だし、社交界におけるゴシップは娯楽である。
貴族社会で正妻戦争が勃発しているなか、離縁した女性の多くは似たような噂をされていることだろう。
事情を知っている友人たちもいるし、離縁した同志たちによる愚痴大会という名のお茶会も開催されており、社交界におけるフランカは、じつのところそこまで追い込まれた立場ではなかった。
(でも、職場で理解が得られないのってつらい……)
これは次のお茶会でおおいに愚痴ろう。
決意するフランカの耳に、メイドの声が届いた。
「アーサー様だわ」
「はあ、今日も素敵ねえ」
どうやらアーサーが鍛錬に参加しているらしい。
マルセロが学院で授業を受けているあいだ、護衛たちは帰宅している。別の任に就く者もいれば、交替で自由時間を与えられる場合もある。買い物に出たり、自主的に鍛錬したりとさまざま。
宮廷騎士の演習を見学するのは、貴族令嬢たちの嗜みといわれるが、こういった私設の騎士隊も似たような立場にあるようだ。
(そういえば子どものころ、兄さまとアーサーたちが鍛錬しているの、弟たちと見学したっけ)
まだ小さな弟たちを刃物の近くに寄せないよう、フランカは年少組の歯止め役を担っていた。アーサーは鍛錬組の中では年下ということもあり、いつもこっぴどくやられていたけれど、楽しそうに向かっていっていた。
王宮の騎士になって出世するからな!
アーサーはいつもフランカにそんなことを言っていた気がする。
フランカはそのたび「がんばってね」と声をかけていたが、成長した今となっては、アーサーのあの弁は、彼なりの足掻きだったのだろうと思う。
アーサーは『貴族と平民』というものを、フランカ以上に実感していたのだろう。独りで身を立てるためには、箔というものが必要なのだと、出戻り令嬢となったフランカも今ならよくわかった。
アーサーのためにも、フランカは彼と距離を置くべきかもしれない。
ブルーメ子爵に目をかけられ、直系の孫の護衛を任じられている。
子どもの時分から傍に付くということは、マルセロが成長し、何十年かあとに子爵家を継ぐころには、もっとも近しい護衛騎士になっている可能性があるということ。
当主付きの護衛だなんて、貴族男子であったとしても名誉な称号といえる。平民の立場でそうなるとすれば、それは叙爵の対象になり得るもの。
気の長い話と笑う者もいるだろうが、フランカはそうは思わない。目指す未来があるって素晴らしいことだ。ぜひとも応援したい。
(だからこそ、私みたいに厄介な元伯爵夫人が近くにいないほうがいいわよね)
リュクレーヌは現在九歳。学院へ通うのは十三歳の予定。それまでのあいだ、ずっと家庭教師として勤めている保証はない。
他家のお嬢様との交流も増えてきたら、社交界のあれこれを教えてくれる教師に変えたほうがいいだろう。付け焼刃な貴族令嬢のフランカでは、そのあたりに自信がないから。
フランカは、お嬢様が一歩踏み出すための礎だと思っている。
彼女のはじまりに立ち会えたことを誇りに思っているのだ。いつかもっと素敵な淑女へ成長し、「あのころはお世話になりました」と言ってもらえたら本望である。それこそ、家庭教師冥利に尽きるというもの。
弟たちに読み書きを教えていたフランカは、リュクレーヌへの授業を通じ、「私ってば先生役が好きかもしれない」と気づき始めていた。