01 家庭教師をはじめました
フランカは、自分が『女らしさ』に欠けることは自覚していた。
なにしろ六人兄弟の三番目。上も下もすべて男である。遊びも教育もそちらに偏るのは仕方がないというもの。
貧乏男爵家では、女の子のためだけに別の家庭教師を雇うような余裕はなく、母親が通り一遍のことを教えるのが精一杯だった。
そんなフランカが、それなりに貴族令嬢っぽい立ち居振る舞いを身につけることができたのは、学院の友人たちのおかげであったと思う。
王都でも名の知れた高位貴族のご令嬢たち。
公爵家から始まり、伯爵、子爵。
幼少のころより叩き込まれた所作は美しく、着ているドレスも洗練されている。髪の毛だって金色に輝いていて、さながら絵本に出てくるお姫さまのよう。実家付近では珍しくもない赤茶色の髪をしたフランカは呆気にとられた。すこしばかり卑屈にもなった。
けれど、彼女たちもまた年頃の女の子。話をしてみれば趣味も合ったりして、打ち解けていく。
貴族とはいえ、地方住まいの田舎娘の自分にも分け隔てなく接してくれる彼女たちのおかげで、楽しい学校生活を送ることができた。
「ほんっとーに、持つべきものは友達だし、無理をしてでも学院に通ってよかったわー」
フランカは呟く。
面接を終え、無事に家庭教師として採用されたブルーメ子爵家の応接部屋。誰もいないからこその独り言だ。安堵の息も漏れようというもの。
フランカ・ジーン。二十二歳。
先ごろ正式に離縁が成立した出戻り男爵令嬢は、今日から新しい生活を始める。
◇
「フランカせんせい、できました」
「はい、確認いたしますね。リュクレーヌ様、すこし休憩しましょうか」
フランカがそう言うと、控えていた侍女が「ではお茶の準備を」と部屋を出ていった。
ふうと小さく息を吐いた九歳のご令嬢は、フランカが家庭教師を務めている子爵令嬢だ。
波打つ金色の髪、透き通った青い瞳。まるでお人形のような美しい少女をよそに、フランカはさきほど手渡された紙面に視線を落とした。
(うん、乱れのない整った字。文字の大きさのバランスもきちんと取れるようになってきてる)
出会った当初、紙面の大きさに関係なく、端から始まって小さく小さく隙間もなく綴られていた文字たち。
それはおそらく、自信のなさの表れだ。
内にこもりがちな性格の体現でもある。
だからフランカは言ったのだ。
まずは自分の名前を大きく書いてみましょう。
紙からはみ出してしまってもかまいません。
インクがこすれてしまってもかまいません。
上手に書こうとしなくってかまいません。
私にお嬢様の名前を教えてください。これから先もずっと憶えていられるように、大きく書いて、私に教えてくださいな。
一般的に、文字の美しさを誇る貴族令嬢は多い。
代筆屋が存在するのは、そういう理由もある。
リュクレーヌもまた、貴族令嬢の一人として、それらを意識づけられていたのだろう。フランカの言葉に驚いて戸惑っていた。
だからフランカはまずは手本として、自身の名前を大きく書いて、掲げてみせた。
普段はそれなりに整った字を書こうと心掛けているけれど、このときばかりは気にせずに、思うままの一発書き。
我ながら不格好で笑ってしまうと、つられたようにリュクレーヌも小さく笑う。
そして少女は名前を綴った。
フランカよりもずっと文字数が多いものだから紙の幅が足りず、名の最後のほうは小さくなってしまったけれど、それで問題ない。
ペンを持ってインクで線を引く感覚を身につけることが、美しい文字への第一歩なのだから。
字を書く行為を楽しんだあとは、文字の大きさを考える番。
文章を綴るうえで、文字同士に適度な間隔を開けることを心がけさせた。
意識することで、リュクレーヌの書く文字列は、読みやすく整ってきている。
「とてもよく書けておりますね」
「ありがとうぞんじます」
はにかんだ笑みが可愛い。弟しか居なかったフランカにとって、このお嬢様はたいそう眩しく映った。とにかく可愛らしく愛らしい。
「内容を改めたのち、お返ししますのでお待ちくださいね」
「はい」
フランカお手製のテストは、王立貴族学院で使われている形式に似たものを採用している。
今日の科目は算術と生物。別分野の学問を平行して試験問題として実行するのは、思考の切り替えや咄嗟の判断力を鍛えることに役立つと思い、取り入れてみた。
まずは時間に制限を持たせず、問題を最後まで解くこと。
やり切るという達成感を得てもらうことを目的としてきたが、そろそろ試験時間を区切り、時間内に問題を解くことに重きを置いてもいい頃合いかもしれない。
貴族令嬢は家庭教師に付いて勉学に励むのが常だが、十二、三歳からは学院の中等科へ通わせることが多い。それまで自邸で過ごしていたところ、いきなり学びの形式が変化することで戸惑うことは必須だ。
フランカ自身は二人の兄から学院の話を聞き、どんなふうに授業をしているのかを教えてもらっていた。そのため「なるほど、これが話に聞いた例のアレ」といったかんじの擦り合わせ作業で済んだけれど、そんな機会もないまま学院へ放たれた令嬢たちは初手でつまずき、場合によっては勉学に遅れが生じる。家によっては『女に専門的な知識など不要』と、男性でいう初等科レベルの基礎教育があれば問題ないとしており、個々の差は開く一方だった。
だがいつまでもそんなわけにもいかない。ここ数年で国内の政策も変化してきており、男性優位の社会からの脱却を目指している。これまでは男性にしか許されていなかった分野へも門戸を開き、女性の社会進出を推奨しはじめた。
その一環として、王立貴族学院が母体となって、家庭教師を斡旋する事業が開始された。フランカはその一人である。
これまでの家庭教師は紹介制が多く、伝手のない下位貴族にとっては、良い教師を探すのが難しい状況にあった。そんななか、学院が主体となり、一定の成績を収めた卒業生を紹介してくれる事業は歓迎された。
しかし、まだ始まったばかり。国家単位の新たな取り組みは、前例がないからこそ双方ともに手探りだ。
受け入れる貴族家も、派遣される教師側も。なにが正解がわからないままの運用となっており、いまのところ個々の裁量に任されている。
そのためフランカは、自身の経験をもとにご令嬢への教育に当たっていた。
知っておいたほうが、学院生活を送る上で戸惑いが少ないであろうこと。
あるいは、知っていたらもっとうまくやれたのにと、あとになって悔やんだこと。
それらは卒業生だからこそわかる苦痛だ。学院出身の令嬢を入学前の少女に付けることで、学院生活へのゆるかやな導入となることも期待されていた。
小休憩のあいだに、テストの採点をする。
問題はなさそうだ。とくに生物学については、以前より点数がいい。
(よしよし、やっぱり実地で学ぶのが一番よね)
フランカが家庭教師を始めた当初に比べると、はるかに理解度が上がっている。それもこれも、現地実習として庭を探索したおかげであろうと、内心で頷く。
ブルーメ子爵家は、お邸と隣接した土地に素晴らしい庭園を所有していた。
個人宅とは思えぬほど多様な植物が生育しており、専門の庭師が複数人いる。もはやちょっとした植物園。
自然あふれる地域で生まれ育ったフランカにとっては、馴染み深く落ち着く環境だが、どうも子爵家のひとたちの関心は薄く、もっぱら外部の人間に開放したり、ガーデンパーティーなどに活用されており、自分たちが楽しむ方面への利用は少ないようだった。
なんてもったいない。せっかくここに生きた教材があるのに、それを使わないだなんて。
そう思ったフランカは、庭の散策と称してリュクレーヌに案内を頼み、親交を深める体を装って庭を歩き回った。
庭師小屋にあった植物図鑑をお借りして、本に載っているものと現物を比較することで、それらをただの知識や情報ではなく、実体を持った存在であることを印象づけることに成功した。
図鑑だけではなく、絵本を使ったのも彼女の気を惹いたきっかけになったかもしれない。
幼いころは病弱で、ベッドの上で過ごすことが多かった彼女の持ち物の大半は書物。部屋の一角に本棚があるぐらい、本に囲まれた生活を送っていたようだ。
幼年向けの絵本に至っては、何度も繰り返し読み返したのだろう。ページが外れかかっているものも多く、フランカはそれらを利用した。
例えば、眠り姫の物語。
お城を囲ういばら。
鋭いとげが指を刺す痛み。
それが強固な護りとなって姫を悪者から遠ざけていたのだと、リュクレーヌは目を見張っていたものだ。
そうやって庭をくまなく歩きまわることで体力もついたし、陽の光を浴びることで元気になってきた。
食事量も増えたし、フランカとたくさん会話することで、家族と言葉を交わす時間も増えたという。
もとより本好きの少女だ。頭の中に、たくさんの言葉は詰まっていただろう。
ただ、それを外に出す時間も気力も機会もなかっただけ。
自分が思ったことを言葉にする。
それを受け止めて、返してくれる相手がいること。
うるさいぐらいの環境で子ども時代を過ごしていたフランカにとっては当たり前だったけれど、「静かにしておいてあげましょう」と、あくまで善意によって距離を取られてきたリュクレーヌにしてみれば、フランカの存在は新しく、刺激的だったようだ。
みずから会話をするようになった娘の姿を見て、リュクレーヌの両親からは涙を流さんばかりに感謝された。
出会った当初は青白い肌をしていた女の子が、頬を染めて楽しそうに笑う姿は見ているこちらも元気をいただくし、嬉しいと思う。
結果よければすべて良し。フランカの信条だ。