一 ひたすらに走り続けて。
儀式の日から三か月が経った。
ティリアをはじめとした、竜操士として道を歩み始めた子供たちは今頃どうしているのか。そんなことが気にならないほどにまで、ルオはどうでもよくなっていた。
床に積もる乾いた牧草の山に身を埋めるように寝転がり、味気ない天井を見つめる。
――ここにいれば気楽だ。竜との関わりを持つ俗世から離れ、何も考えることなく一日一日を過ごすことができる。
そんな楽観的な考えでいるルオだが、物事は思い通りにいかない。間近の扉が音を立て、眩しい日光が差し込むと、今日もまたアレが始まる、と内心ため息をついた。
「やっぱりここにいた」
腕組みをしながら姿を見せた少女。ルビーを彷彿とさせる透き通った赤いロングヘアは情熱的だが、全身から放つ雰囲気はおしとやかだ。ルオよりも僅かに背が高く、素朴な白色の半袖シャツとベージュのハーフパンツを着用している。
「なんだよ」
苛ついてもない、関心もない、無感情なルオの声。
「『なんだよ』じゃないでしょ。もうここに来て一週間だよ!」
「だから何だって言うの?」
「……そろそろ仲直りしてよぉ」
少女は気苦労を感じさせる声で言った。
「嫌だ」
少女は頭を抱えた。
そして建物の外から声が聞こえる。中年の男性が彼女の名前を呼んでいる。
少女は、今行きますと返事をして、
「また来るから、これからのこと、ちゃんと考えておいてね」
物憂げな顔で去った。
本来そんな感情になるのはルオのはずだが、彼はもう吹っ切れている。なぜこうなってしまったのかと言えば――。
竜の国ドラゴメルクを出たルオは行く当てもなく走り続けた。
当てなんてものは最初から期待していなかった。ただ遠くへ行こうと、それしか思っていなかった。
街道を走り、最寄りの街に着けば立ち止まった。酷使した足は棒になり命令を拒み、心臓の音は強く鳴り止まない。
大きく肩を上下させながら、ルオは河川敷に下りた。お金は一銭もない。汗で張り付くワイシャツに気分が悪くなるが、橋の陰に隠れるように体育座りで小さくなった。
「ルオ……」
グレンは諦めなかった。国を出たルオを目と鼻で追いかけ、翼に穴が空いても飛ぶことをやめず、満身創痍だった。
「ついて来るなよ」
ルオは吐き捨てるようにそう言うと、体の向きを九十度変え、グレンを視界から外す。
グレンは当然ルオの前に移動した。膝に埋めた顔を覗こうとする。
その様子が見えていないのに気配を感じるのか、ルオは再び九十度回転する。
それが何回続いたか。
「もう、どっか行ってよ!」
手は出なかったものの、グレンは怯んだ。
「どうして……そんなこと……言う……の?」
「僕はお前みたいな竜はいらない! だから……いなくなってよ」
切なく放たれた声に、グレンは退いてしまった。
それからグレンは街を出た。人目の付かない路地を縫うように通って。
外の森で果実のなっている木を発見し、空腹からその一個にかぶりつく。甘酸っぱさに口をすぼめるが、ルオの姿が思い浮かぶと、休むことなくもう一個をくわえて街に戻った。
日が落ちて河川敷に行くと、ルオはまだそこにいた。しかし横向きで倒れ込んでいた。
グレンが恐る恐る寄ってみると、安定した寝息が耳に入る。
グレンは果実を彼の傍に置き、体を密着させてみた。
ルオは目を覚まさない。
ほんのり熱気の籠もった全身でルオを包んであげることができたらと、グレンは夜風に晒される彼が心配になった。だがグレンの身体は小さく、火を吹くことさえもできないのであれば、体温のコントロールは難しく、それは叶いそうにない。
無力さを痛感しながら、グレンもいつの間にか眠りに落ちた。
翌日になれば、ルオとグレンはほぼ同時に起きた。ルオが足を動かしたことにより、そこにもたれかかっていたグレンはバランスを崩した。
ルオの視界に入らないよう、グレンは彼の意識がはっきりする前に丈の長い草地に飛び込んで距離を取った。今姿を現せば、何をされるか分からない。
「これは……」
目を擦りながら、果実を見つめるルオ。
周囲を見回すが、特に誰もいない。草地に紛れたグレンには気が付かない。
果実を手に取って一口かじる。蜜液が零れ手をべたつかせるが、彼は気にせずに食べ切った。
川の流水で手と顔を洗い、髪の土汚れを洗い落とす。ブレザーの裾で顔を拭うと、ルオは河川敷を後にした。
グレンは彼の後ろをこっそりついて行くと、僅か一日も経たずして街を出た。
それからは似たことが繰り返された。ルオの行く先々にグレンは必ず現れ、食糧を勝手に援助されていたにしても彼はお礼の一つすら言わない。それどころかグレンに罵声を浴びせることをやめ、いないものとして扱っていた。
そんな彼が長い放浪の末に辿り着いたのは、一つの小さな集落。周囲には野山が広がり、ここを田舎と言わずして何と表現できようか、とまでに長閑な場所だ。
ルオの心は落ち着いた。その集落に足を引き摺りながら踏み入り、中央で立ち尽くす。
やがて一つの民家の扉が開き、そこから赤い髪の少女が姿を現す。空のバケツを片手に、煌々とした太陽を見上げると、
「ん?」
ルオに気付いて近づいて来た。
「君、見ない顔だね。……大丈夫?」
遠くを見つめるルオを覗くが反応はない。
「おーい」
少女が手を振ってみても駄目だ。
しかし彼女の声に別の存在が反応した。
ルオの肩から競り上がる深紅の頭部。気になった少女は彼の上から覗き込む。
「ええっ⁉ ド、ドラゴン⁉」
叫ぶと同時、少女の横でドサッと音が鳴る。
「ええっ⁉ ちょっと!」
意識を失ったルオを揺さぶるも、効果がないことを悟り、
「だ、誰か……! 誰か来て!」
少女は助けを求めた。
「ここは……」
ルオが意識を取り返したのは、次の日の夜遅くになってからだった。
虫のさざめきが微かに聞こえ、心地よく感じる。
額はなんだか生温い。そして身を包む布団。安寧を感じたのはいつぶりだろう。
衣服も見覚えがないものになっていて、物凄くラフな格好だった。
そうやって自身の変化と環境の確認をしていると、
「目が覚めたのね」
扉が開くと同時、昼間の赤髪の少女が、今はパジャマを着て安堵の笑みを浮かべて現れた。
両手で持って来たお盆には、おしぼりに見える物が一本と重そうな土鍋が一つ。
ルオは起き上がろうとするが、
「そのままでいいわよ」
と少女に優しく押し戻される。
ルオと体つきは大差ないのだが、なぜか少女の方が大人に見えてしまう。
「じっとしててね。君、凄い熱だったんだよ」
「そうだったんだ……」
少女はルオの額のタオルを取り換えた。
ルオの額から冷感が全身に伝播した。
「ねえ、食欲ある?」
ルオは頷いた。彼は長い間、自分の姿を見ていないから気付いていないが、今の彼はかなり痩せ細っている。
「じゃあ、ちょっとだけ体起こすね」
そう言うなり少女は、ルオの背中を支えながら体を起こす。
そして片方の手で土鍋の蓋を開けると、湯気が天井に届く勢いで立ち昇った。
「あっ……」
ルオは突然短く言葉を漏らした。
額に乗せたばかりのタオルが膝元に落ちてしまったからだ。
「あ、ごめんね。先に食べるなら、タオル取り換えるの後にすれば良かった」
少女は一旦、タオルをベッド脇のウッドチェストの上に置く。ルオの穿いていた綿製のハーフパンツが滲んでしまったが、本人は気にしていない。
「ちゃんと食べやすく作ったはずなんだけど……」
自信がないのか、土鍋を覗き込んで少女がそう言う。レンゲを持って粥を掬うと、
「ふー、ふー」
優しく息を吹きかけて、
「はい」
ルオの開けた小さな口にそれを運んだ。
ルオは柔い米を噛んで飲み込む。
「どう?」
「……うん。美味しい」
ルオは単調な声で答える。それからは少女に介抱して貰いながら、粥を食べ進める。
「……ねえ、聞いたよ。君たちのこと」
少女は食べ終えた土鍋に蓋をしながらそう言った。
「大変だったね。その……」
少女は言葉に詰まったのか。
「その話はやめて。聞きたくない」
いや、ルオが遮ったのだ。
「でも、あの子が……」
「……」
ルオは頑なに答えようとしなかった。
「……分かった。今は考える時間が必要だよね。でもこれだけは約束して。体調が良くなるまでは安静にしていてね。あの子、君のためなら自分を犠牲にすることも厭わないと思う」
ルオは小さく頷いた。
「うん、いい子だね。それじゃあ」
笑みを浮かべた少女はお盆を持って背中を向けた。
「待って! あなたの名前は?」
ルオは布団から手を伸ばす。
「私はミルファ。早く良くなってね、ルオ君」
去り際、ミルファはルオではない誰かに向かって頭を下げた。こんばんは、とだけ小さく挨拶する声が聞こえたが、一体誰がそこにいるのだろう。
ルオがそう思っていると、その人物は臥している彼に近づいて来た。
「おお、元気になったようじゃの」
白い髭を顎から生やし、顔には深い皺が彫られている老男性。背中は若干曲がっていて杖を突いているが、別になくても歩けはしそうだ。
「あなたは……?」
「わしはこの集落の一番偉い者……と言いたいところだが、ここには決めなければならない重大な何かもないゆえ、便宜上の立場とでも言っておこうかの」
ルオには少し言い回しが難解だったようで、首を傾げた。
「まあ、要するにあれじゃ……この集落の長老と思ってもらえれば、それで良い」
「長老さん……ですか。助けてくれてありがとうございます」
「わしはなにもしとらんのじゃ。礼ならばさっきの娘、ミルファに言うが良い。君の世話はほとんど彼女がしてくれたんじゃ」
「そうですか」
「なんにせよ、今日は早く寝るのが吉じゃ。心身共に疲れているじゃろうからな。では……」
扉が閉められると、静寂がまたルオを包み込んだ。