六時間目 ムース
今でこそ外面的には大人のフリをしているおっさんだが、僕にも若かりし日々は存在した。一般的な青春を謳歌していたかというと全くそんなことはない。だが若さゆえの思慮の浅さ、勘違いなどによる失敗は一通り経験している。
思春期に突入すると大人っぽい振舞いで他のクラスメイトとの差別化を図ろうと思うようになった。その時僕が考えた大人っぽさはまずスケジュール帳だった。
何が良くて何が悪いのかわからないまま、女子の会話に出てくるようなブランドのスケジュール帳を購入し、予定と連絡先を埋めていくことを夢見た。
当時はスマホはおろかガラケーも存在しなかったのでこれが大人っぽいと感じてしまったのだ。だが購入したスケジュール帳を前に呆然とする僕がいる。
書かなければいけないスケジュールなど存在しないのだ。だいたい覚えられる範囲の予定しか立てていない自分にこの時初めて気が付いた。勿体無いので単行本の発売日等の情報を記載しておいた。
さらに都合の悪いことにスケジュール部分以上に住所録部分にも書くことがないのだ。当時の僕は何かから選ばれし者で何らかの能力が覚醒する前だったので、自分から連絡先を書いてくれなんてお願いすることはできなかったのだ。
こんな思春期を送っているとお洒落に気を使わなくなっていくのは必然だ。今でも髪を切るだけで1000円を超えるのは高いと感じる。それはもったいないので美容師さんにはその技術を存分に発揮してもらおうとする。
「起きてすぐ出かけられるように寝癖にならない髪型で、あんまり手入れしなくていいように長持ちする髪型だとなおありがたいのでよろしくお願いします」
これが僕の美容室での決め台詞だ。また、今でこそスマホがあるからいいものの、美容室にあるような雑誌にはまるで興味がない上に読んでみても何が何やらさっぱりわからない。僕にとって美容室は仕方なく行くけどできれば避けたい場所だ。
それでも好きな異性ができたりする。初手からどうすればいいのかわからないが、クラスの中できゃいきゃい騒いでいる女子の声は聞こえていたし、その内容も克明に覚えている。そうか、女子はお洒落な男子が好きなのか。ならば僕も毛嫌いせずに少しぐらい身嗜みに気を使わなければならないだろう。
恋をして身嗜みを整えようと考えた僕が最初にぶつかった壁が、服屋に行くための服がないというものだ。多くの人が経験したこのトラップに僕も引っかかった。店内での会話なんかまだずっと先、スタート地点で躓いているのだ。
自分の持っている服を並べてみる。色褪せ具合と首のびろびろ具合を精査して、最もマシなTシャツをチョイス。Tシャツだとちょっと肌寒い季節だったのでアウターも装備。唐突に難しい専門用語が出てきたが、アウターというのは上着のことだ。
この上着、かつて意を決して買ったが恥ずかしくてそのまま箪笥の奥底にあったものだ。今回初めて袖を通す。これを買った時のことを思い出す。ファッションセンター、すなわちお洒落ど真ん中という名を冠するダンジョンに恐れおののきながらの攻略であった。
とりあえず家にあるものだけで服装はなんとかなった。なんとかなったことにしよう。腕にバンダナを巻いたりしたほうがいいか、とも考えたがそれは僕好みのファッションであり女子ウケが悪いことは調査済みだ。
この服装で件の異性に告白に行くわけではない。これはリハーサルだ。自分が大丈夫であることを確認するのが今回の目的だ。
さて、あとは髪型だ。長さ的には問題ないとは思うのだが、いかんせん無造作でボサボサだ。寝癖はないのに寝起きみたいな髪型、といえばイメージできるだろうか。
髪型をどうにかするには次のダンジョン「ドラッグストア」に挑む必要がある。ドラッグストアというダンジョンはサキュバス率が高いもののそれ以外の難易度はさほど高くない。しかし陳列されたアイテムのどれがアタリでどれがハズレなのか、皆目見当がつかない。
下手な考え休むに似たりを通り越して下手な考えすらできないという状態の中、目の前にあったよくわからないアイテムを手に取り購入。一応髪型を整えるっぽい棚からチョイスしたので大失敗はないだろう。あとで確認したがヘアフォームと呼ばれるジャンルの整髪料であった。
一旦家に帰り早速購入したアイテムを使ってみる。ドキドキしながら蓋を開けようとするも何故か開かない。よく見ると薄いセロファンで包まれている。そんなこともわからないほどの緊張感。
パッケージに書かれていた適量はピンポン玉2個分だ。そんなこと言われてもどのくらいかわからない。母親の口紅を勝手に自分に塗りたくる幼女のように、巨大なおにぎりぐらいの量の白い泡を出してしまった。
部屋が一瞬にしてケミカルなシトラス臭に包まれる。泡がなくならないうちに急いで髪に塗りたくる。指の隙間からはみ出た泡も念入りに髪に擦りつける。
このタイミングで僕の部屋には鏡がないことに気づいた。慌てて部屋を出て洗面台に向かう。そのままの手で部屋から出たのでドアノブがねっちょりしてしまった。
鏡を見ながらなんとなく表情を作ってみたりカッコつけてみたり。よし、これでちょっとぐらいイケメンになれたかな、と我に返った瞬間になんだか自分がすごくダサい気がしてきた。さっきまで手のひらいっぱいにあった泡が今は儚く消えている。僕の気持ちも儚く消えていきそうだ。
モチベーションを回復するために今度はこのスタイルでちょっと外を歩いてみようと思う。役所で書類を貰ったりコンビニに行ったりする必要があったので散歩で自信をつけることにした。
本当はダサいんじゃないかという葛藤はもちろんあるものの、それそのものよりも葛藤してまでこんなことをして何の意味があるのか、などと思考が徐々に哲学的になっていく。部屋から出なければ服装に気を使う必要もないんだから一生部屋にいればいいのでは。いかんいかん、それでは本末転倒だ。
つらつらと考えながら家に帰ってきた。自信がついたかどうか、モチベーションが回復したかどうかはわからないがとにかく無事に家に着いた。
だが間の悪いことに宅配便が来ていたようだ。当時は置き配もネットでの再配達依頼もなかったので電話で機械音声に対してプッシュボタンで再配達の依頼をする。
……この日起きてから今まで、役所の窓口とコンビニの店員さんと再配達の機械音声以外の異性と話していないことに気づいてしまった。いや再配達は一方的に話されるだけでこちらからは一言も喋っていない。
それ以外の異性と話したい。というか恋したあの娘と話したい。そうだ、そのために頑張ってお洒落を意識したんじゃないか。
部屋から出る勇気、お洒落屋さんに行く勇気、彼女に声をかける勇気、いろんな勇気が必要だ。彼女を想う気持ちは誰よりも大きいと自負しているが、それに対して僕の勇気は全部あわせてもピンポン玉2個分程度なんだろうな、と思う。追い討ちをかけるようにこの「うまいこと言いたくてうまく言えてない感じ」も冷静になった僕の憂鬱をブーストさせる。
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