表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/10

一時間目 スリップストリーム

 眠い目を擦りながら無理やり起きて準備して出勤するのはいつものことだ。だが家を出てダラダラ歩いているだけの毎日ではなく、時折身が引き締まる思いをする瞬間がある。そう、目の前に素敵っぽい女子がいる時だ。素敵っぽい、というのはもちろん前から確認できないからだ。


 僕はおっさんだ、生きているだけで事案扱いされてしまう。なので当然こういったシチュエイションでも前からの確認なんかできないし、近づくこともできない。とはいえ手をこまねいているだけではなくできることはやる。すなわち妄想と考察だ。


 妄想は誰にでもできる簡単な魔法、いわゆるバフ系というやつだな。より強固なイメージを持つことでバフの効果も上がる。これは現代社会においてはプラセボ効果と呼ばれており、魔法ではなく医学のカテゴリーに属するとされている。


 さて、しかしながらこのプラセボ効果、自分の精神にはいい影響を与えるものの実際には何も起こっていない状態なのでやはりそれは満足できるものではないだろう。このバフ効果がプラセボであると知っているならなおさらだ。


 とある歴戦の戦士は空想のメシでも結構うまいと豪語しているが、僕はまだその境地に達していない。であればやはり実態を伴う何かを欲するのは当然といえよう。


 ゲームであればHPとMPだけを気にしておけば死ぬことはないので民家に忍び込んで勝手に箪笥の中の現金を盗んでも勇者扱いだ。だが現代社会ではそうはいかない、社会的な死という概念がある。そこをうまく回避しつつ実態を伴う何かを求める、というミッションをどうクリアするか。ここからが考察だ。


 前を歩く素敵さんを尾行しつつ作戦を考えるが妙案は出てこない。鬼退治をする主人公は警察犬のような嗅覚を持っているらしいが、僕にはそんなスキルはない。その曇った思考を吹き飛ばすように向かい風が吹いてくる。そうだ、これだ。


 芳香と言えばいいのだろうか、まさにフレグランス。向かい風によって大脳を直撃する素晴らしい香りが僕のもとに届く。瞬時に魅了状態になるのを全力の理性でレジストする。まだできることがあるはずだ。心はホットに頭はクールに、だ。


 僕は別にサディスティックな気持ちがあるわけではない上に社会的な立場も失いたくないので絶対に対象に迷惑をかけてはいけないのだ。というか誰にも気づかれずに任務を遂行しなければならない。


 敵が前にいて自分が後ろにいる、その位置関係で両者の間の気流をどうにかしたい。この状況に最適な現象がある。そう、スリップストリームだ。ご存知の方も多いと思うが気体の中で物体が移動した時、もともとその物体があった場所に周囲の気体が流入して気流が発生する、という現象だ。


 物体が前進した場合、その物体の後方に巻き込むような気流が発生する、というイメージだとわかりやすいだろうか。モータースポーツにおいてスリップストリームを利用して追い越す技は有名だ。


 今これを応用すれば前方からのパフュームを全身に浴びることはできるのではないか。


 スリップストリームが発生する空間は物体の大きさや速度に比例する。人間の大きさで速度は徒歩なので概ね6km/hだ。ダメだ、この速度ではスリップストリームはほぼ発生しない。相手の黒髪が僕の頬を撫でる距離感でようやく、といったところか。そこまで近づいたら確実にアウトだ。絶対に早まってはいけない。


 スリップストリームだけではどうにもならない。ならばこの欲求を合法的に満たすためにはたくさんの偶然も必要になってくるだろう。だがもしその偶然が訪れた時、後悔しないためにも今できる全てを整えておきたい。一旦落ち着いて精査しよう。


 思考がある程度まとまったところでまたトラブルだ。なんと曲がり角が視界に入ってきた。今の僕は距離を詰められないでいるので曲がり角で見失う可能性は捨てきれない。ここは油断せずに五感を研ぎ澄ませなければならない。


 しかし懸念していた通り五感に意識を集中したところで何か感知できる距離ではない。そんなことはわかりきっていた。となるとあとは些細な違和感を見逃さず、第六感もフル稼動して気配を探っていくしかない。


 そういえばかつて同じようなことがあった。あの時もこうやって考えて何かいい方法があったような気もするのだが、いかんせん思い出すのは芳香だけだ。おそらく自覚のないまま魅了状態に陥っていたものと思われる。


 くそっ、何故あの時目の前の欲望に集中してしまったんだ。ただでさえ身体のみならず頭も衰えてくるお年頃なんだから次に繋がるノウハウを蓄積していかなければ成長できないじゃないか。


 ああ、僕の通勤路はそっちじゃないんだよ。ここでお別れか。さようなら、顔も名前も知らない貴女。僕は犯罪者にならずに済んだことを感謝しながら今日一日を過ごしていくことにしよう。

本作と同名のアルバムが各種配信サービスで配信されております。

よろしければ是非!

↓紹介動画はこちら。

https://youtu.be/pEREp-KosvM

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ