父 川村優之
最悪の結果だ。
田辺さんとの面会を終えて、重い足取りで会社のビルのロビーまで降りると、思わずため息が出た。ちょっと気が抜けて、置いてあるソファに座った。
思った以上に田辺さんは手強くて、それから敵意むき出しだった。それは私と婚約してから優さんがおかしくなって、彼の失踪は私が原因だと思っているからだ。
聞き方が悪かったかもしれないけど、何をしても上手くいかなかったかもしれない。
「気が重い……」
ここから早くいなくなりたいと思う一方、疲れたせいかすぐに体が動かない。ぼんやりと外を眺めていると、ビルの玄関前に黒塗りの車が止まった。
そこから出てきたのは社長、つまり優さんと明の父親だった。
本当は優さんが副社長になって勇退寸前だったのを、優さんの失踪で最前線に戻った。
私からするといつも笑顔で優しい父の親友だけど、こうして働いているところを見たのは初めてだ。
スーツをしっかり着て足速に歩いている。流石に仕事中は厳しい顔をしている。その周りを見る鋭い視線に驚いた。
川村の家にお邪魔した時はいつも、気軽におじ様と呼んでいるけれど、こうして見るとそんな風に気軽に話しかけられない気がする。
こんなに厳しい顔をしているんだ。
いつも見る穏やかな顔とのギャップに、驚く。
おじ様は車を降りるとビルの中に入ってくる。なんとなくソファから立ち上がってそれを見ていると、おじ様の視線がこっちへ向いた。
私がいることに驚いて立ち止まる。私が静かに頭を下げると、こちらへと歩いてきた。
「春奈ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです」
私の目の前で、おじ様は顔を緩めた。すっかりいつもの優しい顔だけど、その笑顔は私を気遣うようなものだった。
優さんがいなくなっても、この人は気丈に全てを取り仕切った。仕事を捌き、慌てるみんなをまとめた。おじ様は優さんが抜けた穴もしっかり埋めて、きっと仕事にはなんの支障もなかったと思う。
川村はもともと老舗の食品会社だったけれど、この人が社長の時に川村の事業は大きく拡大したらしい。詳しいことは知らないけれど、様々な分野に取り組んで、いい結果を出している。
だけど、忙しい中でも家庭のこともしっかりやっていた気がする。子供時代に遊びに来る私にもいつも優しかったし、明や優さんの世話もよくしていたと思う。
今回のことで私にもとても気を遣ってくれた。
「春奈ちゃんをこんな気持ちにして、本当に我が息子ながら情けない」
そう謝ってきて、むしろ私や私の両親が戸惑った。
実は一番辛いのはこの人だろうに。
特に初めての子供だった優さんには、厳しいながらも一番愛情を注いでいたと思う。
だから、優さんの失踪にショックを受けているのは同じなのだ。
その証拠に、ずいぶん痩せて、白髪が増えた。
年齢よりもずっと若く見えたのに、今となっては年齢以上の歳に見える。
「今日はどうしたの?」
私は苦笑いした。
「優さんが今どこにいるか、手がかりを探していて話を聞こうかと。……勝手をしてすみません」
特に何もなかったから帰ることを伝えると、社長は苦い顔をした。
「全く、あいつは本当にどうしようもないな」
こちらまで怒りが伝わる表情に、焦って私は首を振った。
「いえ、私がまだ気持ちの整理がついていないので
……諦められないだけなんです。すみません」
そう言ったら、社長もため息をついた。
「そうだよね。春奈ちゃん。ごめん」
窓の外に視線を飛ばした社長は苦しそうな顔をした。
「どうしようもない息子だとは思っていたけど、春奈ちゃんと一緒になって、ようやく一人前になるって思っていたけど……こんなことになって本当に申し訳ない」
「もうやめてください」
私は慌てて首を横に振った。
苦労しているのは、この人も同じだ。
優さんがいなくなったことは、たくさんの人に影を落としている。
たくさんの人が、彼がいなくなったことに驚いて悲しんでいる。
そして自分を責めている。
あの優しい人は、どうしてたくさんの大事な人を傷つけるようなことをしたのだろう。
どうしていなくなる前に、何か話してくれなかったのだろう。
いなくなった人間は、とても辛い思いをしてしまうのに。
私はその場の空気を変えるように社長に話しかけた。
「でも、私よりも会社の方がずっと大変ですよね。私とは比べものにならないくらい」
そう言ったら、社長は苦笑いした。
「そうだね。急なことだし大変だよ」
「ですよね」
だけど、社長は私へ顔を向けると小さく笑った。
「でも、明がいるから」
「え?」
「あいつが優の分までやってくれるから、助かるよ。以前よりも仕事は確実に楽になったね」
それを聞いて、驚いた。
大学を卒業してすぐに、明は父の会社とは全く無縁の会社に入った。そこも大手だけど、もちろんコネなどではない。
明は優さんと同じ日本で一番の大学に行っていた。その中でもとびきりいい成績を出していたという。就職も順調に決まったと言っていた。
親の会社でなくていいのかと聞いたら
「親の後を継ぐつもりはないから」
そんなあっさりした返事がきた。
だけどそんな彼が急に、親の会社に入った。
それはいつだっただろうと考えていて、思い出した。
私と彼が付き合うようになった、すぐ後だった。
急に親の会社に戻るなんて驚いて、理由を尋ねた。もしかして無理に父親に戻されたのかと思ったのだ。
だけど意外にも明はそれを否定した。
「俺が戻るって決めたんだ」
「どうして?」
明は笑った。
「今は言えない」
そう言って、もう一度笑った。
なんだか挑むような顔だったのを覚えている。
「明が……」
あの優秀な明だから、仕事ができると言われてすんなり納得できた。おじ様も満足そうに笑った。
「本当に助かったよ。優の仕事もあっという間に飲み込んで、きちんとやるべきことをこなしてくれる。あいつはちゃんとしているし、きちんと結果も出すから、仕事を任せられるし、安心だよ」
予想より高い評価に私は驚きながら頷いた。
「良かったですね」
おじ様も大きく頷いた。
「明は本当に頼りになるな」
ちょうどそこに同行していた秘書が声をかけると、あっという間に仕事人の顔に戻った。
「じゃあ、悪い春奈ちゃん。呼ばれてしまった」
私はもう一度深く頭を下げた。
「いえ。お会いできて良かったです」
「ちょうどお昼だし食事くらいご馳走したかったけど、すまない」
とんでもないと答えると、おじ様は笑った。
「そうだ。また家でみんなと食事でもしよう。妻もまだ落ち込んでいるから。春奈ちゃんが来たら元気に鳴るよ」
優さんのお母様は息子の失踪にショックを受け、かなり憔悴していた。
もしかしたら私よりもダメージが大きかったかもしれない。
まだ家で塞いでいるというのを、容易に想像できる。
その誘いに、少し気が引けるけれど、笑って答える。
「ありがとうございます」
「また連絡するよ」
「よろしくお願いします」
おじ様は足を踏み出そうとして、止めた。私の方を振り返る。目を伏せながら少しだけ笑った。
「春奈ちゃん。もうあいつのことは忘れなさい」
「え?」
「私たちも忘れるから……それが春奈ちゃんにとってもいいことだよ」
そこまで言うと私の返事も待たずに歩き出した。
会社の中へと歩いていく姿は堂々としていて威厳があった。
父の友人でなかったら、こんな風に話すなんて、絶対にできないような人だった。
だけどそれは今まで知る父の親友の後ろ姿ではなかった。
まるで見知らぬ人のようだった。