終わりの始まり 3
店を出て当てもなく歩いていると、バッグの中の携帯が鳴った。
立ち止まって電話に出る。少し話して電話を切ると、私はため息をついた。
見上げると、よく晴れた空が見えた。
暑いくらいの、夏のような日。
日差しを避けるために、片手をあげて顔の上に掲げる。そこでようやく、自分が震えていることに気がついた。
私は震えていた。
掲げた手が細かく、でもしっかりと震えている。止めようとして、止められなくて、私は反対の手で自分の手を握りしめた。
その人と待ち合わせたのは、そこから少し歩いたホテルのお店だった。
高級ホテルの中は着飾った人たちが歩いていて、優雅で穏やかな時間が流れていた。私はそこに入ると目当ての人を見つけて、そこへ歩いた。
目当てのテーブルにいたのは彼の弟の明で、シャツにカジュアルなジャケットを羽織ってパンツという何でもない格好なのに、人目をひいていた。私を見て笑って片手を上げた彼に対して、私は返事もしないで黙って椅子に座った。
「どうしたの?体調悪い?」
彼はすぐにそう言って私へと体を乗り出した。心配そうに眉を顰める。
「顔色悪いぞ」
私は黙って首を振ると、来た店員に顔を向けた。
「グラスのワインください」
かしこまりました、そう言って頭を下げた店員に、明は顔を向けた。
「待って、違うのにするから」
そして私へ顔を戻す。その顔は険しかった。
「お酒は苦手だろう?」
「いいの。これで」
「いや、ダメだ。この間だって少し飲んで潰れただろう」
思い出して私は顔を顰めた。
少し前に、明と優さんとお酒を飲んで、いつもは飲まない私もつい飲んでしまって、そしてあっという間に潰れたことがある。
私はため息をついた。じっと明を見つめる。
視線を外して見上げたら、店員が困ったように私たちを見ていた。
「グラスの白ワインで」
「春奈」
強引にオーダーをすると、明はため息をついた。
「潰れても知らないぞ」
私はそれを苦い顔で見つめた。心の中で、年下のくせにと思ってしまう。
そう、この人は私の一つ下なのに、昔から大人びていてまるで私の兄のようだった。
まだ子供の頃はそんなことはなかった。どちらかと言うと私の後をついて歩く子供だった。だけどいつの間にか、まるで私の同い年の友人とか、むしろ兄のような態度を取るようになった。
それはいつからだったのだろう。もう忘れてしまうくらい昔だ。
すぐに届けられたワインを早速手にして一口飲む。ピリリとした刺激が口の中に広がった。
思わず苦いと言う顔をしてしまったのがわかったのだろう。
「苦いだろ、春奈には」
テーブルの反対側に座る彼を思わず見返してしまった。
「今日は酔わない気がする」
「ああ、そう」
呆れた顔で気持ちの入らない返事をして、彼は私の荷物にそっと視線を送った。バッグの隣の自己主張の強い紙袋は、有名な宝飾店のものとすぐにわかる。
「ああ。これ?」
私は彼の聞きたいことを理解して、ため息をついた。
「婚約指輪、取りにいってきたの」
答えは予想していたのだろうけど、それでもやっぱり気持ちが落ちる。
反対側で彼は静かにコーヒーを飲んだ。とても苦い顔をしている。私は目の前のワイングラスを見つめた。
「明」
「何?」
「優さんに恋人はいたのかな?」
そう言ったら、とてもとても苦い顔をした。
「何言ってるんだよ。それは春奈だろう」
私は笑った。今となっては冗談でこんなことを言っているわけではない。
「違うよ。私は恋人ではないよ」
「どう言う意味だよ」
私は笑った。
「私は……恋人ではないよ。婚約者だったけど」
婚約者だけど、恋人でない。その意味するところは、つまり、愛や恋でないってことだ。
「何が言いたいんだよ」
私はもう一度ワインを飲んだ。
お酒に弱い私はいつもならこのくらいで酔ってしまうけれど、今日は酔わない自信があった。あんなことがあってとてもではないけど酔えない気がした。
「優さん、私のことなんて、好きじゃなかったと思う」
そう言って顔を上げたら、明と目があった。彼は何も言わなかったけれど、否定もしなかった。それをとても悲しく思う。そして惨めに感じる。
「どうしてそんなこと考えた?」
返ってきたのはとても静かな声だった。私は視線を下げた。
さっきのお店で店員が出してきたのは、ダイヤモンドのピアスだった。シンプルなデザインだけど、大きい石のダイヤのピアスは、きっと高い。それなりの付き合いの人に贈るものだと思う。
それなりの付き合いーーー恋人とか家族とか、それから大事に思っている人とか。
その相手は私ではない。
私はピアスをしていない。だから、使いようがない。
店員は最後にそれに気がついた。だから私は逃げるように店を出たのだ。
逃げるように、と言うより、逃げた。
私の指輪は、お金で終わりにしようとしていた。渋々一緒に買いに行っただけで、お店に行っても興味なさそうにしていた。
指輪を買いに行った後で、あの店が有名だと初めて知った、と言っていた。その時はもう、このピアスを買った後だと思う。
つまり、調べたのだ。
人にあげるには何がいいのか。ピアスや指輪を送るなら、どの店がいいのか。
あげる人を思い浮かべて、その人が喜ぶところを想像して何がいいのかどこのお店がいいのか、考えたのだ。
私にはそんなことはしなかったのに。
私は紙袋からピアスの入った箱を取り出した。それを机の真ん中に置く。
「これ、私のじゃない」
明はそれを訝しげに見つめた。私はそれを開けることはしなかった。
「これ優さんがお店に頼んでたものだけど、これは私のじゃない」
「どうしてわかる?」
「ピアスだった。私、ピアスはしない」
途端に明が苦い顔をした。この人は優秀だから、もうわかっている。
このお店がとても高級なお店であることも、この中身がそれなりの商品であることも、それが私ではない、誰かのプレゼントとして買われたものだということも、全部わかっているだろう。
「これをプレゼントするような人がいたのだと思う」
「うちの母親かもしれないだろう」
私は首を振った。思わず笑ってしまった。
明だってわかっているのに、そうやって誤魔化そうとする。
私を守ろうとする言葉は、同じだけ私の心を抉る。私を惨めにする。
周りにピアスをする人がいないことは、もうわかっている。
「優さん、好きな人がいるって言ってなかった?」
目の前の彼は嫌そうな顔をした。
「高価なプレゼントをするような、好きな人がいたんだよ。絶対。だからその人に会いに行ったのかもしれない」
「春奈」
咎めるような声は、私を止めることはできなかった。
「これ、すごく高いものだと思う。だから、優さんはこれを大事な人にあげるつもりだった」
私はまたワインを飲もうとして、その手を止めた。
手が震えていた。グラスの中身が、ありえないくらい揺れている。私は咄嗟に手を離した。その一連の動作を明がじっとみていた。
「私のせいかもしれない」
「何が?」
「優さんがいなくなったの、私のせいだ。本当は私と別れようとして、だけど、別れられなくて。だから優さん、いなくなった」
目の前の明の顔が歪んだ。苦しそうに、悲しそうに私を見る。私はその目を見ることができなかった。
「私がいなければ、良かったのかもしれない。そうしたら」
優さんは今もここにいた。そう続けようとして、明がそれを遮った。
「春奈」
強い口調で私を呼んで彼は机の上で私の腕を掴んだ。
「春奈のせいじゃない」
でも、私のせいなのだ。
彼は私の初恋の人で、もうすぐ私の夫になるはずだった。私はとても幸せだった。
少なくとも、私は。
だけど、それは私だけだった。きっとあの人には私に言えない何かがあったのだ。
私に見せてくれた笑顔は、仮面だったかもしれない。
本当は笑いたくないのに笑っていたのかもしれない。
本当は一緒にいたくなかったのかもしれない。
だから、いなくなってしまったのかもしれない。
一緒にいられないくらい、嫌だったのかもしれない。
私との結婚が。
それとも、私が。
「本当の優さんは、どんな人だったんだろう」
ぽつりとつぶやいた。静かな声が返ってきた。
「俺や春奈の知っているのが兄さんだよ。それ以外はないよ」
だけど、それは違う。
私の知っている彼は、彼ではなかったのだ。
大好きだった彼の姿は、今となっては全く見知らぬ人のように感じられた。
「探さないと」
「え?」
「……なんでもない」
首を振って明に答える。なんでもない様子を装って、私は心の中で呟いた。
探さないといけない。
優さんを。
本当のあの人を。