終わりのはじまり
私たちの付き合いは周りに好意的に受け止められた。特にお互いの両親は手放しで喜んだ。昔から冗談のように話していた『お互いの子供が結婚する』ということが、現実になることに、互いの両親は浮かれていた。
私たちはとても礼儀正しいお付き合いをしていた。
仕事終わりに食事に行く、休みの日に出かける。そして夜遅くなる前に彼は必ず私を送り届けてくれる。親がもう帰ったのかと驚くような時間に家に着く。早く帰るように怒られるようなこともない。
それが私たちの付き合いだった。
彼は家業を継ぐために、父親の会社で働いていた。次期社長になるような人だから、とにかく多忙だった。だから休みの日に会えるのも月に1回くらいで、やっぱりそれは寂しく思うこともあった。だけど忙しい合間を縫って、彼は私のためにいろんなところに連れて行ってくれた。
付き合ってまだ半年で、結婚の話が出た時には驚いた。
それは向こうの家に遊びに行って、向こうのご両親とお茶を飲んでいる時に、向こうの母親の明子さんから言われた。
「優、あなたは早く身を固めた方がいいわよ。仕事にも集中できるし、放って置いたら春奈さんを誰かに撮られてしまうわよ」
ねえ、そう言って優さんの父親である社長を見た。社長も少し考えた後で大きく頷いた。
「そうだな。それでもっとしっかり仕事をしてもらうのが理想だな」
私たちは明子さんを見て、それから優さんを見つめた。
優さんは少し考えているような顔をして、それから苦笑いして私を見た。
「そうだね、そうするのがいいのかな」
あまりにもあっさりした言葉に、私はとても驚いた。だけど嬉しくて、その場でお受けした。
「よろしくお願いします」
家族に後押しされたプロポーズで、私たちは困ったように微笑みあった。だけど向こうの親は手放しで、それを報告したら私の両親も泣いて喜んだ。
だけど、すぐに結婚、とは行かなかった。
優さんのお父さんが、優さんが仕事を落ち着かせてからの結婚を望んだからだ。
だけど結婚を決めた後で、彼が副社長になったことで仕事がさらに多忙になった。今まで以上に会えなくなった。
休日もゴルフ、仕事、出張、その繰り返しだった。
だから、というわけではないけれど、結婚を決めて半年ほど経った時に、先に籍を入れて同居してはどうかと優さんの母親から提案された。そうしてもうすぐ完成する会社の近くの新築マンションを紹介してくれた。
とても立派なマンションのパンフレットを見せてもらって説明を受けた後、流石に戸惑った。
「このマンションじゃだめ?もっと他のものを探しましょうか?」
「あ、いえ。もったいないくらい素敵なマンションです」
「そうでしょう?」
戸惑っている私たちに、明子さんが困ったような顔をした。その時優さんの父親はいなかった。
もし、優さんのお父さんがいたら、戸惑っている私たちを見て、明子さんの暴走を止めてくれたかもしれない。
だけど、明子さんは止まらなかった。
「あの子が忙しいから、春奈ちゃんを待たせてる気がして」
そう、明子さんが私に謝ってくるから、私は困って彼を見る。彼も困ったように笑った。
「じゃあ、そうしようか。春奈ちゃん」
私は苦笑いして頷いた。
多分明子さんは、お互いの子供が結婚することに浮かれていた。中々結婚まで辿りつかない私たちを心配して、だからちょっと先走っていたかもしれない。
それから私は新居の準備で忙しくなった。
インテリアを選ぶのも悩むけど、優さんとゆっくり相談する時間な歯ないから、ほとんど一人で決めていた。
マンションを契約して、それからマンションが完成して、一人で新居のインテリアを選んで、必要なものを考えた。それらをお店やネットで見て、あとは注文するだけの状態だった。
家のものが揃ったら、引っ越しする予定だった。
結婚が決まって、もうすぐ1年がたとうとしていた。
私はあと少しで初恋の人と結婚するはずだった。
ずっと、好きだった人と。
だけど、急に彼はいなくなってしまったのだ。
仕事も、家族も、もうすぐ結婚するはずだった、私も置いて。
彼がいなくなったのは、突然だった。
いなくなる前の日、私は彼と食事をしていた。
食事をしながら新居の小物や家具の相談をしていた。彼の様子は本当にいつも通りだった。
私がタブレットで見せる品を「うん、そうだね」「そうだね、これでいいよ」
そう、笑って答えていた。
だから私は数日以内にそれを注文することにしていた。
いつものように食事の後、車で私の家まで送ってくれて、車の中で笑顔で
「またね」
そう言って手を振った。
そのどれもがいつも通りだった。
明日、目の前からいなくなってしまうなんて、思いもしなかった。
翌日私がいつものように仕事をしていると、デスクの電話が鳴った。会社のロビーからで面会の人が来ているという。
その名前を聞いて私は訝しんだけれど、断るわけにもいかない。時間は昼休みの少し前だったから、私は早めに休みに入ることにしてロビーにおりた。
ロビーに降りて私は目当ての人を見つけて、ため息をついた。
目当ての人はスタイルの良い体を細身のスーツに包んで、俯きながら腕を組んで右手を顎に添えて、会社のエントランスの隅の柱に寄りかかりながら立っていた。顔を俯けていても、その端正な顔は人目を引いた。その姿は見た目の良さからも、彼から発せられる冷気のようなものからも、はっきりと目立っていた。
その人は彼の弟だった。
彼の姿を通り過ぎる男の人も女の人もじっと見ていて、あまりにも注目されているから声をかけるのを躊躇ってしまう。だけど、彼はふと顔を上げると、すぐに私を見つけて、真っ直ぐに私に向かって歩いてきた。
その姿は雑誌から抜け出してきたみたいで、なんでもないブラウスにスカートの私がなんだか恥ずかしくなってしまう。
「あ、どうしたの?」
照れ隠しのためか、早口で言った私を彼はじっと見つめた。
「座れるところあるかな?」
彼は辺りを見渡した。ソファは並べてあるが、生憎埋まっている。
「あ、じゃあ。どこかお店に入る?お昼まだなら、一緒にランチにしようか?」
「いや、そんなところでできる話じゃないし、その時間もない」
彼は私の返事を待たずに首を振った。その時になって、いつも静かな彼の顔が、今日はさらに硬く強張っていることに気がついた。
「でも、場所とかない」
その勢いに押されて私の返事も固くなって、だけど彼はそれを小さく頷くことで受け止めた。
「じゃあ、ここでいい」
私は少し怖かった。嫌な予感がしたのだ。
この人がとても苦い顔をしていることも、とても嫌な雰囲気を漂わせていることも、この人といるせいで、通り過ぎる人の視線を集めてしまうことも、全てが嫌で、私を焦らせた。
彼は私へ視線を向けた。そして口を開くと
「そうだね。予想外のことでとても忙しくなったよ。だから単刀直入にいうよ」
そう言い放った。
私は両手を握りしめた。
なぜだか、よくないことを言われるという確信があったのだ。
「春奈。兄さんがいなくなった」
「え?」
彼は私を見た。
感情のない、ただ真っ黒な瞳で私を見た。
「兄さんがいなくなった」
優さんがいなくなった。
それは私の人生を大きく変えてしまった。