レジナルド(3)
翌朝、朝食の席でシャーロットは少し疲れたような表情をしていた。
今まで気に留めていなかったが、時折り眠たそうな様子のときがこれまでも何度かあった。
それは昨夜のようにクリストファーをあやしていての睡眠不足だったのだろうかと、レジナルドは思った。
あの後、レジナルドが寝室で眠ったふりをしていると、シャーロットは静かに戻ってきた。
レジナルドは昨夜のことには触れず、いつものように朝を迎えた。
眠たそうにしながらシャーロットはゆっくりとした動作で食事をしている。
しかし、フォークが皿に当たって微かな音を立てた。
「……っ申し訳ありません」
シャーロットは弾かれたようにはっとして、無作法を詫びた。
側にいた侍女が、心配そうに小声で声をかける。
「奥様、きちんと休まなければ……」
「はい……」
今までなら、レジナルドはそんな言葉さえ気にも留めず聞き流していただろう。
これまで、シャーロットにとってこの婚姻は不満でしかないはずだと思っていた。
だから、昨夜の光景はレジナルドにとっては意外だった。
クリストファーのことも、シャーロットが生んだ子ではないので蔑ろにすることさえなければ良いと思い、それ以上を強要するつもりはなかった。
けれどシャーロットはクリストファーに対して、我が子のように愛情をかけようとしている。
幼いころから両親と顔を合わせることもほとんどなく育てられたレジナルドには、シャーロットがなぜあんな風に愛情を持っているのか分からなかった。
歩み寄っていないのは自分の方だと突きつけられたようだった。
不本意な婚姻ではあっただろうが、シャーロットはクリストファーに対しても、この生活にも馴染もうとしている。
シャーロットが距離感を持っているのは、レジナルドに対してだけだった。
レジナルドは忙しさを理由に現実から目を反らしてばかりで、それではシャーロットが頼れるはずもない。
過去を引きずってばかりで、今を見ようともしていなかった。
朝食を終えて屋敷を出ようとした時、レジナルドは見送りに来たシャーロットを振り返った。
見つめたままのレジナルドに、シャーロットが怪訝そうに首を傾げる。
「旦那様?」
白い肌は少し血色が悪く、目の下にはうっすらと隈も浮かんでいる。
思えば、きちんと顔を合わせたことすら記憶にはなく、これまで少し目をやるだけだった。
疲れの色が出ている顔にそっと手を伸ばす。
「きちんと休め」
ほんの一瞬、指先が肌をかすめる。
それは陶器の滑らかな輪郭をすべるような仕草で、静かに指先は肌から離れて、レジナルドの足は玄関の方へと向かった。
シャーロットが見送りの挨拶をする間もなく。
その日、レジナルドが帰宅したときにシャーロットの姿はなかった。
使用人にシャーロットの居場所を尋ねれば、以前ならば思いもしなかっただろうが、想像通りのところだった。
向かった子供部屋では、クリストファーが寝息を立てていた。
その側には、刺繍の道具を手にしたまま、椅子に身を預けて眠っているシャーロットの姿がある。
朝にレジナルドが休むように言ったが、子供部屋で刺繍をしながらという意味ではなかった。
子守りに下がるように命じると、部屋の中に二つの寝息だけが聞こえる。
シャーロットの側に近づき、途中らしい刺繍道具を手元からそっと取った。
自室でやれば良いだろうに、クリストファーの様子を見ながらしていたのだろうか。
レジナルドはそんな風に思った。
子守りから聞いた話では、シャーロットはよく子供部屋にいるらしい。
茶会や買い物に出歩かないことは知っていた。
好きなようにさせたかったので行動に干渉はしてこなかった。
眠る顔を見ながら、静かに刺繍道具をテーブルの上に置く。
その時、シャーロットが身じろいでゆっくりと瞼を上げ、すぐ側を見上げた。
目を覚ましたシャーロットはまだ覚醒しきれていないのか、少しの間ぼんやりと見つめていた。
「旦那様……?」
だが少しして、はっとしたように慌てて身を起こし、レジナルドが制止させようとした時にはもう遅かった。
シャーロットが立ち上がった物音でクリストファーも目を覚ましたらしく、小さな泣き声が聞こえた。
「あ……」
立ち上がったシャーロットはその声に振り返り、心配そうにクリストファーを抱き上げた。
クリストファーは喉を震わすように泣いていたが、人肌に包まれて安心したのか泣き声はすぐに収まった。
シャーロットはそれを見てほっとした表情を浮かべながらも、レジナルドの存在が気になるのか戸惑ったように向き直って頭を下げる。
「お帰りなさいませ。お出迎えもせずに申し訳ございません……」
「きちんと休むよう言ったはずだ。こんな風に眠っては休まらないだろう」
「いいえ……。少し、うたた寝をしてしまっただけです……」
シャーロットの言葉が少し口ごもったのは、レジナルドに言われたことを守っていなかったことへの気まずさか、椅子で眠っていたところを見られてしまった恥ずかしさなのか、その両方なのか視線を彷徨わせて顔を伏せた。
会話はそこで途切れて、二人の間には沈黙が落ちる。
シャーロットからしてみれば、なぜレジナルドが子供部屋に来たのかその理由も分からなかった。
気まずい沈黙に先に耐え切れなくなったのはシャーロットの方で、腕に抱いたクリストファーに視線を向けた。
「クリストファー、お父様ですよ」
すでに泣き止んでいるクリストファーをレジナルドへと向ける。
クリストファーは一瞬だけ父親の方を見上げたが、すぐにシャーロットの腕の中へとしがみついた。
シャーロットとしては話題作りのためにしたのだろうが、結果的にクリストファーがレジナルドを嫌がったような形になり、焦った表情を浮かべる。
「あ、あの、起きたばかりであまり機嫌が良くないだけで……」
弁明のように説明するシャーロットを、レジナルドは無言で見つめた。
レジナルドはこれだけで怒りだすような性格ではない。
そもそも普段からクリストファーを構うことが少ないので、あまり懐かれていないのも仕方がない。
忙しいということは理由にもならないだろうが、特に高位の貴族男性はあまり子育てに関わらないことが一般的だ。
クリストファーがシャーロットに懐いているのは、やはり普段から側にいることが大きい。
だが、乳母や家令からの報告とは違和感があると、レジナルドは思った。
彼らからの報告や、夜中にあやしている時に見たシャーロットは母親という印象だったが、今はどこか遠慮がちでまるで子守りのメイドのようだ。
それは、父親であるレジナルドを前にして、シャーロットが一歩身を引こうとしているように見えた。
「子供の世話をしたことがあるのか?」
レジナルドの問いかけに、そんなことを聞かれると思っていなかったのか、シャーロットは驚いたように顔を上げて目を瞬かせる。
「慣れているようだ」
子供と接することのなかったレジナルドでも、シャーロットは赤ん坊に手慣れているように見えた。
それを尋ねると、シャーロットは小さく頷いた。
「……弟がいました。幼い頃に、両親と共に事故で亡くなりましたが……」
レジナルドはシャーロットに弟がいたことを知らなかった。
それと同時に、両親も亡くしているということを初めて分かった。
「そうだったのか。すまないことを聞いた」
「いえ……。昔のことですから……」
再び沈黙が落ちる。
シャーロットは、レジナルドになぜこんなことを尋ねられたのか分からないという様子だ。
そもそも、今日は朝からレジナルドの様子がいつもと違うとシャーロットは感じていた。
家を出る際に不意に頬を触れられたことも、今までそんなことはなかったため、その意味をくみ取れずにいた。
自分は何か粗相をしてしまったのだろうかと、そんな不安さえ沸き上がってしまう。
「普段のクリストファーはどんな様子だ?」
けれど、レジナルドがそう尋ねると、シャーロットは顔色を明るくした。
そんな変化にレジナルドがわずかに目を見張る。
「最近は、昼間に庭で遊ばせていると、花や虫を見て喜んでいます」
「そうか」
「はい。外が好きなようです」
レジナルドが相槌を打つと、シャーロットははにかむように小さく微笑み、クリストファーのことを話した。
レジナルドはこれまでシャーロットのことを大人しい娘だと思っていたが、実際は尋ねればきちんと受け答えをし、表情も豊かだということを今になって初めて知った。
本家へ行った時のような、一歩身を引いたような距離感はなく、遠慮がちな視線でもなく明るい表情で話すシャーロットに、レジナルドはその声音に耳を傾ける。
時折りクリストファーが話に混ざるかのように声を挟みながら、夕食の声がかけられるまでそんな時間を過ごした。