少しずつ、前へ
本編の少し後です。
眩しい日差しが燦々と降り注ぐ。
その光を浴びて咲く花に水をかければ、きらきらと白い花びらが一層輝きを増す。
「奥様」
呼ぶ声が聞こえて、シャーロットは水差しを持っていた手を止めた。
顔を上げて振り返ると、家令と共にクリストファーがこちらへ向かってくる姿が見えた。
「お母様!」
「まあ、クリストファー。汚れてしまうわよ」
花の手入れをするためにつけていたエプロンは、花壇の土ぼこりで少し汚れてしまっている。
抱き着きたがっていたクリストファーは少し不満そうにしながらも、シャーロットの周囲を駆け回ってはしゃいだ。
「奥様にお手紙でございます」
「ありがとうございます」
近くにいた庭師が水差しを受け取り、シャーロットは手袋を外す。
美しい絵柄の描かれた封筒を家令から受け取った時、屋敷の方から少し甲高い声が聞こえてきた。
「奥様! また帽子も被らずに庭に出て、日に焼けてしまいます!」
飛んできたデボラが有無を言わさずシャーロットの頭に帽子を被せた。
「少しの間だけだったので……」
「少しでもきちんと帽子を被ってくださいませ!」
短時間だからと帽子を被らず庭に出ていたシャーロットの白い頬は、日射しを受けてうっすらと赤みを帯びている。
デボラはシャーロットが花の手入れを楽しんでいることを知っているので止めはしないが、貴族の奥方らしくないことには少し不満らしい。
「普通は貴族の奥様は社交場に出かけたり、ご友人をお茶会に招いたりしますのに、奥様といったら……」
帽子の紐を結びながらぼやくデボラに、長くなりそうだという風に家令と庭師が苦笑を零し、シャーロットもつられた。
あれほど無口だったデボラも、最近ではこんな風に長々と喋ることが多くなった。
半分は小言に近いものだったが、シャーロットは不思議とそれが嫌ではなかった。
それでも、まだ続くデボラの話にどうすれば良いだろうかと思っていた時、クリストファーがシャーロットを見上げて声をかけた。
「お母様、誰からのお手紙?」
「イレイン様からよ」
シャーロットは手紙の送り主を見て、友人の名を教えた。
「良いなあ。ぼくもお母様にお手紙出したい」
「まあ、それなら私もクリストファーにお返事をするわね」
「うん!」
クリストファーはまだ文字を書けないが、シャーロットに手紙を送るということがしたいらしい。
「それは良いことですね。では早く部屋の中へ戻りましょう」
デボラは良い提案だという風に頷いて、シャーロットとクリストファーを屋敷の中へと急かした。
あまり外にいるよりは、室内で奥様らしくして欲しいというのがデボラの希望のようだ。
庭師が残りの水やりをやっておきますと告げたので、シャーロットはそれを頼んだ。
元々は彼の仕事だが、最近はシャーロットが時々させて欲しいと頼んだのだ。
これ以上、水やりを続けていると庭師がデボラに叱られてしまうかもしれない。
三年もたつが、貴族の妻という立場はまだシャーロットには慣れないものだった。
ふと、シャーロットは先ほどのデボラの言葉を思い出して、手の中の手紙を見つめた。
夜、寝室でレジナルドの帰りを待っていたシャーロットは、あることを願い出た。
「あの、旦那様。友人をお招きしてもよろしいでしょうか……?」
おずおずと尋ねると、レジナルドはすぐに頷いた。
「勿論かまわない」
レジナルドの言葉を聞いて、シャーロットの表情がほっと安堵した。
元々身分の差があるからか、婚姻の経緯が複雑だったためか、シャーロットはいまだにレジナルドの機嫌を伺うところがある。
レジナルドがシャーロットの言葉を否定したことはないが、それでも尋ねるときは緊張した。
昼間にシャーロットへ届いたイレインからの手紙は、自宅に招きたいという内容だった。
イレインには悩みごとを聞いて貰ったりしてとても世話になり、あれ以来何度か手紙のやり取りは交わしているが、会って直接お礼をしたかった。
それと同時に、イレインに招かれてばかりだということに気づいた。
デボラは、貴族の奥様は友人をお茶に招いて過ごすと言っていた。
イレインはシャーロットにとってこの国でできた大切な友人だ。
貴族としての作法なども色々とあるだろうが、デボラと相談しながら精一杯のもてなしをできればどんなに良いだろうかと思った。
「おまえの家だ。好きな時に招けば良い」
「ありがとうございます」
レジナルドの言葉にシャーロットは頬を緩めた。
そんなシャーロットの表情に、レジナルドはそっと手を伸ばしかけたが、その少し前で止めた。
一瞬静止した手は指先を少し内側に握り込み、再び開くと軽くシャーロットの肩に添えられた。
「そろそろ休もう」
「はい」
レジナルドの手に支えられてシャーロットは横になる。
その肩にレジナルドはシーツを引き寄せ、額に静かに唇を落として側に眠った。
隣で目を閉じる横顔を、シャーロットはそっと見つめる。
肩を抱く手は触れるだけで、それ以上の意思は持っていない。
実は、シャーロットが倒れたあの日以来、約一ヶ月近く同じ寝台で眠っていても肌を重ねたことはなかった。
レジナルドがシャーロットの体調を気遣っていたこともある。
けれど、理由の一つに避妊薬を飲まなくなったこともあった。
避妊薬を用いていたことをレジナルドに知られ、飲むことを止められてしまえば、シャーロットには隠れて飲み続けることは出来ない。
避妊薬を飲まなければ、当然子を成す可能性はある。
シャーロットがレジナルドの子を身ごもるのを恐れていたことを知っているから、レジナルドは気遣って行為に及ばないのだ。
それがレジナルドの優しさからということを、シャーロットは分かっていた。
レジナルドはシャーロットが望まないことは決してしないだろう。
きっとこのまま肌を重ねなくても、それを理由に離縁することもないはずだ。
けれど、シャーロットはレジナルドを拒んでいるわけではない。
ただどうすれば良いのか分からなかった。
シャーロットには、世の中の夫婦が夜の寝室でどういう風にきっかけを作っているのかを。
そもそもシャーロットには夫婦のことも婚姻の手引きも何も分からなかった。
本来は嫁ぐ前に母親から伝授されるものだが、シャーロットの母はすでに亡くなっており、姫君の代わりに妻になった時も誰も教えてくれる人はいなかった。
この状態をどうすれば良いだろうか、そんなことを考えながらシャーロットは目を閉じた。
イレインに招待したい旨の手紙を送れば、すぐに了承の返事が届いた。
そうして迎えた約束の日は、よく晴れた心地の良い日だった。
「ようこそいらっしゃいました、イレイン様」
「シャーロット様。本日はお招きいただきありがとうございます」
イレインの家の家紋が入った馬車が屋敷の前に停まるのを、シャーロットは喜々として出迎えた。
馬車から下りてきたイレインは変わらず凛とした声音と笑顔を浮かべている。
その視線がシャーロットの少し側に向く。
シャーロットの後ろから、クリストファーが顔を出した。
「クリストファー、ご挨拶を」
「初めまして。クリストファーです」
「お可愛らしい。よろしくお願いしますね」
クリストファーが最近習い始めている紳士の挨拶をすると、イレインは微笑ましい表情を浮かべた。
「さぁさぁ、坊ちゃまはこちらで遊びましょうね」
「はい」
子守りがクリストファーを連れて行くのを見送ってから、シャーロットはイレインを屋敷へ案内した。
今日は天気が良いので、庭に面した部屋のガラス戸を開け放った場所にお茶の用意をしている。
白磁のカップに紅茶を注ぎ、屋敷の料理人が腕を振るった菓子もテーブルを彩っている。
それを味わいながらお喋りを楽しんだ後、二人で庭を歩いて見て回ることにした。
「綺麗なお庭ですね。特に、この白い花が多いのですね」
「私の好きな花なんです」
以前は花よりも緑が多かった庭だが、最近は白い花に彩られている。
シャーロットが思い入れのある花だと知ったレジナルドが、手配をして庭に植えられるようになったのだ。
それを知った時、シャーロットはとても嬉しかった。
時々庭師に頼んで一緒に手入れをすることが楽しみでもある。
もう少しして冬が来ればしばらく見られなくなるが、来年にはきっと今以上にたくさん咲くだろう。
「明るくなられたようで、安心しました」
庭を歩きながら、不意にイレインが零した。
案内をするために半歩先を歩いていたシャーロットは、少しだけ振り返ると、イレインの優し気な表情と視線が合った。
「あの時は本当にありがとうございました」
「お気になさらないでください。シャーロット様が笑顔になられて良かったです」
イレインは深く聞くことはなかった。
そんな気遣いがシャーロットにはとても嬉しかった。
「あ、あの……。何度もイレイン様を頼ってばかりで申し訳ないのですが……」
シャーロットは体の前で重ねていた手を握り合わせると、意を決して口を開いた。
少し言い辛そうに言葉を紡ぐシャーロットに、イレインが不思議そうに首を傾げる。
「イレイン様に教えていただきたいことが……」
「私にできることでしたら」
イレインは頷いてシャーロットの言葉に耳を傾けた。
けれど、その内容は予想もしていなかったことで、凛とした表情が少し驚いた風に変化した。
二人が屋敷に戻ってきたのはそれからしばらくしてからで、庭を見て回るには長かったことにデボラが少し気を揉んだ様子で待っていた。
「今日はお招きいただきありがとうございました。今度、またうちへも遊びにいらしてくださいね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
イレインは馬車に乗ろうとして、一瞬足を止めて振り返った。
「シャーロット様」
「はい」
名を呼ばれてシャーロットは顔を上げた。
イレインは踵を返すと、シャーロットの耳元にこっそりと告げた。
「あまり頑張りすぎないで良いと思いますよ。お気持ちのままになされば良いのです」
イレインの言葉を受けて、シャーロットの頬がわずかに赤らむ。
小さな返事はイレインの耳にもきちんと届いたようで、微笑んで馬車へと乗り込んでいった。
レジナルドはシャーロットが望まない限り、肌を重ねようとはしないだろう。
けれどシャーロットには、世の中の他の夫婦がどんな風に過ごしているのか分からなかった。
だから、教えてもらうしかないと考えた。
「――まだ起きていたのか。先に休んでいてかまわない」
帰宅したレジナルドは、寝室で起きて待っていたシャーロットを見て声をかけながら、額に軽く口づけを落とした。
微かに触れる温もりは、家族に対する愛情のように穏やかなものだ。
唇はすぐに離れ、レジナルドはいつものように休むことを促した。
シャーロットは離れていく温もりを視線で追いながら、けれど体が動かず気が焦るだけだった。
意を決してようやくできたのは、レジナルドの夜着をつかんでわずかに身を預けることだけだった。
「シャーロット?」
シャーロットの性格を知っているレジナルドは、めったに変わることのない表情を驚いたように少し固まらせた。
シャーロットはレジナルドの胸に頭を傾け、広い背中にほんの少しだけ手を伸ばした。
それだけでも、シャーロットにとっては非常に勇気のいる行動だった。
昼間、イレインに尋ねたことは。
妻として夜にどう夫の気を引けば良いのか、ということだった。
けれど教えてもらったことは結局恥ずかしくてできなかった。
だが、イレインがそれを見越して指南書通りに教えたことを、シャーロットは知らない。
「無理をしなくても良い」
レジナルドは少し躊躇したように手を一瞬彷徨わせて、そっとシャーロットの手を取った。
微かに震えている指先を見つめて、それ以上触れようとはしなかった。
気遣う声音に、シャーロットは俯いたまま頭を横に振った。
無理をしているわけではない。
手が震えているのは不安ではなく、ただ恥ずかしいだけだ。
「旦那様と一緒にいたいです……」
小さな声で思いを告げた。
その瞬間、レジナルドの腕に抱きしめられる。
少し苦しいくらいの力に、体温がとても近く感じられた。
温もりがなんだか懐かしくて、シャーロットも背に手を回して抱き返した。
「良いのか? 急ぐ必要はない。おまえが望むまで、無理に子を成さなくても良い」
「いえ……。私も、クリストファーに弟や妹を作ってあげたいので……」
シャーロットは弟が生まれた時とても嬉しかったことを今でも覚えている。
小さな弟が可愛くてどこへ行くにも連れて行った。
子は授かりものだが、クリストファーにも弟や妹がいると良いんじゃないかなと思った。
「おまえは、いつもクリストファーばかりだな」
「え?」
頭上から聞こえてきた声が、いつもより少し柔らかい苦笑混じりのように聞こえて、シャーロットは顔を上げた。
「少し妬けるな」
そう言うレジナルドの表情は言葉とは裏腹に甘やかで、触れた口づけはとても優しかった。
その夜、何度も経験した行為なはずなのに、初めて体を重ねたときよりもシャーロットは気恥ずかしさを感じた。
そして、幸せで涙が出ると言うことを、初めて知った。