夫婦(1)
泣く声に気づき、揺りかごの中を覗く。
小さな体を抱き上げると、腕の温もりに安心したのか泣き声が少し和らいだ。
「よしよし……。いい子ね」
シャーロットは赤ん坊の背を優しく撫でた。
「さっきおしめは替えたから、お腹が空いたのかしら?」
まだ言葉も分からないだろうが、そう尋ねるとまるで理解したかのように、シャーロットと同じ緑色の瞳が上を向いた。
シャーロットはその顔を見て笑いかける。
乳母を呼び寄せ、お腹が空いているみたいと告げて赤ん坊を託した。
シャーロットから乳が出ることは当然ない。
しかし、貴族の女性は授乳で胸の形が崩れることを厭って乳母を雇うことが多いため、訝しがられることはなかった。
乳母から乳を貰って、すくすくと育っている。
少し前に、姫君は秘密裏に子供を生んで祖国へと戻った。
生まれた赤ん坊は男児で、クリストファーと名付けられた。
瞳はシャーロットと同じ緑色で、髪は明るめの薄茶色をしている。
父親であるレジナルドは金色の髪なので、ちょうどシャーロットの栗色との中間のような色合いで、傍から見ればシャーロットとよく似ていると思われるだろう。
髪と目の色が同じという理由だけで身代わりにされたシャーロットだが、生まれたばかりの赤ん坊を渡された日のことを今でもよく覚えている。
腕に抱いた重みに、小さかった弟のことを思い出した。
シャーロットには、生まれて一年もたたずに、両親と一緒に事故で死んでしまった弟がいた。
小さいけれど腕一杯の温もりを抱いて、今はもう亡き家族といた頃の幸せが蘇って涙が滲んだあの日を忘れることができない。
シャーロットも幼いころには他の少女たちと同じように、結婚に夢を見ていたこともあった。
愛する人と温かい家庭を築きたいと。
けど生まれた国でもこの国でも、結婚相手は親が決めたり、本人の望む相手でないことも多い。
だからシャーロットもこれが不本意な結婚ながらも、受け入れる以外なかった。
身代わりの立場として、愛し愛される結婚生活は叶わないだろうけど、我が子のように思ってクリストファーを大切に育てる人生を送りたい。
幼くして死んでしまった弟の分まで愛そうと、シャーロットは心に決めた。
誰にも心の内を開けないこの国で、クリストファーだけがシャーロットの心のより所だった。
乳母から乳を貰い終わったクリストファーは、再びシャーロットの腕に戻された。
お腹を満たして機嫌が良さそうな様子を見て微笑む。
「クリストファー。お腹がいっぱいになって良かったわね」
背中を優しくとんとんと叩く。
屋敷の使用人たちは事情を知らなので、子守りに任せっきりにしないでよく面倒を見るシャーロットを、子煩悩な母親だと思っている。
「奥様は、坊ちゃまが可愛くて仕方がないご様子ですねえ」
だから、シャーロットはその言葉に静かに微笑んだ。
レジナルドが帰宅したという報せを受け、シャーロットは玄関へと向かった。
二階から階段下に目を向けて、広い玄関の中央で外套を羽織った後ろ姿を見つける。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ」
出迎えたシャーロットに、レジナルドは切れ長の目を向けて短く返事をした。
すぐに視線は家令へと向き直り一日の報告を受ける。
レジナルドは仕事が忙しく、屋敷にいることは少ない。
それでも毎日帰宅はするのだが、時間帯が遅いことがほとんどだった。
屋敷に立ち寄ってから再び出ることも多い。
家令から手短に報告を聞いている様子を見ると、今日もまた出かけるのだろう。
そう思いながら、シャーロットはどこか蚊帳の外のように少し離れたところで佇んでいた。
シャーロットがレジナルドの妻となってしばらくが過ぎた。
けれど、いまだにシャーロットはレジナルドのことをほとんど知らない。
レジナルドが屋敷にいることがあまりないから、そもそも知る機会がなかった。
唯一言えることといえば、この生活はシャーロットが思っていたほど悲惨ではなかったことだ。
レジナルドは貴族らしい人物だった。
愛していない女を妻に立てたが、だからといって無下にすることはなかった。
屋敷内ではシャーロットの女主人としての立場を保障し、それに相応しい待遇を与えた。
政略結婚の多くと何も変わらないだろう。
はた目には、普通の家族にしか見えないはずだ。
貴族の妻としての立場は、何の心配もいらず恵まれた環境だとシャーロットには思えた。
それでも、シャーロットにとってレジナルドは夫というより、屋敷の主人という風だった。
使用人達と同じ程度にしか、関りが少ないからだろうか。
心の中で人知れずため息を吐く。
「――慣れたか?」
突然耳に入ってきた声に、シャーロットは自分に言われている言葉だと一瞬分からなかった。
だが、レジナルドの視線が向いていることに気づいて、やっと自分に問われているのだと理解した。
「クリストファーのことだ。よく面倒を見ていると聞いている」
「あ……、いえ……」
屋敷内のことは家令が把握して、全て主であるレジナルドへ報告される。
だが、それを気に留めていたとはシャーロットは思っていなかった。
貴族の男性は子供に直接関わることはあまりない。
貴族社会では、子供は専門の使用人が世話をすることが一般的だ。
シャーロットが見てきた貴族の家庭もそうだったので、レジナルドも同じだと思っていた。
「これからも頼む」
そう言うと、レジナルドは再び外出するらしく侍従を伴って出て行った。
その背をシャーロットはしばらく見つめていた。
ふと、思った。
レジナルドと会話らしい会話をしたのは、これが初めてかもしれないと。