永遠の花
庭の芝生に靴先を下ろすと、しばらく寝台に伏せっていたせいか、少し足元がふらついた。
「奥様、大丈夫でございますか……っ」
それを見たデボラが慌てて駆け寄る。
ほんの少しふらついただけだったが、今にも寝台に連れ戻されそうなほどの心配ぶりだった。
「やはり、もう少し休んでいた方がよろしいのでは……?」
「庭を歩くだけですから、大丈夫です」
あまりに心配するデボラに、シャーロットは今日何度目かの大丈夫という言葉を繰り返した。
デボラはあの件でシャーロットに避妊薬を渡し続けていたことに自責の念を抱いたらしく、そのせいもあってか以前の無表情さが嘘のように心配性になってしまった。
シャーロットもまた、デボラに避妊薬を取り寄せること頼んでいたことと、倒れたことで心配させてしまったことを申し訳なく思い謝り、今の二人はかけがえのない同郷同士として支えあっている。
心配していた避妊薬の悪影響もなく、しばらくの間休養して過ごしたシャーロットは、久しぶりに庭へ出ることができた。
「お母様、こっちだよ!」
「今行くわ、クリストファー」
先に庭に出ていたクリストファーが、手を振ってシャーロットを呼ぶ。
クリストファーとこうして外に出ることも久しぶりで、シャーロットは頬を緩めた。
「シャーロット」
「旦那様」
側からレジナルドがシャーロットの手を取った。
長い指先が指の間を通り、包むように握りしめて力強く支える。
デボラに見送られて、シャーロットはレジナルドに添われながら庭に下りた。
「おまえと一緒にいられることが、よほど嬉しいようだな」
はしゃぐクリストファーの様子に、レジナルドがそう零した。
伏せっていた間、クリストファーはずっと心配して泣いていたと、シャーロットは後から知った。
ようやくシャーロットが目を覚まして寝台の上で体を起こせるくらいに回復してからは、側にくっついてなかなか離れようとせず、子守りを困らせていた。
まだ幼いクリストファーを悲しませてしまったことに、二度と不安な思いはさせないとシャーロットは心に誓った。
「大丈夫か?」
「はい、もう平気です」
「あまり無理はするな」
レジナルドは握る手に少し力を込めて、シャーロットを引き寄せる。
あれ以来、レジナルドもシャーロットのことを気にかけることが増えた。
「あの、旦那様……」
「どうした?」
「大旦那様方のことは、大丈夫なのでしょうか……?」
「おまえは何も気にしなくて良い」
あの日以降、シャーロットは侯爵夫妻と会っていない。
この屋敷に訪れた気配もなく、あの話はどうなったのだろうかと思っていた。
気にしなくて良いと言われてもやはり気になる。
そんなシャーロットの気持ちを感じたのか、レジナルドは一瞬だけ視線を向けて、あまり気が進まない様子で静かに口を開いた。
「決して離縁はしないと伝えた。簡単にはいかないだろうが、私も引くつもりはない」
レジナルドはこれまで嫡男としての責任感から、当主である侯爵の言い分には従っていた。
だが、このまま全てに従えば一生彼らの意のままで、それはいずれ息子であるクリストファーにも影響するだろう。
自分がこれまで諦めてきたことを、クリストファーにも味わわせたくないと思った。
しかし当然のことながら、侯爵夫妻との話はまだ解決してはいない。
「いざとなれば、縁を切ればいい」
「えっ……」
「そうなれば、おまえとクリストファーを連れてどこかへ逃げようか。お前たちがいれば私は他に何もいらない」
レジナルドの言葉に、シャーロットは驚いて目を丸くする。
そんな様子を見て、レジナルドは微かに苦笑を零した。
「冗談だ。おまえに苦労をかけるわけにはいかない」
レジナルドが冗談を言うなどあまりに彼らしくなくて、シャーロットは丸くさせた目をぱちぱちと瞬かせた。
もしもこの場に従兄弟のフレデリックがいれば、彼もまた初めて見る従兄弟のそんな姿に驚くだろうが、残念ながらこの場にはいないのでシャーロットがそれを知ることはなかった。
「苦労なんて……私にできることでしたら何だっていたします。針仕事も、下働きだって何でもできますから」
レジナルドが侯爵家と縁を切るなど現実的ではなく、そんなことになって欲しくはないが、もしも本当にどこかへ逃げることになれば支えたいとシャーロットは思った。
侍女として働いていたこともあり、雑用をしていた頃もあるのだから、何でもできる自信はあった。
だがそう言うと、レジナルドは驚いたような表情を浮かべ、先ほどとは違い困惑したように苦笑いを零した。
「尚更、おまえに苦労させるわけにはいかない。逃げれば悪く言われる口実を生むだけだ。必ず説得してみせる」
レジナルドは握っていない方の手をそっと伸ばすと、シャーロットの頬を優しく撫でた。
「幸せにすると約束する。これまでおまえを苦しめてきた分も、取り戻さなければならないからな」
手の平が頬を包み込み、シャーロットはくすぐったい気分になった。
だが、レジナルドの言葉に、何か思い違いをされていると感じた。
避妊薬を飲んでいたことの誤解は解けたはずだが、きっとレジナルドはシャーロットが身代わりという責務だけで苦しんで過ごしていたと思っている。
触れる手の温かさを感じながら、シャーロットが口を開こうとしたとき。
「お母様、お父様!」
先を歩いていたクリストファーが呼ぶ声がした。
シャーロットは開きかけた口を閉じて、レジナルドと一緒にそちらへ視線を向けた。
クリストファーが見せたいものがあると言って連れてきたのは庭の隅で、何があるのだろうと思っていたシャーロットに、クリストファーは芝生の中を指さす。
それを見てシャーロットは目を見開いた。
「ほら、このお花!」
そこに咲いていたのは白く可憐な花だった。
青々とした芝生の中にいくつか白い花が転々と咲いている。
珍しい花ではないので、きっとどこからか種が飛んできて咲いたのだろう。
その花を見たレジナルドは、少し考えて思い出したように頷いた。
「これは、おまえがまだ小さいときに出かけた森にも咲いていた花だな。覚えていたのか?」
レジナルドは見覚えのある白い花に、クリストファーが幼かったころに連れて行った森で見た光景を覚えていたのだろうかと尋ねた。
「ううん。お母様の部屋で見たよ」
しかし、クリストファーは首を横に振った。
「ぼく知ってるよ。栞っていうんだって。お母様、このお花を大事にしているの」
この花を見つけて教えたらきっと喜ぶと思ったのだろうクリストファーは、満面の笑みでそう言った。
クリストファーのその言葉を聞いたレジナルドは、驚いた様子でシャーロットを振り返る。
初めて遠出をしたあの日。
花を貰ったことが嬉しくて、押し花にした栞を自室で本を読む時だけに使っていた。
こっそりと大事に持っていた気持ちを知られて、シャーロットの頬は真っ赤に染まっていた。
それから、庭が徐々に白い花で彩られるようになり、賑やかになっていくのは、もう少し先の話――。
最初はレジナルドがひどかったので読んでもらえるか心配でしたが、たくさんの人に読んでいただき、ありがとうございました!
その後の話もいつか書きたいので、その時はまたよろしくお願いします。