離縁(2)
明日、ここを出ようと、シャーロットは考えた。
別れの言葉はきっと耐えられないから、誰にも告げることなく。
侯爵夫妻に渡されたお金は置いていくつもりだ。
この屋敷で過ごしてきた月日を、対価を得るものだったとは思いたくなかった。
それに、お金などあってもなくても行くところなどないのだ。
けれどもここが自分の居場所でないことだけは分かっている。
いつもより長くクリストファーの寝顔を見続けてから、静かに自室へと戻った。
今夜が最後だと思うと、入浴もすませて温かかったはずの体が急速に冷えるような震えを感じた。
それを抑えるように、自分の両腕を抱きしめる。
部屋の中を見渡して、隅にあるチェストの前へ向かった。
そっと引き出しを開き、小箱を取り出す。
初めてレジナルドの寝室を訪ねたあの夜から、毎日飲んできた避妊薬を見つめた。
愛されない身で生んだ子供では、レジナルドに愛されないかもしれないと恐れて、飲み続けてきた。
けれど、これを飲まないで抱かれてもし子供を宿せば、離縁されても独りにはならないかもしれない。
一瞬そんなことが頭を過ぎりながらも、無責任な真似はできず、静かに中身を手に取った。
側にあった水差しからグラスに水を注ぎ、薬を口に運ぼうと手を動かす。
しかし、不意に自分の手元が二重に揺れて見えた。
「ぁ……」
視界がかすんで、思わず眉根を寄せて目を細める。
手元だけではなく、床も二重に見えるようだった。
足元がふらつき、何かに寄りかかろうと手を動かす。
けれど力が入らず糸の切れた人形のように均衡を失い、上げた手が空しく宙を切った。
持っていたグラスが手の中から離れて落ちる。
割れる高い音が響き渡った。
隣にもその音は届き、寝室にいたレジナルドは眉をひそめた。
中をつないでいる扉を開いて隣室へ入る。
「シャーロット?」
その瞬間、レジナルドの視界に映ったのは、床に倒れているシャーロットの姿だった。
目を見開いて、急いで駆け寄る。
「おい! どうした!」
背中に手を回して抱き起こすが、シャーロットは目を閉じたまま青白い顔色をしていた。
割れる音を聞いたのだろうデボラも駆けつけ、倒れているシャーロットの姿を見て悲鳴を上げた。
「奥様……!!」
「急いで医者を呼べ!」
レジナルドはレボラの後ろにいた家令に指示を出し、シャーロットを寝台に寝かせようと抱きあげた。
力の入らない体を腕に抱いたとき、シャーロットの倒れていた周囲に散らばっている物に気づいた。
「これは何だ……?」
床に落ちるそれは一見して薬だということが分かり、傍らのチェストの上に置かれた小箱の中にも同じ物が入っているのを見て、レジナルドは眉を寄せる。
その瞬間、シャーロットの侍女であるデボラの顔色が変わったことを、レジナルドは見逃さなかった。
「何か知っているのか?」
「い、いいえ……」
問い詰めるレジナルドに、デボラは真っ青な顔をしながら首を横に振る。
しかし、徐々に悪くなっていく顔色と、動揺している様子に何かを隠していることは明らかだった。
この屋敷の主人であるレジナルドの前で隠し事をするということは、主人を欺くことと同じでもあり、罰を与えられることもある。
「これは何の薬だ。どこか悪いのか?」
頑なに口を閉ざそうとするデボラに、レジナルドが厳しい声音で問いただす。
それでも口を結んでいたが、厳しい声で詰め寄られて、デボラは青ざめた顔で全てを白状した。
だがそれは、レジナルドが予想すらしていなかったものだった。
「避妊薬だと……?」
デボラが伝えたその薬にレジナルドは驚愕する。
「なぜそんなものを持っている!? これは体を害する恐れもあるのだぞ! それを分かっていて渡したというのか!」
レジナルドの責める声が部屋に響き渡る。
その声に身を縮めながら、デボラは震える声で続けた。
「本人が望んだのです……。子を成さないために、それが欲しいと……」
その言葉に、レジナルドは息を止めた。
婚姻してもうすぐ三年がたつが、一向に子供ができる気配がなかったのは、シャーロットが望んでいなかったからなのか。
言葉を失うレジナルドの背に声がかけられる。
「旦那様。早馬を出しました」
戻ってきた家令が、レジナルドとデボラに交互に視線を向けながら、やや狼狽した声で報告をした。
レジナルドは黙って頷き、シャーロットの体を抱え上げて寝台に寝かせた。
「旦那様……。実は、昼間に大旦那様がいらしていました」
「何だと? なぜ今まで報告をしなかった」
「奥様から、黙っていてほしいと……。申し訳ありません……」
帰宅したときに一日の報告を受けているが、そんな話を聞かされていなかったレジナルドは眉を寄せた。
主人に忠実な家令がそうするほど、シャーロットに頼み込まれたのだろうかと、僅かに青くなっている顔色を見ながら思う。
「何の用事で来ていたんだ?」
「内容までは……。ですがその後、坊ちゃまが奥様に何度も行かないでと言って泣いておられました」
家令の言葉を聞いて、レジナルドは寝台に横たわるシャーロットに視線を向けた。
シャーロットのことを良く思っていない両親がわざわざ来る理由は一つしか思いつかなかった。
けれど、色々なことがありすぎて頭がうまく回らない。
レジナルドにとって、従順ともいえたシャーロットが密かに避妊薬を飲んでいた事実は衝撃的だった。
その上、両親がシャーロットと話しただろうことも、シャーロットが倒れたことも重なり、冷静を保てず混乱する頭を手で押さえた。
レジナルドは寝台の横に座り、目を伏せるシャーロットの横顔を見つめた。
唇からは静かな呼吸の音だけが聞こえる。
シャーロットが倒れた診断は精神的な疲労で、今は医師から休養を言いつけられて眠っている。
「ん……」
呼吸を繰り返すだけだった唇から声が聞こえて、レジナルドは椅子から少し身を浮かして寝台の中を覗き込んだ。
シャーロットの瞳が薄く開き、側に立っているレジナルドに気づく。
「旦那様……?」
「気がついたか」
シャーロットは何度か瞬きをして、自分の状況を理解できていないのか、周囲に視線を動かした。
「水を飲むか?」
レジナルドは側に用意されていた水差しから水を注ぎ、シャーロットの背を支えて起こし、グラスを手渡した。
静かな部屋の中に、水を飲み込む音が響く。
シャーロットはまだ意識をはっきりさせていない様子で、レジナルドに背を支えられたまま手の中のグラスを見つめていた。
レジナルドはその様子を見ながら、中身の残っていないグラスを受け取り、再び寝台に寝かせた。
「シャーロット」
横たえたシャーロットの胸元までシーツを被せながら、レジナルドは一瞬躊躇するように唇を噛みしめてから重く口を開いた。
「責めはしないから、正直に答えて欲しい」
シャーロットがわずかに顔を上げ、レジナルドを見上げる。
その視線にレジナルドも真っ直ぐに見つめ、静かな声で尋ねた。
「なぜ、避妊薬を飲んでいた」