離縁(1)
季節は移り変わり、青く晴れ渡った空から眩しい陽ざしが照りつける。
庭の端でしゃがみ込んでいたクリストファーの背に、子守りの息せき切った声が届いた。
「坊ちゃま……! 一人で行ってはいけませんよ……!」
「良いもの見つけたんだよ」
「良いものですか?」
「うん! お母様に教えてあげる!」
「あ……っ、坊ちゃま!」
クリストファーはすくすくと成長し、最近は一人で活発に動き回ることも多い。
再び走り出したクリストファーに、ようやく追いついたばかりの子守りは、振り回されるように再びその背を追いかけた。
クリストファーは庭から屋敷の中へと駆け込み、廊下を走りながら部屋の中を一つ一つ覗いていく。
子守りが見れば、廊下を走ってはいけないと言うだろうが、その子守りはとっくに撒かれてしまっている。
ようやく目当ての姿を見つけると嬉しそうに駆け寄った。
「お母様!」
背後から体当たりした小さな衝撃に、シャーロットが少し驚いて振り返る。
「クリストファー?」
「まあ、坊ちゃま。お行儀が悪いですよ」
側にいた侍女のデボラが嗜めるが、クリストファーは笑顔でシャーロットの足元にしがみついて離れようとしない。
シャーロットは苦笑を浮かべながら、クリストファーの頭を撫でた。
「どうしたの、クリストファー」
「あのね! お母様に良いものを見せてあげる!」
「何かしら」
クリストファーははしゃいだ様子でシャーロットの手を引っ張った。
最近のクリストファーは、自分の好きな物やお気に入りの物をよく教えてくれる。
前など、冬眠から目覚めた蛙を嬉しそうに捕まえてきて、それを見たデボラに悲鳴を上げさせていた。
今回はそうでなければ良いと思いながら歩き出したシャーロットに、後ろから声がかけられた。
「奥様……」
振り返ると家令の姿があった。
だが、常に冷静な彼にしては珍しく困惑したような表情を浮かべており、シャーロットは何かあったのだろうかと感じた。
「クリストファー、今度連れて行ってね」
「はい」
クリストファーの手をそっと離す。
家令が来客だと告げた人物に、シャーロットは驚いて目を見開いた。
「――今年は参加しないという連絡が来た」
部屋の中に響く低い声音に、シャーロットは緊張で顔を上げることもできずにいた。
正面には、侯爵夫妻が座っている。
レジナルドは日中は屋敷におらず、先触れのない突然の来訪だった。
侯爵が言った言葉の意味を一瞬考えて、前にレジナルドが今年は本家へ行かないと言っていたことだと結びく。
「おまえが誑かしたのだろう」
続いて言われた言葉は、まるで背後から剣で切られたような衝撃だった。
誑かしたなど、そんな真似をしたことは一度もない。
けれどそう言いたくても、自分の言葉を信じてもらえるとは思えず、シャーロットは緊張と恐怖感から一言も発せられなかった。
そんなシャーロットに侯爵夫妻は見下すような冷たい視線を向ける。
「離縁しなさい」
それは、いつしか聞いた言葉だった。
あれは扉越しに偶然聞いてしまったものだけど、今はそれがシャーロットの目の前で言い渡された。
あの日からの一年近く、いつそれが告げられるのだろうかという不安を抱えて過ごしてきたことが現実となった。
言葉を失っているシャーロットの前に、夫人が何かを差し出す。
顔を伏せたまま、シャーロットはテーブルの上のそれを見た。
「これまでよく仕えてくれました。それを持ってどこへ行くなり好きにしなさい」
手切れ金のつもりなのか。
まるで仕事のようだと、シャーロットは思った。
夫婦となって三年近く、これまでのことは対価を貰う仕事だったのだろうかと。
侯爵夫妻はそれで話が終わったと言わんばかりに、シャーロットの言葉を何一つ聞くことなく帰っていった。
シャーロットは見送ることもできず、身動きもせず部屋の中でその言葉を考え続けた。
これまで、侯爵夫妻がシャーロットに離縁の話をすることはなかった。
レジナルドが実行に移さず、本家へ行かないと言ったために、息子に任すのをやめて直接シャーロットに言ってきたのだろうか。
「行くところなんてどこにも……」
お金があったとしても、シャーロットにはここを出てもどこにも行くところはなかった。
家族のいない故郷に帰る場所もあるはずなく、姫君の侍女頭に置いていかれるようにこの国に残されて戻ることもできない。
先の見えない暗闇に立たされたような不安を呟いたとき。
「お母様……」
聞こえてきた声に、シャーロットははっとして振り返った。
扉の陰にクリストファーが一人で立っていた。
「クリストファー? いつから……」
「どこか行くの……?」
シャーロットが椅子から立ち上がって駆け寄ると、クリストファーは泣きだしそうな顔でそう尋ねた。
シャーロットの呟きを聞いたのだろうか。
まだ幼いクリストファーは、普段ならばその言葉だけを聞いたらどこかに出かけるとでも思っただろう。
けれど、幼いからこそシャーロットの不安を敏感に感じ取ったのだろうか、その表情は不安を抱えていた。
シャーロットは胸が締め付けられる痛みを必死に隠しながら、何とか笑みを浮かべた。
「……お父様が側にいてくださるから、何も心配しなくて大丈夫よ」
レジナルドはクリストファーを愛している。
だから何も心配ない。
きっとレジナルドならば、クリストファーにきちんと愛情を注いでくれる女性を選ぶはずだ。
素直なクリストファーは新しい母親にもすぐに懐いて、きっと幸せに過ごすだろう。
「お母様は? お母様も、いっしょ?」
クリストファーの言葉に、シャーロットはすぐに返事をしてあげることができなかった。
みるみるうちにクリストファーの瞳に涙が浮かぶ。
「お母様も一緒じゃないと、いや!」
悲鳴にも似た声が響いた。
クリストファーの頬に涙が幾筋も零れ落ちる。
「ぼくのこと、嫌いになったの?」
シャーロットはクリストファーの小さな体を強く抱きしめて、肩口で何度も首を横に振った。
「そんなことないわ……っ。あなたは、私の大事な子よ」
突然異国の地で生きていくことになり、不安と寂しさで押しつぶされそうだった時、抱いていたクリストファーの小さな手が握ってきた温もりを今でも覚えている。
あの力強い温もりが、シャーロットにこの国で生きていく意味を見出した。
すぐに天に召されてしまった弟を重ねて、あの子が生きられなかった分まで大切に育てようと思った。
けれど小さかった弟よりも背が伸びて、言葉を覚え、母と呼んでくれるようになり、いつしか弟を重ねるのではなく、その成長を楽しみにするようになった。
「坊や。私の大事な坊や……。愛してるわ……」
たとえ血はつながらなくても、シャーロットにとってクリストファーはかけがえのない存在だった。
できることならば、このままクリストファーの母親でいたかった。
母親代わりではなくて。
そして。
形だけの妻でもなく。
本当は、身代わりではなくて。
誰でもない。
自分でいたかった――。