祈り
翌朝、シャーロットはレジナルドの私室の扉をノックした。
「旦那様……、少しだけお時間をよろしいでしょうか……?」
緊張を含んだ声を扉越しにかけると、すぐに中から開いてレジナルドが姿を現した。
レジナルドはシャーロットを見ると僅かに目を細め、室内へ招き入れて長椅子に座らせると、自身もその隣に腰を下ろした。
「体調は大丈夫なのか?」
「はい……。昨夜は申し訳ございませんでした……」
「いや。まだ、顔色が良くないな」
レジナルドはシャーロットの顔を覗き込むと、あまり血色の良くない頬を手の平で包み、心配を含んだ声でそう言った。
その気遣いに、シャーロットは心苦しくなる。
昨夜は泣いた跡を見せられなくて、体調が悪いと偽って自室で休んだ。
毎晩同じ寝室で眠っていたので、久しぶりに一人で眠る寝台は広く感じ、冷たいシーツの感触に心細くなった。
嘘をついてしまったことも、初めてレジナルドに背いてしまったことも、シャーロットの心を苛ませた。
せめて、レジナルドが屋敷を出る前に昨夜のことを謝罪したかった。
「無理はするな。今日は何もせず休んでいろ」
「ありがとうございます」
レジナルドの気遣いに申し訳なさを感じながら小さく頷く。
二人の間で言葉が途切れたが、レジナルドの手はシャーロットの頬に触れたまま離れなかった。
伝わる温度が、どこか落ち着かない気分にさせる。
「あ……。朝からお時間を取ってしまい申し訳ございません……」
仕事に出る前に引き留めてしまったことを詫び、シャーロットはそっとその手から身を離した。
だが、立ち上がろうとしたとき、シャーロットの手をレジナルドが握った。
ほんの少し体を長椅子から浮き上がらせていたシャーロットは、その手とレジナルドの顔に交互に視線を向ける。
「旦那様……?」
どうしたのだろうか、そんな疑問でレジナルドを見れば、真っ直ぐにシャーロットを見つめていた。
レジナルドの手がわずかに力を強める。
「今年は行かないことにする」
「え?」
「本家だ」
その言葉の意味をシャーロットが理解するのに、少しの時間を必要とした。
けれど、語句の意味を分かってもその意図が理解できず、表情に動揺が浮かぶ。
「ですが……」
行かなければ侯爵夫妻から叱責されるのではないだろうか、そんな心配にシャーロットが視線を揺らしたとき、重ねられていた手をいきなり引き寄せられた。
気がついたときには、レジナルドの腕の中にきつく抱きしめられていた。
突然のことに驚いているシャーロットの耳元に、レジナルドが近づく。
「そんな風に……」
シャーロットの耳元に唇を寄せてそう囁いたそのとき。
「――旦那様、馬車のご用意ができました」
扉の向こうから従者の声が聞こえて、シャーロットは腕の中でびくりと体を震わせた。
きっと主がいつもの時間に出てこないので呼びに来たのだろう。
レジナルドも扉の方を振り返っていた。
「ご出発されませんと……」
時間に遅れてしまうことを心配したシャーロットは、レジナルドの腕の中から身を動かすと、両手でその胸をそっと押して離れた。
だが、レジナルドは一瞬眉根を寄せると、離れたシャーロットを再び引き戻して、言葉を遮るように唇を重ねた。
「んっ……」
急に唇を塞がれたシャーロットは驚いて反射的に身じろぐが、レジナルドの腕が背を押さえてさらに口づけが深くなる。
背が軋むほどの力強さを感じて、これまでレジナルドがこんな風に荒々しい真似をすることは一度もなかったため、シャーロットは驚きと困惑に包まれた。
くらりと眩暈にも似た感覚に襲われて、隙間もないほど密着した腕の中へ崩れ込むと、レジナルドはようやく唇を離してその体を支えた。
力なく寄りかかっているシャーロットを抱き寄せ、顔だけを扉の方へ向ける。
「下で待っていろ」
扉にそう言葉を投げると、向こう側から従者の了承する声が聞こえて気配が消えた。
シャーロットはその様子を、レジナルドの腕の中で茫然と聞いていた。
真面目で時間に厳しいレジナルドは、遅刻や予定外のことで時間を乱すことを嫌う。
それなのに、なぜ従者だけを先に行かせたのだろうかと疑問に感じながら顔を上げると、レジナルドのまっすぐに見つめる瞳と目が合った。
そっと指先がシャーロットの頤を持ち上げる
「ぁ……」
先ほどのような荒々しさはなく、ゆっくりと引き寄せた。
どこか神聖な誓いにも似た触れ方だった。
性急ではなかったのでシャーロットでも十分にかわせる時間はあったが、不思議と体が動かずそうしなかった。
ただ、出発の時間がと、どこかこの状況に不釣合いのことを思ったけれど、次第にそれも頭から遠ざかっていく。
レジナルドの手がシャーロットを引き寄せ、角度を変えて何度も啄む。
骨ばった指が頤から顔の輪郭へと動き、耳元へと滑るように触れた。
そのまま頭の形をなぞるように髪を撫でる仕草に、体の力が抜けていくような感覚をシャーロットは覚えた。
どれだけの時間をそうしていただろうか、きっと長くはないだろうが永遠にも感じられるようだった。
ゆっくりと唇が離れて二つの吐息が混ざり合う。
レジナルドが指でシャーロットの口端をなぞると、俯いている頬がいっそう赤く染まり、伏せた睫毛が震えた。
まっすぐに見つめたまま耳元で囁く。
「本家へは行かない。何も心配するな」
鋭角な鼻先がシャーロットの頬をかすめ、声が低く木霊する。
シャーロットは見上げることもできず、目を閉じてその言葉をただ聞いていた。
視界は閉じているはずなのに、微かに触れる鼻の形や、髪を滑る手の形がはっきりと分かるようだった。
シャーロットは自室に戻ると、扉の前で床に座り込んだ。
体に力が入らず、姿勢を支えることもできなくて、閉めたばかりの扉に背を預ける。
自分の熱い顔を両手で押さえた。
まだ感触が残っている。
レジナルドが触れたところの一つ一つが、その形を覚えている。
頬を押さえていた手をゆっくりと下げ、自分の唇に触れた。
「どうして……」
あの口づけの意味は何だったのだろう。
口づけは何度もしたことがあるが、あんな風にされたのは初めてだった。
まるで、必要とされていると、そう勘違いしてしまいそうになる触れ方だった。
けれどすぐに自分の思い上がりを振り払う。
レジナルドの言葉を頭の中で反芻した。
なぜ、本家へ行かないと言ったのだろうか。
レジナルドはそれだけしか告げず、心配するなと言った。
その言葉を聞いて、シャーロットは心の荷が少しだけ下りた気がした。
けれどもその安堵は一瞬のもので、今年は侯爵夫妻と顔を合わせずにすむとしても次の年もある。
レジナルドは本家へ行かないと言ったが、離縁しないと言ったわけではない。
あの日、シャーロットが離縁の話を聞いていたことを知らないのだから、そのことに触れないのは当然だ。
それでも、レジナルドの言葉はシャーロットの心を安心させた。
心配するなと、まるで心を砕くような言葉をかけてもらえるだけで、嬉しいと感じた。
どうか、どうか、と祈る。
もう少しだけ、この日々が続くことを。
どうか――……。