自覚と涙
「フレデリック」
店の扉を開けて入ってきた姿を見て、レジナルドは片手を軽く上げて示した。
それに気づいたフレデリックは向かいの席へと腰を下ろし、給仕に飲み物を注文する。
「今日はゆっくりできるのか? うちで夕食でもどうだ」
「いや、今日中に領地へ戻らないといけない。今度おまえの息子に土産を持ってから遊びに行くよ。奥方は元気にしているか?」
「ああ。今日は、友人の家へ招かれている」
「そうか。よろしく伝えておいてくれ」
フレデリックは普段は領地に居を構えているが、今日は仕事の都合で出てきていた。
飲み物が運ばれてくると一瞬会話が途切れ、一口飲んでからフレデリックは重々しい声で尋ねた。
「当主からは、まだ離縁を促されているのか……?」
「ああ……。勝手なことを言ってくれる……」
レジナルドは珍しく露骨に表情を歪めた。
去年の本家でのことを思い出して、深いため息をつく。
帰るときに侯爵夫妻がシャーロットへ取った態度は特にひどかった。
その前の年も決して対応が良かったとは言い切れないが、直前に離縁の話が出たこともあり、侯爵夫妻の中ではすでにシャーロットは侯爵家の人間には含んでいないつもりだったのだろう。
あの後、シャーロットの怯えたように震えていた姿を思い出す。
あれほど縋ることをしなかった彼女が、自ら手を伸ばしてきたことには少し驚いた。
無意識だったのだろうが、自分から身を寄せてきたことは初めてだった。
その夜は一晩中抱きしめてもシャーロットの震えが収まることはなく、あの日以来どこか沈んだ様子が続いていることがレジナルドには気がかりだった。
侯爵夫妻は一度決めたことを変えないので、よっぽどの理由がない限り離縁の話は消えないはずだ。
また本家であんな態度を取られるのならば、今年は行かないでおこうかと、そんなことを考える。
「子ができれば状況も変わるだろうが……」
レジナルドはそう呟いた。
それを聞いたフレデリックが、目を丸くさせて驚く。
「おまえが、彼女との間に子を望んでいたとは思わなかった……」
零れ落ちるようなフレデリックのその言葉の意味が分からず、レジナルドは眉をしかめた。
だが逆に、心配と戸惑いを含んだような表情を返される。
「侯爵の命令に逆らうつもりなのか……?」
命令に逆らう。
そう言われて初めて、レジナルドは自分がシャーロットと離縁する考えがなかったことに気づいた。
当主の考えが絶対の侯爵家の中で、命令に従わないことは家を裏切ることに等しい。
従兄弟であるフレデリックはそれを分かっているからこそ、レジナルドの言葉に驚いていた。
レジナルドは当主の尊大な考え方を嫌悪しているが、侯爵家の嫡男としての義務感は強く、これまで当主の意思に背くことはなかった。
唯一、立場を忘れて感情のままに動いてしまったのが、あのときだ。
「だから、あの方のときは諦めたんじゃないのか?」
フレデリックの言う人物を思い出す。
異国の姫君。
立場を忘れて恋に落ちてしまったために、許されない関係を持って子ができた。
結局は互いに立場を捨てることはできず、引き裂かれる苦しみを味わっても別れを選ぶしかなかったのだ。
だから二度と余計な感情は持たないよう心に決めた。
けれど。
いつからだったのだろうか。
控えめに笑うシャーロットの姿が、レジナルドの脳裏を過ぎる。
姫君のときのような燃え盛るような熱さはなかったけれども。
夜中にクリストファーをあやしていた姿や。
穏やかに笑う仕草に。
温かな気持ちになっていたことを思い出す。
燃えるようでなくても、陽だまりのような温かさだった。
そんなささやかな日々を過ごす中で、レジナルドの中でいつの間にか大きな存在になっていた。
「――シャーロット様?」
凛とした声音に呼ばれてはっとする。
顔を上げれば、イレインが心配そうな表情を浮かべていた。
「も、申し訳ございません……」
シャーロットは慌てて謝罪をした。
今日はお茶に誘われてイレインの屋敷に訪れていたのに、意識を他に向けてしまうなど失礼なことだ。
俯くシャーロットにイレインは責めることはなく、気遣うような視線を向けた。
「……何か、悩みごとでもおありなのですか?」
シャーロットの肩がわずかに震える。
離縁されてしまうなど、言えるはずがない。
それ以前に、クリストファーの出自もレジナルドの妻になった経緯も、決して他言してはならないと姫君の侍女頭にきつく言いつけられているので、この事実を話すわけにもいかず俯いたまま弱々しく頭を横に振った。
「いえ……」
「ですが、とても苦しそうですよ……」
イレインの言葉に、胸がまるで縛られたかのように息苦しくなる。
いや、本当はもっと前から苦しかった。
日に日に募る不安は、心の内を隙間がないほどに埋め尽くしていって、息もできないようだった。
「私では、お力にはなれないでしょうが、話を聞くことでしたらできますよ」
「っ……」
その気遣いに無意識に喉がしゃくりあげ、まるでそれは悲鳴にも似た音だった。
誰にも相談できず、頼る相手もおらず、自分の心の奥底だけにしまっておくにはもう限界だった。
イレインの言葉に、我慢していた弱音が零れる。
「……恐いのです……」
こんなことを言っても、イレインにはきっと何のことだか分からず困らせてしまうだけだろう。
けれど、イレインはシャーロットがか細く零す言葉に静かに耳を傾けてくれた。
「幸せだったから……。こんな……幸せを知らなければ、恐さもきっと分からなかったのに……」
これまでの日々をシャーロットは思い返した。
クリストファーが大好きだと言ってくれたこと。
レジナルドから花を貰ったことも。
嬉しくて、幸せだと思ってしまったから、愚かにも自分の立場を忘れてしまった。
身代わりなのに。
これほどにも苦しいのは、立場を忘れて欲張ってしまった罪だろうか。
まるで懺悔するかのように、シャーロットの両目からは苦しみが零れ落ちた。
「シャーロット様……」
シャーロットは両手で顔を覆い、心配そうに肩を支えるイレインに寄りかかって嗚咽を零した。
少しして迎えに来たデボラは、シャーロットの目元を見てすぐに気づいて眉を寄せた。
「奥様」
気遣うイレインにデボラは礼をしてシャーロットの体を支える。
赤く腫れた目元を隠すように俯いた拍子に足元が不安定に揺れて、デボラがその手に力を込めた。
「旦那様がご心配いたします」
「申し訳ありません、ご迷惑をかけて……」
「奥様……」
弱々しい声音のシャーロットにデボラはわずかに言葉を言いかけたが、それ以上は何も言わず、帰ったら冷やしましょうと小さな声をかけて馬車へと向かった。
その夜、シャーロットは初めて寝室へ行かずレジナルドを避けた――。