「降りて下さい」
ペクタは頭を下げた。
ハチミツ屋の店員への恋心を指摘された日。
その場は何とかしのいだペクタだったが、その日からザメリはプレッシャーをかけ始めた。
ハチミツの瓶を頭に乗せ、無言でペクタを見続けたのだ。
無言と言っても、常に黙っていたわけではない。
会話は普通にこなす。
ちょっとした冗談では笑う。
しかし、その時も常に頭にはハチミツの瓶が乗り、会話がない時間、何をするでもなく、彼はペクタを見続けた。
朝起きてから夜寝るまで。
一日中。
家の中だけではなく、人通りの多い場所に出かける際も、ザメリのプレッシャーは続いた。
瓶を頭に乗せ、ペクタを見続けた。
じっと。
じーっと見続けた。
傍目に見れば、それはとても間抜けな光景だっただろう。
しかし、当事者であるペクタにとっては、とてつもないストレスとなった。
ザメリのプレッシャー攻撃が始まって五日が経ったこの日。
ついに耐えきれなくなったペクタは、ザメリに頭を下げた。
「悪かった。嘘吐いていた。ごめん。だからそれやめて!」
朝食の時間だった。
ザメリは師匠の謝罪と懇願を無表情で聞きながら、小鉢に盛られたハチミツをスプーンでかき混ぜる。
「何がですか? 師匠、おれに何か嘘ついているんですか?」
「……それは、あの……ハチミツが」
言葉を選んで喋るペクタ。その姿を目にして何を思ったのか。ザメリは深く息を吐くと、スプーンを持つ手を止め、頭に乗ったハチミツ瓶を下ろした。
「ハチミツ屋の店員に惚れてるんですね?」
真剣な表情で訊ねるザメリに、
「……はい」
ペクタは力なく頷いた。
「胸がときめいたんですね」
「はい」
「うす汚ぇ性欲がたぎったんですね?」
「いや、その言い方はちょっと……」
その返答に納得がいかなかったのだろう。ザメリは再びハチミツ瓶を頭に乗せた。
「え、なんで……」
ペクタが問いかけるが、ザメリは言葉を返さない。
「……あの、じゃなくて」
言葉を返さない。
「ざ、ザメリくん?」
返さない。
「……」
返さない。
「……その通りです」
「ですね」
無言に耐えきれなくなって頷いた師匠に満面の笑みを返し、弟子は頭に乗せたハチミツ瓶を下ろした。
「じゃあ、さっさとフラれてきてください」
「え?」
「師匠ここ最近集中力がないですからね。多分それはハチミツ屋の店員のことを考えているからだと思うんですよ」
「ああ、まあ」
確かにザメリの言うとおりだった。
以前までは脇目も振らず集中していた魔術の研究だが、最近は手が止まってしまうことがある。
ふと思い出してしまうのだ。ハチミツ屋の店員のことを。
そして、途端に彼女の顔を見たくなって、こんなことやっている暇があったらハチミツ屋に行きたくなってしまうのだ。
だから、ザメリの言うことは的を射ている。
射ているが……
「だから、さっさとフラれてきてください」
「なんでそうなる?」
確かにフラれるかもしれない。しかし確定ではない。
こういう時は、告白してきてください、ではないのだろうか。
ペクタがそう訴えると、ザメリは乾いた笑みを見せた。
「自分を知りましょうよ」
「どういうこと?」
「あのハチミツ屋の店員の歳って……大体三〇くらいですよね。師匠、何歳ですか?」
「えー……享年一四歳で、それから三〇六年経っているから……丁度三二〇歳かな」
ペクタの歳を聞いたザメリは「そういうことです」と返した。
「師匠は三〇〇歳を越える……ちょっと言い辛いですけど……老人です」
「ろ、老人!?」
「老人ですよ。大老人と言ってもいい。一般的に八〇歳は老人ですよね」
「……まぁ、そうだね」
「ってことは、その四倍にもなる三二〇歳は大老人ですよね」
「いや……でも……」
老人という言葉にどこか納得のいかないペクタ。
そんな彼に、ザメリは想像してくださいね、と前置きして、一つの質問を口にする。
「師匠は綺麗な若い女性です。モテモテです。そんな師匠の前に、八〇歳を越えた老人が四人、肩車でやってきて『好きです。私たちと付き合って下さい』と言ってきました。さぁ、師匠はどう返します?」
「危ないからまず『降りて下さい』って言うよ」
「それが、師匠が告白した時、ハチミツ屋の店員が返す答えです」
「どういうことだよ! 何だよ降りて下さいって!」
「アンタが言ったんでしょ!」
「アンタってお前――!」
その時、二人の会話に割り込むように、来客を告げる呼び鈴が鳴った。
ザメリはこれ幸いとばかりに玄関に走った。どうやら知り合いだったらしく、玄関で話し込んでいるのが聞こえる。
ザメリが玄関で客人と話し込んでいる間、ペクタは一人考える。
突きつけられた老人という言葉について。
現在まで彼は、自分のことをただの一度も老人だと思ったことはなかった。
しかし、言われてみれば八〇歳は確かに老人だ。
ならば、それを優にこえてしまっている自分も老人ということになるのだろう。
ザメリの言うとおり、大老人なのだろう。
しかし、それをどこか認められない自分がいる。
「大老人……」
口に出してみる。
心なしか、身体が重くなった。
そして、気持ちもだんだん重くなる。
弟子の言うとおり、自分は老人なのだと実感してしまう。
こんな老人が、三〇歳かそこらの娘に告白するというのは、確かに無謀なのだろう。
可能性が高いどころじゃない。
告白は失敗する。
自分は……
「一〇〇%フラれ――」
「そんなことはない」
思わず出た独り言を,その声は否定した。
低く、身体の芯に響く声だった。
声のした方を向くと、そこには一人の男が立っていた。
ペクタのよく知った男だ。
ライノス・ブラッドソード。
サングラスと黒いトレンチコートがトレードマークの五二歳の強面男。
ペクタの前の職場の同僚で、彼が心を許す数少ない友人の一人だ。
どうやら、先ほどの呼び鈴を鳴らした来客は彼のようで、その後ろには少し不満気な表情のザメリがいる。
「老人だから失敗すると思っているのなら安心しろ」
強面の友人はそう言って歩み寄る。ペクタの肩を叩いて頷く。
「お前は老人じゃない」
ザメリに事の次第を聞いていたのだろう。彼は空いている椅子に腰掛けると、ペクタを見据えて言葉を紡ぐ。
「何故なら、死霊魔導師は老人などといった言葉を超越した存在だからだ。例え、老人の定義が第三者から見た姿だとしても、お前を見て老人だと思うものはいない」
「ライノス……」
「思い返してみろ。『日輪ドラム』のザン・ミヌマも『鏖太閤』のドレイクも、お前の師である『虐識舎』のフランシスコも皆、お前よりも高齢だ。だが、彼らは老人とは呼ばれない。死霊魔導師だからだ。そして彼らは自分よりも一〇〇も二〇〇も下の娘を嫁にしているだろう。故に、お前にだって可能性はある」
「ライノス……!」
「安心しろ。胸を張れ『失敗作』ペクタ」
「ライノ……縁起悪いからその二つ名出すのやめてくんない」