お嬢様と悪漢8
「さて、勢い込んで打って出たのはよいのですが、敵の構える場所は分りますか?」
ヘーリアンティアは頭に被った外套の覆いをずらして周りを窺う。
太陽は頂点に近く、大通りから少し離れた場所に在るレアンの屋敷に面した道にもそれなりの人影が有る。裕福な者が多く住む区画らしく、供を連れた身なりの良い者が多い。
彼らは此方に気が付くと一様に表情を凍り付かせて顔を背け、足早に立ち去る。まるで魔獣でも見たかの様な反応だ。良くも悪くも、『金色』という集団は大いに恐れられているのだろう。それともこの男が特別なのか?
黒髪の者自体はさほど珍しくもないが、黒髪黒目かつ衣服まで黒尽くめのレアンは否応なく目を引く。
そのレアンはどういった根拠が有るのか、肩に羽織った黒い外套をなびかせ迷いもなく進んで行く。煙草を咥え、ズボンの衣嚢に手を入れた常と変らぬ格好だ。気を張った素振りも見えない。
振り返ったレアンに視線で促され、慌てて後を追う。
「この方向は……、港に向かうのですか?」
「知らん」
いつもの事ながら、言葉が少な過ぎる。普段も難儀だが、これから戦闘が起こる公算が大きいこの状況で意思の疎通に不自由するのは致命的だ。煩がられても意図を聞くしかない。
「では、何故此方に進むのですか?」
レアンは遥か向こうに視線をやっている様だ。釣られてそちらを見るが、特に何も見えない。
「鈍過ぎる」
「え?」
「此処から二百歩程先で誘っている糞がいるだろう」
信じられない事をさらりと言われる。レアンの身長で二百歩と言えば、所謂一スタディオン程度は有る。古代ギリシャで行われた短距離走で選手が駆け抜けた距離だ。見通しが良い平原なら目視も可能だろうが、家屋が建ち並ぶ市街地で隠れた相手を見つけるのは至難の業だ。
「……とんでもない索敵範囲をお持ちですね」
「あれだけ戦気を漏らせば、餓鬼でも分る」
レアンはつまらなさそうに言うと、短くなった煙草を捨て靴で踏み消し、そのまま新しい煙草に火を付ける。凄い男だが、礼儀は最低としか言い様がない。
「こんな状況で言うのも何ですが、道にごみを捨てないで下さい。
子供でもそんな事は分りますよ」
レアンはヘーリアンティアの言葉を無視して歩を進める。ヘーリアンティアは後で拾わせる事を誓って後を追う。今此処で逸れては索敵の仕様がない。
途中何度も煙草を投げ捨てるレアンに眉を顰めながらも進んで行く。通る道は専ら人通りの少ない裏路地だ。敵も人目を避けているのだろうか?
臭気の漂う裏路地の暗がりには、一目で後ろ暗い事を生業としているのが見て取れる者達が大勢いる。多様な人種の、粗末な衣服を纏い剣呑な目をした男達だ。彼らは何事か、おそらくは良からぬ事を低い声で相談し合い、馬鹿な獲物が通りがかるのを待ち構えている様である。酷い空気だ。まるで街全体の害意を一身に受けている心持になる。
だが皆、無造作に歩むレアンを見た途端に恐れた様に目を逸らし、黙って道を空ける。同じ無法者でも格が違うといったところか。
イニャツィオの言う通り、確かにこういう局面では頼りになる男ではある。仮にヘーリアンティアだけで遭遇したら、彼らは喜び勇んで躍りかかって来ただろう。物騒な事極まりない。
更に問題なのが、時折見られる地下へと続く穴から明らかに人のものでは有り得ない魔力が感じられる事だ。まず間違いなく魔獣だろう。此処は人と人に非ざるものが入り混じる領域だ。一人で彷徨うのは危険過ぎる。
道中、可能な限り道を記憶する様には努めているのだが、土地勘のないヘーリアンティアには少し厳しい。何しろこの街は迷路の様に入り組み、しかも起伏に富んでいる。裏通りは特にそれが顕著だ。戦いの最中に逸れたら合流は困難だろう。戦闘に入る前に、離れた人間同士の意思の疎通を可能とする方術を掛けておくべきだ。ヘーリアンティアは考えを巡らせながらレアンを追う。
「敵は此方に気が付いているのですよね?」
「当然だ」
無造作に、しかし確信を持った様に歩くレアンに問い掛ける。
「人数は一人ですか?
昨夜の暗殺者でしょうか?」
レアンは答えずに口から紫煙を吐く。これは肯定と捉えてもよさそうだ。この男は、彼にとって当たり前だと感じている事を聞いても答えてくれない。構わず言葉を続ける。
「敵も『黒狼』殿と同じ程度の索敵範囲を持っているのでしょうか?」
仮にそうだとすれば、ヘーリアンティアが抑えるのは厳しいだろう。死角の多い入り組んだ地形は暗殺者の得意とするところだ。一方で、方術の射線が確保出来ない方術士は術を制限される。そんな状態で感知出来ない敵から一方的に攻撃されては堪らない。
「そんな訳はない。
精々五十歩程だろう」
それでも十分に驚異的だ。暗殺者はレアンに抑えてもらうしかないか。
「五十歩先の何処にいるのです?
可能であれば方術で視認します」
「今いるのは百歩程先の屋根の上か」
レアンは凪いだ瞳を遥か先に向ける。
「百歩先ですか?
五十歩先ではなく?」
「こちらにはどん臭いお嬢さんがいるからな」
レアンが小馬鹿にした様に言う。つまりは、自分が敵の索敵網に引っ掛かっている為、相手も余裕を持って距離を取っているという事か?
「すいません、私のせいで感知されているのですね。
方術で気配を遮断します」
先に方術で気配を消して進むべきだった。事前に方針を話し合えなかった弊害が早速出ている。体術を用いた隠行には自信がない。一応気配を消すようには努めていたが、敵からは丸分かりだったか。
「止めろ」
杖を構えたところで止められる。
それはつまり、敵に此方の位置を知らせた上で誘いに乗るという事か?
危険極まりない行動だ。もし仮に、敵の策を全て跳ね返す事が出来るのならば、敵方を壊滅させる事も可能かもしれない。だが、そんな事が可能なのか? 判断の仕様がない。頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。ひとしきり心中で悶えた後、大人しくレアンの言葉に従う事にする。此処に至っては他にやり様がない。
「せめて敵の姿を確認させて下さい」
杖を構え方陣を展開する。
『二層風術 遠目』
ヘーリアンティアの瞳が白い光を帯び、視界が一気に開ける。
これは遠方を見渡す物見番必修の方術だ。階位が低い割に使い勝手が良い為、方術士であれば反属性の地術士以外は大抵この術式を学んでいる。昔ウェネーも言っていたが、風術にはこういった便利な術が多い。欠点は慣れるまで広がった視界に酔う事だ。修道院に居た頃は練習がてら、よくこの方術でオフリド湖を眺めていた。時々、途方もなく大きな魚や蜥蜴が水面から頭を出すので見飽きる事がない。
術の巧みさと元の視力によって視える距離は変わるが、レアンの百歩程度であれば軽く視通せる。通路の遥か先、軒下に座り込んで欠伸をする男の欠けた前歯の数を視認する。期せずして覗き見をしてしまった男に心中で詫び、視線を上に向ける。
夏の青い空には烏や海鳥が飛んでいる。乱雑に立ち並ぶ建物に遮られる為に視界はすこぶる悪いが、何とかそれらしい人影を発見する。
襤褸を纏った巨体だ。相当に大きい。遠近感の問題で把握し難いが、懐かしいスクァーマや、『金色』でも図抜けて大きい傷だらけの蜥蜴族の男程の身長か? レアンも最後の民としては長身だが、それでも彼らの胸までしかないだろう。
不意に悪寒がする。襤褸を纏った姿が此方を視ている様に感じる。頭に被った覆いの隙間から口元が覗く。歯を剥き出した獰猛な笑み。
「お嬢さんが焦らすから、でかぶつも堪えられないって面じゃないか」
レアンが平然と言う。この距離で表情まで読み取れるものなのか? 恐ろしい視力だ。
本来ならその視力と索敵能力で敵を察知し、奇襲を掛けたいところだが、何の因果か好んで罠に飛び込もうとしている。まあ仕方がない。この男が人間離れしている事も段々と分って来た。相手も人間離れしていそうなのが問題だが、そこはうまく立ち回るしかないだろう。
覚悟を決め、レアンに付いて追跡を再開する。
足を進めるにつれて、通りの雰囲気が悪くなって行く。日当たりの悪い薄汚れた通路には顔を顰める様な悪臭が漂い、足元には訳の分らないごみが散乱している。夥しい蝿が飛び交う中、通路の両脇には微動だにしない老人や痩せた子供達が座り込んでいる。明らかに死んでいる者も見られ、集った蝿が黒々とした人の形を成している。やるせない光景だ。
「……ここらには貧しい方が集まっているのですか?」
レアンは興味なさ気に紫煙を吐いて、言う。
「吹き溜まりだ」
世界にはこういった部分もある。祝福されずに産まれ、死んで逝く者達。
先ほど路地裏にたむろしていた無法者達には奪ってでも生きるという意思が有った。ここに居る者達にはそれすらない。死んではいないというだけで、生きながらにして停滞している。
例えヘーリアンティアの全財産を叩いたとしても、彼らの全てを救えはしないし、立場上それを為す事も出来ない。ヘーリアンティアはゲルマニカの娘として、第一にゲルマニカ領の民を優先しなければならない。仮に寄付をするならば、愛すべきゲルマニカの民へすべきだ。
そもそも、目に映る全てを救おうとするのは傲慢に過ぎる。人は全能の神ではない。歴史を紐解いても、魔人イエスは全てを救おうとする慈悲の心と、全てを救えぬ無力な人の身の矛盾に打ちのめされ、狂った。だが、割り切るにはこの光景はあまりに悲しい。
ヘーリアンティアは懐から堅焼きパンを取り出した。保存食として持っていた物だ。それを壁にもたれて座り込む一際幼い少年に差し出そうとした時、レアンが口を開く。
「止めろ」
「……いけない事でしょうか?」
ヘーリアンティアはレアンの顔を見つめる。
「施の味を覚えた餓鬼は弱い。直ぐに死ぬ」
カルロの言葉を思い出す。レアンは子供の頃からこの街で、たった一人で生きて来たと。彼も孤児だったのだろうか? 悲しい言葉だ。
「施でなければ良いのですよね?」
ヘーリアンティアは痩せ衰えた少年の前に屈んで目を合わせる。虚ろな目だ。目脂がこびり付いた瞳には、意思というものが感じられない。
おそらくこの少年は、この澱んだ空気の中、死ぬまで裏路地の壁を見続けるのだろう。希望を味わった事がない人間には、希望を求めて行動を起こそうという発想すらも湧かない。
「少年よ、貴方は神を信じますか?」
少年に集った蝿を払い、問い掛ける。無言。ヘーリアンティアが持ったパンにすら目をやらない。かなり衰弱している。顔色からして内臓が悪い様だ。やや黄色掛かった肌からして、肝臓だろうか?
少年の胸に手を当てる。内在魔力を流し込んで病んだ部分を探す。見つける。やはり肝臓か。幸い軽い処置で回復しそうだ。そのまま魔力を精密に操作して内臓の機能を回復させ、病んだ肝臓によって引き起こされた体内の歪みを修正する。未熟な治療方術士ならば高価な触媒が必要な施術だろうが、仮にも現在のアスクレピオスと称される『水聖』ラーマに師事した身だ。この程度なら独力で十分可能である。
「話せる程度には回復した筈です。
もう一度問います。貴方は神を信じますか?」
少年は僅かに意思の感じられる瞳でヘーリアンティアを見る。おずおずと頷く。
「嘘ですね」
一言で切って捨てる。少年がパンに視線をやったのを見逃さなかった。今の返事は食物への色気から来たものだ。
「もう一度だけ問います。正直に答えなさい。貴方は神を信じますか?」
「……糞喰らえだ」
呪いに満ちた少年の言葉。本心の言葉だ。ヘーリアンティアが微笑む。
「そうですね。貴方をこの様な境遇に追いやった神など、赦せる筈がありませんね」
少年の目を見て語り掛ける。
「これは私が気まぐれに行う契約です。
神が貴方を救うのではない。私が私の目的の為に貴方と約束を交わすのです。
もし私の言う条件が守れるのでしたら、対価として貴方にこのパンを与えましょう。
条件を聞きますか?」
少年が頷く。かわいそうだが、頷くしかないのだろう。
「条件は一つ。
貴方がこれを食べ生き延びる事が出来たのなら、貴方が満腹な時、空腹に喘ぐ隣人に貴方のパンを与えるのです。一度だけで構いません。
そうして、私がしたのと同じ約束をその者と交わすのです。守れますか?」
何を言われるのかと身構えていた少年が拍子抜けした顔をする。それで良い。約束は何かの拍子に思い出した時、気まぐれにやってやろうかと思う程度で丁度良い。
「やる」
頷く少年に堅焼きパンを手渡す。体内の水分は調整したが、胃が弱っている。飲み物もなく焼き固められたパンを食べるのはよくない。
少年にゆっくりと食べる様に言うと、肩に掛けた背負い袋からアスクレピオス派修道会に伝わる保存食を取り出す。干し肉と干した蔓苔桃を砕いて動物の脂と煮た後、練って成形した物だ。栄養が有り味も良い為、アスクレピオス派修道士は皆これを携帯する。しかし、保存食故に消化には悪い。
背負い袋から銅製の杯を出して『湧水』で水を満たし、『水操作』で温度を上げて煮沸する。そこに干し肉の練り物を入れ、煮込む。木匙で掻き混ぜながら頃合いまで煮込むと、今度は熱を奪って冷まし、消化によい温めの具合になるのを待って少年に飲ませる。
少年が全て平らげるのを確認して杯と木匙を受け取ると、ヘーリアンティアは立ち上がった。
「生きたければ此処を出なさい。此処には澱んだ空気が満ちている。
体力のある内に大きな通りに出て食べる算段をつけるのです。
今日生き延びたのは単なる偶然で、二度はありません。
必ず約束を守るのです。分りましたね?」
少年が頷くのを見て微笑み、背を向ける。レアンは相変わらず下らなさそうに此方を見ている。
「これは施ではないですよね?」
「甘ったるい女だ」
レアンは煙草を投げ捨て、新たな煙草に火を点けた。
追跡を再開する。それなりの時間を使ってしまったが、どうせ待ち構える敵の最中に突っ込む方針だ。気にする必要はない。
「屋根の上のでかぶつ殿は大人しく待っていて下さったのですか?」
「お嬢さんに焦らされ過ぎて、達しそうな顔だがな」
しかし、下品な男だ。老人が思い出されるが、彼はもっと格好が良くて荒っぽい中に大人の品格が有った。この偏屈で扱い辛い若造とは雲泥の差である。
歩みを進める内に路地の雰囲気がまた変わる。再び荒んだ空気が満ち、暗がりに暴力の気配を纏わせた男達が潜んでいる。潮の香りもする。大分港側に移動した様だ。
「素朴な疑問なのですが、ここいらは『氷海の虎』の縄張りなのでは?」
「そうだな」
「我々が立ち入っても差し支えないのですか?」
「さてな」
この男と話をしていると必然的に頭を使わざるを得ない。普通に考えれば、敵対組織の縄張りに侵入して差し障りが無い筈がない。
「明らかに敵地に向けて誘導されていますよね?
暗殺者を寄こしたのは『氷海の虎』という事でしょうか?」
正直に言えば、『氷海の虎』そのものが相手だとは思っていない。大きな組織には相応の戦い方がある。今回の手口は危ない橋を渡った博打じみたものだ。こういったものは基本的に大組織の打つ手ではない。
もし仮に『氷海の虎』が主導したとして、その証拠を押さえられれば和睦の際に著しく不利な立場に追いやられかねない。そうなれば金と権力で潰されて終わりだ。余程追い詰められなければそんな事はしないだろう。そしてイニャツィオは、状況は一進一退だと言っていた。捨て身の博打を打つとは考えにくい。
「違う」
ヘーリアンティアの思考を裏付ける様に、レアンが断じる。
「根拠をお聞かせ願えますか?」
無言だ。理由を聞かせて貰いたいのは山々だが、彼も『氷海の虎』ではないと思っている事が分っただけで良しとする。仮に根拠が無くても、戦士の勘というものは馬鹿には出来ない。過信もまた出来ないが。
だが、例えば『氷海の虎』の中で和睦を嫌う者が、起死回生を求めて打った手という事は有り得るのではないだろうか?
そしてそれは、口に出すのは憚られるが『金色』でも同じ事だ。一枚岩の組織など有り得ない。和睦が成立しない方が利になる立場の者は、間違いなく『金色』にもいる。
さらに考えれば、如何なる者がどの様な意図で誘導したにせよ、敵対組織の縄張り内で戦うという事自体が大問題だ。『金色』と『氷海の虎』は協調路線を取る事で合意しているらしいが、自分達の縄張り内で『金色』の幹部が大立ち回りをした場合、どう動くか?
二つの組織が積み重ねた対立の構図を把握していない為に断言は出来ないが、もし仮にヘーリアンティアが『氷海の虎』の幹部なら、どさくさに紛れてこっそりとレアンを殺す事を試みるだろう。この男は和睦の際の条件になっている。その条件が死ねば『金色』に対して、より有利な条件を要求出来るのではないだろうか?
首元が非常に寒々しい考えだ。目前の敵を抱えたまま、敵対的な第三勢力の領域内にいる。此方は僅か二人。少人数の利を生かして遊撃に徹するしかないか。
「そこの娘さん、若い者がそんな浮かない顔をしているものではないよ。
せっかくの美人が台無しじゃあないか」
不意に横手から声を掛けられる。しわがれた声からしてかなり年配の女性だろう。
見れば、襤褸を纏った小さな姿が木箱に腰かけている。前に広げたござに触媒を並べている事から、一種の露天商だろう。無論こんな場所で露店を開く許可は下りないだろうから、非合法の商いだ。何処の街の裏路地にもこういった者はいる。今考えると老人も許可を取ってなかったのではないだろうか? 商税を徴収出来ないのだから、立派な脱税だ。いつか墓の下で逢った日には指摘してやらねばなるまい。まあ、自分以外の客に物を売っているところなど見た事もなかったが。
「いえ、少し考え事をしておりました。
貴女もこんな場所で商いをするのは物騒ですよ。
商業区に向かわれたら如何ですか?」
無許可の商いをやんわりとたしなめると、老婆は訛りの強い言葉で言う。
「見ての通り、後ろ暗い事が有るのだよ。
見逃してくれたらまけてやるから、寄って行きなさい」
レアンの方を窺うと、相変わらず無表情で煙草を吹かしている。何だか寄り道をしてばかりいるが、別段構わないだろう。何も敵の誘導に素直に乗ってやる必要はない。
古来、幾多の軍勢が、待てば勝てた戦いを攻め急いで自滅した。待つ事は辛いものだ。人数が多ければ多い程、統制する事も困難になる。あちら側で血気にはやる者が暴発でもしてくれれば儲けものだ。それに、少し気になる事も有る。
「では、少しお邪魔します」
老婆に断って品物を見る。思わず顎に手を当てる。
「やはりこれは……。
失礼ですが、東の方から来られたのでしょうか?」
ござに並べられた触媒は珍しい物ばかりだった。東方の砂漠の民がよく使う物が多い。修道院にいた頃はこういった触媒にも触れる機会があった。
オフリド湖近辺は未踏地に囲まれた辺境もよい場所なのだが、少し東に行った辺りでは此方側と信仰を同じくする国々と、砂漠の民の国が度々小競り合いを起こしたり共に迷宮を討伐したりしている。戦争だろうと何だろうと、人が交われば物や流行も伝わる。あの辺りでは東西の文化が入り乱れているのだ。その経路で修道院にも時折東方の品物が持ち込まれていた。
偶にラーマに連れられて巡回医師として国の境界付近まで足を伸ばした経験も有るが、中々に刺激的な場所だった。砂漠の民から持ち込まれた技術の影響で、全体的な方術の水準はゲルマニカよりも高いかもしれない。
砂漠の民は学問や教育に熱心で、錬金術が非常に盛んに研究されている。医学の研究も進んでいて、素晴らしい医学書なども出回っている。いやしくも医者を名乗るのならば、あちらの医術を学ぶ為に砂漠の民の言葉の読み書きは必修である。
そのまま砂漠の民の国まで行ってみたかったのだが、ラーマに引っ張られて連れ帰られてしまった。その後、仲間を募って行ってみようと目論んでいた筈が、今は西の半島の迷宮都市の路地裏で東方由来の品物を眺めている。我ながら二転三転するものだ。
「出稼ぎに来たのだがね、思い掛けず難しい仕事で難儀しているのだよ。
今は実地調査と言うところかね」
老婆が言う。注意して聞くと砂漠の民の言葉らしい訛りがある。
「不躾ですが、月を拝していらっしゃる方でしょうか?」
「当然だろう。唯一絶対なる月を崇めずして、何を拝むのだい?
なあ、異教の神官殿?」
老婆が頭に被った覆いの中から、見透かす様にヘーリアンティアの瞳を見据える。
「あら、ばれてしまいましたか。
差し支えなければ、後学の為にどうしてそう思ったのか伺っても?」
「そこらは商売の種だからね、教えて欲しくば金を出しなさい。
なあ、異教のとは言え、神に仕える感心な貴族の娘さん?」
そこまで分るか。人の素性を推し量る術は色々と有るが、どこから判断したのだろうか?
ヘーリアンティアは好奇心を刺激されて老婆の話を聞く体制を取った。それに、老婆の言葉は懐かしい大切な想い出を呼び起こす。寂れた裏路地に在る東方由来の品物を扱う露店の前で、年配の者とこうして話をする。嫌でも老人の店を連想してしまう。幼い日の甘く切ない感傷が蘇る。
「では、これを頂きましょうか。その代わりお話は聞かせて頂きますよ?」
ヘーリアンティアはござの上から淡い黄色の半透明の塊を摘み上げた。南方に生育するアカキアの樹の樹脂だ。水に溶かすと強く粘るので、糊や汁物にとろみを付ける為に使われ、擂り潰した煤と練り合わせれば墨にもなる。無論、方術の触媒としても使える。今すぐ必要という訳でもないが、使いでのある品だ。買って損にもならないだろう。
「無難な品物を選ぶものだね。もっと面白い物だってあるだろう?」
「私は現在旅の身でして。
腰が落ち着くまでは、使い勝手の良い品しか持つ余裕がないのです」
金貨を渡す。老婆は皺に塗れた手で受け取り、ヘーリアンティアとレアンを交互に見る。まるで痛々しい恋人同士でも見たかの様に、やり切れないという風に眉間に皺を寄せる。
「確かに中々の男前だがね。
年寄りとして忠告しておくとね、若い頃には陰の有る崩れた雰囲気の男が格好良く見えるものだが、そんなものはまやかしさ。
女は馬鹿な男と一緒になって、平凡な子供を生み、退屈な繰り返しに欠伸をしているのが幸せなんだよ。
早まった事はよしな」
何か重大な誤謬がある。ヘーリアンティアは口元を引き攣らせた。
「いや、今一つお話が見えて来ないのですが……」
「とぼけなさるな。
確かに良家出身の聖職者と荒々しい無頼漢の駆け落ちなど、物語としては美しいが、その後に泣くのは君だよ。
よくよく考えて、あんな金の稼ぎ方も知らない様な男は止しな」
頭が痛くなって来る。
「失礼ですが、目というものは大切な器官です。
眼が曇れば、時として重大な事実誤認を為してしまうのが人というもの。
対価さえ頂けるのでしたら、私が診て差し上げましょうか?」
「照れているのかい?
人目を避ける様に裏路地を急ぐ令嬢と無頼漢。向かう先には港が在る。
これを駆け落ちと言わず、なんと言うのだい?」
「諸般の事情によりあちらに向かっているだけで、特に他意はありません。
ええ、全く以って。
彼は、お友達ですね」
「友人、ね。
君の様な人間が付き合う男ではなく見えるがね。
良いところのお嬢さんなんて、悪たれに掛かっては美味しい獲物でしかないよ」
「子供の頃、大切な友人に同じ様な事を言われましたね。
それ以来、悪ぶった男性には注意しておりますので大丈夫ですよ」
ヘーリアンティアが微笑むと、老婆は黙りこんでヘーリアンティアを見つめる。
「縁を切りな。あの黒尽くめが君の良い人でないのなら簡単だろう?
あんな空っぽの目をした人間と関わるな。君が覗かなくてよい世界の住人だよ」
「空っぽ、ですか?」
「やり過ぎた人間は空っぽになる。
人として大切なものを次々と失い、やがて世界に二つの事柄しか存在しなくなる。
そうなれば、最早器物と同じだ。剣と友人になっても仕方がないだろう?
それどころか、持てば己を傷付け、扱いを誤れば気紛れに首を撥ねにかかる。
一緒にいれば、君はいずれあの男に殺されるだろうね」
老婆が空虚な色合いの瞳で語る。レアンと印象が重なる瞳だ。いや、思い返せば『名無し』の老人にも、蜥蜴族のスクァーマにも、一見陽気な『金色』首領イニャツィオにも同じ様な印象を受ける部分は有った。
確かに、彼らには有形無形の欠落が有るのかもしれない。生きる為、勝つ為に何かを捨てて来たのかも知れない。
「御忠告、胸に刻みます。
貴方は優しい方ですね。こんな物を知らない小娘に世の理を説いて下さるのですから」
ヘーリアンティアが丁寧に頭を下げる。老婆は難しい顔のまま、皮肉気に口元を歪める。
「優しくはない。
だが、無関係な者が、意味無く蠍の尾を踏もうとするのを見捨てる訳でもない。
例え異教徒相手でもその様な不誠実を、夜天に座す月は決してお許しにならない。
さあ、娘さん、分ったら戻りなさい。ここから先は君が踏み込むべき世界ではない」
「空っぽでも良いではないですか」
老婆が硝子の球の様な目を見開く。
「それもまた苦難の末に掴んだ誇るべき在り方です。
人が決死の思いで歩んだ道筋を否定される事など、何人たりともあってはならない。
貴女方の崇める月は、その様な不誠実を許されるのですか?」
強い言葉で老婆に向けて語り掛ける。
「それに空なればこそ、美しいものも素晴らしいものもこれから沢山入ります。
それは素敵な事ではないでしょうか?
彼に欠けてしまった部分は私が補います。
願わくば、代わりに私に足りないものを埋めて欲しい。
友人とはそういうものでしょう?」
老婆に微笑む。老婆が目を逸らす。
「綺麗事だ」
虚しそうに吐き捨てる。
「いつもそうだ。
君みたいな人間に限ってすぐに死ぬ。私はうんざりする程に何度も見て来た。
何故、大いなる月は君を救いたまわないのか?」
老婆が手を振り払う。
「もう行きなさい。気が変わったら直ぐ逃げろ。君が考える程、甘くは無いぞ」
「有難う御座います。
世の中はままならないものですね」
ヘーリアンティアは老婆にもう一度丁寧に頭を下げると、レアンの側に戻る。
「産まれと育ちによって動きの調子は違うものだ。
君は北の貴族流の作法に聖職者の儀礼的な動作が加わっている。
素直な動きだ。あまり人とは殺し合った事がないのだろう?
対人戦を生業にする人間はもう少し動きから表情を消そうとする。
やけに分別臭い事を言うが、肌の具合からして歳は精々十五、六。
衣に沁みた匂いは教会の香料に加えて水と太陽の触媒が強い。太陽水術士だな。
身に帯びた魔力はあくまで静かだが、海の如き深みを感じさせる。その歳でよくそこまで練ったものだ。才は当然にして、余程優れた師に付いたのだろう?
頭に乗せているのは使い魔だな。不自然な魔力の湾曲を感じる、幻獣だろう。
よほど君に懐いているのだな。僅かでも逆らう可能性が有るのなら、恐ろしくて頭に幻獣など乗せられない。
しかし、隠し場所としてはお粗末の限りだ。頭を下げた時によく落ちないものだが、膨らみで丸分かりだね。
それでなくとも重心から頭に何かを乗せているのは見て取れる。そんな事をしているから背が低いのだ」
老婆が最後に教えてくれる。どうやら概ね全て見透かされた様だ。生き残る事が出来れば隠蔽の仕方を一から学ぶ必要があるだろう。ヘキが頭から退いてくれたらよいのだが。
「とても勉強になりました。
感謝します、優しい暗殺者さん」
ヘーリアンティアはそう言って老婆に背を向けた。
「いつから友人になった」
歩き始めて直ぐにレアンが言う。相変わらず憎まれ口を利くものだ。
「これまでそうではなかったとしたら、今からですよ。
貴方の不足を補い、後ろを守って見せます。
だから、どうか貴方も私に力を貸して下さいませんか?」
レアンの後ろ姿に向け、真摯な想いを込めて言う。
「寝台の上でならな」
「つまらない冗談は無視しますよ。
あの暗殺者さんを放って置いてよかったのですか?
話し込んでいた私が言うのも何なのですが」
出来ればもう会いたくないが、そうも行かないだろう。此方が大方の事を見抜かれてしまったのに対して、あちらの情報はあまりない。触媒に精通している事からおそらくは方術士だと窺えるが、物腰の癖も、身に纏う魔力も、触媒の匂いも、綺麗に消されていた。何の術者か分らない。方術士にとって属性を知られるのは、術の方向性から得意な地形まで全て晒してしまう事に等しい。大失態と言わざるを得ない。相手は対人戦に長けた難敵だ。このまま行けば、彼女を抑える事がヘーリアンティアの役割になる。
「あの婆とやるのは気が進まん」
「どうしてですか?
集団の方針を打ち出すのは大概が方術士です。
彼女がカルロ殿の死ぬ要因を作った可能性は十分に有ったのですよ」
優しい事と残酷な策を用いる事は矛盾しない。何かの理由でヘーリアンティアを気に掛けてくれた様だが、必要とあれば容易く首筋に刃を突き立てて来るだろう。そして、それはヘーリアンティアだって同じだ。
何かの為に何かを捨てながら人は生きる。戦いが避けられないのなら、生き残る為に敵は薙ぎ払わなければならない。例え、此方を案じ、危険を押して忠告してくれた恩人が相手でも。
「女を殺すのは好かん」
中々に紳士的な事を言う。この状況下で大したものだ。少し見直してしまう。
「女とやりあうのは寝台の上に限る」
訂正しよう。単なる下種である。
「ちょっと、そんな事を言っていては彼方のカルロ殿が泣いてしまいますよ」
別に復讐に燃えろとは言わないが、あんな神聖ささえ感じさせる儀式をしておいてその発言はどうなのだ? 少なからず感銘を受けた此方の立場がない。
「女に殺されるなら阿呆のカルロも本望だろうさ。
それに、違うな」
「何がですか?」
無言。また得意のだんまりだ。
だが、こうして話していると分るが、空っぽと評された彼にも理念や美学があれば哲学だってある。人間なのだから当然だ。ある時点からは、老婆が暗殺者である事は感じ取れていた。レアンならば初めから分っていたのかも知れない。
理由は兎も角、彼はあそこで老婆に向かわなかった。彼が、ただ眼前の敵を打ち倒すだけの存在でない事は明らかだ。老婆だってそうだ。彼らは、空虚な部分は有っても、断じて空っぽではない。
「兎も角、あの暗殺者さんの相手は私がします。『黒狼』殿はその他をお願いしますね。
では参りましょうか。
実は、先程からどんどん有象無象の戦気が高まっているのを感じているのですよ」
幾多の戦いの果てに己を刃と成した者にも、捨てられないものは有る。それが人間というものだ。
「お嬢さんは、顔と勘だけは宜しい」
凪いだ目をした偏屈な殺手が煙草を噴かす。
戦いが近い。血みどろの旅路の果てに空の境地に近付いた猛者の力、命を懸けて学ぶとしよう。