お嬢様と悪漢7
一夜明けた翌日。
ヘーリアンティアは首筋と頭の奥が痺れる様な感覚によって目を覚ました。普段は寝起きがよくないのだが、今朝は一瞬で意識が覚醒する。この感覚には覚えがある。危機感だ。微細に、しかし確かに感じる戦いの予感。
大きな魔力を持つ者は直観力に優れる傾向が有る。そしてヘーリアンティアは産まれつき優れた魔力を持っていた。
ヘーリアンティアが寝台から上体を起こし、己の頬を両手で張る。朝の澄んだ空気に小気味良い音が響く。
戦いが始まる。
ヘーリアンティアは方術用の触媒を準備すると、法衣の衣嚢に其れを仕込んでゆく。方術士が似た様な外套を纏うのは、ひとえに触媒を仕込み易いからだ。それが終わると法衣の上から地味な色合いの外套を纏う。靴は脛まである頑丈な編上げ靴。各所を金属板と方術で補強し、足音を消す構造を持った戦闘用の物だ。レアンなどは皮靴で歩き回って物音一つ立てないが、ヘーリアンティアの体術では不可能な話だ。不足を装備で補うのも冒険者の腕の見せ所である。
最後に頭の上にヘキを乗せる。ヘキも主人の気配を察して、頬を膨らませて鳴き声を上げる。
「頼りにしてるよ、ヘキちゃん」
任せろと言う様な鳴き声。ヘーリアンティアは微笑むと、一晩中寝ずに控えていたアニータに声を掛ける。
「有難う御座いました。仮眠を取っては如何ですか?」
「そういう訳にはゆきませんよ」
アニータは常と変わらぬ陽気な笑顔で答える。
「そうですね。『黒狼』殿の部屋に参りましょうか」
レアンはいつもの様に高級な革張りの椅子に深くもたれ、前の卓に組んだ足を乗せている。一分の隙もなく着た夜会服も、凪いだ瞳も、石像のような無表情も普段と何ら変わらない。
疲労の色など微塵もないが、おそらくは寝ていない。灰皿に積まれた煙草の量が物語っている。後ろに控えるクラリーチェも同じだろう。彼らが戦う者である事を強く感じる。
「お早うございます。仮眠を取られては?」
ヘーリアンティアの言葉にも無言のままだ。必要ないという事だろう。段々とこの面倒な男の扱いも心得て来た。
ヘーリアンティアも椅子に腰を下ろすと、クラリーチェにカファをお願いする事にした。
昼過ぎに動きがあった。
扉を蹴破る勢いで黒服の一人が駆け込んでくる。
「兄貴、カルロが――」
ああ、やはりか……。ヘーリアンティアは遣る瀬無い思いで全て察した。古来、攻めあぐねた敵対勢力が行う事などそう多くはない。しかし、言葉に出来ない違和感も有る。
『幸運』のカルロの姿は無残なものだった。両手両足をへし折られ、生きたまま苦痛の限りを尽くした後に殺されている。この世の地獄を味わったであろうカルロの顔は、悪鬼の形相だ。このお調子者が軽薄な笑顔を浮かべる事は、もう無い。
「大通りの人だかりの中に投げ込まれたらしい。安い挑発だ」
ダンテが平素と変わらぬ怜悧な表情で声を出す。仲間の死など見飽きた、とでも言うような口調だ。
「お嬢さんは医者だったよな。悪いが死体を検めてくれないか?
少しでも情報が欲しい」
頷いて腰を下ろす。己の胸に手を当て死者への祈りを捧げた後、手をかざし空間に方陣を描く。『調査』の方陣。水術士は血液を媒介として人体を調べる事を得意とする。
「間接の固まり具合から見て、おおよそ死後半日は経っています。
手足を砕いたのは、……素手?
信じがたいですが骨の砕け方から見て、少なくとも右腕は掴んで握り潰されています。
胴体の傷も、あえて内臓を外して刃物で抉っています。
明らかに人間の所業です」
惨い事をする。ヘーリアンティアは嫌悪から顔を顰めた。
ヘーリアンティアは戦いを否定しない。冒険王ギルガメッシュの時代から人は魔獣と、迷宮と、志を違える人と戦いながら在った。戦わなければ全て奪い尽くされ終わるだけだ。貴族とは、そんな世界で己の守るべき者の為に戦う存在なのだから。
しかし、敵対者に敬意を払わぬ暴力は認められない。そんなものは憎しみの連鎖を生み、己も相手も周囲も全て破壊し尽くしてしまう。
「昨夜の野郎だろうな。兄貴が警戒する程の使い手だ。
素手で人を破壊する位はやるだろう。
おい、カルロの野郎は昨日何をしていた?」
「どうも夕方には街に出ていたようで。その後戻って来ませんでした」
ダンテの問いに黒服の一人が答える。
「大方、夜鷹でも買いに繰り出していたのだろう」
「間が悪いったらないな。何が『幸運』なんだか」
「馬鹿な野郎だ。笑えるぜ」
黒服達から野次、歓声が上がる。口笛を吹く者までいる。
滅多に怒りを感じないヘーリアンティアもこれは見過ごせなかった。曲がりなりにも同じ志を抱いた者に対する態度ではない。ヘーリアンティアがたしなめようとした瞬間、
「葡萄酒を」
レアンの静かな声が響く。思い思いに声を上げていた者達が一斉に押し黙る。
顔中に傷跡が有る蜥蜴族の大男が肩に樽を担いで来る。馬車で護衛してくれた男だ。
レアンが陶器の器に葡萄酒を注がせる。杯を持った男が一人、レアンの前に立つ。
「この馬鹿の名は?」
レアンが問いながら杯に葡萄酒を注ぐ。
「『幸運』のカルロ」
男は杯を干して答える。
「この馬鹿は使えたのか」
別の男が杯を受け取り、葡萄酒を受ける。
「ただの阿呆だ。全く使えん」
杯を干す。
「強かったか」
「餓鬼の方が強いかもな」
杯を干す。
「女は」
「こいつに惚れる女がいたら見てみたい」
杯を干す。
黒服達が次々に杯を回しながら答えてゆく。まるで別れの挨拶をする様に。
茶色い毛並みの狼族の男が最後にレアンの前に立つ。
「つまらん男だ。なあ、アントニオ」
葡萄酒を注ぐ。アントニオは震える手で受ける。
「奴は阿呆で無能なただの碌で無しだった。
産まれて落ちて一度も善行をなした事が無いような糞野郎だった。
反吐に集る蛆虫の方が上等な、気の向くままに暴れる畜生だった。
虫けらの様に殺されるのも当然だ。
――だが、海賊どもとやりあった時、俺はあいつに命を救われた」
涙が流れる。
「赦せん」
葡萄酒を呷り、杯を握り潰す。
「おお、カルロ!」
別の男が泣き伏すと同時に、悲嘆の声が木霊する。
レアンが厳かに問う。
「ダンテ、この葡萄酒は何だ」
「蛆虫カルロの血だ」
「何故そんな物を飲む?」
「奴の血に流れる無念を、憎悪を、我らの体に貰い受ける。
我らは碌で無しだ。復讐以外にカルロを弔う術を持たない。
誓え、兄弟達よ。
我らの愛する兄弟に地獄の苦しみを与えた糞に、同じ痛みを与える事を。
我らに楯突いた愚か者に血の贖罪を与える事を」
ダンテが吼える。陶器の器を干す。
「殺せ」
「血の贖罪を」
屋敷が揺れる程の声が響く。
「ところで、あの阿呆は随分良い貌で死んでいるな」
レアンはカルロの亡骸に目をやる。軽薄だったカルロの、敵を噛み殺さんばかりの顔を見る。
「奴は最後まで恐怖に、苦痛に負けず敵を呪って死んだ。
奴は生まれ落ちて死ぬ瞬間まで悪漢だった。
この中で真似の出来る奴はいるか」
無言。皆カルロの壮絶な最後を想っている様だった。
「お前らは蛆虫にも劣る呆れた糞野郎だな。
ここからは糞の出る幕ではない。
奴の無念、俺が晴らそう」
レアンが一抱えもある樽を軽々と持ち上げ、葡萄酒を呷る。そのまま一息に飲み干すと、樽は粉々に砕けた。頑丈な樽を無造作に指の力で握り潰した。
信じられない思いでそれを見ながら、ヘーリアンティアは理解した。確かに、彼は『黒狼』だ。狼の様に強く、誇り高い。悪漢としての誇りをその魂に抱いている。
「奴の無念は俺が貰い受けた。
――お嬢さん、弔ってやれ」
思わずレアンの姿に見入っていたヘーリアンティアは、頷いて首に掛けた聖印を掲げる。 ヘーリアンティアは神に祈らない。人を弔えるのは、人の意思のみだと信じている。
だから、ヘーリアンティアはカルロの魂に祈りを捧げる。憎しみは、無念はレアンと仲間達が引き受けた。だから、どうかその魂に安息の在らん事を。
「道半ばで倒れた悲しむべき人の子よ。貴方の魂は最早此処に在るべきではない。
貴方の在るべき場所で、安らかに仲間の行く末を見守りなさい。
願わくば、貴方の憤怒が、悲嘆が、未練が、迷いが、天上に座す太陽の光輝によって焼き尽くされん事を」
『太陽の花』の名を持つ少女の祈りが形を成し、空間に鮮やかな黄金の線が引かれてゆく。四層の光輝く方陣が描かれ、発動した時、世界は柔らかい光に包まれた。
『四層太陽術 浄化』
あたたかな光はカルロの遺体に満ちていた怨念を溶かし、拡散させ、残存する思念を永久の眠りへと誘う。
光が消えた後、残った遺体にはいかなる負の情念も残されていなかった。祈りを受け入れ、死者が在るべき場所に旅立ってくれた証だ。
「正義と公正を象徴する太陽を魂に宿す我、ヘーリアンティアが宣言する。
彼の者の魂は在るべき場所に旅立った。
貴方がたも、彼の者の魂の旅路が安らかならん事を祈りなさい」
ヘーリアンティアの荘厳な言葉を受け、皆思い思いに祈りを捧げる。それを見届け、レアンが紙巻煙草に火を点ける。
「打って出る」
悪漢達が道を空け、深く頭を垂れる。クラリーチェが恭しくレアンの肩に外套を羽織らせる。アントニオが縋り付く様にして言う。
「兄貴、カルロの、奴の無念を敵にも刻み込んでくれ」
「腰抜けのお前に代わってな」
ヘーリアンティアが慌てて言う。
「お待ち下さい。まさか一人で往かれるおつもりですか?」
「足手纏いがいたところで矢避けにもならん」
レアンがごく当たり前の様に言う。信じられない事に、矢避け呼ばわりされた無頼の強者達にも異論がなさそうだ。
「お嬢さん、兄貴が往くのだ。何も心配せずこの場は兄貴に任せればよい。
ここからは最早、三下の出る幕じゃあない。
俺達は裏方に回り、影で雑務を片付ける」
ダンテですらレアンを止めない。思わず声を張り上げる。
「おそらく相手は多勢で、狙いは『黒狼』殿の暗殺、その一点です」
「どうしてそう思うのだ?」
ダンテが首を傾げて問うてくる。
「聞けば『黒狼』殿は、現在和睦の条件となったせいで命を狙われているとか。
となれば昨夜侵入を試みた者は、何らかの組織が寄こした夜目が利く暗殺者の類でしょう。
拷問の手際から考えても、カルロ殿を昨夜手にかけたのはこの者達だと思われます。
一方で、カルロ殿の亡骸を人目に晒したのは昼になるのを待ってから。
これは多くの衆目に晒す事で最大限に挑発する為とも取れますが、死体を昼まで保管し、人通りの多い場所に投げ入れるというのは非常に危険な行動です。
一つ間違えるだけで、その場に居合わせた『金色』と戦闘になりかねません。
ただ晒すだけならば、夜の内に明るくならなければ見えない場所に捨て置いてもそう違いはない筈です。
そう考えれば、敵方には危険を冒してでもあえて昼に晒さなければならない事情が有ったのだと思われます」
「確かにそうだな。何故だ?」
「おそらく発見される時刻を操作したかったのでしょう。
敵方は此方に昼に動いてもらいたかった。
しかし、敵方が暗殺者だけだと考えればこれはおかしい。
何らかの理由がなければ、闇を友とする暗殺者が夜の戦いを避ける訳がない。
言い変えれば、敵は昼に此方を誘き出す事が出来れば、何らかの策で『黒狼』殿を暗殺出来ると考えています」
ダンテを含め、『金色』の者達が黙って聞く。ヘーリアンティアは言葉を続けた。
「そもそも、最初から違和感が有ったのです。
敵方が暗殺者だけならこんな方法は取らず、静かに潜んで長期的に毒殺や暗殺を狙うはず。
敵対組織の構成員を殺して挑発するなど、およそ暗殺者の好む長期戦とは対照的な動きです。
こんな行動に出た理由は、おそらく時間的な制約でしょうね。
敵方の首魁は『氷海の虎』との和睦が成る前に『黒狼』殿を倒さなければならない立場に在る者だと想像します。
『黒狼』殿の索敵能力から奇襲が難しい事を昨夜の件で察して、動きを変えて来たのでしょう。
敵方の次の動きを最も単純に考えれば、挑発によって此方を攻め手と守り手に分断した上で多勢をぶつけ、乱戦の中で『黒狼』殿を狙う心算でしょう。この街は金銭で人を集め易いですからね。
夜に動く事を嫌ったのは、人手を掻き集める手間が掛かる事に加えて、集めた者達の夜目が利かない為だと思います。
それなりの訓練を施した集団なら夜間戦闘もこなせるでしょうからね、相手は雑多な種族の冒険者や傭兵崩れだと考えられます」
「あんた、どん臭そうな顔に似合わず頭を使うな」
レアンが初めて感心した様な声を出す。
「好都合じゃないか。一網打尽だ」
此方の話を聞いた上でなお、散歩にでも行くように気負いがない。とんでもない自信と言わざるを得ない。ヘーリアンティアは頭を働かせる。
言うまでもないが、この局面での最善は屋敷に篭って状況を見る事だ。『氷海の虎』との和睦が成るまで待ちたい。場合によっては、待つだけで戦わずして勝利出来る可能性すら有る。
待った場合、敵はどう出るか? そこは読めない。あるいは形振り構わず『金色』の関係者を狙うか?
大局的に見れば、それでも待った方が犠牲は少ないだろうが、判断を下すのはレアンだ。敵の策の前提がレアンを釣り出す事にあるのだとすれば、残念ながらそれは成功しつつある。あるいは、レアンの性質と強さを逆手に取られたか? 罠を食い破る自信を持つ強者だからこそ、あえて罠に飛び込んで行く側面は有る。
偶発性に左右される凡そ洗練された策ではないところに敵方の余裕の無さも透けて見えるが、成立してしまえば敵方に取って貴重な勝機となる。全戦力を注ぎ込んで来るだろう。数は幾らだ? 流石に百を超える事はないだろうが、方術士を中心に布陣されれば如何な強者でも単身で勝利する事は困難だ。最低でも、レアンを支援する後衛が要る。
「……分かりました。私も共に往きます」
「お嬢様、いけません!
貴女が優れた方術士である事は分かりますが、女の身には危険が過ぎます。
そもそも、客人である貴女にはそこまでする義理はない筈です」
叫ぶ様に言うアニータに笑いかける。
「忘れてもらっては困りますが、私は冒険者ですよ?
仲間に誘っている人間が危地に飛び込まんとする時、共に往かない冒険者が何処に在りますか?」
「女連れで殴り込むのも悪くない趣向か」
レアンがどうでもよさそうに言う。彼には己一人で戦い抜く絶対の自信があるのだろう。今回はその自信に賭ける。それに、優れた方術士は一人で戦局を逆転し得る。自分がいれば最低でも逃げる時間位は稼げるだろう。後の事は流れに任せよう。考えても分らないのならば、我が身でやってみる愚か者が冒険者というものだ。
「『黒狼』殿こそ、酔っ払っていないでしょうね?
何なら、酔いを覚ます時間位は待ちますよ」
「はっ」
軽口を叩いてやると、鼻で笑われる。癪に障る笑い方だが、よく考えればこの男が笑うところは初めて見るかもしれない。現にダンテ達が信じられないものを見たような顔をしている。
「……呆れたお転婆娘だな。
よし、兄貴と冒険者殿が打って出るぞ。門を開けろ」
ダンテの号令で重厚な金属製の門が開けられる。
黒服達が門へと続く道に沿って整列する。悪漢達が恭しく頭を下げる中をレアンに付いて歩く。レアンの歩みは相変わらず速いが、付いて行けないという程でもない。多少は気遣ってくれているのだろうか?
「御武運を」
胸に手を当て祈る様に言うアニータに頷くと、ヘーリアンティアは門を潜った。