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大冒険時代  作者: ねくろ
学園入学前
16/42

お嬢様と悪漢6

 レアンの屋敷に逗留する事になってから数日が過ぎた。日がな一日レアンの私室で共に過ごし、豪勢な食事時には彼の小煩い話を拝聴するという有意義なのか自堕落なのか判断し難い生活だ。レアンが外に出ないよう見張っておけ、というイニャツィオの言葉には適っているが、レアンを仲間に勧誘するという目的は果たせていない。

 しかし、暫く共に生活すれば見えてくるものも色々とある。

「不躾な質問なのですが、『黒狼』殿は仕事をされないのですか?」

 いつもの様に卓の上で足を組み紙巻煙草を噴かすレアンに問うてみる。嘆かわしい事に、この男が足を載せないのは食事用の卓だけだ。

「お嬢様、主の仕事というものは、まず第一に健在であり下に睨みを利かせる事ですよ。

 他の事柄など木っ端にでも代行出来る瑣末事でございます」

 レアンの後ろで控える二人の侍女の内、赤毛の娘が答える。作法で言えば主人と客人の会話に侍女が口を挟むなど無礼の極みなのだが、この屋敷では寧ろ有難いと言ってよい。食事時以外、主人が極端に寡黙だからだ。その食事時も、レアンの言いたい事をただ聞いているだけとも言えるのが問題ではあるのだが。

 結果として殆どこの二人の侍女やダンテと話している形になり、こちらはそれなりに打ち解けてきている。ヘーリアンティアの意識としては既に友人に近い。そこで気になる事が有るのだ。

「しかし、ダンテ殿が日に日にやつれているのですが……」

 どうもこの屋敷を取り仕切っているのはダンテらしい。ダンテは朝も夜もなく走り回り、屋敷に帰って来ても黒服達に指示を出しながら書き物机に張り付いて書類仕事に精を出している。『金色』の抱える揉め事を解決すべく奔走しているのだろう。

 屋敷を訪れた初日はまだしも元気そうではあったが、昨夜一緒に食卓を囲んだ時には金色の体毛からはすっかり艶が失われていた。見かねたヘーリアンティアが疲労に効く薬草を調合するとえらく感謝されてしまった。このままでは倒れるのも時間の問題に見える。

「若様に取ってもここは正念場です。

 血を吐いても己の責務を果たすのが男子というものでしょう。

 我々に出来るのは影から見守る事だけですね」

 赤毛の侍女が軽い調子でそれらしい事を言う。非常に他人事な様子だ。この娘は侍女というには些か気安い性格で、無表情が基本の侍女の身でありながらいつも陽気な笑顔を浮かべている。それでいて立ち振る舞いは優雅なものなのだから風変わりな使用人だ。

「差し出がましいですが、『黒狼』殿も書き物位はやってもよい気がするのですが」

 何といってもこの男は踏ん反り返っているだけだ。視線を向けると、レアンは面倒の極みだと言うように吐き捨てる。

「字など書けん」

「じゃあ配下の方々に指図をしたり」

「好きに動けばよかろう」

「……せめて有事に備えて体を鍛えたり」

 赤毛の侍女が吹き出す。

「お嬢様も変な事を言いますね。無法者に勤勉である事を求めるなんて」

「でもアニータ、ダンテ殿は精力的に働いていますよ」

 赤毛の侍女、アニータは面白くて仕方がないといった風に言う。

「人には役割があります。

 主の役割は最後の最後、舞台で言えば見せ場に当たる場面ですよ。

 木っ端に出来るのはその露払いだけです」

 恐ろしい事に、アニータにかかればダンテですら三下扱いだ。どうもこの二人の侍女はレアンの直属の様で、他の使用人達の中でも別格の存在であるらしい。

「お待たせ致しました」

 黙していたもう一人の侍女が声を出す。綺麗な金髪をしたその侍女は、先ほどから作業台で飲み物をこしらえていた。素早く、しかし優雅にレアンとヘーリアンティアに供されたその飲み物は、カファの実を煮出した珍しい物だ。

 カファの実は南方大陸で育つ植物の種だ。古くは砂漠の民の神官が徹夜の儀式を行う際に秘薬として用いたらしい。最近では眠気覚ましや興奮、強心の薬効が確認されて此方の医者も注目している。ヘーリアンティアも修道院で何度か食べてみた事があった。しかし、気候が合わないらしくここいらでは育たない為、中々に高価な薬なのだ。ゲルマニカでも見た事があったが、遥か南から運ばれて来たそれは更に高かった。

 そんな貴重な薬を何故飲んでいるのかというと、どうもポンペイ近辺ではカファの種を煮出して飲むのが嗜好品として流行しているらしい。葡萄酒や麦酒を飲めばどうしたって多少は酔う。酔っ払っての口約束が身の破滅に繋がる商人や貴族達は、カファを頭の働きを軽くする神秘の霊薬と褒め称え、これを出す街角の店は良からぬ相談事をする上流階級で大変な繁盛ぶりだそうだ。この街だけでも専門店が数百軒も在るらしいのだから、大変な人気ぶりと言える。そしてレアンも都会人らしい敏感さで流行に後れず、カファを非常に好んでいるのだ。

 杯に入れられたカファの煮出し汁は染料のように真っ黒で、最初は飲むのを躊躇ってしまったものだ。砂糖無しで入れてもらったそれは非常に苦味が強く、思わず顔を顰めてレアンの失笑をかったのが腹立たしい。今では砂糖をたっぷり入れてもらっている。

 杯を手に取って一口飲む。香ばしさと苦味、砂糖の甘さが口の中に広がる。何度か飲んで慣れてくると確かに美味しい物だ。

「クラリーチェ、よい加減ですよ。美味しいです」

 金髪の侍女が黙って頭を下げる。赤毛のアニータと反対に寡黙な娘なのだ。

「砂糖を入れて美味いも糞もあるか」

 レアンが杯を片手に言う。

「カファはその苦味と焙煎された香ばしさを愉しむものだ。

 砂糖など入れては純粋な味わいに濁りが生じる。

 雑な舌をしているものだな」

 口を開けば開いたで実に煩い男である。 

「甘みと苦味の調和を愉しむという考え方も有ると思いますがね」

「混ぜては味がぼやける。粋じゃない」

「生憎、田舎者でして」

 ヘーリアンティアは憮然として残りのカファを飲み干した。挽いた種を煮出すので粉が口に残りやすいのが難点だ。

 レアンは卓の上で足を組んで踏ん反り返ったまま余裕綽々でカファを愉しんでいる。無作法の極みだが、不思議と無頼漢らしい粋な仕草にも見える。そこがまた小癪なところだった。仕事もしない穀潰しなど、畏まって座っていれば宜しい。

「お嬢様は面白い人ですね。ずっとこの屋敷で暮らせば良いのではないですか?」

 レアンとヘーリアンティアの遣り取りを笑顔で眺めていたアニータが不意に言う。

「急にどうしたのですか?」

「主に物怖じしない人は珍しいですからね。

 私が知る限り、そんな方はイニャツィオ様と若様しかいらっしゃいません。

 お嬢様が滞在されれば、主も退屈しないかと思いまして」

「有り難いお言葉ですが、私は迷宮学園に入学する為にポンペイに来ましたので」

「ここから通えばよいのではないですか?

 馬車ならそんなにかかりませんよ」

 地図を見せてもらった時に確認したのだが、この屋敷は港湾区の内陸側の端の方に在る。一方、学園は冒険者組合の研究機関や方術士の個人研究室が立ち並ぶ内陸の学術区に在る。確かにそれ程距離が有る訳ではない。

「学園の寄宿舎に入ろうかと思っていたのですが」

 調べたところ、迷宮学園は成績優秀者に凄まじい優遇を与えてくれる。寄宿舎も無料で使用できる筈だ。無論、優良株として学園に潜り込む算段は有る。

「この屋敷の方が安全ですよ。お嬢様のような育ちの良い方には危険な街ですからね。

 余程の愚か者でない限り、誰もこの屋敷の住人には手出しして来ません。

 主よ、質問をお許し下さい。

 お嬢様が滞在されても宜しいですよね?」

 アニータもレアンに対してだけは恭しい姿勢を取る。レアンはヘーリアンティアを一瞥して面倒そうに言った。

「俺の腰に縋り付いて上手くおねだり出来たら考えてやる」

 ヘーリアンティアは微笑んだ。

「ヘキちゃん、彼の腰にへばり付いて差し上げて」


 別にレアンに縋り付いた訳ではないが、何だかんだでこの屋敷に滞在する事になった。

 一応これで当初の目的の一つであるポンペイの裏社会に通じる人間との伝手は確保出来た事になる。何と言ってもこの屋敷の者は全員裏社会の住人だ。部外者に教えて差し支えない事は誰かしらに聞けば答えてくれるだろう。

 現状で差し当たりやらなければならないのは学園の入学試験と仲間を探す事だ。入学試験にはまだ間があるし、今更慌てて勉強しても仕方がない。問題は仲間だ。

 イニャツィオはレアンを強く勧めていた。それとなくダンテやアニータ、クラリーチェに聞いてみてもレアンを褒めそうやしていた。曰く、最強の殺手だという。ヘーリアンティアには今一つ分からないが、半ば戦う事が生業の彼らが言うのだから強いのだろう。殺し屋というのが恐ろしいところではあるが。

 あの人柄もどうかとは思うが、まあ許容出来なくもない。確かに面倒な男だが、ゲルマニカでは蝶よ花よと育てられ、修道院でも概ね上品な人間と暮らしていたヘーリアンティアには、あの下品で傲然とした部分が新鮮で刺激的でもあった。生まれも育ちも全く違うからこそ友人は面白い。癪な事に彼を見ていると、何故かあの老人を思い出す。

 問題はレアンの意思だ。彼の求めるところが分からない。人間は何らかの欲求を核に行動するとヘーリアンティアは考える。ヘーリアンティアの核は好奇心だ。そこに貴族としての責任や様々な人間から受けた影響、想いが加わり今の自分を形作っている。

 では、レアンの核は何か。美食を好むのは単なる嗜好だ。その為に行動する者も多いが、レアンは違う気がする。『金色』で高い地位に着いた結果、美食を愉しんでいるのであって、美食の為にその地位に着いたのではない。では地位そのものを求めているのかと言うとそれも違いそうだ。

 世の中には富や名声を得る為に地位を求める者が多く存在する。人間としては当然の欲求だ。ヘーリアンティアは名声欲が薄い方だが、それは貴族に産まれて初めから恵まれた立場に在るからだ。参考にはならない。

 自分の能力を認めさせたい、侮られたくないという思いから現状より上の地位を求めるのは人間ならば極めて自然な事である。イニャツィオやダンテだってそうだろう。しかし、レアンには当てはまらないと感じる。

 彼はもっと浮世離れしている。根本的に他人の評価を必要としていない。それは他人を必要としない事にも繋がる。あの傲慢な態度も他者への無関心の表れだろう。思えば、存在感はあるのにどこか空虚な印象を受ける男だ。

 そこで、蜥蜴族の戦士スクァーマが幼い頃にしてくれた話を思い出す。強い戦士は空っぽなのだとスクァーマは言っていた。今になって考えると奥深い話だ。レアンという人間を考える糸口はそこにあると感じる。

 改めて考えてみる。空、とはどういう状態なのか?

 一切合財の執着を捨て去る事が出来れば、それは確かに強いかもしれない。スクァーマに学んで以来、ヘーリアンティアも幾度かの実戦は経験した。躊躇いや憐れみが行動の遅れに繋がり、怒りや殺気が敵に動作を読まれる原因になる事は実戦を通して理解出来た。確かに、そういった感傷を生む根源を一つずつ捨てて行けば、戦士としての理想には近づくかもしれない。しかし、人間にそんな事が可能なのだろうか? 

 ヘーリアンティアとて、戦いの中でそれなりのものを捨て去ったとは感じる。それは幼い甘さであり、命を奪う躊躇いであり、殺意に対する恐れである。他にも沢山のものを捨てたのだろう。だが、これ以上のもの、例えば根本的な生命に対する執着や、矜持、善性、公正など到底捨てられそうにない。捨てられないし、捨ててはならないと感じる。おぼろげながらも理解出来る。如何に大きな魔力を持ち、多彩な方術を使えても、自分は戦う者としては二流にしかなれないだろう。

 ただひたすらに強さを求める戦士は、魂の不純物を振り払い、敵を断つだけの存在と己を為すのだろうか?

 過酷な環境で戦いに明け暮れた戦士は、生き残る為に全ての柔らかい感傷を捨てて進むのだろうか? 

 しかし、思う。それでは人間というよりも、最早――。


「こりゃあ姐御じゃあないですかい。こんなところで難しい顔をしてどうされたんで?」

 急に話しかけられて驚く。そういえば廊下を移動している最中だった。考え込んだら周りが見えなくなるのは昔からの悪癖の一つだ。

「いえ、何でもありませんよ」

 目の前の、中折れ帽を粋に被った大柄な男には見覚えがある。初日に下品な野次をあげてレアンに吹き飛ばされていた大男だ。ちょっと気懸かりだったのだが、見る限り元気そうだ。

「もの凄い飛び方でしたから心配していたのですよ。ご無事だった様ですね。

 しかし、姐御とは?」

 男は初日とは打って変わった態度で、へこへこと頭を下げながら調子良く捲くし立てる。

「おお、姐御に気遣って頂くとは光栄の極みでさ!

 まったく、兄貴に殴られて生きているなんて自分でも信じられませんぜ。

 一生分の幸運を使っちゃいませんかね? 

 怖ろしくて碌に博打も打ってねえや。

 いや、しかし姉御は今日もお綺麗ですな。流石兄貴の女だ」

「は?」

 耳がおかしくなったのだろうか? 今、とんでもない事を言われた様な……。

「アニータやクラリーチェも良い女だが姐御はなんて言うか、ものが違うよな。

 気品があるって言うのかね?

 屋敷でも評判になってますぜ。あの気難しい兄貴が自室に引きずり込んで外に出さねえんだから」

「いや、それは」

「おおっと、別に兄貴を悪く言ってる訳じゃあねえんで。

 ただ、姉御にゃ優しくても俺らに取っちゃ恐ろしいお人ってだけだ。

 俺なんざあの黒い眼で見られるだけでぶるっちまう。

 いや、俺が特別腰抜けって訳じゃあねえ。皆口には出さないがそうなのさ。そこのところは飲み込んでくれ。

 なんせあのお人の強さときたら、同じ人間とはとても信じられねぇ。

 その兄貴を向こうに回すんだから、海賊どもも恐いよなぁ。俺もよく今まで生きてられたもんだ。

 あ、言い忘れちまったが、俺は『幸運』のカルロってぇちんけな野郎だ。

 こう見えて、この街じゃあちったぁ知られた名なんだぜ」

「あ、これはご丁寧に。私は」

「今は大した芽が出ねぇがこのままじゃあ終わらねぇ。なに、長い人生手前を安く売る事も有らぁな。花と一緒さ。地面の下で堪えるからこそ奴らは最後に一花咲かせる。俺の場合は咲く花もでかいからな。苦労の時期も長いってだけの話さ。その点兄貴は凄ぇよな。知ってるかい? まだ二十もいってないって話だぜ。あ、そこは姐御も同じだよな。良いねぇ若いってのは」

「いや、あの」

「俺も若い頃はやんちゃだったもんさ。三股なんてしちゃったりな。これでも道を歩いてりゃ女の方から寄って来るだけの器量はあるんだぜ。最後にゃ刃物を持った三人に囲まれて詫びを入れさせられたがな。女ってのはどうしてああなのかね。三股も甲斐性だろうに。あ、考えりゃ兄貴も三人侍らせているか。姉御は正妻なんだからそこら辺寛大に成らなくっちゃな。無頼漢の女ってのは辛抱が肝だ。肩で風を切り死地に向かう男に黙って頭を下げる女。男は死を覚悟しているが女は察して引き止めはしない。男は戦って死に、女は忍んで生き延びる。これが美しい男女の役割さ」

「…………」

「まあ兄貴を殺せる人間が居たらそれはそれで恐いけどな。あのお人は自分の事なんて何も話さねぇが、どうもこの街で餓鬼の頃から一人で生きて来たらしい。噂じゃ俺の背丈の半分位の頃から負けた事なんてないらしいぜ。どうなってるのかね、全く。天才って奴? 俺もあんなに強けりゃ人生楽なんだがなぁ。何にもせずに踏ん反り返って部下を顎で使う。人間これに勝るものはねぇやな。いや、勿論イニャツィオの親父の命なら見事に死んで見せるさ。けどよ、猫やら虎やらも普段は寝転んで英気を養ってるじゃねぇかい。俺も一緒さ。寝ているように見えてその実、弓を限界まで引き絞った様にその魂は臨戦の構えを取ってるんだ。大きな弩を巻き上げるのには時間が掛かる。そういう事さ」

「…………」

「そこでものは相談なんだが、あれだよ、俺の立場というか地位を、な。いやいや、別に兄貴やら若の采配にけちを付けようってんじゃねぇ。ただな、俺は人を使ってこそ身に秘めた真価を余すことなく発揮するはずなんだよ。そこのところを兄貴に、な。姐御が寝台の上で可愛らしくねだれば兄貴も悪い気はしねぇさ。そこで下積みに埋もれていた名将を見出す姐御。まさに良妻賢母の鏡。兄貴も惚れ直す事請負だ。俺も幸せ、姐御も幸せ。お互い上手くやりましょうや。

 ……分かっているとは思う、分かっているとは思うがくれぐれも内密にな。俺がこんな事を言っているのが知れたら、はは。もう笑うしかないわな。『金色』は得難い才能を己の手で摘む事になっちまう。重ねて言うが、内密に、な」

 男は薄っぺらい笑顔で一方的に捲くし立てると、へこへこと頭を下げて去って行った。

「…………」

 顎に手を当てて考える。あの男の芽がどうこうの話は兎も角として、幾つか興味深い事も聞く事が出来た。

 差し当たり、自分がレアンの情婦だと思われている事は全力で否定しなければなるまい。


 その日の夕食も趣向を凝らした素晴らしいものだった。昼間に浴びる程飲んでいるカファといい、こんな贅沢をしていてよいのか考え込んでしまう位だ。

「つまり、最近ここいらでは大昔を真似るのが流行っている。

 だが、ローマで持て囃された珍味にも実際食ってみれば大して美味くない物は多い。

 駱駝の瘤を食った事が有るが、大した事はなかったな」

「凄い物まで食べていますね。

 確かにローマ時代の書物では美食の極みと紹介されていたりもしますが……。

 実際どうなのですか?

 単なる脂肪の塊という見解も目にした記憶があるのですが」

「単なる脂肪の塊だ。

 牛や豚と大して変わらん。しかも脂肪なだけあって味がのりにくい。

 調理法も万全とは言えなかったが、物足りなかったのは鮮度の問題があるかもしれない。

 干した物だったが、運んでくる間に劣化した可能性がある。

 その内生きている駱駝を取り寄せたいものだ」

 相変わらずレアンの食に対する情熱は凄まじいものがある。偏屈な性格に目を瞑れば言っている事は案外興味深く、最近ではヘーリアンティアも食事の時間が楽しみになってきている。

「さて、今夜のお楽しみの一皿だ。

 兄貴も言っていたが、最近巷ではローマ時代の物が珍重されているのでな。

 ここはその流行に乗ってみた」

 ダンテが、ヘーリアンティアが調合した薬草茶を不味そうに啜りながら言う。

 悲しい事に、薬というものは薬効を優先すると味が残念な事になる。そして、今回調合した薬を効率良く身体に吸収する為には食事中に摂取するのが望ましいのだ。食中に薬を取る事は飲み忘れを防止する効果もある。薬というものは定期的に摂らないと意味がない為、これは案外に大事な事だ。食事中に好んで不味い物を口に入れる事にはレアンが非常な難色を示したが、ダンテの身体の為に呑み込んでもらった。元を正せば、踏ん反り返るだけのレアンにも非が有りそうなものだが。

 話し振りを聞くに、ダンテは多忙な中食事の手配までしてくれている様なのだ。こちらはただで飲み食いしているだけなので、思わず気を使ってしまうのも仕方がないところである。相変わらず毛艶はないが、やつれた顔に浮かぶ表情は力強い。態度も変わらず紳士的で、レアンより余程一区画の長らしい。

 ダンテの言葉を待って、金髪の侍女クラリーチェが供したのは麦の粥だった。特に具が入っている訳でもない素朴な物だ。

「粥ですか。確かにローマの民は粥を好んだ様ですね。

 今では殆どパンにしてしまうので、粥を常食する地方は珍しい様ですが」

「食ってみろ」

 レアンに進められ、一口食べる。水とごく少量の塩だけで作られたと思われる質素なもので、上手く炊いてあるが普通の粥だ。ここに来る前なら意表を突かれたかも知れないが、毎回趣向を凝らした料理が出る事に慣れてしまったのかも知れない。正直に言えばあまり感動しなかった。

「普通の粥だろう」

「そうですね……」

 普通としか言いようがなく言葉に困る。そんなヘーリアンティアを面白そうに眺めていたダンテが言う。

「兄貴は意地が悪いからな。お嬢さん、今回の主役はこれさ」

 ダンテに促され、アニータが壷を持って来る。蓋を開けると、魚臭いような非常に独特の匂いがする。

「それをかけて食うのさ」

「これは、もしかして」

 ヘーリアンティアには思い当たる物があった。だが、ローマの文化をそれなりに受け継いでいると自負するゲルマニカにおいても非常に珍しい物だ。まさかこんな場所でお目にかかる事になろうとは。

 壷の中の黒っぽい液体を一匙粥にかけて口に入れる。発酵した魚の風味と独特の旨み、塩辛さが口の中に広がる。粥が淡い味付けなので、繊細な味わいがよく分かった。

「ガルムですね。しかもかなりの上物と見受けられます」

「流石に博識だな」

 ダンテが感心した様に声を出す。

 ガルムはローマ全域で好まれた調味液で、塩漬けした魚を天日に当て発酵させて作る。様々な料理に使われる他に、葡萄酒で割って飲んだり、薬としても使われたという。発酵中はとんでもない悪臭を放つ為、市街地から離れた場所で製造されたらしいが、完成したものは好きな者には堪らない特有の香りとなる。

「ローマの崩壊と同時に殆ど作られなくなったと聞きましたが、ここらではまだ作っているのですか?」

 ゲルマニカでも一部の地域では作っているが、日常的に口にする物ではなく好事家向けに売られているらしい。

「ローマの物が珍重されていると言っただろう。

 それを当て込んでこういった物をこしらえる連中もいるという事だ」

 ダンテも同じくガルムをかけて粥を口にする。

「正直に言うと、俺はそんなに美味いとは思わないのだがな」

「風味が独特ですからね。私は子供の頃からそれなりに食べているので。

 慣れると中々味わい深いものですよ」

「これはマグロを使った最上の物だ。不味かろう筈は――」

 レアンが突然言葉を切って立ち上がる。素早く窓際に歩み寄ると、窓掛けを開き外を窺う。

 一拍子遅れてダンテも立ち上がり剣を手に取る。二人の侍女はヘーリアンティアを庇う様な位置に陣取った。

「兄貴、敵か」

 ダンテが気配を窺うようにレアンに歩み寄る。気が付けばアニータもクラリーチェも小刀を握っている。何処から出したのだ? ヘーリアンティアは事態に付いて行けず固まるしかない。

 レアンは薄暗い夜の街を見通すように無言で窓の外に視線を向けている。懐から煙草入れを取り出し一本抜き取る。ダンテが火を点けると、大きく紫煙を吐いた。

「中々使える。警戒しておけ」

 その言葉を聞くや否やダンテが駆け出す。二人の侍女も表情を厳しくした。

「まさか、敵襲ですか」

 ヘーリアンティアもただならぬ空気を感じ取り、傍らの杖を手にする。

「ご安心を。お嬢様が心配される事など何も有りません」

「今夜は失礼ながら私どもが付かせて頂きます。安心してお休み下さい」

 表情を和らげてアニータとクラリーチェが順に言うが、空気は張り詰めたままだ。視線をレアンに向ける。窓際から離れた最強の殺手と称される無頼漢は、凪いだ瞳にあまりに静かな気配を纏ったまま椅子に腰を下ろす。

「戦いになるのですか?」

 問いかけにも黙したまま紫煙を燻らせるのみ。

 だがそれが、ヘーリアンティアの問いを肯定している様に思えた。


「化け物だな」

 襤褸を纏った小さな影が、日に炙られた大地の様に乾いた声を出す。

「この距離から感知されたぞ。野生の獣の方がまだ可愛げが有る」

 顔面に凄まじい傷を持つ男が唾を吐き捨てる。

「近づく事も出来ぬとはな。大した暗殺者様だ」

「返す言葉もない。想像以上の使い手だ。

 あの歳で何をやったらあれ程の階位に達するのか」

 乾いた声に感嘆するような、呆れたような調子を滲ませる。

「糞野郎は餓鬼の頃からたった一人でこの街で生きて来た。

 薄汚い鼠の様に隠れてじゃあない。

 路地裏に踏み込めば、とち狂った冒険者崩れやら魔獣やらが腐る程に居るこの街で、女も抱けない様な歳から肩で風を切ってやがった。

 歯向かった奴は大方殺された。

 名の有る冒険者だろうが、裏社会の顔役だろうが例外じゃない」

 傷の男の声には燃え盛る憎悪と共に、想い人に焦がれる乙女の様な響きが有った。

「大地は広いな。この歳であんな怪物とぶつかるとは。

 ……おい、戦気を抑えろ。位置を特定されるぞ」

 小さな影がたしなめると、襤褸を纏った巨体から放たれていた猛々しい気配が霧散する。しかし、興奮を隠し切れない様にその体は震えていた。

「木偶の坊はやる気十分じゃないか」

「仕掛けるにはまだ早い」

 傷の男が口元を吊り上げるが、小さな影が切って捨てる。

「部下のごろつきどもも、それなりに使える。

 亀のように身を固めている今攻めるのは得策ではない」

「あんたは呪い使いだろうが。方術で薙ぎ払えんのか?」

「学のない君に教えてやるとね、ああいった邸宅には何重にも対方術結界が張られている。

 悠長に結界破りをする暇はないし、大方術をぶつけても致命打にはならない。

 貴重な触媒を無駄に消耗するだけだ」

「侵入しようにも糞野郎の感知網は誤魔化せない、か。

 どう攻める心算だ? 

 まさか、お手上げとは言うまいな?」

 傷の男が小さな影を見据える。

「ああいった手合いを殺すには、腰を据えての持久戦が最良なのだがな。

 古来、数多の英雄が暗殺者の前に倒れて来た。何故だか分るかい? 

 生きている限り、一瞬たりとも気を抜かない事など不可能だからだよ。

 何年も、何十年もかけて勝機を待つ。

 それが暗殺者の戦い方だ」

「時間がない。それは出来ぬと言っているだろうが」

 傷の男の声が怒気を帯びる。右目の傷が紅潮する。

「それは君を使っている人間の都合だろう?」

 不意を突かれ、黙り込む。

「如何に君が死ぬ思いで貯めようとも、我々を雇う金は個人でそうそう捻り出せるものではないよ。

 無駄死にしたくなければ帰って相談するのだね」

「無理だ」

 男はくたびれた様に言う。

「こちらにも事情は有る。期日内に奴を殺す。俺に出来る事はそれだけだ」

「はっ。復讐の狂犬も出資者には尻尾を振る、か」

「……無様だろうがな」

「無様だが、人間などそんなものだな」

 小さな影が自嘲するように言う。

「お前にも使える人間は居るのだろう? 

 ありったけ集めろ。搦め手で一石投じる。

 場合によっては妙機も生まれるぞ」


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