お嬢様と悪漢5
レアンの屋敷は、立派な家屋が連なる大通りから少し離れた場所に在った。おそらく羽振りの良い大商人や商船の所有者が住む区域なのだろう。『金色』の本拠地が在る高級住宅街には見劣りするが、家々の警備も厳重なものだ。
そんな中でも一際広い敷地を持つこの屋敷は、気を張っていると言うよりは最早殺気立っていると言った方が正しそうな荒々しい黒服の男達に守られている。贔屓目に見ても夜会服を着た洒落者の山賊といった風貌の集団を見るに、普段であれば招かれても絶対に遠慮する様な空間だ。
だが、飢えた狼の様だった男達がレアンの姿を認めて番犬の様に従順になるのを見る限り、最低限の統制は取れていそうだ。取って食べられる事もないだろう。ない筈だ。ないと言って欲しい。
ヘーリアンティアは引きつりそうになる顔に無理やり他所行きの表情を貼り付けて馬車を降りた。途端に下品な歓声が揚がる。
「流石は兄貴、凄い上玉じゃあないですかい。
貴族のお姫さまと言われたって信じちまいそうだ。
一体何処から攫って来たんで?
しかし、聖職者を組み伏せるのがお好みとは、兄貴も乙な趣味ですな」
……本当に大丈夫なのだろうか?
突然、ヘーリアンティアの前で一際大きな野次を放っていた男が吹き飛ぶ。
見上げるような巨体が冗談の様に錐揉みに宙を舞って地に落ち、その勢いのまま二回転、三回転と転がって行く。転がり終えた男は白目を剥き、泡を吹いて微動だにしない。
「へ?」
唖然とする。今、何が起こったの?
恐る恐る横を向くと、レアンが煙草を咥えたままひょいと腕を突き出している。
「客」
一言呟く。途端に男達の態度が一変した。下品な眼差しを向けていた事を恥じる様に下を向き、レアンに対する様に恭しく腰を折る。その中で唯一直立し、ズボンの衣嚢に手を入れている狼族の男がこちらに近付き、口を開く。
「兄貴、そちらが話しにあった客人か」
怜悧な瞳の若い男だ。歳はヘーリアンティアやレアンより少し上だろうか。幾分毛艶がない気もするが、その特徴的な金色の体毛は見間違いようがない。
「ヘーリアンティア=ユリウス=ゲルマニカと申します。
暫く逗留させて頂く事になりました。
失礼ですが、イニャツィオ殿の御一族の方でしょうか?」
「いかにも。
息子のダンテだ。客人はゆるりと寛がれるがよかろう。
この馬鹿面を晒す能無しどもにはよく言って聞かせておく」
ダンテと名乗った若者は、レアンの横に並ぶと声を張り上げる。
「糞に涌く蛆虫程にも記憶力が無いお前らに言っておく。
こちらのお嬢さんは親父と兄貴の大切な客人だ。
間違っても、お前らが無い知恵を絞って口説く夜鷹と一緒にするなよ。
仮に無礼があれば命で購って貰う。死にたくなければ犬の如く従順になる事だ」
「へいッ」
山賊と見紛う無頼漢達が一斉に声を張り上げる。表現は些か下品だが大した統率力だ。父親譲りと言ったところだろうか。
「さて、屋敷を案内するとしよう」
さっさと歩き出したレアンと対称的に、ダンテは実に紳士的だ。その案内に従って歩き始める。ちらりと凄い吹き飛び方をした男の方を見ると、まだ倒れている男の周りに何人かが集まって、頬を張ったり足で小突いたりしている。
「先程は、『黒狼』殿が?
……まさか、死んではいないですよね?
危険な状態なら、治療には些か心得がありますが」
「飛んだだけだ。死にはしないさ、おそらくな。
客人は阿呆の相手などせず、まずは旅の垢を流すのが良い。侍女に用意させるとしよう。 その後は夕食を振舞わせて頂く」
「あ、はい……」
倒れ伏す男など気にも留めずにダンテは歩いて行く。それに倣って進むと、後ろから男達の声が聞こえた。
「あーあ、死んでないだろうな」
「この馬鹿にゃ博打の貸しがたんまりと有るんだぜ」
「面倒だから転がしておけ。生きてりゃその内起きる」
侍女に案内された浴室は中々に豪奢な造りだった。
それもその筈で、この屋敷はかつて他国の貴族が住んでいたのを買い取った物らしい。それに加えて、この街はローマ時代に整備された上下水道がやはりまだ生きている様なのだ。無論上層は火山噴火時の土石流に埋まっているが、掘り起こせば使用に耐えるらしい。同じくローマの上下水道が健在だったゲルマニカで産まれ、水の豊富な修道院でも入浴の習慣があったヘーリアンティアとしては、毎日入浴出来るのは嬉しい事だった。水に乏しい地域ではこうは行かない。
上機嫌で風呂から上がり、身繕いを済ませると直ぐに夕食を頂く事になった。ヘキの食事は別に用意してくれるという事なので、侍女に預けるとする。
通された食堂も風呂場と同じく良い造りで、並べられた調度品も品の良い逸品揃いだった。長方形の卓の上座にレアンが着き、次にダンテが座るとその向かいがヘーリアンティアの席となる。
そこで、違和感を感じる。
何だろうと考えてみるに、レアンが煙草を咥えていない。紹介されてから今まで、何処でもお構いなしに紫煙を吐いていた彼には珍しい事だ。卓にも行儀悪く足を乗せていない。イニャツィオの屋敷の素晴らしい卓にも平気で足を乗せていたこの男も、食卓には流石に足を置かないのだろうか? 釈然としないものを感じるヘーリアンティアを余所に、会食が始まる。
まずは葡萄酒が振舞われた。これは本来最上位者が、樽から容器に移した葡萄酒を各々の杯に注いで回るのが作法らしいのだが、レアンは面倒がってやらないという。ダンテが代わりに葡萄酒を注ぎながらそう教えてくれる。
一口飲んでみる。非常に軽い口当たりで、食前酒には良さそうだ。とは言え、ゲルマニカの辺りでは気候的な制約から葡萄の栽培が南の地域に限られている為、ヘーリアンティアもあまり葡萄酒を飲みつけている訳ではない。修道院でも葡萄酒は作っていたが、飲料水代わりの代物だ。こういった場で出される葡萄酒の味をどうこう言う程の知識はない。
「あまり葡萄酒には詳しくないので申し訳ないのですが。
とても口当たりが良いと思います」
求められるままに感想を述べるが、気の利いた事など言いようがない。
「当然だ」
突然話し始めたレアンにぎょっとする。
「これから食事をしようという段階で重い酒を飲んでどうする。
口をすすぎ、食への意欲を煽る為に軽い物を選ぶに決まっている。
麦酒ばかり飲んでいる北の連中はそんな事も分からないのか」
饒舌に話すレアンを見て呆気に取られるヘーリアンティアの前に、侍女が前菜を運んで来る。其れは、外側は赤く内は白い『何か』の身を薄く削ぎ切りにして、刻んだ香味野菜と調味液であえた皿だった。
一目見て思い当たる。ヘーリアンティアも幼い頃に領内の海辺の街で食べた記憶が有る。顔を上げてレアンとダンテを見ると、心なしか意地の悪そうな顔でこちらを窺っている様にも見える。確か、当時兄達も同じような顔でヘーリアンティアにこれを勧めたのだ。
ヘーリアンティアが一切れ口に入れて見せると、ダンテなどは面白そうに口を歪めた。
「どうだい、お嬢さん?」
期待に満ちた表情でダンテが口を開く。ここいらでは食事中の会話について煩く言わないのだろう。ヘーリアンティアもそれに従う事にする。
「香味野菜の風味も、塩とオリーブ油の加減も良いですね。とても美味しいです」
「そうかい。ところで、それが何の肉か分かるか?」
ダンテがもう半分笑いながら聞いてくる。こんな悪戯を仕掛けるとは、思ったより洒落っ気の強い人間なのだろう。
「茹でた蛸ですよね。私も最後に食べたのは子供の頃になります」
蛸はローマの時代には何処でも食べていたようなのだが、その後殆どの地域で食べられなくなった生き物だ。蛸にとっては幸いだろうが、代わりに悪魔の魚などと呼ばれて忌み嫌われている。確かにあの姿形はこの世のものではない。
「何だ、知っていたのか」
ダンテは露骨につまらなさそうな顔になる。
「蛸は干しても煮てもいい味が出る。
まだ動いている奴をぶつ切りにして食うのも悪くはないが、火を入れた方が味わいは分かりやすい」
レアンが決して大きくはないが、不思議とよく通る声で言う。先ほどから信じられない程に口数が多い。
「流石に生では食べた事がないですね……」
「生きたままを食うか、腐る寸前を食うのが食の大原則だ。
例外は多々有るが、試してみる価値は有る。
大方、見た目の悪さから敬遠しているのだろう。
未知に切り込む気概もないとは、冒険者が聞いて呆れる」
「…………不勉強を恥じます」
まさか生の蛸を食べた事がないという理由で自分の根本を否定されるとは思わず、ヘーリアンティアは口元を引きつらせる。そして、ヘーリアンティアは薄々レアンという男の性質を掴みつつあった。
確信を持ったのは魚料理が供された時だ。それは内臓を抜いた魚を丸ごと一匹蒸し煮にし、だし汁ごと皿に盛った一品だった。だし汁の色合いを見るに、少量の香味野菜が散らされている他はごく淡い味しかついていなさそうだ。
身を解して口に運ぶ。噛み締めるとほろりと身がほどけ、白身魚の甘い旨みが口の中に広がる。
「これは素晴らしいですね。鱸の淡い味わいが上手に引き出されています。
味付けも必要且つ十分な量に纏められている。上品なものですね」
例によって感想を求められるままに述べると、レアンが平坦な口調で語り出す。
「火入れは難しい。
火の加減も、火にかける時間も、強過ぎても弱過ぎても台無しだ。
その点この蒸し煮は完璧に近い。
身には完全に熱が通されているが、反面、生肉のような甘い瑞々しさがある。
火を通した旨みとこの瑞々しさを調和させる事は難題だ。
味付けも良い。
僅かな香料と塩と出し汁だけで臭みを消し、その身に秘める味わいを余すことなく引き出している。
大体、古い料理人は料理を飾り過ぎた。
手をかける事が悪い訳ではない。しかし、無意味に香辛料を塗し、食えもしない装飾を施し、見栄えだけを求める風潮は悪だ。
この皿を見ろ。最小の仕事で鱸の旨みを存分に表現している。
ここに付け加えるべきものは、何も無い」
つまりこの男は美食家なのだ。口調こそ平坦だが、内容は情熱的且つ深すぎて着いて行けない。ここまで食事に煩い人間は見た事がない位だ。
貴族の中には食事に凝りに凝る者も珍しくないが、生憎ゲルマニカ家は伝統的に食事にあまり拘らない。修道院でも粗食に終始していた為、ヘーリアンティアの食経験は家柄に比して慎ましいものだった。社交に出向いた先でそれなりの物を食べているであろう父でも連れてこなければ、この男と美食談義は出来そうにない。だが、石像のように無口な男が上機嫌で喋っているのだ。ここを突破口に話をしてみるしかない。
「確かに美食が行き過ぎた地方では料理に刺激を求めて、色や香りを第一に重視するそうですね」
「色気の無い小娘と同じで、あんなものは美味くもなんともない」
レアンが吐き捨てるように言う。ヘーリアンティアは初めて成立した会話に感動した。さり気なく馬鹿にされた様な気もするが、ここは敢えて意識から追いやる。
「ええと、見栄えだけの料理というのはアントルメなどと呼ばれるものの事ですか?
私も経験がないのですが、なんでも生きた鳥が入った焼き菓子やら鶴や孔雀の丸焼きやらが珍重されるとか。
甚だしいものになると、葡萄酒の噴水や卓に城の模型を載せた物もあるらしいですね。
もはや食事と言うより目で楽しむ出し物ですかね」
本で仕入れた知識を引っ張り出して披露する。こんな事ならもう少し料理関係の本も読んでおくべきだった。
「話にならない。食えない物は料理とは言わん。
そもそも――」
黙り込んでは会話が成り立たず、話し込んでは口喧しい。面倒且つ厄介な男と言わざるを得ない。だが、差し当たりは会話が成立した事を喜んでおこう。ヘーリアンティアはそう考えてレアンの話に耳を傾けた。
レアンの屋敷での最初の夜はそうして深けていった。
港湾部の深夜。
海と陸の境界も知れない闇に潮と干した魚の臭いが漂う中、一隻の老朽した船から二つの影が降り立った。
一つは並外れて大きく、一つは少女のように小さい。どちらも地味な色の襤褸を纏い、不吉な気配を孕んでいる。
影のような二人を迎えるのは一人の男だ。
「遅い。遅過ぎる。
期日も守れない能無しが伝説の暗殺教団とは笑わせる」
男は異国の言葉で言い放ち、近くの樽を蹴りつける。頑丈な樫の木で出来た樽が一蹴りで微塵に砕ける。
「海の旅に危険は付き物。天候は我々にも変えられんよ」
小さな影も異国の言葉で返す。しわがれた、日に炙られた大地の様に乾いた声だ。
「糞っ垂れの異教徒が。
やるべき事をやってから糞の臭いがする口を開け。
時間がない。お前らにはもう糞を垂れる暇もやらん」
男が唾を吐き捨てる。小さな影が馬鹿にした様な調子で言う。
「誰を殺るのだい?
貴族か? 商人か? 武人か?
楽な相手なら、今晩にも片付けてやるがね」
「糞野郎の姿を紙に『念写』させた物だ」
小さな影が皺にまみれた手で受け取って一瞥する。闇を苦にした様子もない。
「これはこれは。
珍しい顔立ちの小僧だな。遥か東方にはこんな肌の色の連中が住むと云うが」
「これから糞野郎の巣に案内する。警備は笑える程に厳重だが、殺れるな」
「これは厳しいな。難しい仕事だ」
小さな影が、初めて真剣な声を出す。
「執着を感じさせない目だ。こんな眼をした人間は不味い。
随分と殺しているのだろうな。一体何人殺したのか見当もつかないよ。
可能であれば毒殺した方が安全だね」
「そんな事は何年も前から、あらゆる組織が腐る程繰り返している。
この糞野郎は毒に強い上に獣よりも五感が鋭い。毒殺など不可能だ」
「やれやれ、なら首を落とすしかないか。面倒な事だ」
「間違っても正面からは戦うな。
糞野郎はこの街最強の殺手だ」
黙していた巨体が面白い、とでも言う様に襤褸を纏った体を揺する。小さな影が嘲る様に言う。
「我々が敗れるとでも?
――君の様に」
男の顔が歪む。額から右目を抉って唇まで刻まれた四本の傷跡が、紅潮から赤く色付く。
「大層な傷で男前にして貰ったものだ。まさか女と揉めて引っ掻かれた跡でもあるまい」
「……あれは化け物だ。まともに戦って勝てる人間など、いる筈がない」
「君に出来ない事が、我々にも出来ないとは思わない事だ。
後は我々がやるよ。死にたくなければ、君は家で女の乳でも吸っていればよい」
男が歯を食いしばる。呑み込み切れない屈辱を吐き出す様に言う。
「最早、死は恐れぬ。
糞野郎は俺を侮った。
糞に涌く蛆虫を踏み潰す様に殺せた筈の俺を、見下し、嘲り、殺す価値もないと言って見逃がした。
あの時の奴の顔が眼に焼き付いて離れない。糞を見る様なあの黒い目!
思い出す度に傷が疼く。飯を食っても、糞を垂れても、女を抱いても、だ。
奴の首を切り取って右目に俺の一物をぶち込む。俺に残ったのはそれだけだ」
醜く抉られた右目を押さえる男の貌は、赤く黒い憎悪の炎に焼かれていた。反面、残された左目には空虚な色がある。過去も未来も失った人間の眼差しだ。
「好い貌も出来るじゃないか。死兵の眼だな」
小さな影が感心した様に言う。
「これなら君も戦力に数えてよいな。死んでも報酬は頂くがね」
男は脇に転がしていた背負い袋を放り投げた。襤褸を纏った巨体が片手で受け取り、開ける。中には宝石や金貨が溢れんばかりに詰めこまれている。
「どの道、全て失った。もう何もかもどうだってよい」
「君の中には彼しかない、か。まるで恋のようだ」
男は獣のように歯を剥き出す。その顔に浮かぶのは憎悪にも、愉悦にも見えた。
「あいつしか見えない」