お嬢様と悪漢3
迷宮都市ポンペイの高級住宅街には様々な経歴の者が屋敷を構えている。地元の富豪は勿論、他国の貴族や豪商の別邸に、成功した冒険者や名の有る方術士の家屋も連なっている。
その中に在ってなお一際豪奢な造りの屋敷が、イニャツィオ=ルーポが率いる『金色』の本拠地だった。
「寝言を垂れるな」
怒声が響く。
屋敷に在っても一際見事な調度品が並んだ大広間、最高幹部の会談でしか用いられないその部屋は異様な緊張に包まれていた。
重厚な木造の卓の奥、上座につくのが首領である『金色』のイニャツィオ=ルーポ。見事な金色の毛並みを持つ狼頭の男は、仕立ての良い黒の夜会服を粋に着こなし、垢抜けた仕草で葡萄酒の香りを愉しんでいる。部屋が震えそうな怒声を気に留めた素振りも見せない。
だが、その鋭い眼光は後ろに控えた侍従を震え上がらせる。彼の機嫌を損ねて生き延びた者など、片手の指に足りる。
その右手に座る、同じく夜会服を着込んだ獅子頭の男レオーネが、激情収まらず更に声を張り上る。
「糞っ垂れの『氷海の虎』に何人の兄弟が殺られた?
今更和睦だと? 有り得ぬだろうが。
奴らの血でしか、死んでいった兄弟達は弔えぬ」
犬歯を剥き出して吼える。愚直な程に直情で知られる獅子族の男だ。一度敵対すれば、次の瞬間には武器を取り敵地に雪崩れ込む。『金色』の実行隊として敵対者を血の海に沈めて来た姿から『断頭台』の異名を持つ。
あまりの怒りに呼吸もままならない様子のレオーネを見かねて、斜め向かいに座る狐頭の男が声を掛ける。
「落ち着きたまえ、『断頭台』の。
我々は少々はしゃぎ過ぎた。このままでは『氷海』と共倒れだ。
死んでいった兄弟達もそんな事は望むまい」
殺気じみた気勢を放つレオーネと対称的な落ち着いた声色。灰に近い毛色に洒落た夜会服の着こなし。随所に品の良い装飾品を身に着けた狐族の壮年の伊達男は、縄張り内の賭博業を取り仕切り、『金色』の金庫番とも目されていた。
生涯で城が買える程の金を博打で勝ち取ったとも云われ、かつて五度命を対価にした勝負に挑み、その全てを凌ぎ切ったという生粋の博徒だ。人呼んで『幻術』のブォルペ。その異名は幻術じみた指先の業から取られたとも、博徒に伝わる特殊な方術を用いるからとも云われる。
無論、手品の種を明かす勝負師などいない。知った者を生かしておくことも無い。
「賭博屋風情が知ったような口を利くな。
舐めた真似をした連中に血の贖罪を与えるのが俺達の作法だろうが」
レオーネが黄金の鬣を揺らし舌鋒をブォルペに向けるが、伊達男は涼しい顔で言ってのける。
「目的を履き違えるな。
我々の目的はこの街の裏の覇権、その一点だ。
何も戦いが終わる訳ではない。
剣を持っての立ち回りから金貨を用いた潰し合いに変わるだけだ。
尤も――」
ブォルペが怜悧な瞳をレオーネに向ける。
「君の頭で理解出来る事では無かったか。
阿呆は邪魔にならぬ所で剣でも振っていたまえ」
「――何だ、死にたいだけか」
むしろ静かな調子で言い、レオーネが肉食獣を思わせるしなやかな動きで席を立つ。其の手には、いつの間にか剣が握られている。それと同時に、ブォルペが優雅な動きで懐に手を差し入れる。一触即発の瞬間、レオーネの隣で腕を組んで黙していた男が声を発した。
「あんたはどう思う、『黒狼』の?」
戦気がぶつかるまさにその瞬間に調子を外されて、二人が思わず動きを止める。
声を出したのは『最後の民』の壮年の男だった。一点を除いて何処にでもいる様な、うだつの上がらない中年男に見える。だが、その一点が男の顔を一度見たら忘れられないものにしている。顔面に獣の爪で抉られた様な凄まじい傷跡が有るのだ。
その凄惨な向こう傷が示す通り、魔獣との戦闘経験はイニャツィオに匹敵すると言われている。人を遥かに上回る魔獣との立ち回りで鍛えられたのか、戦の呼吸を掴むのが上手い。一声で強者二人の争いを止めて見せた事からも明らかだ。ポンペイの地下に張り巡らされた地下道、通称『墓穴』を根城にする無法者達を取り纏める立場に在る。名を『墓守』チミテーロ。
墓穴とはそもそも、一攫千金を狙う者達がローマの遺品を探してポンペイ中の地下を掘り返した跡だ。無秩序に掘られた地下道は時に繋がり、時に崩落する事を繰り返しながら広がり、今では街の実権を握る冒険者組合ですら把握出来ない規模になっている。
墓穴は各所で迷宮『地下遺跡群』と繋がりながら街の至る所に通じ、そこには地上からあぶれた犯罪者や迷宮から迷い出た魔獣が多数潜んでいる。危険すぎて探索し切れないのだ。混沌の街と呼ばれる地上よりもなお命が安いのが墓穴という場所だった。墓穴の住人は迷路の様に張り巡らされた地下道を生かして密輸、誘拐、裏取引や暗殺などを生業とし、ポンペイの闇で暗躍しているという。その核心に近い部分に位置するのがチミテーロという男だ。
「『氷海』を一番殺した我々の切り札があんただろう。
あんたの意見を聞いてみたいな」
チミテーロの声は大きくはないが不思議によく響く。レオーネとブォルペも思わず『黒狼』と呼ばれた男を見た。
その男は頭の後ろで腕を組んで椅子にもたれ、無造作に組んだ足を黒光りする卓の上に乗せていた。注視されても我関せずと、紙巻煙草を咥えて視線を中空にやっている。若い男だ。身体的特徴からチミテーロと同じく『最後の民』であるのが見て取れる。黒髪黒目に黄色がかった肌の色の珍しい容姿に、身に着けた夜会服も、首元で結ばれたタイも、羽織った外套も全てが黒い。異名の由来だ。
『金色』のイニャツィオを初めとして、最高幹部が並んだこの場においてあまりに無礼な振る舞いだが、咎める者はいない。イニャツィオが許しているからだ。そもそもこの男はイニャツィオの配下ですらなく、対等の客分だった。その事は席順からも窺える。
『金色』イニャツィオを上座に、右手に『断頭台』レオーネ、次に『墓守』チミテーロ。左手に『黒狼』、『幻術』ブォルペが席に着く。利き手の逆となる左手側手前に座らせるのは、己の命を預けるという信頼の証だった。
「何とか言ったらどうだ。お前を相手にしていると石像の前に居る気分になる」
レオーネが苛立たしげに吐き捨てる。持て余した様に、一旦は手に取った剣を床に叩きつける。ブォルペは対称的に優雅に懐から腕を抜き、足を組み直す。
「俺も君の見解には興味があるな。
『氷海』との戦い、君はどう見るのだ?
継戦か、和睦か?」
明確な敵意が混じったレオーネの視線に比べれば、ブォルペの視線は試す風な色を含みながらも柔らかい。そこにチミテーロの静かな瞳も向けられる。
『黒狼』と呼ばれた男は向けられた視線を気にも留めずに、凪いだ瞳をただ上に向ける。静かな男だ。戦士としての強烈な存在感を持つが、同時に視線を外したが最後、見失ってしまいそうなおぼろげな感覚も有る。気配操作に優れた達人に共通して見られる印象だ。
沈黙が満ちる。レオーネも、ブォルペも、チミテーロも声を掛けあぐねる。場に奇妙な緊張が走る。
最初に痺れを切らしたのはレオーネだった。激情を持て余し、眼前の葡萄酒の注がれた杯を床に叩きつける。硝子の砕ける音と共に、吼える。
「お前の仮面顔を見ると吐き気がする。
さっさと喋れ。殺されたいか」
『黒狼』は紫煙を吐き、凪いだ瞳をレオーネに向ける。視線は殺気の欠片も帯びていないが、それでもレオーネの鬣が逆立つ。例えれば大型の魔獣が満腹で機嫌が良いとして、視線を向けられた人間には否応無く戦慄が走る。『黒狼』に見られるのも同じ事だ。
この男の機嫌を害した瞬間、愚か者の首は飛んでいる。それでもなお、レオーネは勢いに任せて言葉を続ける。
「お前も糞っ垂れの雌猫との決着を着けていないだろうがよ。
奴の首が胴体から離れるのを見るまで俺は死に切れぬ。
ここで和睦など出来ぬだろうが、『黒狼』の!」
レオーネが拳を握り締める。肉と骨が軋む凄まじい音が響く。武骨な獅子族が舐めた辛酸と屈辱が否応なく伝わって来る。
「終わりか」
不意に、広間に静かな声が響く。『黒狼』の声だ。それは誰に向けられた言葉だったのか?イニャツィオが厳かな声で告げる。
「腐る程に殺し、殺された。
愉しい祭りは終わりだ。
我々は冒険者協会の仲立ちで『氷海の虎』と協調路線を取る」
「素晴らしい」
ヘーリアンティアは目を輝かせて視線を彷徨わせた。見る物全てが圧倒される程に物珍しい。
迷宮都市ポンペイは同じ信仰を持つ周辺諸国は勿論、砂漠の民や南方大陸とも交易が有る流通の要衝だ。町並みは南方特有の開放感に満ち、並べられた物品は色鮮やかで、行き交う人々は多種多様だ。
そもそもヘーリアンティアの故郷は歴史と伝統を誇る古き良き都市だが、これ程の流通は無く北方特有の落ち着きを持つ街並だった。次に過ごした聖パンテレイモン修道院は人里離れた秘境に在り、浮世離れした学僧と荒くれ者の冒険者が寝食を共にする不思議な場所だった。
一方ポンペイは東西南北の文化が交わる中心点で、日々時代の先端を行く有形無形の流行が生み出されている。つまり、この街に在ってはヘーリアンティアは世間知らずの田舎者でしかない。貴族息女の嗜みとして諸国の情報は頭に入っているが、聞くのと見るのとでは大違いだ。
まず目に着くのが種族の多様さだ。
寒い地域を嫌う蛙族や蜥蜴族の者が多い。彼らは概して同族と群れる事を嫌うのだが、温暖な気候に釣られて各地から集まって来るのだろう。これ程の数を一度に見たのは初めてだ。ラーマが院長を務めている関係か修道院にも蛙族がそれなりにいたが、桁が違う。
蛙族や蜥蜴族は地域によって肌の色合いの傾向が変わるのだが、南方では赤や青など鮮やかな原色の者が多い。そこに他の地域の淡い色合いの者達も混ざって猥雑に行き交うのだから、何とも賑やかな雰囲気だ。そんな中でもあまり蛙族同士、蜥蜴族同士で連れ歩いている様子がないのが彼ららしい。思えばラーマも同族と話し込んだり、連帯を感じている風ではなかった。いや、師は蛙族に限らず誰とも話し込んではいなかったか。
北方では中々見ない見事な鬣を持つ獅子族や美しい毛並みに斑点が有る豹族の者もいる。驚いたのが全身に包帯を巻いた者が骸骨を引き連れて歩いている姿だ。明らかに生物としての活動を停止して、魔力的な存在と化している。噂に聞く南方大陸の不死人だろう。
彼らは一度死んだ後、秘術によって甦り第二の人生を歩むのだ。中には数百年間存在を維持する者もいて、古今の英知を蓄えるのだという。猛烈に声を掛けてみたい衝動に襲われるが、淑女としてあまりにはしたない行動だ。涙を呑んで自重する。
迷宮都市というだけあって防具を着込み武器を携えた者も多い。その一方で、洒落た服を着こなした男女も目を引く。流石に都会だけあって垢抜けたものだ。そういえばここ数年修道服か法衣しか身に着けた記憶がない。ああいった服を着るのも気分が華やいで楽しいだろう。
町並みを見物しながら歩き始める。頭には悪眼立ちしないように外套の覆いを被っているのだが、たまにヘキがそれを押し退けて顔を出し、物珍しげに周りを見渡している。きっと見る物全てが新鮮で驚いているのだろう。
ラーマとは転移門の前で別れた。
教会の本山が在るローマに用事が有るらしい。ここからローマまではたいした距離もない為、彼にかかれば位置情報の混乱もなく直ぐに転移出来る範囲の様だった。
面倒事を嫌う師が好んでローマに行くとも思えないのだが、あれで百年の時を生きる教会の重鎮だ。雑務やしがらみも多い事だろう。忙しい中時間をとってくれた事に感謝する。
大きな道路を歩く道すがら、所々にある露天には目にも鮮やかな果物が山と積まれ、店主の威勢の良い口上が響いている。客達の使う言葉も多彩で、非常に訛りの強い方言や砂漠の民の言葉に加えて南方大陸の言葉も飛び交っている。南方の言葉はヘーリアンティアも読み書き程度は出来るが、聞き取りにはあまり自信がない。現に早口で話されている其れは今一つ理解出来なかった。身近に話せる者がいなかった為の習熟不足だが、この地でなら練習相手には事欠かない。十分に学ぶ事が出来るだろう。今後の課題として頭に残して置く。
露店の中には軽食を出している所も有る様で、茹でた麺に調味液をかけた物を売っているのが珍しい。客達は持参の突き匙に器用に麺を絡めて口に運んでいる。手掴みで頬張る豪快な者も多い。小麦粉を練って細くした麺はこの地方以外ではあまり食べない。ヘーリアンティアも大昔に家族と食べたきりだ。あの時は物珍しさが勝ってあまり味の記憶がない。もう一度食べてみたいが、何はともあれ紹介された元締めの館に向かうのが先だ。
それにしても、乾麺を茹でるには大量の水が要る筈で、水に恵まれた土地である事が窺える。ローマは上水道、下水道を整備する事に執念を燃やした文明であり、おそらくその遺産がまだ生きているのだろう。下水道が整備されている証拠に、街は綺麗なもので悪臭もない。
行き交う馬車を避けて道の端を歩きながら見渡してみると、ずっと平らなのは道だけで周りは非常に起伏に富んでいる。ヘーリアンティアが歩いているのは高級住宅地に向かう大通りの筈だが、平らな土地に真っ白な混凝土の建物が並んでいるかと思えば、突然谷間の様になった部分に差し掛かる。左右の切り立った岩肌には無数の洞窟が掘られ、木製の扉が取り付けられている。かなり高い位置にも窓が在る事から、蟻の巣の様に大岩をくり抜いて利用しているのだろう。
一方で、街の各所には地下へと続く穴も多い。中には『地下遺跡群』に繋がるものも有るのだろう。おそらく迷宮を攻略しながら徐々に下に向けて開拓されていった結果、こういった勾配の激しい奇妙な構造の街になったのだと思われる。無秩序だが人の逞しい生命力も感じさせる光景だ。
そうした景色を楽しみながら歩くと、やがて造りの良い建物が立ち並ぶ一角に出た。高級住宅街だろう。ここいらは穴倉を家にしているといった風ではなく、みな地上に築かれた石作りの家屋だ。どこも立派な門を備え、警備の者が目を光らせている。その気を張った様子に治安が良くない事も窺われる。
此処と比べればゲルマニカの街は長閑なものだった。一段落着けば一度帰ってみても良いかもしれない。家から送られて来る手紙は、顔を見たいという父の嘆きから始まるのが常だった。
高級住宅街を真っ直ぐ行った奥に、目的の屋敷が在った。
周りと比較しても一際広くて立派な造りだ。門の前には、黒い夜会服を着て襟元に黒いタイを締めた男が二人警護として立っている。見事に黒尽くめだ。腰に下げた得物の使い込んだ様子といい、張り詰めながらも自然体の物腰といい、相当な使い手に見える。それはよいのだが、男達の堅気では有り得ない雰囲気には少したじろぐ。
都市型の無頼漢は伊達な格好を好むというが、この夜会服もそうなのだろうか。確かに、無法者としての主張と周囲を威圧する効果は有りそうだ。現に威圧されながらも、ヘーリアンティアは頭に被っていた外套の覆いを外す。黄金の色合いの髪が風になびく。
「失礼、ヘーリアンティア=ユリウス=ゲルマニカと申します。
方術司教ラーマの紹介でイニャツィオ=ルーポ殿にお取り次ぎ願いたいのですが」
訝しげにこちらを見ていた男達の空気が一変する。背筋を伸ばし、跪かんばかりの勢いで紹介状を受け取ると、素早く邸宅に駆けて行った。もっと荒っぽい対応を予想していたヘーリアンティアは拍子抜けする。正直な話、山賊の巣窟のような場所だったらどうしようかと思っていたのだ。これは首領であるイニャツィオの威光が末端まで行き届いているという事なのだろう。暫くして戻って来た男は、丁寧に屋敷の方に先導してくれた。
門を潜った所でぎょっとする。成人した蜥蜴族の男性よりも大きそうな狼が二匹、腹這いになって寛いでいるのだ。狼達は筋肉質な体に艶やかな黒っぽい毛並みを持ち、並みの戦士など一噛みで葬りそうな力を感じさせる。これは話に聞く狼族が使役する戦獣だろう。
戦闘用に血統を調整した狼は、主の命にのみ従う忠実さと大型の熊を正面から噛み殺す獰猛さを併せ持つ。夜目も利き、優れた臭覚で侵入者を見逃さない。番人には打って付けの存在だ。
彼らはヘーリアンティアを円らな瞳で見つめると、寝そべったまま頭を下げる。素晴らしく調教が行き届いている。よく躾けられたそんな仕草を見ると、『冬狂鬼』の一件で一緒に狩りをした猟犬が思い出され、親近感が湧いて来る。超大型の犬だと考えれば可愛らしいものだ。しかし、頭の上のヘキに美味そうだと言わんばかりの粘ついた視線を送って来る事はいただけない。明らかにご馳走だと認識されているヘキが、何とかしろと言うようにヘーリアンティアの頭をぺしぺしと叩いてくる。何とかしてやりたいが、ヘーリアンティアには狼に言う事を聞かせる術は無い。
「あちらの狼さんが私の使い魔に意味深な視線を送っていらっしゃるのですが……。
もしかしておやつの時間なのでしょうか?」
先導してくれる男に声を掛けると、強面を崩して吹き出しながら答えてくれた。
「ご安心を。
奴らは客人の使い魔に無作法を働くほど能無しじゃありませんぜ。
しかし、使い魔殿が一人でこの敷地を散歩するのはお勧め出来ませんやな」
ヘキが当然だと言わんばかりに頭を振る。それを見た男は再び笑うと、屋敷の方に導いてくれる。
屋敷は非常に豪奢な造りをしていた。内部には造りの良い調度品が並んでいる。壁に掛けられた絵画は南方風の開放的な色合いで描かれ、さほど芸術に造詣の深くないヘーリアンティアにも逸品だと分かる物だ。
屋敷内では夜会服を着た男達の他にも、お仕着せを着た侍従や侍女が大勢立ち働いている。そういった者達に囲まれて育ったヘーリアンティアから見ても良い動きをしている。俗に主人の統率力は侍従を見れば分かるというが、イニャツィオなる人物は組織を纏める力に優れているのだろう。
そのまま待たされることもなくイニャツィオの私室の前まで通される。礼を逸しないよう旅人風の外套を脱いで教会での正装姿になると、ヘキを床に降ろす。門番の男に代わって先導してくれた侍従が扉を叩く。
「客人をお連れしました」
「入れ」
低く威圧的な声が返って来る。その時、侍従の顔に恐れの色合いが浮かんだのをヘーリアンティアは見逃さなかった。
表情から感情を読み取るのは貴族の基本技術だ。当然ヘーリアンティアも幼い頃から叩き込まれている。これが出来ない貴族は取り巻きから食いものにされて、骨と皮だけになるのが常だ。故に殆どの貴族は感情を読み取る技術に長け、同時に己の感情を外面に出さない訓練を積んでいる。そしてそれは侍従達も同じだ。主人の感情を読んで求めるものを先読みし、不快感を飲み込んで外面から変化を消さなければ主人の不興をかってしまう。主人の不興が場合によっては死に直結するのが侍従という仕事の厳しさなのだ。
だが、心を揺さぶられたらどうしたって何かしらの変化は現れてしまう。
無頼漢達の元締めなのだから当然といえば当然だが、イニャツィオという人物は相当に恐れられているのだろう。決して錬度の低くない侍従が応答だけで恐れを漏らす。これは恐れを抱くのが当然だと感じ、同じ感情を抱く仲間が大勢居る証拠と見る。一人で気を張っている侍従ならばこんな甘さは見せない。
多数の侍従に恐怖を蔓延させているのは、恐怖により人を統制する方法を選んだからだろうか?
あるいは気性が激しく、無礼打ちが多い人物である可能性も有る。これから始まるのは一世一代の交渉だ。ここで躓いては今までの苦労の幾つかが無駄になりかねない。
ヘーリアンティアは、どんな小さな情報も漏らさないと眼を細め、頭を回転させながら扉を潜る。
結論から言えば、無駄な努力だった。
イニャツィオ=ルーポは想像通り、強面の眼光鋭い人物だった。
美しい金色の体毛に覆われた長身に、仕立ての良い夜会服を洒落た風に着こなしている。一見して財を成した街の名士にも見えるが、隠し切れない凄みと艶の有る危険な雰囲気は、彼が裏社会で鎬を削る無頼漢である事を窺わせる。
他種族の者の年齢は普通分かり辛いのだが、医者としての修行を積んだヘーリアンティアには彼が初老に近い年齢である事が見て取れる。年齢のわりに毛並みが良いのは健康な証拠だろう。
こちらを値踏みする様な、威圧する様な眼を向けるイニャツィオに気後れすまいと、胆に力を込めて挨拶をする。
「お初にお目にかかります。
ラーマの弟子でヘーリアンティア=ユリウス=ゲルマニカと申します。
若輩ながら、教会からは方術――」
「何という事だ!」
「は?」
「俺は今、生まれて初めて運命と言う名の閃光に全身を貫かれている。
俺の心は君という太陽の光輝を浴びて粉々になり、決して元に戻ることはないだろう。
ああ、だがしかし、今はそれが心地良くもある。
何故だか分かるかい、愛らしい人よ」
「い?」
イニャツィオはおもむろに高級そうな椅子から立ち上がると、大仰な仕草で腕を振り、天を仰ぐ。
「愚かな俺は生まれ落ちて今まで唯与えられるだけの定めに従う事を良しとせず、ひたすらに運命を切り開かんと走り抜けて来た。
だが、今、この時この瞬間を以って俺は知った。知ってしまった。
運命を切り開かんと剣を振るう俺は、運命が定めた舞台で踊る悲しい道化だった、と。
その証拠に、君に出逢ってしまった運命には最早抗う事など出来よう筈がない。
愛らしい人よ、どうか愚かで悲しい敗北者である俺に、その清らかな手を差し伸べてはくれないだろうか?」
「……」
イニャツィオは足早に歩み寄ると、ヘーリアンティアの腰に手を回した。長身を折るようにして顔を覗き込んで来る。
「その清楚な顔に戸惑いを浮かべる君はまるで朝霧に濡れる一輪の花のようだ。
だが、愛らしい人よ、どうか微笑んではくれないか?
全ての男は己の為すべき事を探して流離う永遠の旅人だが、どうやら俺の旅は今ここで終わるようだ。
今こそ確信した、俺の果て無き旅路は君の笑顔を見る為だけにあったのだと。
さあ、愛らしい人よ、身に纏う無粋な法衣を脱いで、一緒に寝台に潜り込もう。
誰にも見せた事の無い秘めやかな君を、俺にだけは見せてくれ。
君という花を手折り、堕落させる俺の罪を赦してくれ。
俺の罪深い指先で、俺の為だけに踊ってくれ。
愛らしい人よ、一緒に天国へ旅立とうぶぁ」
主人を口説く不埒者へ、ヘキの跳び蹴りが炸裂した。
「……ヘーリアンティア=ユリウス=ゲルマニカと申します。
ラーマ先生から紹介されて訪ねて参りました」
ヘキを胸に抱いたヘーリアンティアは、表情から呆れの色を消す事に苦心する。
元々感情が表情に表れやすい性質だが、それにしてもこの状況には戸惑いを隠せない。
「『金色』のイニャツィオ=ルーポだ。君に出逢う為に生まれて来たつまらない男さ。
あの偏屈な爺にはうんざりだが、君との出会いを作ってくれた事には感謝してもし切れないな。
粗方話は聞いているぞ。うちの組織が協力する事を約束する。男女が親密になるには、時間を共有するのが一番だからな。
何一つ不自由な思いはさせない。君はただ、俺を受け入れてくれればそれで良い」
仕切り直して机に向かい合い、挨拶を交わす。イニャツィオは身を乗り出し、手を握らんばかりの勢いで話しかけてくる。どうにも冷静な思考が出来ない。どう観察しても彼は本気で口説きにかかっている。ヘーリアンティアが想像していた人物像と現実のイニャツィオには差が有り過ぎた。
「からかわないで下さい。
世間知らずの小娘故、気の利いた事も言えないのです」
あまり上手い返しも思いつかず、取りあえず無難に返事をしてみる。
「おお、愛らしい人はどれだけ俺の心を掻き乱せば気が済むというのか!
この俺の想いを、言葉をからかうなどと。
神に祈った事など無い無骨な俺だが、今、生まれて初めて神に祈りを捧げよう。
どうか俺の真心が彼女に届きますように、と」
イニャツィオはこの世の終わりを見たような悲痛な表情を作り、頭を抱えて一頻り悶えた後、胸に片手を当てヘーリアンティアの手を取った。眼で殺す、とばかりに秋波を送ってくる。
先ほどから一言返せば言葉の洪水が押し寄せて来る有様だ。南方の人間らしい情熱的な様子と芝居がかった大仰さも相まって、いやらしさを感じないのが性質の悪い所だ。
おそらくこの調子で随分浮名を流した人物なのだろう。幼少時に学んだ社交の知識と照らし合わせても、こういった人間はもてる筈だ。ここは話を変えるに限る。
「ラーマ先生は昔からあの調子なのですか?
宜しければ思い出話などお聞かせ願えますか?」
「勿論だとも。
まったく、あの爺の蛙面にはうんざりさせられるものさ。口五月蝿いと言ったらない。
俺の事をまだ二十そこそこの小僧だとでも思っているのじゃあないか?
あの爺が墓の下に入る日を楽しみにしているのだが、蛙族はしぶといものだな。
俺の方が先に墓に入りそうな位だよ」
イニャツィオが顰め面を作ってみせる。本気で嫌がっていると言うよりも悪友を貶してみせるような調子に、ヘーリアンティアは微笑んだ。
「先生に取っては我々など皆子供の様な感覚なのかもしれませんね。
イニャツィオ殿は、『名無し』さんより少し年下な位の年齢ですよね?」
不意に、イニャツィオが表情を消す。
「『名無し』の兄貴か……。
あんたは兄貴の最後を看取ったという話だったな」
大仰な素振りを交えずに、怖い位に真剣な声音で問いかけてくる。ヘーリアンティアもあの日を想い、真摯な声を出す。
「はい。
あの人の想いは、私が受け取りました」
「よければ、その時の事を聞かせて欲しい」
話を聞き終わったイニャツィオは男泣きに泣いた。
初老に近い無法者の頭目が、獣のような嗚咽を漏らして外聞もなく泣き伏せる所を見るのは居た堪れないが、同時にイニャツィオの老人への想いが見て取れ、あたたかい気持ちになる。記憶の中の老人は、路地裏でいつも一人パイプを燻らせていた。ヘーリアンティア達以外と話しているところを見た事もない。そんな老人にも、ラーマやイニャツィオという友人がいたのだ。何か、救われた様な気持になる。
「みっともない所を見せた」
袖で目元を拭うとイニャツィオは顔を上げた。
「とんでもありません。
あの人を慕っておられたのですね」
「兄貴分だった。
酒も、遊びも、戦いも、色んな事を教わった。
二人で馬鹿をやったものだ。
兄貴が安らかに逝ったと聞いて、胸の支えが取れた」
ヘーリアンティアが眉根を寄せる。
「果たしてあの人が心安らかに在れたのか、もっと違う事が出来たのではないかと今も考えます」
「安らかだったさ」
イニャツィオが穏やかに言う。
「兄貴は残すべきものを残した。
あんたが悔やむ事など何一つ無い。
兄貴の友は俺の友だ。俺に出来る事は何でも言ってくれ。
可能な限り力になる」
「有難うございます。
では、厚かましくも早速一つお願いが有ります。
裏家業に通じ、世界の果てに到達するに足る実力を持つ強者を紹介して頂けないでしょうか?
私は現在、共に最果ての地を目指す仲間を求めているのです」
イニャツィオが身を乗り出し、我が事の様に誇らしげに言う。
「まったく愛らしい人は幸運だな。
居るぜ、打って付けの男が。
狼の様に強く誇り高い、この街一番の強者がな」