お嬢様と悪漢2
ヘーリアンティアとラーマは、連れ立って重厚な石造りの本堂を出た。
二人とも正装の上に更に旅人風の外套を羽織っている。所謂お忍び用の格好だ。金色の杖も杖袋に仕舞って目立たなくしている。聖職者というものは何かと悪目立ちし易い故の備えである。
「日差しが強いですね」
ヘーリアンティアが手をかざして空を仰ぐ。頭の上のヘキも釣られて上を向く。
皆に別れの挨拶をしている内に、すっかり日が天頂に昇っている。夏は好きだが、北方出身者の常として南方の厳しい暑さに慣れていないのだ。ここいらはまだ山の上で湖に近接している為涼しい部類だが、ポンペイはどうだろうか。古代ローマの時代には余暇地として栄えた街だった様だが。
「環境の変化は馬鹿に出来ない要素だ。
暫くは『温度操作』の魔導器を携えて体調を崩さない様にしたまえ」
ラーマも水掻きの付いた手をかざして嫌そうに空を見る。彼も暑いのは好まないのだ。
こうして並ぶと、女性としても背が高くない部類のヘーリアンティアと同じ位の身長なのが分かる。その代り横幅は広く、非常にずんぐりとした格好に見える。別にラーマが短躯肥満な訳ではなく、蛙族の者としては平均的な体型なのだ。
蛙族の者は、見た目は鈍重そうだがその脚力は凄まじく、身長の何倍もの高さを跳躍出来る。体も頑丈に出来ているし、水中での活動も苦にしない者が多い。
反面、水に親和性が高い部族の者は水掻きが付いた手があまり細かい作業に向かず、こまめに水分を取らないと体調を崩しやすい。蜥蜴族同様に寒さにも弱い。
また、方術の適正がはっきりとしているのも特徴で、ほぼ水か土の属性しか持たない。ラーマも水棲の蛙族で、代々水術士を輩出する家系に生まれたらしい。彼は反属性の火は勿論、地も風も殆ど使えない代わりに水に極端に高い適正を持っており、長い研鑽の末に生きながらにして既に歴史にその名を刻んでいる。水術や地術の達人にはこういった蛙族の者が多い。
「心得ました。
体調管理は全ての基本ですからね」
「まあ、君も曲がりなりにも医者なのだ。
分かってはいるだろうが、君はどこか抜けているからな」
ラーマの小言とも軽口とも取れる言葉を聞きながら歩く。
石を埋め込んだ道の左右には副堂や食料保存庫、冒険者用の宿舎が立ち並び、その先には葡萄や薬草の畑が在る。
道すがら立ち働く修道士や警備の武僧、馴染みの冒険者達に挨拶していると、やがて修道院を囲う石造りの高い壁が見えて来る。世の常として、この修道院も魔獣や略奪者の侵入を防ぐ為の防壁を備えているのだ。防壁には要所に矢狭間や物見の塔が備わり、外部への警戒の高さが見て取れる。
この修道院は人の世と未踏地の最前線であり、難攻不落の迷宮オフリド湖を攻略する為の前線基地としての役割も持つ。最も近い村へも山路で数日の距離が有り、転移門も備えていない為、移動には困難を伴う。ヘーリアンティアが初めて訪れた時は最寄りの転移門までウェネーに転移してもらい、そこからは徒歩での移動となった。あの時は生まれて初めての冒険に、緊張と期待で胸を高鳴らせたものだった。
あれから数年、巡回医師として同輩達と何度も外に出て、幾度かは魔獣と交戦もした。それでも未だに壁の外に出るのは緊張感が有る。ここから先は人の領域ではない。
外部との行き来は一箇所しかない巻上げ式の門を用いる。門は大きく、ヘーリアンティアの二倍程の高さがある。昼の今は巻き上げられているが、夜や非常時には勿論閉められる。門を守っているのは腕利きの武僧で、アスクレピオス派に伝わる杖術の達人だ。ヘーリアンティアも専ら彼に杖術の手解きを受けた。
「これは、院長殿にヘーリアンティア殿。いよいよ出発されるのですな」
「はい、長らくお世話になりました。
この修道院にて学んだ教えを胸に、遍く迷える民を導くべく精進致します」
笑顔を向けてくる僧に、ヘーリアンティアもなるべく聖職者らしい調子で挨拶する。ラーマは面倒がって返事などしない。
「ヘーリアンティア殿ならば、迷える者も病める者も多く救われる事でしょうよ。
どうか、神の祝福のあらん事を」
「神の祝福のあらん事を」
僧と別れ、門を潜った所でラーマがぼやく。
「どうもここの者は聖職者臭くていかんな」
「先生の様に生臭いよりは健全でしょうけれど」
門を出ると、広大なオフリド湖が横手に広がる。透明度の高い美しい湖だ。今日の様に霧のない晴れた日には、遥か対岸まで見渡す事が出来る。こんな日は同輩達とよく鱒や鯰を釣って夕食を調達したものだ。特に鯰はヘーリアンティアより大きい様なものも棲み、針にかかれば大騒ぎになった。味の方も淡白ながら旨みが有り、皮がぬるりとして不気味な事を我慢すれば、煮ても焼いてもとても美味しい。
しかし、一見美しく長閑なこの湖も、魔力視に優れた者ならば湖内の魔力が複雑に入り組んでいるのが見て取れるだろう。オフリド湖は歴史的に見ても相当に古くから存在する迷宮だ。
晴れた日に湖を見渡せば、時たま恐ろしく大きい魚影や、蛇の様な長い影が泳いでいるのが見える。並みの冒険者など太刀打ち出来ない大物が潜んでいるのだ。この湖は人の領域ではない。勝手を知らない冒険者が踏み込み、帰って来ないという事件も何度もあった。
その一方でヘーリアンティアが暢気に釣りなどしていられたのには訳がある。
「先生、『アスピドケローネ』が甲羅を干していますよ」
ヘーリアンティアが指差した先には、ちょっとした島程もある大きさの甲羅を持つ、途方もなく巨大な亀がいた。
『アスピドケローネ』とはギリシャ語で蛇亀を意味し、『島亀』などとも呼ばれる。その名の通り首は蛇のように長く、手足は海亀のような鰭になっている。頭だけでもヘーリアンティアの数倍はあり、高さは見上げる程だ。甲羅には多様な植物が生い茂り、その植物に紛れて生きる山椒魚や水棲の蜥蜴もいる。
この亀こそ千年以上前から存在が確認され、湖の修道院に近い部分を住処とする高名な幻獣だ。古くはアリストテレスの『動物誌』にもこの亀について言及している部分が有る。海には何十倍も大きな同種の亀が棲むという噂もあるが、気が遠くなる様な話である。
そもそも幻獣というものは、歳を経るにつれ動物としての性質から離れ食物を必要としなくなる。変わりに存在を維持する為に良質の魔力が必要となり、オフリド湖のような天然の魔力点に集まる傾向があるのだ。そして、魔力点に棲みついた幻獣は、餌場を守る為他の幻獣や魔獣を排除する。そうして勝ち残ったものがその地域の主と呼ばれるようになる。
つまり、この近辺は『アスピドケローネ』が棲み危険な魔獣を排除している為に、湖に近づいても比較的安全なのだ。それでも小型の魔獣に遭遇する事はあるが、この湖は食料や方術の触媒の宝庫だ。危険を冒してでも採取に出向く価値は有る。
『アスピドケローネ』は基本的には人間程度の存在が近づいても頓着しないので、ヘーリアンティアは甲羅に生えている水草類を失敬した事もあった。おもむろに甲羅の上に登るヘーリアンティアに同輩達は顎が外れそうな顔をしていたが、幻獣に生えた素晴らしく貴重な植物だ。研究しない手など有る筈がない。
「また水草を失礼して来ましょうか」
「止めたまえ。
アスピドケローネが泳ぎだして甲羅の上に取り残された醜態を忘れた訳ではあるまい。
君は私の腹を捻じり殺す気か?」
そういう事も有った。あの時は泣きそうになったものだ。軽く命の危機だったが、幸い『水の乙女』に助けられて事無きを得た。
湖に近寄ってみると、アスピドケローネの周りでは『水の乙女』達が思い思いに戯れていた。
『水の乙女』は水の精などとも呼ばれる存在だ。下位の精霊とも言われるが、あまり研究が進んでいない。姿は最後の民の女性に近く、水で出来た衣を纏っている。同じ様に、『風の乙女』『土の乙女』『火の乙女』と呼ばれるものも存在するのだが、それぞれの属性要素を纏っている事意外は不思議によく似た姿をしている。この事から最後の民は彼女らの末裔だとする見解もあるが、これには良くは分かっていないながらも否定的な意見が多い。
分かっているのは、彼女らは人の理の外にある存在であり、無邪気に人助けをしたかと思えば、気に入った男を水底に引きずり込んで自分の物にしたりする事だ。人の常識や倫理感が通用する相手ではない。
しかし、ある程度意思の疎通が出来る事もあり、女性が慎重に付き合う分には悪い結果も招きにくい。ヘーリアンティアも好奇心からよく声を掛けていたおかげで助けて貰ったのだ。
「御機嫌よう。
良いお天気ですね」
ヘーリアンティアが挨拶すると何人かがこちらを向く。皆、人ではあり得ない程に整った顔立ちだ。神秘的ですらある。その中の一人、ヘーリアンティアと同じ位の年齢の外見をした娘が近寄ってくる。それを見てラーマが後ろに下がる。男性は不用意に近づかない事が望ましい。
この娘とは特に親しくしていた。『アスピドケローネ』の上で滝の様な汗を流していた時に助けてくれたのもこの娘だ。ヘーリアンティアは手を伸ばして娘の手を取った。冷やりとして、清らかな水を連想させる手だ。
「え、天気は良くない?
ああ、貴女達には雨天が良い天気なんでしたね」
繋いだ手を通してある程度の思考が伝わってくる。似たような方術もあるのだが、これは『水の乙女』の能力だ。
「前にも伝えましたが、今日で此処を離れるのです。
寂しい? ええ、私も逢えなくなるのは寂しいです」
娘が儚げに微笑み、首を振る。男性ならくらりと来るような仕草だろう。様々な地域で『水の乙女』との恋物語が伝承されているのも頷ける。
「どうしても行かなくてはならないのですよ。
え、くれるのですか?」
娘が懐から水晶のようなものを取り出し、ヘーリアンティアに手渡す。手に取ってみると非常に強力な水の要素を感じる。
「ありがとう御座います。大切な物なのでしょう?
お礼にこれを差し上げます。贈り物の交換ですね」
ヘーリアンティアは微笑むと、懐から指輪を取り出し手渡す。
修道院で冒険者の依頼を受けて秘薬を調合した時に、報酬として受け取った指輪だ。それなりの術式が刻まれている為、換金せずに取って置いたのが役に立った。『水の乙女』はこういった貴金属や装飾品が好きなはずだ。
娘は微笑んで、指輪を指に通す。そうしてひとしきり語らうと、手を振りながら湖の中へ消えて行った。
「やっと行ったか」
『水の乙女』が近くから消えた事を確認し、ラーマが寄って来る。
「それは『水の乙女の涙』か。なかなかの逸品だ。
変な連中に好かれる君の性質が珍しく役に立ったな」
「実際目にするのは初めてです。あの娘の友情に感謝ですね」
『水の乙女の涙』は水術の触媒としてとても優秀なのだが、手に入れるのが困難な為、殆ど流通に乗らないのだ。
平和的に手に入れるには交渉の末に物々交換という形が多い。しかし、元より人間の世界の価値観から超越している存在が相手の為、玩具のような物と交換出来る事も有れば、途方もない対価を要求される事も有る。話し合い自体が成立しない可能性も多々有る。今回のように無条件でくれる事もないではないが、稀な事例だ。
「友情を育むのもよいが、人とは存在の在り方が違う事を忘れるなよ。
あちらにとっては軽い悪戯のつもりでも、こちらにとっては致命打という事も起こり得る。
あの類の存在のせいで破滅した者は枚挙に暇がないぞ」
古来、妖精やそれに類するものとの交渉に失敗して破滅した人間の伝承は星の数ほども有る。お互い思考から常識、在り方まで全く違う存在同士の交流は、些細な行き違いから一瞬にして崩壊するという事だ。付け加えると、それだけの危険を冒してでも交渉に挑む者もまた星の数ほどに居る。妖精や精霊がもたらす秘宝にはそれだけの価値が有るのだ。
「異種の交流というものは難しいですね。仲良く出来れば素敵だと思いますが」
「理想論に流れやすいのも君の悪い癖だ。
人間同士でも協調出来ないのに、全く異質なものと仲良く出来ると思う方がどうかしている」
「確かに、『アスピドケローネ』は幾ら話しかけても、全く相手にしてくれませんでした」
ヘーリアンティアが残念そうに言う。ラーマは呆れた顔をした。
「『アスピドケローネ』と友達になろうなどと思うのも君位のものだろうがな。
あれがその気になればこの付近一帯が湖になるぞ。我々はじゃれ付かれただけで粉々だ。
人間など、我々にとっての蟻以下の感覚だろう。
千年以上生きる存在の精神構造など想像も出来ないな」
「想像も出来ないから知りたいのですよ。
その為には歩み寄らなければ何も始まりません。
結果、おぼろげながら見えて来るものもあります」
「君はアスピドケローネを寂しそうだと言っていたな。
君が言うからにはそうなのかも知れん。だが、好奇心は常に危険と隣り合わせだ。
いつか、その代償を命で払わなければ良いがな」
ラーマはヘーリアンティアの言葉を切って捨てると、杖を握り直した。
「そろそろ行くぞ。
『転移』の方術を用いるにあたっての注意点を言ってみたまえ」
「一つ、現在地の情報と目的地の情報を明確にする為に、目印となる魔力点ないし、遺跡から遺跡への転移が望ましいです。
一つ、目的地からの距離が離れるごとに様々な魔力点の情報が誤情報として混じる為、長距離の転移は失敗する可能性が跳ね上がります。
一つ、連続転移もまた情報の混乱から転移事故の可能性が有ります。
一つ、転移対象が多すぎる場合、これも転移事故の要因になります。六名以上を同時に転移させるのは推奨されません」
「まあそうだな。
もっとも、君がこの術式を使えるようになるのは早くても数年は掛かるだろう。
くれぐれも、この方術だけは無理に使おうとするなよ。失敗したら終わりだ」
ラーマは言い終わると、杖を掲げる。恐ろしく膨大で信じ難いほど精密に統制された魔力が渦を巻き、空中に青い巨大な方陣が描かれる。
方陣の描き方には個人の癖が出る。
最初の師ウェネーは、数学者が定規を当てて線を引く様な几帳面で丁寧な描き方だった。今思えば描くのが多少遅いとも言えるが、構成の正確さは随一だ。
それに比べてヘーリアンティアは、ウェネーより速い代わりにある種無造作な、感性に頼った描き方をする。ウェネーが描くのが数学者の方陣だとすれば、ヘーリアンティアのそれは画家が描く方陣だ。
そしてラーマの描く方陣はまるで自然現象だった。
川の流れの如く線が描かれ、そう在るのが自然の摂理であるかの様に方陣が出来上がってゆく。些かの無理も力みも感じさせない構成は、いつ見ても目を奪われずにはいられない。端的に言って、美しい。
それが八層重なった時、方術は完成した。
世界中見渡しても、使える術者は百名も居ないであろう現在の奇跡にして、方術の深遠。最も習得が難しいと言われる秘儀中の秘儀。ラーマは其れを、触媒を一切使わずに軽々と発動させたのだ。
『八層水術 自由転移』
水に包まれた様に景色が青く歪む。転移の対象に入っている証拠だ。こうなったら方陣に身を任せて余計な事をしてはならない。周りを包む他者の膨大な魔力に本能的な違和感を覚え、反射的に魔力を放出して抵抗しそうになるのを堪える。
もしこの段階で無理やり術に抵抗すれば、見知らぬ場所に跳ばされるなど碌でもない未来が待っているのだ。
そうして堪えることしばし、魔力が指向性を持って働くのを感じると同時に、強烈な酩酊感が頭を襲う。思わず目を閉じる。自分の存在を無理やり別の場所に書き換える様な感覚は、何度経験しても慣れない。所謂転移酔いと呼ばれる現象だ。これは転移術者より転移対象の者の方がきつい。転移慣れしていない者は暫く使い物にならない位だ。
「成功したぞ、ヘーリ。
酢を飲んだ様な顔をしていないで、目を開けたまえ」
あれほどの大方術を行使しても常と変わらないラーマの声に、ヘーリアンティアが目を明ける。室内と思しき方術光に猥雑な臭い。明らかに先ほどの場所とは違う。
「流石ですね。陸路で一月以上掛かる様な距離を一跳びですか」
ヘーリアンティアが違和感の残る頭を振りながら言う。
「直線で考えれば案外に距離は短い。
間の海に迷宮が無数に在るから、位置情報は混乱し易いがな。
君も初めは海を跨いで転移せずに、陸路に沿って何度かに分けて転移したまえ。
海の民や鮫と戯れたいのなら話は別だがね」
「旅人か? そのまま動くな。
身分を証明する物を見せて旅の目的を言え」
全身鎧を纏った完全武装の男が数人、素早く駆け寄って来る。見るからに手練の転移門の守衛だ。緊張を維持しながらも手馴れた様子に、この街が多くの術者が立ち寄る交易の中心点である事が窺える。
転移は原則として転移門に向けて行わなければならない。街としても通行税を初め様々な税を徴収すると同時に、危険物の持込を制限しなければならないからだ。『自由転移』の場合は転移先に融通を利かせる事も出来るが、街で揉め事に巻き込まれた場合を考えて正規の手続きを踏んで入場した方がよい。不法侵入者と見なされれば、法制度にも依るが即座に切り捨てられる事すら有り得る。街によっては高価な物品の持込に重い税を要求されるが、今回は必要ない筈だ。
「方術司教第三位、『水聖』ラーマ。
後ろの間抜け顔は馬鹿弟子で、ついでに貴族だ」
ラーマが聖印を見せると守衛が驚いた顔をする。
「おいおい、お偉い坊さんかい。方術司教なんて初めて会ったぜ。
方術で本物か調べさせてもらうが悪く思いなさんなよ。
そっちの蛙を乗せた別嬪も一応身分を証明する物を見せな」
結局それなりの取り調べの末に、入場証の発行料と通行税だけを払って開放される。ラーマもヘーリアンティアもそれなりの地位の聖職者だから許される事だった。
「これが権力の使い方だ。
使い所を弁えればこれ程便利なものはない。
君も資格を取ってよかっただろう?」
ラーマが口元を歪める。ヘーリアンティアもラーマの命で教会での資格を幾つか取り、名誉職とはいえ役職についているのだ。
「信仰心が薄い自分が名誉職を拝命する事には、未だに疑問を感じますけれど」
ヘーリアンティアが曖昧な笑いを作ると、ラーマはますます皮肉気に口を釣り上げる。
「使える物は使えばよい。冒険者にして僧侶なんて連中は山ほど居るわ」
確かに一般人では立ち入れない場所にも、教会の名前を出せば入れる。地位の有る人物に会う伝手にもなり得る。冒険をする上で大きな力になるだろう。その為だけに教会で学ぶ者も相当数いるという話だ。
薄暗い転移門の間を出ると、人工の洞窟と思われる岩肌が剥き出しになった通路に出た。上に向かう階段がそのまま真っ直ぐ続いている。
「地下室なのですね。
普通転移門は高台に造る筈ですが、此処まで火砕流で埋まったという事ですか」
「そうだな。噴火の原因は伝わってはいない。
一説には『地下墓地派』が関わったとも云われる」
ポンペイは千年以上前の『ヴェスヴィオ火山』の噴火によって滅んだ古代ローマの街だ。文献には、街は周囲一体ごと火砕流で埋もれ、海岸線の形が変わる程の被害を受けたとある。本来高台に在った転移門が地下になる規模で埋もれたという事だろう。
壊滅した街は数百年も放置され、その間に栄華を極めたローマは衰退し、歴史でいうところの『暗黒期』が始まる。人類が『暗黒期』の混乱から立ち直る頃には、この近隣は様々な迷宮で埋め尽くされていたと云う。現在もこの街の周辺は、直下に存在する『地下遺跡群』を初め、獰猛な動植物が闊歩する『猛る森』、海の危険な魔獣や海の民と遭遇する『牙の海岸』、死者と炎を帯びた精霊が溢れる『ヴェスヴィオ火山』などの迷宮に囲まれている。
地下室特有の黴臭い空気を吸いながら階段を登り切ると、それなりの広さの部屋に出た。正面に重厚な扉が在り、武装した衛兵が守っている。
「入場証を見せろ」
隙はないが礼儀もない様子の衛兵に入場証を見せ、開門してもらう。扉を出た向こうは事務仕事も行う空間らしく、非戦闘員らしき者達が立ち働いている。そのまま衛兵の守る幾つかの扉を潜って、ようやく外へ出る為の門に辿り着く。
「厳重なものですね。衛兵の方々もかなりの腕と見受けられました」
「外敵の侵入を防ぐと同時に転移してくる犯罪者にも対応しているのだからな、錬度も高くなる。
それにこの街は特別だ。あらゆる物が集まり、あらゆる物が消費される混沌の地。
床板一枚下が迷宮の、人と人ならざる者の境界線が曖昧な魔境。
重ねて言うが油断するなよ。
この街では辻を一つ間違えただけで二度と生きて出られないぞ」
ポンペイが崩壊から再度街の体裁を整え数百年経ってもなお、この街を訪れる冒険者の列は途切れない。それは地下に埋まる遺跡群が調べ尽くされておらず、未だにローマの遺物が発見されているからだ。
ローマ時代の魔導器は現在では途方もない値段がつく。人が優に一生を遊んで暮らせる値段だ。また方術士や錬金術士にとっても垂涎の研究対象となる。
勢い、腕に覚えの有る冒険者がこの街に集まり、冒険者を相手にする商人達も各地の物品と共にこの街に流れる。冒険者は装備に金を惜しまない傾向が強い為、優れた武具職人や魔導器製作者も住み着く。禁制の薬品や方術用の秘薬を使う冒険者もいれば、彼らの為に調達してくる無法者もいる。巨額の金が動くとなれば暗がりに潜む職業の者も活動し、表と裏が入り乱れた勢力争いが始まる。
そもそも、地下迷宮の真上に造られた街だ。街の路地裏には迷宮から出た知恵の回る魔獣も相当数潜んでいるという。勝手を知らずに踏み込むのは危険が大き過ぎる。
「まずは先生のお知り合いの元締めさんにご挨拶すべきですね」
「正念場だぞ、ヘーリアンティア。
上手く交渉して最悪でもこの街の案内役を確保しろ」
ラーマの言葉に大きく頷いて、ヘーリアンティアは迷宮街への扉を開けた。