お嬢様と悪漢1
アスクレピオス派修道会の聖パンテレイモン修道院は、『神秘の湖』と畏敬されるオフリド湖の湖畔に存在する。
文献によれば古代ローマの更に前、アレクサンドロス大王の時代には既に迷宮と化していたとされるオフリド湖には数多の魔獣や幻獣が棲み、周辺一帯は人類の未踏地として名高い。古来より腕に覚えの有る冒険者が攻略を志し集う地の一つだ。
そして、ローマ時代の治療方術士である聖パンテレイモンの名を冠する修道院もまた千数百年の歴史を誇り、優秀な治療法術士を数多く輩出して来た。
そもそもアスクレピオス派修道会は、教会においても治療行為による救済を重視する会派だが、その中にあってなお聖パンテレイモン修道院は別格の存在とされ、出身術者は教会内はおろか世俗においても医を極めた者として尊敬を集める。
それ故にこの修道院で学ぶ事を志望する者は若き方術士に限らず、貴族や富豪の子弟など非常に多岐にして多数にわたるが、実際に学ぶ機会を与えられる者はごく少数だ。
特に当代の修道院長であるラーマは、偉大な水術士として生きながらにして既に歴史に其の名を刻まれた人物だが、同時に人間嫌いの偏屈者としても知られ、直接指導を受ける幸運に恵まれた術者は片手で足る人数だと云われていた。
そのラーマがある時期から、公式非公式問わずあらゆる場所に綺麗な金髪の少女を伴う様になり、教会関係者を驚愕させた。
ある者が問うた。
「何故その娘を弟子に取ったのですか?」
ラーマが顔を顰め、長い沈黙の末に答えた。
「つまりは、夢の続きだ」
修道院の朝は早い。起床後の祈りに始まり、水汲み、朝食の準備などやるべき事は幾らでも有る。
パンテレイモン修道院には各地から集まった学生やアスクレピオス派の修道僧に加えて、迷宮に挑む冒険者達も何がしかの寄進を対価に宿泊しているので、用意する食事の量も膨大なのだ。
元来宵っ張りのへーリアンティアも、ここ数年の修道院生活ですっかり朝方の生活が苦にならなくなった。始めは眠くて仕方がなかったが、慣れてみると朝の澄んだ空気も気持ちの良いものだ。
ヘーリアンティアはいつもの様にヘキを頭に乗せたまま、ありったけ並べた水汲み用の桶を指差す。
『一層水術 湧水』
六つの桶の上に青い方陣が描かれ、大気から取り出された水が勢いよく流れ込む。
この地は水の要素が強い為、水術士にとって水汲みは楽な仕事だ。それでも一層方術を六つ並列に打てる者は中々いない。
反対に火術士にとって朝の水汲みは地獄の作業だ。反属性で一層方陣さえ描けない為、まともにやると井戸と厨を数十往復する羽目になる。その為、火術士が水汲み当番の時はよく代わってやって感謝されたものだった。もっとも、火を使う作業の場合は立場が逆になるのだが。
ヘーリアンティアは鼻歌を歌いながら桶を満たし終えると、調理当番の者を手伝いにかかる。
「私も切りますよ」
空いている俎板で玉葱を切ってゆく。出始めの玉葱は甘くて美味しい。これを食べると春が終わり、夏が来た事を実感する。
「相変わらず水汲みがお速いですね。
ヘーリさんが旅立たれたら水汲みが大変だと皆嘆いておりますよ」
隣で同じく野菜を切っている娘が話しかけてくる。近くの国の貴族子女だというその娘とは歳も近く、修道院に来た当初から仲良くしていた。
おっとりした性格で、結婚までの行儀習いとして門を叩いたなどと言っているが、方術も達者だ。そうでなければこの修道院では学べない。
「アレシアさんはまだこの地で学ばれるのですよね」
「ええ、結婚相手が見つかって家の方に呼び戻されるまではそうなるでしょうね。
ヘーリさんは西の自由都市連合に行かれて、冒険者の学園で学ばれるのでしょう?
勇ましいですねえ」
「私としては直ぐにでも冒険者として仲間を募ろうかと思っていたのですが、性急すぎるとラーマ先生に叱られまして。
迷宮都市ポンペイの学園で冒険者としての知識を学びながら仲間を探す事になります」
「落ち着かれましたら、是非お手紙で近況を知らせて下さいね」
「ええ、勿論ですよ」
「あちらでは素敵な方に巡り逢えると良いですね。
苦難に挑む方術士とそれを守る騎士なんて叙事詩でよく唄われますから、少し憧れます」
「アリシアさんはそういう物語がお好きでしたね。
でも、冒険者の言葉には『同じ小隊の異性は蕪と思え』などというものもありますよ」
「愛し合う二人が挑むからこそ冒険も華やぐというものでしょう?
聖典にも『愛の為に戦うのが我らの使命だ』とありますよ」
女二人寄れば姦しいというが、その通りである。気の置けない同年代の友人との他愛ないお喋りの楽しさもこの修道院で学んだ事の一つだった。
ヘーリアンティアは玉葱、オクラ、豆類の素朴な煮込み物とパンの朝食を食べ終わると、自室に戻って荷物を整理した。
始めは同年代の娘達と大部屋で生活しており、それはそれで大いに楽かったのだが、今は狭いながらも個室を与えられている。その部屋とも今日でお別れだ。
ヘーリアンティアは普段着の修道服を脱ぐと、アスクレピオス派の青い法衣に着替えてその上から黒い外套を羽織る。太陽と月を中心に地水火風の要素が意匠された聖印を首に掛け、金色の杖を持てば聖職者の正装となる。
部屋に据えられた金属製の鏡を見て、この数年で伸びた髪と服装を整える。長い髪は腰を越えている。冒険者として本腰を入れて活動するのなら、非常に残念だが切らなければならないかも知れない。法衣が板に付いているのかは、我が事ながら未だによく分からない。欲を言うならば、身長と胸はもう少しあった方が格好が良いのだが。
部屋を見渡し忘れ物が無い事を確認すると、机の上で大人しく主人の身繕いを待っていたヘキを抱き上げる。ヘキは腕の中から抜け出すと、当然のように頭の上に移動する。掌程の大きさの頃はよかったが、一抱え程もある大きさに成長した今となっては頭の上に乗せるのは少し重い。
しかし、ヘキはここが気に入っていて、よほど強く言わないと乗るのを止めてくれない。可愛い使い魔の事なので好きにさせているが、もう少し大きくなったら流石に辛いだろう。 或いは、今更の話ではあるが、いつも頭の上に乗せていたから背が伸びなかったのか?
ヘーリアンティアは背が低めな事を少し気にしているのだった。
自室を出たヘーリアンティアは院長室に向かった。扉を叩く。
「ラーマ先生、ヘーリアンティアです」
「入りたまえ」
扉の向こうからは、蛙族特有の高い様な低い様な不思議な調子で響く声が返って来る。
「失礼します」
部屋に入ると、修道院長ラーマは机に座り、何やら書き物をしている様子だった。
いつ見ても唸るのだが、相変わらず非常に整然とした部屋だ。石造りの壁が見えない程に本棚が並べられているが、完璧に整理されているのが一目で窺える。あまり整理が得意でないヘーリアンティアはよく叱られたものだ。
「ヘーリ、準備は出来たのかね」
ラーマが億劫そうに顔を上げて此方を見る。
ヘーリアンティアの握り拳ほどの大きな目に蛙族特有の厚ぼったい下まぶた。蕪を丸呑み出来そうな大きな口の中には、伸縮自在の便利な舌が仕舞われている。
蛙族の者の年齢は分り難いのだが、歳を経た者ほど肌が落ち着いた色合いになってゆく。くすんだ水色のラーマは最後の民でいえば初老に近い年齢らしい。初老とは言っても、健康であれば百五十年程も生きる蛙族の感覚の話であって、ラーマも百年近い時を生きているはずだ。十数年しか生きていないヘーリアンティアなど、彼からすれば幼子も同然だろう。
「はい、抜かり有りません」
「本当かね? 君は賢そうな顔をして案外どん臭いからな」
ヘーリアンティアが元気良く言うと、ラーマは大きな瞳を動かして怪訝そうにヘーリアンティアを見る。
「う、すみません。抜かりなく準備を整えたつもりです」
こういった発言が偏屈などと評される所以なのだが、医療法術を学ぶ過程で実際に何度か醜態を曝したヘーリアンティアとしては何も言えずに畏まる事しか出来ない。初めての外科的治療で大量の血を見て気を失いかけた事は、封印したい記憶だ。
「まあよかろう。
口で言ったところで君の動作が機敏になる訳でも、本を散らかす癖が直る訳でもない」
「うう、己の不出来を恥じます」
「恥じても直らないから人の性質というのは始末が悪いものだな」
この口の悪さから修道院内でも敬遠されがちなラーマだが、ヘーリアンティアは不思議とこの毒舌が気にならなかった。あまりに年齢が違いすぎるからだろうか? むしろ、気が合うとすら言ってもよい。
「失礼ながら、ラーマ先生のねちっこさも変わらないなと思う次第です」
「そう、人の性質というのは何十年経っても変わらないものだ。
君のどん臭さのようにな」
少しおどけてヘーリアンティアが言うと、ラーマも真面目な顔で小馬鹿にした様に頷く。これがラーマ一流の冗談なのだ。此方を小馬鹿にしている事もまた間違いないのだが。
彼の直弟子になって数年、いつの間にかお互い冗談を言い合う関係になっていた。
無論、公の場では師として彼を立ててはいるが、彼自身はあまりそういった事に頓着せず、平気でヘーリアンティアに軽口を叩く。その為、其れを聞いた修道僧が竜でも見たような驚愕の表情を浮かべた事もあった。
「さて、偉大なる私の矮小なる弟子の末席に辛うじて引っ掛かる者、ヘーリアンティアよ。
君がこれから向かう先はどこかね」
「迷宮都市として名高いポンペイの街です、偉大なる師よ」
「何の為に往く」
「学園で冒険に必要な技を学び、同時に仲間を募る為です」
「そうだ。
今すぐ冒険者として旅立ちたいなどと言い出した時には、遂に頭にまで毒が回ったのかと思ったものだが。
その後持ち直したようだね」
「はい、先生の御言葉で蒙が啓かれました。
流石の年の功だと感服致します」
「君の見た目が良いだけの軽い頭で本当に理解出来たのか示してみたまえ」
相変わらず褒められているのか貶されているのか全く分らない。しかし、最後の民の美醜に言及する辺りが凄い。ヘーリアンティアにはラーマが男前なのかどうなのか片鱗も掴めないのだ。一般的に、最後の民にとって蛙族の美醜は最も分かりにくい。逆も同じはずなのだが、流石の歳の功だと言わざるを得ない。
「第一に経験不足。
現状の私の実力では危険度の高い迷宮を走破出来ない」
「ああ、君も歳の割には使える方だが、私と比べれば野暮な泥亀と優美なる水竜ほどに経験の差が有る。
学園で更に多様な術を学ぶと同時に、実戦経験を積むべきだな。
大体において、方術士は方術を打てれば良いというものではない。
小隊の能無し共を導く為の知識も技能も経験も君には欠けている」
「第二に信頼性。
急場に募った仲間が信頼出来るか完全に見極めるのが困難という事」
「頭の中にお花畑が広がっている君には理解出来ないだろうが、世の中には冒険者兼山賊兼人攫いなどという仕事熱心な者がざらに居る。
君などが下手に仲間を募集すれば、そういった連中が山から下りて長蛇の列を成すだろう。
そして、遺憾ながら差し当たり身代金を要求されるのは私だ」
「第三に小隊構成の問題。
長期的に最果ての地を目指すのであれば、若く信頼出来る強者を集め、且つ様々な局面に対応できる調和の取れた小隊を構築しなければならない」
「おそらくこれが最も困難だ。
君が目指す目的を遂行するに足る人材は極少数。
しかも、既に冒険者として活動している連中は実力的に間違い無く指導的な立場に在るだろう。
そんな連中を引き抜いて来て自分の小隊をこしらえるのは現実的ではない。
そこで迷宮学園だ。彼の場所の概要を言ってみたまえ」
「およそ近隣諸国において最古にして最高の実績を誇る冒険者養成所。
冒険者協会全般に言える事ですが、活動理念は突き詰めれば迷宮を打倒する事一点に収束します。
入学資格は各分野において優れた実力、或いは才を持つ事のみ。
綺羅星の如き冒険者を輩出しますが、同時に余りに能力主義に過ぎる入学資格がたたり、 各国各組織の工作員も多数在籍しているのが公然の秘密であるとの事。
それゆえ間諜学園などとも揶揄されるが、各方面で存在感を示す卒業生を含めた巨大な影響力で批判を黙殺する若手冒険者の登竜門、というお話でしたね。
中々に大変な場所の様です。
悪い癖だと分かってはいますが、非常に好奇心をくすぐられてしまいます」
「己の好奇心を制御出来ないのが君の巨大な欠点の一つではあるな。
それはともかく、私も出身者は何名か知っているが、ある種極まった教育機関の様だ。
そして、冒険者として大望を抱く者にとっては宝の山でもある」
「しかし先生、先ほどの話の二番目、信頼性はどうなのでしょう?
仮に仲間を募ったとして、その者が何某かの組織の間者だと見抜くのは困難ではないですか?
いやしくも組織の影を担う事を生業としているのです。
そう簡単に見極められるものではないでしょう?」
「若いな、ヘーリ。
小事に囚われ大局を見失うから胸も育たんのだ」
「人が密かに気にしている事をあげつらうのは品性を疑いますよ。
さて置き、その心は?」
「間諜大いに結構。利害を調整して共に目的を達すれば良い」
ヘーリアンティアが困った様に眉根を寄せる。
「それは些か危険ではないでしょうか?
例えば、国家転覆を目論む者に与したと判断されたりすれば、簡単に首が飛びますよ」
ラーマが彼一流の人を馬鹿にしたような調子で言う。
「無論、途方もない危険要素を抱え込む事も有り得る。しかし、考えてもみろ。
お前が鸚鵡の如く繰り返す、『世界の果てに到達する』などという絵空事を実現するには極まった能力の仲間が不可欠。
そして優れた人材は大体において何らかの組織の息がかかっている。
ならばその人材が抱える背景を丸ごと飲み込んで共に目的に向かうしかあるまい。
付け加えるならば、お前を利用して小利を得ようとする小物に構っているようでは下の下だ。
狙うのはお前を踏み台に一国を得ようとする程の実力と野心を持つ逸材。
上手く見極めたまえ」
ヘーリアンティアが腕を組んで難しい顔をする。
「何と申しますか、非常に大雑把且つ最大限此方に都合よく進行しなければ破綻しかねない方針ですね」
「大目標が『世界の果てに到達する』などという正気を疑う代物だからな。
自ずと方針も頭の悪い夢物語となる。
しかし、この程度の奇跡を起こせん限り、冒険を始める事すら出来んな」
「お話を整理しますと先生の言う今後の方針としては、
『背景を一切気にせず最高の人材を集める。危険思想を持つ者も大歓迎。冒険に協力して貰う代わりに、此方も危険な橋を渡ってでもあちらの目的を達してやる』、
という事になりますね。善悪は別として」
「くれぐれも、後ろ暗い事は露見しないようにやりたまえ。
アスクレピオス派の品格に関わるからな」
ヘーリアンティアは頭痛を堪える様に眉間に手をやる。
「聖職者としてその発言は如何なものですかね?
聖典に『悪を成す時、神は君の後ろに立たれる。誰も君の悪を知らずとも、神が君を見ていらっしゃる』などという一節が有りますが」
「阿呆臭い。神など人が創った都合の良い妄想だ。
そんな迷信を信じていては、立派な聖職者として人に道を説く事など出来んぞ」
この様に、ラーマはヘーリアンティアやウェネーよりさらに先鋭的な思想の持ち主だった。そもそも、アスクレピオス派自体が現実的な救済を目指す会派である為、無責任な言葉によるその場凌ぎの救済を嫌う側面がある。こういった思想がアスクレピオス派を教会内において、良くも悪くも独特の立ち居地にやる理由だった。
「神の存在を信じるが故に善行を為す者も居ます。
一概に否定するのも大人気が無いですよ」
ラーマがうんざりした様に大きな口を歪める。
「いつの間にやら随分それらしい事を言うように成ったものだな。まるで一端の僧侶だ。
それで、君はそのありがたい神様とやらを信じているのかね?」
「いえ、全く。
ですが、仮にも僧侶の末席に名を連ねているのです。
それらしい物言いをしなければ修道院や信徒の方に申し訳ないでしょう?
先生も立場を弁えてもう少し聖職者らしくした方が良いですよ。
せめて人が周りにいる時だけでもよいですから」
ラーマがまるで蛇でも見た風に、嫌そうに顔を顰める。
「君の正論はつまらん。
説教はよいから、今後についての君の見解を聞かせなさい」
ヘーリアンティアが顎に手を当てる。考え事をする時の癖だ。
「まず大前提として、私は伝統あるゲルマニカ家の一人として家に不利益と成り得る行動は出来ません。
犯罪など露見すれば一貫の終わりですし、露見するしないに関わらず法に反する行動を慎むのが良き市民というものです。
無論この世は正攻法だけで凌げるものでもないでしょうが、可能な限り正道を歩むのが貴族の務めでしょう」
ゲルマニカの息女が詰まらない悪事に加担してお縄になるなど歴史的な醜聞だ。想像するだに怖ろしい。
「しかし、一方で先生の仰る様に優れた仲間を集める上で、その目的や思想を共有する事も必要でしょう。
際どい局面で法の狭間を突く必要も出てくるかもしれません。
ゲルマニカ家を考えても、表の騎士団と裏の間諜が一体となって権勢を守っていました。 邪道をいたずらに排するのも良くないという事ですね。
正邪が合わさって初めて開ける道も有る事でしょう」
「つまり、どういう事だね」
「法に反せず慎重に事を運ぶのならば、大概の事は父も許容してくれる筈です。
つまり、優雅にやれば良いのです」
「……偉そうに聖職者の在り方について語っておいて、結局それかね。
言葉で取り繕っているだけだろう」
白けきった顔をするラーマに、ヘーリアンティアが心外だと言わんばかりに頭を振る。
「先生の行動指針は黒ですが、私は灰色です。これは大きな違いですよ」
「どちらにしろ、汚れている事に変わりはなかろうに。
まあ、その歳で清濁併せ呑む気構えを持っているのは褒めてやってもよい。
冒険をしていれば、時には法に反する行動によってしか全てを収める事が出来ない事態にも出くわすものだ。
その時、世の影を担う裏稼業に通じた者の協力無しには君の目的は成し得まい。
何も君に邪道を歩めと言っているのではない。
君は貴族として、聖職者として正道を歩めばよい。
君の影と成り、邪道を担う仲間を見つけろと言っているのだ。
君が正道を歩まざるを得ないように、夜の暗がりでしか生きられん者も居る。
そういった連中の知恵と力もまた小隊には必要な要素だ。
連中は隠ぺい工作も得意だからな。
問題が起こったとして、君の家に迷惑を掛けずに上手く処理する事も出来るだろう」
「先生の御言葉、心に刻みます」
珍しく皮肉めいた調子を含ませないラーマの真摯な言葉に大きく頷く。
「しかし先生、裏家業の人間を引き入れるとして、私のような小娘に御せるものでしょうか?
私は殆どゲルマニカ家とこの修道院しか知りません。
世慣れた無頼漢に手玉に取られる構図しか思い浮かばないのですが」
「手籠めて籠絡すれば良かろう。
君の無駄に良い見た目は何の為にあるのだね?」
ヘーリアンティアが見下げ果てた様子でラーマを見る。感心した傍からこれだった。
「……先生の冗談はつまらないですね。感性を疑います」
「はっ、見た目だけが良くてもこう小生意気では相手にされんか。まあ、安心しなさい。
万事抜かり無い私は愚かな弟子に打って付けの人間を紹介してやる。
迷宮都市で裏家業の元締めをしている男だ。気に食わん奴だが腕は立つし、信頼出来ぬ事もない。
奴に目ぼしい人材を紹介してもらえば良いだろう。もう先方に話は通してあるから安心したまえ」
「そつのない手回し、感謝致します」
ヘーリアンティアは丁寧に頭を下げる。何だかんだといって、ラーマには長く生きた分の権力と伝手が有る。その力を借りられる事には素直に感謝している。
「ふん、君の足りない頭にも漸く私の偉大さが沁みて来たかね?
無様に跪いて私を讃える祈りを捧げてもよいのだぞ」
能力と人格は別の問題である。
「しかし、人付き合いがお嫌いな割に謎の人脈を持っているものですね?
何かやらかした時に揉み消して貰っているのですか?」
「そういう側面も否定はしないがな。古い知り合いだ。
……共に冒険の旅に出た」
はっとしてラーマを見つめる。
「それは、お爺さんと共に東方を冒険した時の話ですか?」
「まあ、そうだな」
この話をする時、ラーマはいつも歯切れ悪くなる。様々な感情を引き摺っているのは明白だ。それ故、ヘーリアンティアも無理に聞き出すような事は出来なかった。時たま、昔語りに一言二言話すのを聞く位だ。だが、この修道院で過ごすのもこれで最後である。
ヘーリアンティアが口調を改める。
「当時の事をお聞きしても宜しいですか?」
ラーマが透明な下まぶたを上げて目を瞑る。しばしの黙想の後、語りだした。
「君は『名無し』を随分と美化している様だが、奴は尊敬に値する類の人間ではない。
粗野で愚かな男だった。口より先に剣を抜くような考え無しだ。
女と見れば寝台に連れ込んでいた。何度尻拭いをしたか、数え切れん」
常と変わらない皮肉な口調にはしかし、隠し切れない感傷が有る。
「何故『名無し』などと呼ばれていたのですか?」
「知らん。何か差し障りが有ったのだろう。
脛に傷を持つ冒険者は多い。冒険者同士は過去を詮索しないのが礼儀だ。
それでも『名無し』などと名乗る奴は少ないがね。奴一流の洒落っ気なのだろう。
……思えば、良い格好をしたがる奴だった」
「どうして一緒に冒険をするようになったのですか?」
ラーマが、噛み締める様に言う。
「魅力が有ったのだ。
真っ直ぐな目で、ギルガメッシュの生まれた地を見物に行こうと言われて心が決まった。
粗暴だが未知を切り開かんとする意気に溢れていた。
若い意思は眩しい。年寄りは時にそれに乗ってみたくなる」
老人が不意に見せた荒々しさ、未知の事象について熱を入れて語る様が思い出される。老人と語らった夕暮れの裏路地は、何年経っても色褪せないヘーリアンティアの原風景だった。
「私が出会った頃は、すっかり好々爺然としていました」
大切な記憶を整理する様に言うと、ラーマが顔を歪る。
「叩き潰され、牙を折られたのだ。牙と毒を失えば、丸くなった様にも見える。
大体、君が思う程の歳じゃない。
精々五十年生きたかどうかといったところだ」
その言葉には驚く。ラーマとそう違わない年齢だと思っていたのだ。
「とてもそうは見えませんでした。
……呪いと毒の影響ですか」
「魔王級は桁が違い過ぎる。
苦もなく倒せる『小鬼』でも、魔王にまで育てば途方もない脅威となる。
もし攻撃性の高い上位の魔獣が魔王にまで育てば、或いはそいつ一体に人類は敗北するかも知れん。
魔王級の毒と呪いは、私でも治しきれなかった。
治療方術を極め、水術の達人と謳われた私でもだ」
ラーマの苦々しい言葉。
「だから、修道院に篭って方術の研鑽に明け暮れているのですか?」
ラーマという人間は、人間嫌いで狷介な毒舌家として疎まれているが、方術士としての彼の名声には一点の曇りも無い。それは、その方術に掛ける真摯な情熱と探求を誰もが認めざるを得ないからだ。
「かつては敗れた。だが、次は負けん」
ラーマは鋭く言葉を放つ。
「ヘーリアンティア、よく聞け。
魔獣、いや迷宮と人は決して相容れない。
資源や素材を供給する面から迷宮を好意的に解釈する者も居るが、そんなものは幻想だ。
ひとたび魔王級が生まれれば一帯は焦土と化し、血の雨が降る。
迷宮は駆逐しなければならない。
君には可能な限り私の技を伝えた。だが、まだまだ未熟だ。
君はそれを磨き次世代に伝えなさい。
私が望むのはそれだけだ」
「承知しました、わが師、偉大なる水術の大達人よ。
今までの教授、感謝してもし切れません」
ヘーリアンティアが胸に手を当て一礼する。ラーマは少し逡巡する素振りをみせて言った。
「『名無し』を看取ってくれた事は感謝している。
だが、奴の遺志を背負って生きる必要はない。
遺志を背負うのは重い事だ。嫌になれば放り出して逃げればよい」
ヘーリアンティアは微笑んだ。
「お気遣い、有難う御座います。
まだ私は抱えて行けます。きっと世界の果てを見てきますよ。
でも、いつの日か私が折れてしまったら、先生の下に帰って来ます。
不出来な弟子を笑って下さいね」
ラーマが薄く笑う。彼が笑うのは、本当に珍しい。
「かたじけない。
なに、肩肘張らず楽に構えれば宜しい。旅を楽しんで外の世界を見物して来なさい。
君らは短命だが、それ位のゆとりは許されるさ。
下らん世の中だが、時には息を呑む程に美しいものに出くわす瞬間だってある。
良い冒険をな、ヘーリアンティア」